【あきる野市名の由来】
【あきる野市名の由来】
1、よみがえる古地名
秋川市・五日市町の合併は新市の名称が課題の一つになっていたが、誕生した「あきる野市」は、かな文字効果もあって、ソフトな印象を与え、好評裡にうけ入れられているように見える。「あきる」は秋川・五日市両地区が共有する古地名で、「あきる地名」の採用は味のある選択であった。以下、親子の対話によって、当地方の古地名を分かりやすく説明する。
秋子 五日市のおばさんは五日市の名が消えるのが惜しいと言っていたわ。
父 五日市は戦国時代末期に発生した地名で、現在まで400余年の歴史をもち、一頃は西多摩南部を代表する町だったからね。
秋子 私は秋川市という名前好きよ。爽やかで、若々しく、未来一ぱいというイメージ。
父 住民が自分の地区の名に愛着を持つのは当然のことだ。しかし合併は、いってみれば結婚で、これから一体になって新しい歴史を創造する。だから新市名を名乗るのが筋の通った行き方だと思うよ。秋子「あきる野市」は古地名というけれど、何となくモダンな感じがするわ。|父古地名が新しい装いをした甦り、時代を先取りした面もある。秋子でも「あきる」については、正直何も知らない。父そこで「あきる地名」の起源、使用された時代、地域等について、先輩の研究などを参考に、まとめて話をしよう。
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2.小川郷と秋留郷
秋子 「あきる」地名はいつごろから使われたの。
父 秋留郷という郷名の初見は鎌倉時代初期(後述)のようだが、平安時代後期には使われていたと思われる。説明の順序として、この地方の最古の地名「小川郷」から話を始めよう。
日本の地方制度の発足は奈良時代(8世紀)に定められた律令制度による。それは全国を国・郡・郷に分ける。武蔵の国は大国だから21の郡を置き、その中の多摩郡には10の郷を置いた。『和名抄』という古代の事典に多摩郡の郷名が出ているが、トップに小川郷が記載され秋留郷はない。小川郷は地理的には秋川・平井川の全流域を含むが、実質的には両川の下流域で、そこには官営牧場「小川の牧」もあり、後に武蔵二宮となる小川明神社という古社もあって、当地方の先進地であった。
秋子 どのくらいの人が住んでいたの。
父 設定時の郷制は郷里制とも言い、一里は50戸、当時の一戸は大世帯で20~30人を越えることもある。一郷一里とすれば500人以上となるが、どの時点をとるかで違ってこよう。詳細は不明だね。いずれにせよ400年に及ぶ平安時代、関東は専ら開拓時代で、人口は自然増の他、西国方面からの流入も見られたようだ。開拓のリーダーは武力を備えた土豪たちで、彼らは未開墾地域を含む広大な地域を占拠したから、土地をめぐる争いは絶えなかった。
秋子 西部劇の世界ね。
父 歴史に名高い武蔵七党は血縁によって結ばれた武士の集団で、実態は開拓農場主のチェーングループだ。武蔵七党の一つ西党の出身者が小川地区に勢力を張り、郷名をとり小川氏を名乗った。またその分家が二宮氏を称し二宮神社領を管理した。更に同じ西党出身と見なされている小宮氏が平井川下流域を占拠した。後発の開拓者は小川地区ではこの三者のいずれかに従属しなければならない。従って、自然条件は厳しいが、夢を求めて秋川の中・上流域に入り込んだ開拓農民もいたに違いない。
秋子 秋川・平井川流域も平安時代の初めと終りとでは住民の数も、開拓地の拡がり具合も違うわけね。父自分たちが切り開いた土地は所有のあかしとして自分たちで地名をつける。新しい郷名も生まれる。
秋子 公的な小川郷の中に勝手な郷があちこち生まれた。
父 お父さんは秋留郷という郷名は発生当初は秋川中流域を指すと考えている。理由の一つは、江戸時代の三内(さんない)村はもと秋留本郷と称した(「新編武蔵風土記稿」)。本郷は発生地とか中心地の意味だ。
その三内村の隣村横沢に、鎌倉時代の冒頭、建久2年(1191)平山季重が大悲願寺を創建した。彼はつづいて16年後の建永2年(1207)檜原村小沢に宝蔵寺を建てたが、これには、「秋留の橘郷開発祈願のため(橘郷=檜原地区)」という記録(「大悲願寺過去帳」の注記)が残っている。この注記から、秋留地名が鎌倉時代初期に使われていたこと、季重が大悲願寺を秋川中流域、宝蔵寺を上流域の開発拠点にしたことが推定できる。
平山季重は頼朝の御家人で源平合戦に戦功を立てた人物だから、幕府から開発許可をもらったのだろう。平山氏も西党出身で日野に本拠をもつ。彼が同族で、同じ頼朝御家人の小川・二宮氏らとの競合をさけ、秋川中上流域を開拓の地と定めたのは当然で、この地区には鎌倉幕府の権威をバックに乗り込んだ平山氏に対抗できる有力者はいない。平山氏の割り込みは一応成果をあげたようだ。
秋子 戦国時代末期の檜原城主は、平山氏でしたね。
父 平山伊賀守氏重、後裔だろうね。
3.小川氏の衰亡と小川郷の消滅
父 鎌倉の御家人となった小川氏らは北条時代に入って承久の乱(1221)に戦功を立て、小川・小宮氏は西国・九州に所領をもらっている。ところが鎌倉時代末期、小川・二宮の両氏が史上から姿を消し、二宮神社領も没収されてしまった(『秋川市史」〉。
秋子 北条氏が滅びた時(1333)、一緒に滅びたの。
父 その前の北条・三浦合戦の時、三浦氏に殉じたという説もあるが詳細は不明だ。とにかく主のいなくなった
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小川地区では郷名もすっかり影が薄くなった。
秋川・平井川流域には南北朝、室町期(14・15世紀)にかけ、在地の武士たちが武州南一揆という地縁結社をつくり、活発な行動を開始している。
秋子 どんな行動。
父 世は動乱期だから、関東公方(足利氏)や関東管領(上杉氏)の要請をうけ出陣するんだ。勝ち戦さなら恩賞が貰える。幸い北条氏滅亡の際も勢力を保ち得た小宮氏などが南一揆の統領株だが、戸倉や北伊奈地区にも武士系住民が育ってきた。五日市地区の有力寺院はみなこの時期に創建されているが、地侍たちの力の充実が感じられる。秋川中流域の在地武士の成長が、地名秋留郷の拡大につながり、下流域まで呑み込んだというのがお父さんの推測なんだ。
4.秋留地名の語源と阿伎留神社
秋子 秋留郷の発生と郷名の拡大はわかったわ。ところで肝心の「あきる」とは一体どこから出た言葉でどういう意味をもつのかしら。
父 「あきる」という地名は難解だね。『武蔵名勝図会』の檜原村の項には、秋川はもと「阿伎留川」と称したという伝承を伝えている。色々な人が色々な解釈を下すが、どうやら五日市の古社阿伎留神社にかかわる地名とされている。そうすると、阿伎留神社の社名は何かということになる。
秋子 阿伎留神社の歴史は古いんでしょ。
父 勅撰六国史の一つ『日本三代実録』に「元慶(げんぎよう)8年(884)7月15日武蔵国正五位上・勲六等畔切(あきる)神社に従四位下を授く」という記事がある。社伝によれば阿伎留神社はもと畔切神社と書いたが、10世紀編さんの延喜式巻九(神名帳 じんみょうちよう)に阿伎留神社と記載されたので、以来阿伎留の文字を使用しているという。
秋子 阿伎留という文字は意味がなく、音だけ使った万葉仮名ね。
父 そういうことだ。秋川市発行『秋川地名考』の中で、著者保坂芳春さんは神社の旧名「畔切」の文字をとりあげ、畔切(あぜきり)は切断=破壊ではなく、畔を切りひらく=開拓の意味だとしている(五日市町史は切断説)。祭神味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)は出雲系の農耕神だから「あきる」=開拓説は祭神と符合する。保坂さんは「あきる」をアキ・ルではなく、ア・キルと読むべきだと主張している。一方。埼玉大学の原島礼二先生は阿伎留神社は新羅系渡来人キシ集団がこの地に入った時、自分たちの信奉する新羅の女神アカル姫を祀ったものとしている。「あきる」=アカル姫説だね。たしかに五日市には岸・木住野姓は多いし、阿伎留神社は今も境内に韓国(からくに)出身の五十猛命(いたけるのみこと)を祀っている。
秋子 驚いたわ。わたしなど、どっちがどっちとも判断のつかないお話。でも両方とも阿伎留神社を開拓者集団の守り神としているわね。
父 ついでに言うと、日本神話ではアカル姫は和名下照姫(したてる)で、味霜高彦根命の妹に当り、この兄弟の父が有名な大国主命だそうだ。この話はこの程度で打切るが、阿伎留神社が早くから位や勲等を貰い、さらに神名帳に記載されている(式内社という)のは、この神社の氏子たちが、何らかの公的な功績があったからで、武蔵国府が多摩川沿いの府中に建設される時、上流から用材を送ったのではないかという研究者がいる。多摩郡の式内社の多くが、多摩川の上流域にあるのがその証拠だとしている。お父さんは小川郷の小川明神社をさしおいて、阿伎留神社が式内社となったのを不思議に思っていたが、国衙や国分寺の建設に功績があったとすれば、合点がゆくね。
5.郷から村ヘーその後の秋留郷
父 古代から中世前期の社会は、規模の大小はあれ、有力な農場主(土豪)が多くの隷属農民を牛馬のように使った社会であったが、中世も半ばすぎると、丸抱えの農民を解き放ち独立の農民とすることによって、農業の生産性を高める時代がやってきた。人々の生活基盤も、郷より規模の小さい村が中心となり、そこで独立農民の自治を主体とする社会生活が営まれはじめた。その終点が江戸時代ということになる。
秋子 秋留郷はどうなったの。
父 村に解体されてしまった。江戸時代末期の文政期(1820年代)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』は村単位の地誌だが、各村の書き出しに「もと○○郷に属し一」と中世期の郷名を伝えている。こころみに、もと秋留郷に属した村を拾ってみると、旧五日市地区の村16すべて、旧秋川地区は多西地区を除く9ヶ村、それに高月村・檜原村を加えて27ヶ村。秋川の源流から多摩川との合流点までの全流域だ。かつての小川郷と違うのは平井川流域を含まないことだね。
秋子 それじゃ、日の出町と合併する時に困るわね。
父 何もそこまで心配することはあるまい。中世の平井地区(日の出町平井)には「平井郷」、草花地区には「小宮郷」という郷名があったというが、風土記稿の平井村
・草花村の項は「その郷名を失う」とか「その郷名を伝えず」とか、素気ない記述だ。秋子 秋留郷という地名は生命力旺盛ね。
父 江戸時代になっても秋留郷名が使用された事例がある。家康は天正18年(1590)7月小田原城を落城させると、8月1日には江戸に入城、翌19年には領国内の寺社に朱印状を公布しているが、その阿伎留神社分は、「武蔵国多西郡秋留郷松原之内拾石之事一」大悲願寺分は、「武蔵国多西郡秋留郷横沢之内弍拾石之事一」とある。朱印状は将軍の代替わりごとに発行され、その文面は原文通りだから、秋留郷は最後の発行者14代将軍家茂まで使われている。
秋子 秋川地区には、東秋留村、西秋留村があったわね。父あれは江戸時代以来の小さな村を合併整理させる目的で、明治22年町村制が改正されて誕生した。あの時も古地名の甦り現象があったわけだ。結局、昭和30年の秋多町の出現まで、67年間使われていたが、年輩者にはなつかしい地名だ。「あきる野市」が秋川市民に抵抗感なく受け入れられる素地となったと思うよ。
6.おわりに
秋子 「あきる野市」のひらがな文字は、「阿伎留」か「秋留」かで迷ったあげく、窮余の策と聞いたけれど一。
父「阿伎留」は五日市寄り、「秋留」は秋川寄りとでもいうのかな。いずれにせよかな文字は正解だった。阿伎留神社だって、終始一貫阿伎留ではなく、畔切であったり、秋留を使ったこともある。
秋子 へえ「秋留神社」ともいったの。
父 神社の社宝に建武5年(1338)の懸仏の台盤があるが、その陰刻文字に「秋留神社」と刻んである。秋留郷の地侍たちが意気旺んだった時代だ。ところで、最後に阿伎留神社に幕末の著名な画家渡辺華山が訪れた話をしよう。華山は絵を残しているが、百姓姿の馬子と馬が端にいて、あとは一筆長々と山なみの遠景が描かれている。その画賛は「都より畔切の道は一」という書き出しで、「はるばると野路のあきるにくたびれて、多麻のよこ山横に寝てみん」と歌が添えてある。
秋子 畔切の道ですって一。
父 この絵はいま都内の収集家の手にあり、華山の阿伎留神社滞在を疑問視する人もいるが、畔切の文字が何よりの証拠となる。「畔切」は保坂氏によれば開拓の意だという。私は「あきる野市」という新市名の中に古代の開拓者の精神がうけつがれることを願っている。ただし、物質的な開拓ばかりでなく、精神的な開拓を含むよ。
秋子 どういうこと。
父 日常生活の便益追及=消費文化の開拓にばかり目を奪われないで、心の価値開拓に留意してほしい。例えば華山にしても、一流の画家であり、一藩の家老でありながら、時代に先んじた憂国の蘭学者であった為、やむなく自殺の途を選んだ。こういう人間の生涯も、立派な開拓者の途であることを理解できる市民であってほしいということだ。
(郷土あれこれ第1号 石井道郎)
一鴨の里と小河の里一
『日本霊異記』の中巻の第3話に多磨郡鴨の里の人、吉志火麻呂の話が出てきます。母は日下部真刀自といい、九州警護の防人(7世紀から10世紀にかけて辺境防備に当たった兵士)に行くのです。防人は奈良時代の中頃から志願して行くのですが、期限は3年で、牛馬や家族を連れて行っても良いのです。火麻呂は母を連れて行き妻を置いていったのですが、そのうち帰りたくなります。母が死ねば喪に服する事で故郷に帰れると思い、母を騙して殺そうとしたところ、仏罰をうけて大地が裂け、奈落の底に落ちてしまいます。母は息子を助けようと髪をつかんだが、手に残ったのは髪の毛だけでした。その髪を持って、武蔵国多磨郡鴨の里へ帰り、息子のために仏事を営んだという話です。
この鴨の里はどこかというと、一つは十里木の先の落合(旧乙津村)の加茂っ原だと昔からいわれています。その他、拝島大師の方だとか、山梨県の鴨沢だとかいわれていますが、私はあきる野市だと思います。
『阿伎留神社誌』(昭和36年7月30日阿伎留神社社務所発行)によると、境内社の若電神社の項に「加茂別電神を祀る。三代実録貞観6年(864)7月27日武蔵国従五位下若電神に従五位上を授くと載せられている古社で、もと当郷乙津に鎮座せられていたのを、天文年中(1532~1555)当社境内にお移しした。その旧地はいまも加茂原あるいは、加茂宮跡という。」とあります。
地元の人は旧宮跡から古瓦も拾いました。近くには別当と呼ばれる畑もあります。この原の近くの養沢や戸倉には、木住野姓が多く、十数年前五日市町域で調べたら、キシ、キシノの苗字が96軒もありました。市内網代には貴志島神社がありますが、キシ、キシノの一族と関連があ篭るように思います。埼玉大学の原島先生も阿伎留神社との関連を考証しています。こういう苗字が残って三代実録に載る若電神いるという事は・(西多摩神社誌より転載)キシー族に関連あ
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る人達がいたという事に間違いないと思います。また、落合の春日神社は、もと加茂原にあったものを、近くの奈良山へ移し、その後現在地に祀ったと伝えられ、この神社では、平安時代末期から、鎌倉、室町、江戸期の和鏡8面を所蔵しています。昭和53年発行の『かもっぱら』の遺跡調査報告書によると、4000年前の縄文時代中期の終り頃の住居跡や土壙が多数発掘されて、かもの里は古くから人々と関わった歴史を感じさせてくれます。
落合春日神社所蔵の和鏡
もう一つ、『日本霊異記』の下巻の第7話に武蔵国多磨郡小河の里の人で、正六位上丈直山継の話が出てきます。妻は白髪部氏(しらかべし)の娘で、山継が奥州地方へ蝦夷を討ちに遣わされていた時、夫が賊難から逃れるように、観音を供養したところ、夫は無事帰ってきて、妻と一緒に観音を供養しました。その後、天平宝字8年(764)12月山継は藤原仲麻呂の乱にあたって、死罪を受けた13人の中に入れられました。12人の首が斬られ、山継の番になった時、勅使が来て流罪になり、後に許されて官吏に任ぜられ、多磨郡の少領になったといいます。これは観音の助けで災難を逃れる事が出来たという話です。
この小河の里もあきる野市の小川に間違いないと思います。今の睦橋のあたりに屋敷があったらしいのです。9世紀初頭の日本最古の説話集に、あきる野市内の地名「かもの里」と「おがわの里」の二つも出てくるのです。
一小川郷と秋留郷一
7世紀から8世紀に律令制度が成立し、国、郡、里の地方行政組織が出来ました。里はその後、霊亀元年(715)に郷と改められ『日本霊異記』では、この辺は小河郷となっています。律令制度では、土地は国の領地ですから、国が租税を取り上げました。多摩にも調布市に国領という所がありますが、これは国の領地の名残りです。口分田といって、田を分けてそこから租、庸、調の税を納めるのです。
租は粟2石、庸は年に何日働け、調は穀物以外の現物税です。郷里制は律令の時代には50戸単位でしたが、鎌倉時代以降質変した郷村制では15戸から30戸位の単位で小集落の村になります。その小集落の中に一つの神社があります。最小の単位の集落とは、苗字が一つか二つです。これを一巻(いちまき)といい、これが集まって村が出来て、この村が集まったものが郷となります。郷を支配するのが土豪で、そこの親分なのです。
小川郷もこのようにして出来た訳です。その小川には、国が定めた官牧がおかれていました。武蔵の国に4つの牧場がおかれ、小川、由井、立野の牧は馬を10匹つつ、石川牧は20匹、8月望月(もちつき 十五夜)の夜に、馬50匹を集めて9月に京都に連れて行くのです。その人を別当(馬の管理をする人)といいました。馬に乗るのが非常に得意で、そのため鎌倉時代には皆武士になるのです。彼等は武装して、その以後武士として活躍していきます。そして、土地の名前を苗字にした武士団になり、源頼朝の麾下(将軍直属の家来)になって、鎌倉を中心に活躍します。このように地名と苗字は深い関係にあり、今でも苗字の8割は土地とつながっているのです。あきる野市でいえば、小川氏、二宮氏、小宮氏がこの仲間で、中世武士として活躍していきます。その後、小川郷は『日本霊異記』の頃と形を変えて、日奉氏を祖とする西党に属する小川氏、二宮氏が勢力を張っていました。平山、川口、立川、小宮氏等は皆その仲間です。小川氏は小川の一族を支配しながら、小川明神(現二宮神社)を祀ったのです。小川明神は武蔵国六所宮の二の宮です。一の宮は多西郡の小野神社で、鎌倉時代の武人の像が祀って
あります。三の宮は大宮の氷川神社、四の宮は秩父神社、五の宮が金鐙神社、六の宮が杉山神社で、この六か所の宮を、府中の大国魂神社(六所宮)に、まとめて祀るようになりました。それ以前は、国司が毎年いくつかの神社を
和名類聚抄に載る小川郷(西多摩神社誌より転載〉
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回って、お参りしたのですが、ものぐさになったのでしょう。私もいろいろ回って見ましたが、沢山あってとても回りきれるものではありません。ところで、二の宮がなぜ阿伎留神社にならなかったのか不思議ですが、この二の宮が決まったのは、平安時代の終りだったのです。その頃小川氏は全盛期で、この辺一帯を勢力下に治めていました。小川明神は小川氏が祀る氏神様であると同時に、小川郷の土地が祀る鎮守様でもあったのです。小川氏は大きな勢力を持った武士団でしたから「俺達の神様を二の宮にするんだ」という意気込で、自分達の小川明神を国司に推薦したのではないかと思います。小川明神が二の宮になると、その囲りが二の宮と呼ばれ、その土地に住んだ人が二の宮を氏としたのです。鎌倉時代の初め将軍が京都へ行く時、家臣団が三列縦隊の行列を作ってお供するのですが、小川氏は先頭でした。強大な勢力をもった小川氏は、承久の乱(1221年)の後、鹿児島県の甑島へ地頭として渡り、島津氏に滅ぼされるまで、約400年近く勢力を張っていたのです。小川氏系図による直系の子孫は東村山市に住んでいます。
一方、小宮氏は鎌倉時代の初め、秋留郷の地頭として、阿伎留神社の周辺に来て、秋川上流域に勢力を持っていたようです。小宮氏も承久の乱以降、九州の佐賀県や長崎県等へ地頭として渡り、『佐賀県資料集成古文書編第4巻』や佐賀県『諸富町史』などに沢山資料が載せてあります。また、隣の福岡県にも小宮姓が多く、一つの島が皆小宮姓という所があるといいます。そして周辺には日奉神社が祀られ、地元の人はこの神社を「日奉様」と呼んでいるとの事です。(福岡市居住故小宮國義氏談)小宮氏の子孫である佐賀県の光増家(現在町田市在住)と垣内家に残る小宮氏系図によると初代小宮三郎通経は武蔵国秋留郷の地頭として、阿伎留神社
周辺に来たものと思われます。その後の動向を系図より見てみると、二代目の兄弟3人は、立矢村、小塩村、井野村と五日市周辺の村々に在住していました。立矢は武蔵五日市駅南の舘谷、小塩は五日市の小字で阿伎留神社の側の小庄、井野も五日市の小字で、都立五日市高校の裏手一帯の入野だと思います。この頃「五日市」の地名はまだなくて、系図に度々出て来る「小宮之内」とは、舘谷より上流域一帯を小宮と称えていたと思われます。小宮氏の三代目又四郎経行(京都出生)の兄弟四人は九州へ地頭として行っています。そのうち、左衛門三郎景廣は高来郡福田村(現長崎市福田町)の地頭となったが、警護難渋により召され、その子彌三郎の代は再び小宮之内へ知行地を得た模様です。この小宮氏のころに、小川氏の勢力が後退していた草花に進出し、自分の氏神様「小宮明神」を祀ったのではないでしょうか。『阿伎留神社誌』によると、小宮は小塩宮の略だといいます。小宮氏系図や南一揆文書等に「小宮之内」と度々出てくるのに、小宮が村として古文書に出てくるものは、今のところ1点しか見あたりません。それは、承応3年(1654)正月13日のもので「五日市場に新市を立てた」と平井村と伊奈村が訴えた事に対して、こミや村の人々が奉行所へ出した文書で、差出人に「武蔵ノ内こミや村」と書かれ、兵庫以下6名が連印しています。この「こミや村」の人々は、内容からみて、五日市場の者共と同一のようです。五日市場にかかわる村々を「こミや村」と表現したのでしょうか。そして、その後も、小宮は江戸時代を通して、村単位では存在しないのですが、「小宮之内」という広い範囲の地名から小宮を氏としたものか、いずれにしても小宮氏の本貫の地は、舘谷より上流域の「小宮之内」だったと思います。小宮氏系図の他、佐賀県の資料等より考察すると、初代小宮三郎が地頭として来たのは12世紀後半と考えられ、この時点で「秋留郷」は既に使われていたのです。
一多西郡の発生一
多摩の郡は、12世紀から18世紀まで、多西郡と多東郡に分かれて使われていました。公には多摩郡ですが、土地の人は多西郡何々と使っていました。瀬戸岡の尾崎観音には「武州多西郡平井之郷」と刻まれた懸仏があります。これは最後の方の年代のものですが、早い年代のものは、『吾妻鏡』という、
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佐賀県(旧肥前国河副庄光益名)の小宮氏系図(町田市光増俊昭氏所蔵)
鎌倉幕府の事を記録した本の養和元年(1181)のところに「武蔵国多西郡内吉富」と共に、一の宮と蓮光寺が出てきます。多東郡と多西郡は、大体多摩川でわけています。この頃は関東一円に、郡を二つに分けるのがはやっていました。入間郡は入東と入西、埼玉郡は埼東と埼西に分かれました。下総の葛飾郡は葛東と葛西に、印旛郡は印東と印西に、上総国望陀郡畔蒜は望東と望西、このように東西に分かれるのです。南条、北条はありますが、大体南北はありません。特に多摩川は、奥多摩から羽田まで東西に流れていますから北はありません。近代と違って古い時代は、「北」というのは避けていたのです。北は陽かげの所をいい、逃げるという意味なのです。何故逃げる事かというと、敗北というので負けて逃げる事なので使わないのです。北であっても東にします。東は陽の出る良い所、また、西は西方浄土です。中世は武士の社会ですから、負けるとかは言いません。郡が何故東西に分かれるのか、とはそういう事からきています。多摩川の北でも羽村、青梅は多西郡で、福生は多東郡です。この多西郡の名残りが大正10年(1921)に草花、菅生、瀬戸岡が合併して出来た旧多西村でした。
一普済寺版一
立川市の普済寺で、14世紀から15世紀にかけて、木にお経を彫って200巻印刷しました。普済寺で作られたとされる事から「普済寺版」といわれています。お経の行間には、助援者の人達の事が書かれています。普済寺版の「大方廣仏華厳経」の第六に「このお経は秋留の216人が喜捨した」と書かれています。その他、伊奈、小塩、川口、御嶽山内等この周辺の地名がいろいろ出て来て、大変貴重なものです。秋留郷では、この頃南一揆が大活躍していましたから、そういう有力な人達がお金を出しあったのでしよう。そして、この時点で秋留郷には、相当の村が存在し、人々も大勢生活していたということなのです。
一南一揆文書一
14世紀から15世紀頃は、南一揆という地侍達が戸倉周辺に居住して、大活躍をします。あきる野の辺は、小田原北条氏の家来に組み込まれました。南一揆の家臣であった子孫の家に残る文書に、やはり「小宮之内宮本祢宜職」や「小宮之内岩崎神十郎網野弥五郎」などと書かれています。この以後も小宮氏は勢力を伸ばして、江戸時代には、山之根小宮領として、北は羽村市の一部から南は八王子の方まで、59か村にわたる広い地域に名を残しています。
「小宮之内」と書かれた南一揆文書
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一広徳寺文書一
地名が出てくる史料として、その後、もっと小さい地名が書かれているものに「広徳寺文書」があります。これは滝山城主大石定久が、戸倉城に隠栖し、真月斎道俊と号した時、広徳寺へ出した寺領安堵状です。
小和田広徳寺文書
騨翻
この文書は天文20年(1551)に出されました。寺領の書立で、戸津原、深澤、中野、同所、窪、押楯、須賀尾、平井之内、小和田と書かれています。それから近世に近くなると、戸津原が留原になって出てきます。中世は澄む音が中心ですが、江戸時代になると濁音になってきます。場所は小峰峠の下の高尾と小和田の間です。深沢は五日市憲法で有名な所です。中野は広徳寺と、秋川を挟んで対岸にあります。小和田は秋川の南に沿った台地で広徳寺のある所です。それから窪は菅瀬橋の辺の、低い所で久保といいます。平井の内とは、この頃平井は平井郷と言っていました。須賀尾は今の菅生です。押楯、ぜひ紹介したい地名の一つです。この文書から50年位過ぎた慶長3年(1598)の「武州多西郡小宮領草花郷御地詰帳」(検地帳に類した帳面)に出てくる「おったて」に間違いないと思います。オッタテは今では家が沢山できて、オリタテなどと言っていますが、川の淵で、山裾の台地で、押し立てるような地形が地名になったものです。狭いが鎌倉街道が通っている重要な位置です。折立から菅生、そしてあきる野市役所の西を通って、サマーランドの上の方の七曲りへ上っていきます。ただ単にオツタテのような狭い所を、所領として残したのではない事の訳が読みとれます。
一秋川縁の村々一
次にあきる野の地名が出てくる『読岐役所当番衆覚書』という文書があります。『新編武蔵風土記稿』という江戸時代の本に、大久野の佐久間家文書として出てきます。平井川縁は出てこないので、以前からおかしいと思っていましたが、おそらく平井川の方は、小川、二宮、平沢、草花、原小宮、瀬戸岡、菅生、平井、大久野の順で、もう一つ廻状があったのではないかと思われます。秋川縁の村々は、野辺、雨間、牛沼、代継、淵上、引田、山田、網代、伊奈、横澤、立谷、高尾、留原、小和田、五日市、中野、戸倉、乙津、養沢、入野、三内、大久野と22の村名が出てきます。この文書に油平が抜けていますが、文書が出されたのは天正2年(1574)なので、まだ油平村はなかったのです。油平村は江戸時代初めに、中村氏によって開かれたといわれています。
『読岐役所当番衆覚書』には右之村々当番之.面々、來ル廿六日朝七ッ半時、御詰メ可被成候以上天正二年戌八月十一日讃岐用人と書かれています。11日に出して、26日朝7ツ半時(5時頃)に、出てこいと言っています。「追而申候、横澤大幡中務殿、網代貴志平八殿、立谷貴志十郎左衛門殿、戸倉篠原与惣次殿」、この者共は「申し渡す事があるので、廻状が着き次第讃岐役所へ出てこい」と書かれています。讃岐役所はどこかというと、二つ考えられます。一つは讃岐という役人の所、もう一つは讃岐という所に役所があって、そこへ出てこいという事です。これは土地の名前だと思います。小宮谷と同じく三田谷へ動員令を出している氏照が、清戸の番所へ家臣を集めています。清戸の番所とは、今の清瀬市の清戸へ集まってこいと、動員令を出しているのです。この文書には「きよと番所」と書かれています。そうすると「読岐役所」とは、読岐という所だと思います。例えば八王子市の楢原の先の「佐貫」という所かと思うのです。この文書に出てくる村々は、江戸時代を通して使われ、明治22年(1889)の大合併の時まで続きました。そして、今でも大字として使われ、あきる野市の人々の身近なところで生き続けています。
(6)
あきる野市は平成7年9月に、秋川市と五日市町が合併して誕生した名前です。あきる野市とは古い伝統を残した、新しい感覚の本当によい名前だと思います。この名前がついた時点で、ひらがなと漢字を入れた市名は、日本で一つだったと記憶しています。その「あきる」という地名と、あきる野市に残る、江戸時代にあった30程の村名について考えてみます。
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五日市に古社阿伎留神社があります。この社は10世紀にできた『延喜式』巻九に、多摩郡八座の筆頭として載っています。それより約30年前に出された『日本三代実録』(六国史の第六)には、「元慶八年(884)七月十五日、武蔵国正五位下勲六等畔切神に従四位下を授く」と記載されています。阿伎留は畔切(あきり)なのです。言葉は通音といい、隣に移っていきやすく、同じ行ですと、「り」が「る」になることはあります。同じ10世紀頃、東山道の一国上野国(群馬県)に畔切(安伎利)郷がありました。漕斡1㍉与。ピレ蕎詰∴忌講ジ汽驚驚1∴
「切り」は開くという意味があります。田切り、畔切り、切り畑等の切りは開墾の事です。新しく切り開いた土地は新切りといい、畔を切り開く事です。『五日市町史』では、畔をこわす方を取り上げましたが、私の考えは畔を切り開く方で、畔切神は土地を切り開く神様だったと思います。畔を切り開くというと、阿伎留神社の近くには、古い田がない、と言われますが、中国の言葉で「白田」を畑と言っています。日本では水田と畑を一緒にして、畠という字をつくりました。ですから畠には音がないのです。田がなくても大きな意味で、田畑は畠と考えればいい訳です。畔切は畑を開拓するという意味だと思います。
三代実録に載る畔切神(西多摩神社誌より転載)
あきる野にあった村々
小川
全国でも多い地名の一つです。『日本地理志科』(村岡良弼)という本に「多摩川、秋川ここに会う。よってこれを名づける」とあります。また『武蔵名勝図会』では「普門寺境内より流れ出つる藍染川が、これを小川といった」とあり、今は舞知川と言って、よく水があふれると言っていました。二宮神社の下で、灌漑しますから、そこが一面の田で、その周りに人が住んで水田や畑作をしていたのです。このような土地が小川と名付けられています。9世紀初頭の記録に出てくるという事は、奈良時代すでに多摩の郡に小川の里があったという事で、非常に古い地名です。
二宮
二ノ宮、二之宮とも書かれました。二宮は江戸時代に秋川筋きっての大村でした。二宮神社に由来する地名で、総社が成立し、六所の宮が生まれて、その二の宮となってからで『神道集』(1350年頃成立)に、二宮小川大明神と載っています。しかし、実際にはもっと古く、『吾妻鏡』によれば嘉貞4年(1238)2月、将軍頼経が上洛した折、御所の随兵192騎の中に、二宮左衛門太郎の他2人の二宮氏の名が見えるのが初見です。この時点で二宮氏は二宮の地名を氏にしたのであろう事から、更に古く名付けられた地名と言えます。
平沢
二宮の下で平らな沢、谷に近い沢です。平らとは、平らだけでなく急な崖や山のヒラも言い、崖の代表に琵琶湖の淵にある「平山」という所があります。「ヒラの高嶺に降る雪も」の平、崖の山は平山、平坂は傾斜した坂、両方でなく片方だけの平らは片平、平澤は平井川沿いの浅い「平らな谷地」を意味すると見てよいでしょう。
草花
草花というと、草花が咲き乱れている所、草の花
(よもぎ)が多くは生えていた、などと言いますが、草とは開墾地を言います。切りかえ畑になるように、草を生やして枯らし、それを焼いて肥料にして土地を肥やし、次に豆や雑穀等を作る。ふりくさという地名がありますが、これはふりかえ畑を言い、切りかえ畑なのです。土地を順ぐりに、作物を作りかえる。関東から東北に多い地名、草と言うのは開墾の土地で、後地が畑などにすぐ変っていく所をいいます。ハナというのは突端で、人間でも出っ張りを鼻といいます。鼻(ハナ)は花です。草花は開墾地のハナなのです。
原小宮
小宮は平井川の岸、原にある小宮という形です。近くにある原町田などもそうです。瀬戸岡セドとセトは違います。セトは山がせまっている谷合を言います。セドは裏です。せどの井戸などと言います。裏の方の岡なのです。問題は、どこから見て裏かということです。あきるっ原の方には何もありません。菅生の方から見て、せど岡なのです。
菅生
菅生は天文20年(1551)の小和田の広徳寺文書にも「須賀尾」として出てきます。今の菅生に間違いないと思います。戦国時代の終り頃に菅生と書かれるようになったようです。群馬県の桐生、福井県の武生等植物につけて、何々生、何々生などと表しています。「菅とよむはすがと通ず。すがすがしき意」と『倭訓栞』にあって、スゲはスガともいうことがわかります。スゲフがスガフとなり、スガオと呼ばれている訳です。菅生を植物地名と考えて、蓑笠を作った「菅の生い茂っている所」と考えるのは『播磨風土記』以来の解釈ですが、当を得ているのではないでしょうか。
野辺
辺(べ)というのはあたりです。野のあたりを野辺といいます。野と原は少し違います。原は平らな畑になる所、野はやや起伏があり、山が混じっている所をいいます。野を通って行くと山になる。高いのだけが山ではなく、平らでも木が生えている所は山といいます。「野辺の送り」など、野辺とは古い言葉で、万葉集に何か所も見られます。古くは「ノへ」でした。
(2)
雨間
全国に一つしかない地名です。天間というのは大分県の別府に大字になってあります。天間(あまま)と雨間(あめま)は同一の地名とみてよいと思います。雨は高い所をさし、間は場所をさします。茶の間とか居間とか。天はやや高い所を言います。要するに雨間とは、高い所をいうのです。雨間は高い所にあって、田を作るのに水に困るため、雨武主神社を祀り、雨乞を頼んだのです。雨武主神社は雨を生じる神社、武主はむすび、結んで三角にします。三角は神聖なのです。雨間は総合して考えると「灌概の水を必要としたところ」というような意味になります。
牛沼
雨間のすぐ隣です。牛沼は動物地名などと言われますが、必ずしも、牛がつくから、馬がつくからではないのです。牛込、馬込は囲う牧場のような所を言い、沼は自然に水がたまり、水草とかが生えるような所を言います。牛のつく地名は沢山あります。近くでは牛浜や、牛久など。牛沼の場合、ウシ、ウス、ウソとっづき、ウスはうすい、色でいえば薄い色のもの、浅い色。アサとウシはつながっている、と言語学では言われています。浅い色、薄い色、現代の感覚でいうと随分違っていますが、牛沼は浅い沼という所なのです。
油平
やや小高い台地を言います。秋留台地の南の端で、天正18年(1890)に中村但馬守が土着して村を開いたといわれています。江戸時代初期の『武蔵田園簿』という本に「油平村」として出てきます。この村は江戸時代のはじめにできた村です。アブラダという所は方々にあります。すぐ近くの日の出町にも油田という地名があります。昔の油はあかりなのです。あかりがないから陽の出に起きて、陽の入に寝ました。一般の庶民は炉の火を使ったり、ヒデ鉢といって、石の鉢があり、そこに松の根を細かく切ってのせ、火をつけてあかりをとりました。ヒデ鉢は多摩市や檜原村にも残っていました。また、荏胡麻の油で灯心を使ってともしました。荏胡麻は貴重な作物でした。品川区には荏原という所がありますが、そこは荏の原だったのです。油平は油の平らです。誰が油を作ったかというと、二宮の舘にいた土豪などでしょう。一般の庶民には、とても手に届かないものでした。江戸時代の中ごろに急に広まったのが油菜です。関西から作り出されて、あっという間に全国に広まりました。柳田国男が「日本の生活が、油菜によって明るくなった」と言っています。菜種油を灯心で燃やして明るくなり、もう一つ、和紙が安く買えるようになって、障子が出来たため明るくなったのです。それまでの板戸では全く明るくありません。日本の生活が江戸時代後期になって一新し明治につながるのです。それからランプになり、ランプのほやの掃除は子供の仕事でした。油平は『武蔵志』によれば「アブラタイラ」と呼んでいます。18世紀の末頃にはアブラタイラと呼んだこともあったようです。油をとる作物を栽培したところが油田と呼ばれます。そうした作物を作る畑のある平らが油平です。油平は、おそらく荏胡麻が栽培されていた所でしょう。
代継
代継というのは地名をやっているものにとって
(3)
難物なのです。余次、世継と書く所もあります。四ツ木楕というのは、今は習慣がなくなっていますが、昔は火を絶やさないのが家庭の主婦の一番大きな仕事だったと思うのです。火を守る事、火を大切にして一年の終りに、一年の火に感謝すると同時に、また来年も良き年であるようにというのが、この四ツ木楕なのです。四ツ木楕というのは、家々の囲炉裏の四隅から楕木をくべて、赤々と燃やす事をいいます。どんな木かというと樫の木などの堅い木だったのです。この四ツ木槽の木を出す所を代継(四ツ木)と呼んだのではないかと思います。
淵上
流れが深くゆるくなる所を瀞、深くても、もう少し流れのある所を淵と言います。川の流れの上流が上、下流が下で、上下のつく地名は沢山あります。江戸時代の本に「地蔵淵があって、その上を淵の上といった」と書いてあります。『武蔵志』には「フチノウエ」と書いてあります。古くは「フチノウエ」または「フチノエ」と呼んでいたのです。「フチガミ」では、上流にある引田の方になってしまい、意味があわないのです。しかし、「フチガミ」となったのも古く、明治18年内務省地理局が調査して書き上げた本に書かれています。呼び方はこれ以降の傾向です。
引田
ひき蛙のヒキだとか、ひき蛙が沢山いるから蛙沢だとか、確かにそれもあります。ヒキというのは、低いという言葉で、古い日本語にはあるのです。高・低のヒクです。低いというのがヒキなのです。武蔵国比企郡という古い地名があります。上野国にも古い地名に疋太郡というのがあります。低い所の田は低田、高い所は高田、中位の所を中田と言うのです。引田は古くは秋川沿いの低地に集落が開け、そこに低田を開いて生活していたものでしょう。次第に村が大きくなるにつれて、低地から少しつつ台地の方へ開けてきました。引田は低い田です。
山田
山の中の田です。山の中には田んぼなど作れません。平たんの所に木が生えていて、そういう所に田を開くと山田になります。
網代
海岸に多い地名です。並木先生は秋川に網を張って魚を捕ったと言いますが、私は憶測ですが
こう思います。鎌倉時代から網代氏という土豪がいて、案外、海の近くから当地へ移って来たと考えます。そして土着し、長く住み着いた土豪ではないかと思います。網代には、天正2年に書かれた『読岐役所当番衆覚書』に出てくる貴志兵次という人がいました。秋川辺22村の中では、かなり頭だったらしいのですが、資料を考証してこないと、はっきりわからないのです。また、網代というのは、もともとは場所や、苗代、物の事を言います。田代や区画というのもそうです。
伊奈
並木先生は岩石の出る所と言うのですが、難しい地名です。砂に関連があると思います。全国にあって、川のそばで砂質の所が多いと言われています。信州天竜川沿いの伊奈平などと似ています。河岸段丘で、砂に関係があった所だと思います。あきるっ原の出口でしたから、古くから市がひらけていて重要な所でした。今でも武蔵野の方に「伊奈道」というのがのこっています。北条氏の文書の中に「平井と伊奈で交代で当番を務めろ」とありますが、古い村です。
三内(さんない)
この辺ではめずらしい地名で、青森県の三内丸山遺跡とか、秋田県など東北に多い地名です。古い日本語を調べるのに、なくてはならない『日葡辞書』(にっぽじしょ)という本に「三内というのは山の中という」と出ています。17世紀近くにポルトガルの宣教師が、日本語をポルトガル語に訳した高価な本で、長崎で出版されました。
「山師(山に入って鉱物などを見つける人)、木地師(お椀を作って歩く人)のような人達は移動します。そういう人達がとどまった場所を三内と言うのではないか」、と柳田先生は言っています。私もそうではないかと思います。
今でも「かじや」という所があきる野市菅生にありますが、これも渡り歩いて、鍋や釜、鎌、鉈(なた)などを直しながら歩いた人がいた場所と思われ、江戸時代中頃まで、こういう人達がいました。同じく立川にも「かじや」という地名があります。
山に来て仕事をする。そして、そこにまた、他の人が来て仕事をする。その仕事をする人達が、とどまった所が三内だと思います。
横沢と舘谷
横というのは建物とか施設などの横、苗字に前
(4)
田、横田、後田などあります。多摩の横山とか、どうして言うのでしょうか。大体太陽と同じ方向と交わります。横沢は大悲願寺の横の沢、ということで間違いないでしょう。刃など、守るものをタチと言います。敵の攻撃を防ぐ、身を守るものはタチであり、タテであります。ヤは谷(タニ)ほど深くはないが、やや水が溜まり、湿地帯みたいな低いところを谷(ヤ)と言い、この辺の特色で、奥まったりした所をヤッ・ヤトと言います。全部タニではないが、平らだけれど湿地帯の所、水辺のタチが谷なのです。小宮氏系図には「立矢」と出てきます。
深沢
深い沢です。天文20年(1551)の広徳寺文書に出てきます。五日市憲法で有名な所です。
入野
入野は家から原、原から野、野から山に入って行く所を「イリノ」と言います。
高尾
山と山との突端、出っ張りの高くなっている所で、山ほど高くないが、原より上がっているような所を言います。天正2年(1574)の文書に出ています。
留原(ととはら)
天文20年(1551)の広徳寺文書に「戸津原」と出てきます。その後、天正2年(1574)の文書には「留原」になって出てきます。中世は澄む音だったのです。江戸時代に近くなると濁音になってきて、留原(とどはら)となり、現在はトトハラと言っています。留原はイタドリが生えている所だとか、並木先生が書かれていますが、トドの地名は方々にあります。近くでは八王子の柚木にあります。「とどのつまり」のトド、行き止まり、漢字で書けば極限のトドの原だと思います。
小和田
和田は川が曲がって流れていて、そこにある台地を言います。大きい場所を大和田、次に中和田、小和田とあります。近隣では八王子に大和田、浅川には和田、青梅には日向和田、日影和田等がありますが、皆同じような地形です。秋川の右岸で広徳時のある所です。天文20年(1551)の広徳寺文書に「小和田」と書かれています。
五日市
五日市は、5のつく日に市が開かれたことにより付けられた地名です。市と町があります。市が開かれて、賑やかになると町と言います。「蟻まちがたった」などと言いますが、そういうまちは、市が発展して町となるのです。
小中野
中野は大野があって、中野、小野があります。全国で一番多いのが大野です。中野のそばには、野方という所があります。野の方なのです。あきる野市の中野は「大野が五日市高校の高台を言い、そして中野があって、小野は玉林寺などがある小字の小能になった」と並木先生は言っていますが、確かにその通りだと思います。中野は天文20年(1551)の広徳寺文書に出てきます。その後、寛文7年(1667)4月の「武蔵国多摩郡中野村御縄打水帳」にも、中野村として出てきます。中野村に小(こ)が付いたのは元禄期(1688~1703)以降の事ですが、理由はわかりません。
戸倉
戸倉というと「古代の朝廷の穀物を収める倉、屯倉があったからだ」と解釈してしまいますが、地名は音で解釈していくことが大事です。倉は谷も崖もいいます。戸倉は谷の入り口です。入り口は戸、トンボ、トンボ口とも言います。天正2年(1574)『讃岐役所当番衆覚書』に村名として出てくるのが初見ですが、それ以前、14世紀には「南一揆文書」に「小宮之内」と書かれています。そして、この古文書を所有し、住み続けた子孫が現在も生活しています。
乙津
津は港の事を言います。渡れる所を津、歩いたり馬で渡れる所です。大津は大きな港、乙津は小さな津を言います。乙(おつ)とは、山があって、ニョロニョロとしなければ登れない所を言うと思います。乙はオッという説と、ウツ(動物が通る獣道)という説もあります。秋川で渡って行ける所を乙津、流れが強くても、谷が深すぎても渡れないですし、以上の中にあてはまると思います。天正2年(1574)『読岐役所当番衆覚書』に出てきます。
養沢
沢というのは植物と関連があります。桜沢、竹
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沢、杉沢などがあります。動物でも、しか沢、たぬき沢などあります。崖など切り立っていると守りやすいのです。昔はいつ襲われるかわかりませんから、山の上に集落があります。人が用意に近づけない所。平地だと、すぐに襲われてしまいます。檜原でも奥多摩でも山の上に家があります。中国地方でも、四国でも皆そうです。これは中世の名残りなのです。上の方に住んでいますと、敵が来たという時わかりやすいのです。川の崖淵程新しい家です。古い道ほど上にあります。養は何か。並木先生は「日向」だと言っていますが、日向和田とかありますし、日向があれば日影があります。陽、要、用といろいろありますが、陽が一番使われていました。陽という字を地名に使うようになったのは、一般的に江戸時代に入ってからです。武陽銀行とか、甲陽軍艦とか、武州の武陽、山城の城陽、常陸の常陽とか付けてきます。中国では、こういう陰陽で付ける地名が多いのですが、日本は大体日本語で付けるので少ないのです。養沢だから木に関係してくると思うのです。ヤシャブシに似た木が沢山あった。でもヤシャブシ自身そんなに山にあった訳でもないらしいです。お歯黒や、黒八丈の染料に使う、黄色い花が咲く房状の黒い実が出来るヤシャブシの木でも沢山生えていたら解決もできるのですが、よくわかりません。魚を(よう)とも言いました。魚(うお)というのは必ずしも動物の魚ではないのです。菜、なっぱ、酒のな、酒を飲む時の菜が魚(うお)なのです。だから酒のさかななのです。それを日本語では魚(うお)と言います。養沢というのは、類するものが出てこないので、いろんな地名の本にも出てきませんから、よくわからない地名です。普濟寺版刻記の貞治6年(1367)「陽澤衆廿八人」とあり、古くからあった村だと思います。
質問に答えて
問 軍道という地名についてお願いします。
答 戦いがあって、その道だったから軍道等と言いますが、そうではないのです。ぐんどうの「ん」が使われるのは新しい時代なのです。日本には「ん」の字がなかったのです。だから50音には「ん」がありません。軍道はくど、くんど、がくずれて「ぐんど」と
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なったと思います。くどは崩壊地、崩れやすい所を言います。くの元の字は崩れるの「く」なのです。ずれるというのは放れることです。だから崩れる事です。「ど」は場所、「せど」、物を納める「なんど」など場所を言います。高野山の入口には九戸山町というところがあります。古い地図で見るとわかりやすいのですが、軍道の辺も等高線が込んでいて、地形的に崩れやすい場所です。「くんど」が濁音になって「ぐんど」になります。東海道を読む時は「とうかいどう」でも話す時は「とうかいど」となります。「ぐんど」が「ぐんどう」になったのです。
問 土地の事を聞くと、軍道紙はあまりよい紙ではないのかと思いますが、地名から名付けたのでしょうか。
答 はいそうです。美濃紙の博物館へ行きましたら軍道紙を紹介していました。また、第一次世界大戦の後、ベルサイユ条約締結の時、日本からわざわざ越前和紙を取り寄せて使ったとも聞きました。和紙はしっかりした質の良い紙だという事です。軍道紙もお茶を作る時に、ほいうに張って火を通しても、障子紙に使っても丈夫で良い紙です。数百年前に書かれた古文書も変わらず保存されています。崩れやすい地形でも、昔の人は木を植えて崩れないような工夫をして住んだのです。土手に楮を植えて軍道紙を生産する。昔の人の生活の智恵です。あきる野市には「軍道紙」という素晴らしい特産物があるのです。
「あきる野地名考」その1及びその2は、平成10年度から11年度にかけて5回にわたり開催した「地名考講座」の内容を、講師を担当された保坂芳春先生のご指導のもと、改めて原稿化させていただき、先生のご協力を得ながら五日市郷土館調査研究員清水菊子が編集したものであるため、文責は清水にあります。一「あきる野地名考その1」の正誤表一
               誤             正
P.2の右側上から3行目  火麻呂(ひなろ)   火麻呂(ほまろ)
P.3の左側上から8行目  土壙         土壙
P.3の右側上から13行目 望月(もちつき)   望月(もちづき)
P.3の右側上から19行目 麾下         麾下(きか)
P.5の左側上から23行目 旧多西村は原小宮も入ります。
(あきる野市の地名考1・2 保坂芳春)