【上野国】
【上野国】
旧国名。上州。現在の群馬県のほぼ全域。
【古代】
東山道に属する大国(《延喜式》)。
かつて関東平野北西部は毛野(けぬ)と呼ばれていたが、古代国家の形成される中で渡良瀬川を境に上・下に分けられて西部が上毛野(かみつけぬ)と称されるようになり、律令制の施行に伴い上野国と表記されるようになった。
官道の東山道は信濃国から碓氷坂を下って関東平野に入り、当国から東進して下野国を経て陸奥国に至る。つまり畿内と蝦夷の地域を結ぶ要路の関東平野への出入口を扼(やく)する位置にあった。
管下には碓氷、片岡、甘楽(かんら)、多胡(711建置。多胡碑)、緑野(みどの)、那波、群馬(くるま)、吾妻、利根、勢多、佐位、新田、山田、邑楽(おはらき∥おうら)の14郡があり上国であったが、811年(弘仁2)に大国となり、826年(天長3)には上総・常陸国とともに国守には親王が任ぜられるようになった。
国府は前橋市元総社町付近に置かれたと推定され、その北西方には国分二寺がある。
国内には4~8世紀初めに8400基以上の古墳が築かれ、5世紀代には東日本の政治的中心地となっていた。また6世紀後半の古墳の副葬品には中国、朝鮮、九州からの出土品と共通のものがあって、これら各地との関係が察せられ、上毛野が古代国家の形成に深くかかわり合っていたことがうかがえる。
これはここを本貫地とする上毛野氏の始祖が崇神天皇の皇子で東国統治を分担した豊城入彦命とされ、その子孫も朝鮮や蝦夷の地域での軍事活動の中心になったとする一連の伝承にも示されている。 上毛野氏は君姓から朝臣姓となり、中央の官人にも進出して軍事、外交、修史などに活躍をする。この有力な地方豪族は畿内の政権と緊密な関係をもち、その政治力と軍事力をもって関東地方北西部の社会的安定を確保する役割を負っていたとみられる。
国内の南西部には渡来系氏族の居住も多く山ノ上碑(681)、金井沢碑(726)など仏教関係の古碑があり、7世紀後半には寺院が営まれ、奈良時代には豪族層の間に仏教信仰が及んでいたことが知られる。
また平安時代初めには緑野寺が最澄による東国教化の中心とされ、この寺の一切経が坂東諸国で写経されるなど、仏教活動が盛んであった。一方《延喜式》によると9ヵ所の御牧から毎年計50頭の馬が貢進され、さらに官馬45頭が飼育されており、朝廷・中央政府の必要とする馬の供給地でもあった。
9世紀には、国内に馬を雇って物資を運送する業者の集団である○稲馬(しゆうば)の党が横行し、その活動範囲は東海道にも及んで、物資の輸送にも支障が生じ律令支配の根幹を揺るがせた。このような私的な馬を介在とした武力の伝統は、要地に位置することと相まって坂東における武士団の形成に影響を与えた。
またこの地の人々にとって戦火にもまして自然の怒りは恐ろしいものであった。浅間山は685年(天武14)、1108年(天仁1)に、榛名山は古墳時代後期に大噴火を起こし、多量の石と灰を降らせたが、このために田畑や水路が埋没して生産力は打撃を受け、その回復は容易ではなかった。 前沢 和之
【中世】
[荘園の成立]
平安時代末期の1108年浅間山が大爆発し、上野国中央部~東部に大量の火山灰を降らせ、この地域の田畑は壊滅的打撃を受けた。12世紀には、この荒廃公田の再開発が行われ、開発地が私領として中央権門に寄進されることによって荘園がいっせいに成立してくる。
噴火後まもなくの1119年(元永2)、国内5000町歩の地が摂関家に寄進され立荘されようとしたとき、白河法皇はあまりにも広大で、その中に賀茂斎院の禊祭に使うベニバナの産地があるとの理由で停止を命じた。
しかし、その後表のように荘園(御厨を含む)が相次いで成立する。このほか、成立年次は不明だが、伊勢神宮領邑楽御厨(邑楽郡)、長講堂領拝志(はやし)荘(勢多郡赤城村)、六条院領菅野荘(甘楽郡)、佐貫荘(館林市、邑楽郡)、大室荘(前橋市)、三原荘(吾妻郡)などがある。
このような荘園の開発領主として武士(在地領主)が各地に根をおろした。淵名荘の開発に関係すると推定される女堀という巨大な用水堀が、前橋市石関町から佐波郡東村西国定まで12kmにわたって掘られたが、なんらかの事情で工事途中で中断し、現在遺構が残っている(国指定史跡)。
[武士団の展開]
治承・寿永の内乱期に源頼朝に属した上野武士は鎌倉御家人、荘郷の地頭として各地に根をおろした。新田荘の新田義重とその子孫は、荘内に世良田氏・岩松氏、西上野に里見氏・山名氏などの庶家を分出し、上野でもっとも優勢な一族となった。そのほか、御家人としては大胡氏、山上氏、薗田氏、高山氏、小林氏、佐貫氏や、大江広元の一族那波氏などがある。
内乱期に上野に支配力を及ぼしていた秀郷流藤原姓の足利氏が滅亡し、その跡を追って安達氏が守護として入部してきた。安達氏は玉村、片山、飽間、白井、岡本氏などを家臣として、上野の支配を行ったが、1285年(弘安8)に執権北条貞時の臣平頼綱と争い滅亡した(弘安合戦)。
これ以後、上野守護は北条得宗家のものとなり、安達氏関係所領には、北条氏や幕府の関係者が地頭に任命された。また1221年(承久3)に世良田義季は、栄朝を新田荘世良田に招いて長楽寺を建立した。以後長楽寺は関東の有力禅院として繁栄した。
1333年(元弘3)楠木正成が河内に反幕府の蜂起をすると、その軍事費支弁の目的で、有徳銭(うとくせん)(富裕税)の徴収のため世良田に入部した北条氏の家臣は、新田義貞とトラブルを起こして斬られ、これをきっかけに義貞は生品(いくしな)明神で挙兵し、越後、上野、武蔵などの軍勢を率いて鎌倉を攻め、北条氏を滅ぼす。
幕府に代わった後醍醐天皇の建武政府の中で、新田義貞は上野、播磨、越後の国司(守護兼帯)となり、六波羅探題を滅ぼした足利尊氏とともに、二大勢力の一方を形成したが、やがて尊氏と後醍醐天皇との対立が明確になると、天皇方(南朝)に属して各地を転戦し、38年(延元3∥暦応1)に越前藤島で戦死する。
これに先んじて上野を制圧した足利方は、上杉憲房を上野守護に任じ、多くの武士は上杉氏に服し、義貞なき新田荘は新田義兼の女と足利義純の間に生まれた時兼を祖とする新田岩松氏によって継承された。
一方、南北朝内乱の初期において、足利方の優位が決定的となった14世紀中葉に、足利氏内部に尊氏と直義を二つの頂点とする勢力の対立が起こり、51年(正平6∥観応2)観応の擾乱(じようらん)が起こる。まもなく直義は殺されるが、直義党の上杉憲顕らは南朝方の新田義興・義宗と結んで蜂起し、尊氏方と戦い(武蔵野合戦)、敗北して越後に逃れる。
尊氏は宇都宮氏綱を上野・越後の守護に任命し、宇都宮氏は約10年間上野・越後を支配するが、上杉氏と結ぶ在地武士の反抗で支配は安定しなかった。やがて63年(正平18∥貞治2)鎌倉公方足利基氏の要請で上杉氏は関東に復帰し、宇都宮氏綱を圧迫して上野守護となる。
南北朝内乱期には上野の中小国人は上野国白旗一揆、藤家一揆などとして活躍した。80年(天授6∥康暦2)以降、関東公方や上杉氏の抑圧に抗して下野の小山義政が反乱を起こすと、白旗一揆は小山攻めに参加して活躍している。
[上杉氏と上野国]
14世紀末に小山義政の乱を鎮圧したのち、上杉氏の守護国は上野、武蔵、伊豆、上総、下野(のちに返還)の5ヵ国に増大し、関東管領として揺るぎない地歩を築いた。上野はこの上杉氏のもっとも重要な基盤であった。
上杉氏は、八幡荘や長野郷、大胡郷などの上野中央部の所領をはじめ、各地に散在の所領を家臣に預け置き、被官の長尾氏を守護代に任命して国内の支配をゆだね、各地の国人を上州一揆として再編成して軍事力の基盤とした。その実力は、上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦などで発揮され、ついに鎌倉公方足利持氏を打倒する。
禅秀の乱は山内、犬懸両上杉氏の内部抗争であるが、新田岩松満純は犬懸上杉氏憲(禅秀)に味方して誅殺されてしまう。1454年(享徳3)再興された鎌倉公方足利成氏は上杉憲忠を誅殺し、ここに公方・管領をそれぞれの頂点として、関東の諸勢力は二つに分かれて相争う(享徳の乱)。この乱は78年(文明10)まで4分の1世紀にわたって行われ、上杉方は惣社、白井、鎌倉(のちに足利)の三長尾氏や上州一揆、武州一揆に支えられて、上野や武蔵を押さえて、下総古河を拠点とし、小山氏、結城氏などの下野、下総の伝統的豪族に支えられた足利成氏(古河公方)に対抗する。
この間、新田岩松持国は、当初成氏方に立ち、のちに上杉方に寝返るが、やがて上杉方の新田岩松家純によって滅ぼされ、家純は新田荘を回復して金山城を築城する。この内乱の過程で、古河公方、上杉氏ともに勢力は衰え、各地に勢力を結集した戦国領主(小大名)が成立する。
三長尾氏や新田岩松氏を下剋上によって克服した横瀬氏(由良氏)、上州一揆の中から頭角をあらわした長野氏などである。
[戦国の動乱]
享徳の乱やそれに続く山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛を前史として、東国は徐々に戦国動乱の様相を帯び、南からは小田原の後北条氏の勢力が北上してくる。このような状況の中で、戦国動乱の本格化は、1560年(永禄3)の長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣である。
上杉憲政の跡を継いだ謙信は、三国峠を越えて関東に侵入すると、上野を押さえて拠点とし、以後関東は、後北条、武田、上杉の三つどもえの争覇の時代となる。北条氏の圧力に危機感をいだいていた上野、下野、北武蔵などの諸勢力は謙信に属して後北条氏と対抗する。
やがて信濃を制圧した武田信玄は吾妻方面に侵攻し、1566年箕輪城を攻略して長野氏を滅ぼし、西上野を手中に収めた。これに脅威を感じた上杉氏は1569年に後北条氏と越相同盟を結び、武田氏に対抗した。このとき上野は上杉、武蔵は後北条という国分(領土画定)を行った。
1578年(天正6)上杉謙信が没すると、その跡をめぐって景虎、景勝の2人が争う御館の乱が起こり、景勝が勝利すると景虎派に属した遠橋(まやばし)城の北条(きたじよう)氏などは上杉氏と関係を絶つ。 武田氏も1582年織田氏に攻められ滅亡すると、織田の武将滝川一益が一時遠橋城に入って上野の支配を行うが、本能寺の変で織田信長が殺されると、後北条氏によって神流川(かんながわ)合戦で追われる。
おもな敵対勢力の解消によって後北条氏はますます勢力を拡張し、1584年遠橋の北条氏や新田金山城の由良氏などを降伏させ、上野の支配権をほぼ確立した。
武田氏の武将として沼田に入り、武田氏滅亡後独立した真田昌幸は、後北条氏に対立していた。織田信長を継承した豊臣秀吉は後北条氏の服属上京を促すとともにこの間を調停し、真田氏の沼田城退去を条件にその他の真田領の保全を約束させた。
ところが後北条氏が真田氏に属する名胡桃(なぐるみ)城を奪取したことから、惣無事令(私戦禁止令)違反を理由として全国に動員令を発し、1590年に大挙関東に侵攻して後北条氏を滅ぼした。
上野では、後北条方は松井田城に大導寺政繁らを配して抗戦したが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの東山道軍に撃破され、上野の諸城も相次いで陥落して、ここに戦国争乱と中世在地領主の時代は終焉となる。
峰岸 純夫
【近世】
[上野諸藩]
小田原の落城後、徳川家康は豊臣秀吉から後北条氏の旧領を与えられ、1590年8月1日江戸城に入城した。世にいう江戸御打入りで、ここに関東は100余年にわたる戦乱に終止符を打ち、やがて関ヶ原の戦を経て1603年(慶長8)江戸幕府開設という新たな歴史段階を迎えた。
江戸城に入った家康は狐原康政を総奉行として直ちに関東の知行割に着手した。上野国は江戸城北辺の外郭に当たる防衛線であったから、とくに家康側近の重臣を配置した。まず徳川四天王の井伊直政を榛名山東南麓の箕輪城12万石に封じて信越両国に備え、狐原康政を館林城10万石に封じて常陸の佐竹氏や東北に備えたのをはじめ、平岩親吉を遠橋城3万3000石、奥平信昌を宮崎城(のち小幡)2万石など、万石以上11氏を戦国以来の要城に配備した。
初期の諸侯はその後いくたびか改廃があり、中期以後は前橋、高崎、館林、沼田、安中(以上城持)、小幡、伊勢崎、七日市、吉井(以上陣屋)の9藩が幕末までつづいた。これらの諸藩は大半が譜代で、藩主の交替や所領の移動がはげしかった。
前橋藩では関ヶ原の戦後酒井氏が入封、2代忠世、4代忠清はともに老中、大老職となり、所領高も関東譜代筆頭の15万石(幕末17万石)となった。とくに忠清は下馬将軍の名で知られる。
箕輪の井伊氏は高崎に移城したあと近江に転じ、以後高崎藩は藩主の交替6回、館林藩では狐原氏が陸奥白河に去ったあと、一時徳川綱吉が入封するなど6氏が交替した。
幕府直轄領は、初期には桐生周辺や西南部の国境にまとまっていたが、中期以後は旗本領に分散し、旗本の数は延べ400名をこえた。こうした支配体制の錯綜は上野の近世史に大きな影響を与えた。
[産業の発展]
近世の統一後、上野国でも新田開発が活発になった。戦国期末、大谷休泊による休泊堀(邑楽郡)や、長野氏による長野堰(群馬郡)の開削があったが、江戸期では1604年総社藩主秋元長朝による天狗岩堰が有名である。利根川の水を引くこの用水は、さらに代官伊奈忠次によって延長され、新田2万7000石を得た。
東毛では代官岡上景能(おかのぼりかげよし)が渡良瀬川の水を引いて、笠懸野に二十数ヵ村の新田を開いた。元禄郷帳の上野国総石高は59万1000石余、村数1213を数える。しかし上野は全体に山地が多く、また田畑の割合は1対3であった。このため農業は畑作が主で、とくに養蚕業は古代以来の伝統をもち、近世初めに仁田山絹(桐生周辺)、日野絹(藤岡付近)の名が知られていたが、中期以後絹需要の増加に伴って主要産業となった。
東毛では西陣技術の導入による桐生織物や伊勢崎織物を中心に、製糸業も地域的に分化し、幕末には問屋制生産も現れたが、西毛では各農家による生絹の一貫生産が特徴であった。
特産物としてはほかに甘楽・吾妻郡下の麻、甘楽・沼田のタバコ、北毛の木材・炭・豆類など、さらに白根・草津の硫黄・明礬(みようばん)・湯の華、甘楽郡砥沢のといしなどがあげられる。といしは幕府御用といしの特権をもち、硫黄・明礬も幕府が統制していた。なお江戸に出て薪炭の巨商となった塩原太助は利根郡の出身である。
[街道、水運]
上野国は江戸をひかえて街道が発達し、中山道(7宿)をはじめ、高崎から越後に通ずる三国道(15宿)、倉賀野から分かれて日光に至る例幣使街道(5宿)、それに足尾鉱山の御用銅を運び出す銅山街道などがあった。また商品流通が盛んになると信州や会津への脇往還が国境の各地に発達した。信州の中馬も中山道を倉賀野まで活動した。
利根川の舟運も近世初頭から開かれ、年貢米や塩・干陛(ほしか)など商品輸送の動脈となり、沿岸には倉賀野、五料、平塚など多くの河岸が発達した。なお関所は碓氷関、猿ヶ京関など15を数え、全国の3分の1が上野に集中している。
[一揆]
近世の後半は全国的に体制不安がひろがる。上野では1783年(天明3)浅間山の噴火によって吾妻川流域を中心に死者2500人余を数え、降灰による作物被害は上野の大半に及んだ。この前後から農村の疲弊がひどくなり、間引きや離村、荒地などが増えた。諸藩は郷蔵貯穀や小児養育積金制度などを設けて救済復興につとめたが、効果はうすかった。生活に窮した農民の一揆も各地で頻発した。前期に沼田藩の暴政に抗した磔茂左衛門の直訴事件があったといわれるが、後期には1764年(明和1)助郷に反対した伝馬騒動(天狗騒動)、81年の絹一揆など、運動は広域化し、天明飢饉につづく天保や慶応の一揆は世直しの傾向をもっていた。国定忠次など博徒の横行もこうした時代背景の所産といえよう。
[文化]
地域文化の特質をみると、儒学は前橋藩の好古堂(1691)など諸藩の藩校が中心であったが、藩主の交替がはげしいため発展はなかった。わずかに伊勢崎・安中藩の郷学や、安中藩主板倉勝明の《甘雨亭叢書》刊行が特筆される。儒学者では湯島聖堂の学頭になった市河寛斎や折衷学派の亀田鵬斎があり、国学では橘守部が桐生商人に師事されて、その門下に万葉学者橋本直香や黒川真頼が出た。越後柏崎で一揆を起こした生田万は館林藩士の出である。
このほか養蚕指導書《蚕養育手鑑》(1712)を著した馬場重久や渋川の吉田芝渓など農学の先達があり、関孝和が出たので和算も盛んであった。
蘭医学では種痘の村上随憲、帝王切開を創始した伊古田純道、脱獄した高野長英をかくまった福田宗禎らをあげることができる。
宗教の面では徳川家康が新田義重の菩提のため太田に大光院を開き、世良田の長楽寺に天海を派遣するなど、みずからの遠祖と称する新田徳川氏の供養につとめ、また前橋妙安寺から親鸞木像を東本願寺に遷座させた。黄檗宗の少林山(高崎市)は達磨寺の寺号にちなんで、幕末から福だるまの風習を生んだ。なお近世初期、沼田、鬼石などは関東キリシタンの潜伏拠点であった。
[開港と維新]
安政の開港は、幕末の苦悩する上野に転機を与えた。糸価は維新までに約6倍に暴騰し、伝統の蚕糸業界はにわかに活況を呈した。いち早く横浜に進出する貿易商人も十指をこえたが、その先鞭をつけた中居屋重兵衛、のち業界に君臨した茂木惣兵衛などはその代表である。
前橋藩も幕末から領内生糸の統制にのり出し、1869年(明治2)藩営直売所を横浜に設け、翌年洋式器械製糸所を前橋に開設した。
開港で桐生の織物業界は原料糸の不足で打撃を受けたが、製糸業者は巨富を積み、この活況が明治以降の県勢を発展させた。
しかし幕末の上野諸藩はいずれも累年の借財をかかえ、しかも幕府の危機に譜代藩としての去就に苦悩した。そのなかで1864年(元治1)の天狗党の乱での水戸天狗党の上州通過の阻止(下仁田戦争)や、慶応の世直し一揆、新田満次郎らの勤王運動への対応があり、前橋藩主松平直克は朝幕間の調停に奔走しつつ、東下する東山道総督に服した。諸藩もほぼ同じ道をたどったが、館林藩は長州藩との縁もあって勤王に積極的であった。
戊辰の年には幕府の勘定奉行を辞した小栗忠順(ただまさ)が、群馬郡権田の隠棲地で処刑され、前橋藩以下の諸藩兵が三国、戸倉で会津兵と戦った。なお彰義隊の副隊長天野八郎は甘楽郡の出身である。
大政奉還後、上野国内には旧幕府領を合わせて岩鼻県が置かれ、前橋以下9藩は藩制をつづけた。岩鼻県は武蔵北部の幕府領も合わせて群馬郡岩鼻(高崎市)の旧代官所を県庁とした。
1871年7月、廃藩置県で藩はそれぞれ県と称し、10月、邑楽・山田・新田3郡を栃木県管下とし、上野国内の諸県を合わせて群馬県(第1次)が成立した。県名は首邑のある群馬郡の郡名に由来する。県庁は高崎、のち前橋城内に移った。
ついで73年6月、川越を首邑とする入間県と合併して熊谷県(県庁熊谷)となり、さらに76年8月、入間県と分離、先に栃木県に属した東毛3郡を復して、ほぼ旧上野国一国を県域とする現在の群馬県となった。県庁は高崎に置かれたが、81年前橋に確定した。 山田 武麿
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.