【上戸の陣】
【上戸の陣】
●関東の争乱
顕定の子氏定は「上杉禅秀の乱」で公方持氏に属して相模国藤沢道場で討死し、子の持定は禅秀の残党狩りを命じられたがまもなく病死した。家督は弟の持朝が継いだが幼少のため、一族の小山田上杉定頼が名代を務めている。その後、公方持氏は幕府に反抗的な態度を示し、それを諌める管領上杉憲実と対立するようになった。
「永享の乱」
永享十年(1438)持氏を見限った憲実は領国の上野に帰った。一方、それを反逆とみた持氏は憲実討伐するため兵を率いて武蔵府中に出陣したことで「永享の乱」となった。この乱に際して持朝は、管領憲実に従い鎌倉永安寺に公方持氏を討った。さらに持氏の遺子を擁して結城氏朝が結城城に籠った「結城合戦」には、攻撃軍の大将山内上杉清方に従って活躍した。その功によって、持朝は相模国守護に任ぜられている。
「享徳の乱」
宝徳四年(1449)、持氏の唯一残っていた遺児成氏が赦されて鎌倉府が再興された。ところが、成氏は父持氏に加担して没落した結城氏らを取り立て、それに反対する管領憲忠と対立、ついに憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。
江戸・川越・岩付城の築城
このころ、持朝は家督を子の顕房に譲っていたが、康正元年(1455)、持朝・顕房父子は武蔵国分倍河原で成氏方と戦った上杉方は敗れて顕房は討死し、ふたたび持朝が家督となった。この関東の騒乱に対し幕府は上杉氏を支援して成氏追討を決定し乱に介入、幕府軍の攻勢に成氏は下総国古河に逃れ、その後、鎌倉に復帰することはできなかった。以後、成氏は「古河公方」と呼ばれることになる。このころ、扇谷上杉持朝の執事は太田道真・道灌父子で、武蔵国に江戸・川越・岩付の三城を築城し古河公方の攻勢に備えた。
●太田道灌の殺害 文明十八年(1486)
応仁元年(1467)に持朝は死去し、そのあとは孫の政真が継いだが、文明五年(1467)に古河公方勢との戦いで敗死した。そこで持朝の子定正が扇谷上杉氏の当主となった。定正の家宰太田道灌は、「長尾景春の乱」をはじめとして武蔵・相模両国において活躍し、扇谷上杉氏を山内上杉氏を凌ぐ勢力に成長させた。
この事態を恐れたのが山内上杉顕定で、顕定としては山内上杉家の面目を保つうえでも扇谷上杉定正・道灌主従を警戒するようになった。そこで顕定は、定正に説いて道灌を亡きものにしようと考えたのである。
当時、道灌は江戸と河越両城の普請に専念していてしばらく出仕をしていなかった。これを、顕定は山内家に対する逆意と断定した。一方、道灌も景春の乱の鎮圧に貢献したことに対する評価を上杉氏が与えなかったことに対する不満を抱いていた。
このようなことから顕定の讒言を定正は信じ込み、文明十八年(1486)道灌を相模国糟屋の館に招き、家臣の曽我兵庫に命じて入浴中を襲わせ殺害した。道灌はこのとき無念のあまり「当方断絶」と叫んでこときれたという。
道灌の死後、江戸城は扇谷上杉氏の手中に収められ、道灌の子資康は江戸城を逃れて山内上杉顕定に属するようになった。その後の江戸城には、扇谷上杉氏の重臣の曽我祐重が入った。以後、祐重は永正元年(1504)まで、江戸城代の任にあった。
●山内上杉氏との抗争
享徳の乱、長尾景春の乱が終熄したのち、関東にはつかの間の平穏が訪れた。ところが、道灌謀殺をきっかけとして、扇谷上杉定正と山内上杉顕定は対立するようになった。それは武力衝突へと拡大し、「長享の乱」となった。
山内顕定は父の越後守護房定と結び、扇谷定正は古河公方と結んで両上杉氏は相模・武蔵国で合戦を繰り返した。扇谷定正は人格はともかくとして、武略に富んだ武将で、山内上杉氏との戦いを有利に展開した。ところが、その最中の明応二年(1493)、定正は武蔵国高見原で顕定と対陣中に戦死(病死ともいう)してしまった。
代わって甥で養子の朝良が家督を継ぎ、古河公方政氏の支援を受け顕定と戦った。しかし、定正が生前家臣の曽我祐重に送った書状によれば、朝良は武将としての嗜みがないので、祐重から訓戒して欲しいと記されている。このことから、朝良は凡庸な武将であったと思われ、やがて古河公方からも見放されて、扇谷上杉氏は衰退の一途をたどることになる。
対して、山内顕定は好機到来として明応五年(1496)に、扇谷上杉氏の分国である相模へ軍を進めてきた。朝良は家臣上田氏の籠る実田要害へ出陣して後詰めにあたった。このころに古河公方は従来の扇谷上杉氏支援の態度を改めて、かえって山内上杉氏に味方をするようになった。
上戸の陣
文亀二年(1502)山内顕定は上戸に在陣して、河越城の扇谷上杉軍と対峙して、河越城を攻撃したが落城にはいたらなかった。この陣で、顕定は古河公方足利政氏の動座を願い、政氏は簗田・一色・野田・佐々木氏ら三千余騎の兵を率いて上戸の陣へ駆け付けている。永正元年(1504)になると両軍の動きは活発化し、顕定は河越城を攻めさらに白子に進出して扇谷上杉氏の江戸城を狙った。