【士族】

【士族】
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士族(しぞく)とは、明治維新後、旧武士階級に与えられた族称である。1883年末で、約195万人(日本全人口約3750万人の5.2%)。

1869年の版籍奉還の後、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名、公卿等)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された。その後、一部の郷士や卒族、在官の平民も士族に編入された(平民になった者も多い)。壬申戸籍作成(1872年)の際に「士族」と記載された。

なお、1884年の華族令で華族に爵位が導入された際、岩倉具視らを中心に士族の爵位を創設することも検討されたが、華族の五等爵をさらに増やすことによる制度の煩雑化と、公家や大名と同様、華族としての待遇を望む元勲の勢力によって、士族の爵位創設は頓挫し、明治維新の功労者らは勲功華族(新華族)として士族から昇格していった(華族は互選で貴族院議員になるなど、特権身分である)。

また、士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。これは華族も同様である。例えば、士族の家の次男三男が分籍した場合は平民の戸籍となる。大正時代の平民宰相原敬も元々は士族の家系出身だが、若い頃に分籍して平民となった。

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士族の解体
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の特権は、明治政府が行う四民平等政策や、近代化政策を行うにあたって障害となっていた。1869年の版籍奉還で士族は政府に属することとなり、士族への秩禄支給は大きな財政負担となっており、国民軍の創設などにおいても封建的特権意識が弊害となっていたため、士族身分の解体は政治課題であった。

1873年には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年には廃刀令が実施された。家禄制度の撤廃である秩禄処分も段階的に行われた。身分を問わず苗字を付けることが認められ(国民皆姓)、異なる身分・職業間の結婚も認められたため、士族階級の実質的な身分は平民と同じになった。

士族身分の解体により大量の失業者が発生した。政府や諸官庁に勤めたり、軍人、教員などになる者もいたが、職がなく困窮する例も多く、慣れない商売に手を出して失敗すると「士族の商法」と揶揄されることもあった。士族を職につかせ、生活の救済を図る士族授産、屯田兵制度による北海道開発など政府による救済措置も行われた。西郷隆盛が唱えた征韓論には失業士族の救済、という側面もあったが、西郷は政争に破れ下野する。廃刀令以降、1877年の薩摩士族の反乱である西南戦争まで、各地で新政府の政策に不平を唱える士族反乱が起こった。また、初期の自由民権運動は不平士族が中心になっていた(士族民権ともいわれる)。

履歴書や紳士録の類には士族という記載が残り(「○○県士族」)、幾分か名誉的な意味は持ち、家柄を誇る風潮も残った。戸籍の族籍記載は1914年(大正3)に撤廃され、第二次世界大戦後の戸籍法改正で公文書から完全に消滅した。

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参考文献
園田英弘・広田照幸・浜名篤『士族の歴史社会学的研究─武士の近代』(名古屋大学出版会、1995年) ISBN 4815802505
落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4642037365
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関連項目
華族
卒族
平民


【秩禄処分】 ちつろくしょぶん

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明治政府によって行われた秩禄の整理処分を称するが,この処分を禄制改革・禄制整理・禄制廃止の三段階に分けてみると次のようになる。

【禄制改革】
最初の禄制改革は,旧幕臣で朝廷に帰順したものについて,1868年(明治元)9月に東京府在住者に対しては1万石以下5,000石までの1,000俵を最高とし,40石以下はそのままとした。

そして1869年(明治2)6月各藩の版籍奉還に伴い,政府は各藩主を改めてその藩の知藩事に任命し,家禄を現石の10分の1に限定するとともに,藩士の家禄もこれに準じて適宜改革すべきことを命じた。

また翌年9月には藩制を制定し,改めて藩高の10分の1を知藩事の家禄と定めるとともに,その残額の10分の1を陸海軍資に当て,残額をもって藩の政費および士卒の家禄に当てるべきものとした。

これらの布達に基づき各藩はそれぞれの禄制改革を行い,その結果各藩藩士はいずれも家禄の大削減を受けた。一方,徳川幕府の家臣にして明治政府に帰順したものには,1869年(明治2)12月に,公卿をはじめ皇室直属の家臣には翌年12月に,それぞれ禄制の改革が行われた。

【禄制整理】
1871年(明治4)7月廃藩置県の結果,これまで各藩で支給していた士卒の俸禄はすべて明治政府の負担となり,通常歳出の3割6分強も占め,大きな財政負担になった。

そこで政府は秩禄制度の整理を行うこととし,まず1872年(明治5)2月,各藩で士卒の長男と二男・三男・隠居らに給禄または終身扶持を与えていたのを禁止,ついで同年4月12日に俸禄のほかに,救助あるいは手当など種々の名目で禄や扶持を与えていたものを年限の有無にかかわらず全廃し,さらに同月23日には,版籍奉還以後に召し抱えた士卒の給禄と増禄した分を廃止した。

そして1873年(明治6)12月には,100石未満のものに限り,家禄・賞典禄の奉還を許し,永世禄として6カ年分,終身禄として4カ年分を下付した。その場合に半額を現金で,残り半額を年8分利付の秩禄公債を交付した。翌年11月にはこれを100石以上の者にも適用し,50石分は現金で,残りは秩禄公債を交付した。これと同時に奉還を希望しない者に対して高率の家禄税を課し,整理の推進をはかった。この奉還制度は,1875年(明治8)7月に中止されたが,この間に全士族の約3分の1(13万5,800余人),全家禄の約4分の1(約600万両)が整理された。なお同年9月には秩禄の支給方法も改革され,同年度以降,秩禄の支給は現米を廃止,前3カ年平均の各地方貢納石代相場を基準として金禄が改定されて支給されることになった。

【禄制廃止】
以上の二段階を経て,政府はついに禄制を全廃することにしたが,これは1873年1月の金禄公債証書・1872年2月の地券交付・1873年7月の地租改正により,給禄存続の意義がなくなったことによる。

そして1875年(明治8)11月,政府は金禄支給を定めて金禄公債証書を発行することにし,翌年8月には太政官布告第108号,金禄公債証書発行条例を公布した。すなわち家禄・賞典禄は永世・一代あるいは年限などをもって給与していたのを改め,1877年から金禄公債で一時に支払うことにしたわけである。

その内容は,
[1]永世禄-金禄元高1,000円以上はこれを11級に分けて,元高の7カ年半分ないし5カ年分に相当する額の5分利付公債証書を交付し,元高1,000円未満100円以上は13級とし,元高の7カ年7分5厘ないし,11カ年分に相当する額の6分利付公債証書を交付し,元高100円未満はこれを6級に分けて,元高の11カ年分ないし,14カ年分に相当する額の7分利付公債証書を交付する。
[2]終身禄-永世禄の半額,
[3]年限禄-年限の長短に従って6級に分け,永世禄の10分の1.5ないし10分の4を支給する。この公債は1877年から5年間すえ置き,6年目より抽籤で償還し,30年間で全部終わることとした。このようにして1877年(明治10)を期して秩禄制度はようやく廃止された。金禄公債を支給された者は,31万3,500余人で,発行額面高は1億7,390万2,000余円と現金73万5,000余円であった。

秩禄処分

秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。

目次 [非表示]
1 明治初期の財政
2 留守政府の禄制改革議論
3 大久保政権の禄制改革
4 士族反乱と士族授産
5 参考文献
6 関連項目



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明治初期の財政
江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解消され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。

江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石、20万3376両の出費となり、華士族に対する家禄支給は歳出の30パーセント以上を占めていた。

明治政府の中央集権化など改革を行うに際しての財源確保のため、禄制改革が課題の1つとなっていた。また、四民平等においては武士階級の身分的特権は廃止の必要があり、軍事的にも伝統的特権意識は軍制改革において弊害となっていた。

政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一が行われ、旧武士階級は士族と改められた。1869年には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄することとなる。1870年には公家に対する禄制改革が実施される

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留守政府の禄制改革議論
1871年4月には廃藩置県が実行されて幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握する。10月には幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)などを目的とした岩倉使節団が派遣され、留守政府において禄制改革は行われた。大蔵卿大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、地租改正と平行して井上は急進的な改革を提言する。井上の改革案は大蔵少輔吉田清成を派遣して使節団に参加している大久保や工部省大輔の伊藤博文に報告を行うが、急進的な改革案に対し岩倉具視や木戸孝允らは難色を示し、審議は打ち切られる。一方で、留守政府においては1871年には禄高人別帳が作成されるなど、多元的であった家禄の支給体系の一律化が進む。

禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては反対意見も存在し、農民一揆なども勃発していた。また、留守政府では旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝鮮出兵を巡る征韓論で紛糾しており、薩摩士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を行うべきであるとする意見も存在していた。73年1月には徴兵制の施行により家禄支給の根拠が消失する。

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大久保政権の禄制改革
同年には使節団が帰国し、征韓論を巡る明治六年の政変で西郷、司法卿江藤新平らが下野し、大久保利通政権が確立する。政変が収束し、11月には禄制改革の協議が再開され、最終処分までの過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信の提案で家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤は慎重論を唱え、木戸らは反対するが、方針として決定され、12月には再討議を行い太政官布告される。

家禄税は、家禄のランクに応じて課税し、軍事資金として利用する事で士族の理解を得ようとした。家禄奉還制は、任意で家禄を返上したものに対して事業や帰農など就業のための資金を与えるもので、士族を実業に就かせて経済効率を図ろうとした。これらの政策は一般には受け入れられるが、禄税の使途や地域格差があるなかの一律施行に対する不満や、就業の失敗による混乱を危惧する意見も出る。

地租改正で農民の納税が金納化され、それに伴い家禄支給を石代として金禄で支給する府県も出現し、また米価の変動による混乱や不満も生じていた。政府は1875年9月に金禄化の切り替えを実施し、明治政府は1873年に家禄を整理するため秩禄奉還の制が定められ、秩禄を奉還するものに対して金禄公債を発行して禄高に対して公債を付与する政策を行い、第15国立銀行の資本金とした。秩禄は段階的に廃止され、76年には金禄公債証書発行条例で全面的廃止となった。

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士族反乱と士族授産
地租改正による農民一揆と並び、神風連の乱や西南戦争(1877年)など明治初期の士族反乱は、秩禄処分により収入が激減した士族階級の不平が原因であった考えられているが、一方で士族反乱に参加した士族の大半は金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩禄処分が挙げられているケースが少ない事も指摘されている。士族の救済政策として士族授産が行われ、屯田兵制度による北海道開発も実施された。

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参考文献
落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』(中公新書、1999年) ISBN 4121015118
落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4642037365