【地頭の生活】

【地頭の生活】

六)から文政六年(一八二三)まで、旗本沼間氏の知行となっている。

このように知行地をもって村と村民を支配した旗本は、「地頭」と呼ばれた。

彼らの生活や知行地との関係は具体的には不明だが、近世初期に旗本の多くは知行地に陣屋を構えて家族や家来とともに居住し、交替で江戸城の警備や勤務にあたっていた。彼らは、勤務のたびに家来や奉公人を率いて江戸に出て、城の周辺に小屋を建てたり、町屋に宿泊し、勤務が終わると再び知行地に帰るという生活を送っていた。

知行地において家臣たちは、農民から年貢・小物成を徴収し食料や日用必需品を賄った。小物成の藁や大豆は馬の飼料であったし、縄や竹木・燃料、灯明用の荏胡麻なども小物成として徴収していた。

市域では前島氏が陣屋を構えていたようであり、陣屋の広さは一町九畝二八歩、また上畠一反二畝一九歩・中畠五畝四歩・下畠三畝一八歩・林畠三反三畝一八歩、都合五反四畝二九歩の陣屋畑があったことが、寛文一二年「中藤村検地帳」(乙幡泉家文書)から判明する。市域周辺でも、奈良橋村(東大和市)に地頭石川氏が陣屋や蔵屋敷を設け、芋窪村にも地頭酒井氏の陣屋跡が「陣屋」という小字となって長く残っていた(『東大和市史』)。

元和二年(一六一六)三ケ島村(所沢市)の知行を没収された永田氏は、二〇〇石の知行から米一〇七俵・大豆一俵・荏胡麻一俵を徴収していた。それだけではなく、家臣は農民からさまざまな形で労働力を徴収した。陣屋の近くにある陣屋畑は、家族などの食事の惣菜として野菜を栽培していたが、その耕作は知行の農民の夫役であった。現在狭山湖に没した勝楽寺村(所沢市)の地頭小林氏は、四反七畝一歩の陣屋畑を所持していた(『所沢市史』上)。

また、知行地の寺を菩提寺とし、当主や家族を葬った。芋久保の地頭酒井氏の墓は、御林山とよばれる地頭の所持する山の中に作られ、三ツ木村の地頭大河内氏は中藤の長円寺を菩提寺としている。また、陣屋の掃除や修復はもちろん、江戸と陣屋との連絡にあたったり荷物を運送したりする「小伝馬」、江戸での動務や合戦・上洛のとき武器や兵糧を運ぶ「陣夫役」も、知行地の農民に賦課されたのである。近世初頭の合戦や上洛に知行地の農民が多く動員され、あるいは土豪などが家臣に取り立てられて出陣した。この意味でも、知行地は家臣にとって不可欠のものであった。

ところで江戸城の修築・拡張が進み、周辺に城下町が整備され、江戸の町としての機能が整うに従い、旗本の屋敷も番町などを中心に建設されるようになると、次第に旗本たちは江戸に住居するようになった。寛永期(一六二四~四四)前後には、旗本の多くが家族や家来を率いて知行地から江戸に移っていった。また知行地に建立した菩提寺に葬られていた家族も、寛文期(一六六一~七三)から元禄期(一六八八~一七〇四)にかけて、次第に江戸の寺に葬られるようになった。陣屋は知行地にそのまま残された場合が多かったが、のち元禄期前後に、これらの陣屋も廃止され、徴収されていた労働力も代金納に変化していき、旗本と知行地の農民との人身的な関係は、次第に疎遠なものとなっていくのである。

中藤村の地前島氏は甲斐武田氏に仕え、又二郎のとき天正一〇年武田氏の滅亡後に井伊直政の勧誘によって徳川
頭前島氏氏に降り、甲斐山梨郡内の本領七一貫文余を安堵された。天正一七年には知行五〇九俵を与えられた
が・翌年関東転封によって中藤村に知行を与えられ、天正二〇年二月に五五〇石の知行宛行状を与えられた。又二郎
は、文禄元年(一五九二)家康にしたがって肥前名護屋に赴いた。朝鮮出兵の後詰のためである。
これらの陣に出陣したのは前島のような家臣だけではなかった。家臣が知行する村むらの村民にも、その負担が転
嫁されたのである。家臣たちは一人で名護屋に赴いたのではなく、若党といった下級の武士や、馬の口取り、馬の草
鮭を入れた沓箱持ち、鑓持ち・具足櫃持ち、さらに荷物や兵糧を運ぶ小荷駄の人足など、多くの奉公人を率いて赴い
ていた。軍勢の三分の二以上は、人足など非戦闘員で占められていたのである。名護屋滞在中、彼ら奉公人は主人に
率いられて屋敷の警備をしたか、宿泊している小屋で炊事や身の回りの世話をするなど、忙しい毎日を送ったのであ