【伊治公砦麻呂の乱】
【伊治公砦麻呂の乱】
宮城考古学情報>みやぎ遺跡発掘>2000>多賀城跡
--------------------------------------------------------------------------------
8世紀末に「伊治公砦麻呂の乱」で焼失した倉庫群
多賀城市市川 多賀城跡
―宮城県多賀城跡調査研究所(報道発表10月19日/一般説明会10月21日)―
多賀城跡城前地区官衙の発掘調査で、建物跡16棟、柱列13条、竪穴住居跡3棟、鍛冶炉1基などが発見された。このうち3棟の建物跡には火災で焼失した状況が確認され、多賀城跡調査研究所では、8世紀末の「伊治公砦麻呂(これはりのきみのあざまろ)の乱」で被災したものとみている。
焼失した建物群は、城前地区官衙で建物が最も大規模で規則性を持っていた時期にあたる。これまで伊治公砦麻呂の乱によるとみられる火災の痕跡は、政庁地区と外郭南門、東門といった主要施設でのみ確認されていた。今回火災の痕跡が確認された3棟のうち2棟は柱穴の状態などから倉庫跡と考えられ、この時期多賀城の中でも特に重要な地区であったと考えられる。
「続日本紀」宝亀11(780)年3月22日条には「多賀城に侵入した砦麻呂軍が、争って府庫(倉庫)のものを取り、貴重なものを残さず略奪して去り、そのあと残ったものには、火を放ち焼き払った」と記されている(宮城県多賀城跡調査研究所2000)。このことから、当時多賀城内には武器や食料などを貯蔵する倉庫群があり、それが砦麻呂軍によって焼き払われたことが分かり、今回見つかった倉庫跡と考えられる建物群と火災の痕跡とこの記事との関係が注目されるという。
城前地区官衙は多賀城跡政庁南辺の約100m南に位置している。宮城県多賀城跡調査研究所では1998年から城前地区官衙の全体像解明を目的として調査を継続してきた。今回が最終年度にあたり、3年間の調査で発見された遺構は建物跡33棟、柱列29条、竪穴住居跡5棟、鍛冶炉1基に及ぶ。遺構密度が高く、長期にわたって重要な施設が配置されていたことが窺われる。
第71次調査区の位置と発見された建物跡
上に見えているのが政庁跡南門で、そこから外郭南門に向かって道路跡が延びる。道路跡東側に沿って南北に延びる丘陵上に城前地区官衙がある。
「続日本紀」宝亀11(780)年3月22日条
「多賀城に侵入した砦麻呂軍が、争って府庫(倉庫)のものを取り、貴重なものを残さず略奪して去り、そのあと残ったものには、火を放ち焼き払った」という内容の記述がみられるという。
(クリックすると拡大画像を表示します)
参考引用文献
宮城県多賀城跡調査研究所2000「多賀城跡第71次調査現地説明会資料―城前地区の調査―」
http://miyagi.arcpot.com/exca/2000/tagajyou.htm
【坂上田村麻呂】
ここに伝わる,坂上田村麻呂の鬼退治(盗賊退治)は後世の伝説だが, 本人とはなんの関係もない.
坂上田村麻呂は,天平宝字二年(758) に生まれ, 弘仁2 年(811)5月23日に亡くなった武将だ. 父は苅田麻呂( かったまろ) と言い, さらに祖父は犬養と言う.
父苅田麻呂が奥鎮守将軍に任命され, 仙台にあった多賀城政庁に赴任したことから後の田村麻呂の人生が決まって行ったようだ.
この赴任は宝亀元年(770) のことだから, 父苅田麻呂は43才, 田村麻呂はまだ13才の頃だった.
西暦700 年頃から, この頃までの70年間, 蝦夷地と日本との関係は序々に衝突場面が増え, 結構小競り合いがあったことが「続日本記」に記録され始めている.
現地での戦死報告がしばしばあり, 原因は常に蝦夷側が「野心馴れ難く」悪の軍団として攻めて来たことになっている.
それなのに, 政府の侵略姿勢とは相反して, 現地では道嶋三山という地元の豪族を地方官吏( 陸奥小掾) に任命し, 融合政策を中心に土地の人々と良い関係を築いていたらしい.
事情は不明だが, 苅田麻呂の赴任は僅か半年で終わり, その 1年後宝亀五年(774) 今度は紀広純( きのひろずみ) に鎮守副将軍兼任の命が発令され, 蝦夷地の征服が具体化され出した.
しかしこの人は, 現地の人で伊治公砦麻呂( いじのきみあざまろ) の反乱で宝亀十一年(780) に非業の死を遂げている.
この反乱は伊治城で起こったが, その影響で多賀城は放棄され, 城に住んでいた人々は八方に四散してしまった.
空き家となった地方政庁は, まもなく何者かは不明だが略奪の群れに襲われ, 炎上した.
犯人は伊治公砦麻呂にされてしまった. 原因を作った者のせいにされたのだ.
伊治公砦麻呂は,この事件の後いづこへともなく姿を消し,その後の消息は不明だ.
こんな前史を経て桓武天皇の時代を迎えると, 征夷はいよいよ本格化する.
以後, 桓武天皇は, 延暦八年(789),延暦十三年(794),延暦二十年(801) の三度の征討を繰り返す.
四度目も計画されたが閣議の結果中止された. その 3か月後, 桓武天皇は崩御し征討は終わった.
延暦八年(789) の遠征軍の大将は紀古佐美( きのこさみ) だった.
多賀城から, 敵地, 胆沢の地まで奥深く攻め入った遠征軍は, 北上川西岸で蝦夷の騎馬軍団に襲撃され敗走した.
将校25名戦死, 負傷した兵245 名, 北上川で溺死した者1,036 名. 裸のまま逃げ来たった者1,257 名であったという.
このような敗戦の後, 二度目の遠征から副将軍として従軍した坂上田村麻呂の名前が登場する. この時の将軍は大伴弟麻呂だったが, 軍事は田村麻呂が行ったようだ.
そして三度目の遠征では, 征夷大将軍の名を初めて拝命し, ついに蝦夷の首領二名を連れて都に凱旋する. 二人の名はアテルイ, モレと読むようだがはっきりしない.
彼は, この二人を放免して仲間と和睦し, その一族の力を集めるよう進言したと「日本略記」に記されている.
「此の二虜は, 並びに奥地の賊首なり.
二虜を斬る時, 将軍等( 田村麻呂) 申して云ふ.
此の度は願ひに任せて返し入れ, 其の賊類を招かんと. 」
ところが, 公卿たちは, 田村麻呂の論をおさえて, こう言った.
「野性, 獣心, 反覆定まりなし.
たまたま朝威に縁りて, 此の梟師を獲たり.
縦へ申請に依り, 奥地に放還するは,
いふところの虎を養ひ患を遣すなり.
即ち両虜を捉へ, 河内国杜山にて斬る. 」
野性, 獣心, 反覆定まりなしと決めつけられた二人は,河内国杜山て処刑された.
現在の枚方市にあたるそうだが定かではない.
--------------------------------------------------------------------------------
【鬼退治伝説】
阿弖流為( アテルイ) と母礼( モレ) にしてみれば, 誠に理不尽な斬首であったが, このことが後世の鬼退治伝説の遠因となったことは容易に想像できる.
「田村草子」というおとぎ草子では, 彼らに似た名前の鬼が登場し, 田村麻呂が退治するお話に仕立てられてしまった.
鈴鹿の鬼神の名は「大だけ丸」という.
「田村三代記」では, 坂上田村麻呂利仁が陸奥で誕生し, 鈴鹿山の鬼神「立烏帽子」を攻めるが成功せず, かえってこれを妻として, 近江の鬼の「高丸」を倒し, 次いで奥州の鬼「大嶽丸」も倒すという雄大にして荒唐無稽な話に発展する.
鈴鹿峠には盗賊が住んでいて,旅人を襲ったことがあったらしい.
事件が,うわさとなり,やがて鬼の仕業とされて行ったのだろう.
http://www.tokaido.co.jp/lab/wada/tour32.htm