「親魏倭王」金印はどこに眠る?

「親魏倭王」金印はどこに眠る?

2012年9月7日10時16分朝日新聞
卑弥呼のバックに中国皇帝あり!

■おしえて邪馬台国

 3世紀の日本列島に、黄金の印章がもたらされた。卑弥呼が中国皇帝から贈られた「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印(きんいん)だ。邪馬台国論争を終結させる最強のアイテムとして常に脚光を浴びるが、いまも行方知れず。卑弥呼の金印はどこに眠るのか。そもそも、実在するのだろうか?

 いまあなたを親魏倭王となし、金印紫綬を仮に与え――。「魏志倭人伝」で皇帝が卑弥呼にあてた有名なくだりだ。それによると、印の材質は金、「親魏倭王」の4文字が彫られていたらしい。だが、現物は失われ、誰も見たことがないから、正確にはわからない。 ところがどうしたわけか、紙に押されたこの金印の印影が、江戸時代の学者、藤貞幹(とう・ていかん)が記した「好古日録(こうこにちろく)」に載っているのだ。もちろん彼が金印を持っていたわけではなく、明代の書物「宣和(せんな)集古印史」から採った旨の説明書きがある。ということは、親魏倭王の金印は明代までに中国で発見されていたのか。

 実は、どうも古代の印章は昔から好事家に人気があったようで、この印影もニセモノらしい。ただ、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館学芸課長の今尾文昭さんによると、「それなりに考証されているようですね。“ニセモノの本物”といったところでしょうか」とのことで、当たらずとも遠からず、のようだ。同館でこの春開催された展覧会でも、参考として想像復元のレプリカが置いてあった。

 邪馬台国ファンにとって、やはり金印は日本のどこかに埋もれていてほしい、というのが心情だろう。しかし悲観論も多くて、よそから運ばれた可能性もあるから所在地論争の決め手にならないとのもっともな意見もあるし、私たちの知らぬところでうっかり顔を出して、すでに鋳(い)つぶされてしまった可能性も。そもそも日本列島に存在しない、という指摘さえある。

 中国法制史の碩学(せきがく)で、関西大教授を務めた故・大庭脩(おおば・おさむ)さんはかつて、卑弥呼の金印は日本では見つからない、と主張した。魏の次に晋王朝ができたとき、この金印は当時の国際ルールにのっとって中国に返されたはず、というのだ。もしそうなら、私たちは不毛な議論を重ねていることになるのだが……。

 「墓に埋められた可能性はある」。橿原考古学研究所長の菅谷文則さんの意見は心強い。なぜなら、「三国志」の王凌伝には、ある人物の墓をあばいて、印綬(いんじゅ)や服を焼いたとの記述があり、印の副葬例を示唆するからだ。実際、西晋(せいしん)時代の墓からの出土例もあるという。それに、遠く離れた倭国(わこく)で、印を返却するルールがどれだけ厳格に守られたか、疑問も残る。

 倭人伝によれば、卑弥呼が中国に派遣した難升米(なしめ)や都市牛利(とし・ごり)らも銀印をもらったから、「十数個の印が倭国にあったとみていい」(菅谷さん)。卑弥呼を継ぐ台与(とよ)(壱与(いよ))も晋に使いを出したので、「親晋倭王」の印があるかもしれない。

 さて、古代中国の印章は、駱駝(らくだ)や馬、羊、亀など、いろんな形の鈕(ちゅう)(つまみ)を持っていた。紀元57年に後漢から贈られた福岡・志賀島出土の有名な国宝「漢委奴国王」金印の鈕は、とぐろを巻く蛇だ。つまみの形は与えられた勢力の住む風土を反映し、森が多い温暖な南の国と考えられていた節のある倭国には蛇のつまみが選ばれたという説がある。「親魏倭王」の印も国宝金印と同様、蛇鈕(だちゅう)だったのだろうか。だが、「当時の最高クラスは亀のつまみ。ほぼ同時代の将軍、劉弘(りゅう・こう)がもらった亀鈕(きちゅう)の金印に似たものだったのでは」(徳島大名誉教授の東潮(あずま・うしお)さん)など異論もある。

 まだ見ぬ「親魏倭王」の金印。一部の近畿説支持者は箸墓(はしはか)古墳(奈良県)を卑弥呼の墓とみて、ここを掘れば見つかるのではないかとの強気の意見もある。でも、箸墓は宮内庁の管理下にあり、現実的に発掘は無理。隔靴掻痒(かっかそうよう)だけれど、仕方ない。いましばらくは想像をはせる楽しみにとどめよう。(編集委員・中村俊介)

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 〈卑弥呼と金印〉中国の歴代王朝は古来、周辺諸国と主従関係を結び、そのあかしとして印を与えた。魏が卑弥呼に与えた金印は、東夷(とうい)の辺境に位置した倭国には破格の待遇ともいわれる。中央アジアの大国、大月氏(だいげっし)(クシャン朝)の王への「親魏大月氏王」印との比較から、政治力学の産物、あるいは、魏と対立していた呉への牽制(けんせい)をねらったとの見方もある。