【享徳の乱と分倍河原合戦】

【享徳の乱と分倍河原合戦】

上杉禅秀の乱に勝利した鎌倉公方足利持氏は徐々に専制化を強め、関東管領上杉氏やそれを後援する幕府との対立を深め、永享十年(一四三八)八月から翌年二月にわたる永享の乱を起こし滅亡してしまう。永享十二年三月には持氏の遺臣結城氏朝らが下総国結城城(茨城県結城市)に立て籠もったが、
幕府に後援された上杉氏の軍勢によって滅ぼされてしまう。

その後、鎌倉公方として持氏の子成氏が復活したが、関東管領上杉氏との矛盾は解消しなかった。足利成氏は管領上杉憲忠を享徳三年(一四五四)十二月二十七日に西御門邸に招いて誅殺した。これが享徳の乱の発端で、これから文明十年(一四七八)の和睦に至るまで四分の一世紀にわたって関東は内乱状態となる。

乱の当初の康正元年(一四五五)一月五日、成氏は上杉氏討伐のため鎌倉から武蔵府中の高安寺に出陣し、翌六日の相模国島河原合戦(神奈川県平塚市)で成氏方の一色・武田氏が上杉持朝らと合戦をした。続いて二十一~二十二日にかけて上杉憲顕・顕房、長尾景仲、武州・上州一揆などが府中に攻撃をかけ、高幡・立河・分倍河原などで激戦が行われた。これが分倍河原合戦で、新田義貞の鎌倉攻めの際行われた合戦を第一次とすれば第二次の分倍河原合戦である。

分倍河原は武蔵国府(府中)から関戸(多摩市)に抜ける多摩川の渡河点に当たり、現在は南の関戸側を多摩川が流れているが、当時は府中側を流れており、府中からまず川を渡りこの河原に出るのである。
この合戦で上杉方は敗走し、憲顕は武蔵国高幡(日野市高幡。大田区池上の説もある)で、顕房は武蔵国夜瀬(埼玉県入間市か)で討ち取られた。このほか大石房重・重仲も討死して上杉方は大打撃を受けたが、足利成氏方も石堂・一色・里見・世良田氏などの武将を失った。成氏方の首は京都に送られ、将軍の首実検に供された。

高幡で討死した上杉憲顕は、南北朝時代に活躍した山内上杉憲顕と同姓同名であるが、犬懸上杉氏の出身で、滅亡した上杉氏憲(禅秀)の息子である。その後許されて鎌倉府に出仕していたのであるが、この合戦で上杉方として参加し、敗走の途中で高幡不動に逃げ込み討死を遂げた。人々はその霊を慰めるために巨石を墓標として祀った。この石は茶灌石(ちゃそそぎいし)といわれ、高幡不動の不動堂の北に置かれていたが、現在ではその石を覆うお堂が建てられている。

合戦で壊滅的打撃を受けた上杉方は態勢を立て直すのに時間がかかったが、幕府の支援で駿河・越後などの応援を得て武蔵国を奪回し、成氏を古河(茨城県古河市)に追うことになる。

合戦で勝利した成氏はその直後に次の文書を発給している。
足利成氏書状写(「喜連川文書」『栃木県史』史料編中世二所収)

武州南一揆跡五か所の事、伯耆(佐野盛綱)守拝領致すといえども、借り召され下され候。然れば知行相違あるべからず候。この上においては、然るべき欠所等各々望み申し候わば、重ねて御判をなさるべく候。謹言。

(康正元年)二月二十一日
                (足利成氏)御判
佐野一族中

この文書は、分倍河原合戦に勝利した成氏が、成氏方の武将で下野の佐野伯耆守盛綱に対して与えた武州南一揆の「跡」(没収所領)の所領に関する問題について述べたものである。この所領は盛綱に一度は与えたが、何らかの事情でそれを取り上げる必要が生じたので、佐野氏に対しては代わるべき他の所領を所望すれば与えることを約束しているのである。

これによって武州南一揆は上杉方に属して所領を没収された者がいることは明らかである。一度与えたものを公方が取り返す事情を考えると、おそらく没収所領の返付を条件に、南一揆は成氏方に降参したのでこのような処置となったのではあるまいか。

享徳の乱後も、山内上杉氏と扇谷上杉氏とが対立する長享の乱が発生し、その間隙をついて相模から後北条氏が進出し、戦国争乱の様相となっていくのであるが、この時期の多摩地域の史料は少なく、その状況を記述することができない。


図2-13分倍河原陣街道(『江戸名所図会』北の府中方面かぢ南を眺めた図。左下に小野神社(府中市)があり,その上に当時の多摩川が流れている。川の対岸の中央に天王森、左に胴塚、右前方に首塚がある。ここを道が北から南へ走り、つき当たりが関声で,上方の山は多摩丘陵である。
(日野市史 通史編2 上 p158-160)


山内上杉憲忠も江の島に出兵し、両者は江の島で対戦したが、決着のつかたいまま和睦し、成氏は鎌倉に帰座している。江の島合戦後、成氏は鎌倉公方として両L杉氏に昧方したものの所領を没収し、またしても両者は対立を深めていった。そして、享徳三年(一四五四)に至って成氏が山内上杉憲忠を暗殺し、これに反発した長尾氏、太川氏らが関東の諸将を集めて成氏に対抗し、ここに享徳の人乱という関東争乱の幕が開かれたのである。

享徳の乱

足利成氏と両上杉氏の対立は亨徳三年十二、ついに成氏による関東管領の山内上杉憲忠謀殺事件へと発展した。これに反発した両上杉家の家宰であった長尾景仲と太田資清、資長父子らは、成氏を鎌倉に攻め、これ以後、関束は両者の抗争による争乱があいつぎ、戦国初期動乱の様相を示していくのである。

江の島合戦に始まるこの一連の争乱を亨億の乱と称しており、この乱の経過で成氏は何度か武蔵へ出陣し、上杉氏領国の切りくずしを試みている。まず享徳四年正"の武蔵国豊嶋郡の豊嶋氏宛の軍勢催促状によれば(豊島宮城文書)、

御方に馳せ参じ、忠節を致すべきの状、件のごとし、
 
   享徳四年正月十四日(足利成氏)(花抑)

  豊島勘解由左衛門尉殿(泰景)

とあって、成氏が武蔵へ入り、豊嶋氏らの旧族を昧方にして上杉方と戦っている様子がわかる。この時の戦場は府中から高幡(現H野市内)にかけてのものであり、その庇後の成氏の三条実量(さねかず)宛の書状案(『神奈川県史資料編』六二二九号文書)によれば、「同正月廿一日、翌日廿二日、上杉右馬助人道、同名太夫三郎ならびに長尾左衛門入道ら、武州、上州一揆以下の同類の輩を数万騎引率し、武州国府辺に競い来るの間、高幡、分陪河原において、両日数か度兵刃を交え、終日攻戦」するといっており、上杉方の主力がやはり前代と同じく武州・上州の国人一揆連合であったことを伝えている。

この戦いで上杉方は大敗し、犬懸上杉憲顕が討ち死にし、扇谷上杉顕房も武蔵由井(現八王子市内)で自害し、上杉方の大石房重や重仲らも戦死している。こうした状況をみて、幕府がこの関東の争乱に介入し、成氏の討伐を駿河守護の今川範忠・信濃守護小笠原光康らに命じたのである。

幕府軍が鎌倉へ迫ると、上杉方は勢力を挽回し、成氏は鎌倉を捨てて武蔵府中へ陣を移している(『鎌倉大草紙』)。その後、成氏は下野小山城へ下り、さらに下総古河城に入り、これ以後、古河公方と称されるようになる。

そして、成氏は幕府の命に従わず、その後、京都では、康正(こうしょう)・長禄・寛正(かんしょう)・文正(ぶんしょう)・応仁・文明と改元されたにもかかわらず、享徳の年号を使いつづけている。

この時期の関東の模様をのべた『鎌倉大草紙』によれば、翌康正二年(一四五六)十月には、上杉方が武蔵国人見・深谷に陣を張り、成氏は岡部原へ出陣してこれを打ち破っている。しかし上野国より新田岩松氏らが上杉方の援軍として加わったため、成氏は武蔵足立郡へ敗走している。

武蔵から上野・下総にかけての北関東は、以後両者の間で一進一退の攻防がくりかえされており、その経過の中で両者ともに哀亡の途をたどることになっていく。

堀越公方政知の下向

こうした関東の状況をみて幕府は、長禄元年(一四五七)に将軍足利義政の弟である政知を鎌倉公方として関東に下向させることを決定した。政知が実際に下向したのは、翌年の五月から八月までの間であって(『神奈川県史』通史編1)、しかも鎌倉へは入部できず、伊豆の堀越(現静岡県韮山町内)にとどまっていたところから堀越公方と称する。

この時期、関東では古河公方成氏方の威勢が強かったためと思われる。政知の鎌倉公方としての政治的活動を示すものは少ないといわれており、鎌倉市内の寺社に宛てた寄進状ほかが数通みられるのみであって、関東の争乱を左右するようた軍事的行動を示すものは皆無である。

延徳三年(一四九一)に、伊勢長氏(北条早雲)の侵攻によって滅亡するまでの三十数年間にわたる伊豆滞留は、ほとんど形式的なものであり、実質支配は伊豆一国に限られており、その余の関東への指令は幕府の手のうちに握られていたと思われる。従って武蔵との関連はほとんどなく、武蔵に関しては、従来どおり、関東管領である山内上杉氏の管掌下にあったとみてよいだろう。
(国分寺市史 上 671-673)