【大六天】
【大六天】
第六天神社
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第六天神社(だいろくてんじんしゃ)という名前の神社は日本各地に存在する。
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更した。
第六天神社 (狭山市)(埼玉県狭山市)
第六天神社 (飯能市)(埼玉県飯能市)
第六天榊神社(東京都台東区)
第六天神社 (杉並区)(東京都杉並区)
大六天社 (世田谷区) (東京都世田谷区)
第六天神社 (茅ヶ崎市)(神奈川県茅ヶ崎市)
第六天神社 (横浜市)(神奈川県横浜市泉区和泉町)
武蔵第六天神社(埼玉県さいたま市岩槻区)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE" より作成
http://risshi.life.coocan.jp/akisimadairokuten00.html
大六天
享保二年(一七一七)の史料にもでてくる古い祠(ほこら)。一般には第六天と書き古代インド神話上の魔王、わが国では仏教守護神とされのちに民間信仰の対象となった。祟(たた)る神として有名で、この大六天にもいろいろな伝承がある。
昭島市教育委員会
資料〉(昭島市の社寺と石造遺物 昭島市教育委員会事務局社会教育課編集発行より)
[鎮座地]郷地町二丁目三五番一号
[祭神]第六天
[例祭日]三月八日。
[由緒・沿革]創建は明らかでないが、享保二年(一七一七)の宝積寺明細書上(ほうしゃくじめいさいかきあげ)(『郷地部落の研究』所収)に「大六天林」の名がみえるので、それ以前から鎮座していたと思われる。また、この境内域は昭和初期まで塚のような高地になっていて、その一帯を「高地」と呼んでいた。これが「郷地」に通じることから、郷地村発祥の地をこの付近とする伝承がある。このことから推測すれば、当社の草創は中世までに遡る可能性もある。
なお、一般に「大六天」は「第六天」と書く。第六天とは仏の成道せんとする時に現われ、これを妨害し、かえって仏に調伏され仏徒となった魔王である。
[社殿その他]現在、境内はイチョウの木が生い繁り、朱塗の鳥居一基と小祠が建っている。
http://blog.goo.ne.jp/trx_45/e/15ef56c4f7ef30ecc0bb2ee4d34e18d0
一般的には「大」ではなく「第」があてられるが、修験道で山伏、とくに聖護院を中心とする本山派の人々の信仰したものといわれる。三界のうちの欲界の最高所第六天に住む天魔といわれ、身の丈二里、人間の千六百歳を一日として一万六千歳の寿命をたもち、男女に自由に交わり受胎させる魔力があるという。そして「他化自在天」とよばれるように、他人の楽しみを自由に自分の楽しみにしてしまう法力をもつという。想像もつかないような力を持つようで、そうした力にあやかろうという意味で信仰されているのだろう。
あちこちでこうした信仰の対象物をみてきたが、第六天の碑は、ここでしかわたしは見ていない。関東甲信越を中心に祭祀対象とされた石神が分布しているようで、下諏訪町周辺にもいくつか見られるようだ。岡谷市小井川の第六天は、安政5年に村にコレラが流行ったとき、これを防ぐ意味で第六天を建てて信心したことで、人の種が尽きずにすんだという。
http://www.geocities.jp/pycbb333/index_009.htm
他にもあった第六天
全国編 --それはどこから来て
どこへ消えたか--- 以前に祐泉寺境内の第六尊天について調査してみましたが、少ない資料からは、なぜ第六天がここにあるのかわかりませんでした。ただ、前より織田信長が第六天の魔王というものを信仰?していたことと祐泉寺を創建した北条新三郎氏信(早雲の孫)が同時代を生きていたことが関係しているのではないかと思っていました。
第六天のお祭りが終了してから、再度その納得できる由来を知りたく、ホ-ムページを検索していたところ、横浜在住の方が、全国の第六天を調査して2冊の私製本を出している事がわかり、さっそく取り寄せました。膨大な資料をもとにA4判で100ペ-ジに及ぶ第六天の調査書で、その中には豆州志稿より君沢郡(三島付近)の第六天に関する資料もあり、驚嘆したしだいです。本人の許可を得て、その一部を抜粋して紹介してみたいと思います。
第六天について私が一番知りたいことをこの本の著者である藤森氏は次ぎのような推理を膨大な資料を用いて発表しています。特にその根拠となるポイントを【 】の中に示す。
①起源
平安時代から室町前期にかけて※第六天は仏教、特に密教の神として認識されていた。その場合は『魔王』としての存在であった。密教から修験道に受け継げられた。
※第六天は別名他化自在天と呼ばれ、仏教を守護する神
【平家物語、太平記、沙石集】
②なぜ広まったか
戦国時代、『第六天魔王』と自称し、既成仏教の権威を破壊した織田信長など時代の価値観が変化し、又、戦国の騒乱の中民衆の信仰が広まる機運があった。
【日本の耶蘇会年俸--イエズス会宣教師の手紙】
元亀3年の武田信玄西上に際し信玄からの書状で『天台座主沙門』と信玄が署名したのに対し、信長は『第六天魔王信長』と署名した返書の記録が耶蘇会にある
※第六天魔王信長-上下の文庫本の紹介
羽山信樹著 角川書店/角川文庫
③相模・武蔵・伊豆に多い理由
武田家が織田に敗れ、民衆は占領軍への迎合から『第六天魔王』の象徴を建てて、自らの護符にした。一方、武田家の旧家臣や交流者を通じて、隣国の北条氏へと広まっていった。特に秀吉の小田原征伐以降、北条家や武田家の家臣団は権力側の目に触れにくい場所で百姓として定着を図っていった。これらのかなりの部分が第六天を担ぎ、周囲の農民たちの民族信仰を広げ、一部は常陸、東北まで逃げた。
【諏訪路における第六天魔王の石碑、各社の勧請年代、勧請者】
④いつどうして祭神が入れ替わったか
徳川幕府の安定に伴い、語感から七福神などの同類と見た民衆は『魔王』としての存在よりもっと身近な神を探し出す。神道の記紀神話の中で天地を創った神々の中から、六番目の神すなわち第六天神として面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)のカップルの神として魔王から国土生成、五穀豊饒、夫婦和合等へと性格を変えていった。江戸後期の国学者の平田篤胤らは復古神道よりそのニ柱の神を 『皇産霊大神(すめむすびのおおかみ)』と称し、民衆に大きな影響を与えた。
【古事記、日本書紀、戸塚区上矢部の社の大禄天の石碑】
⑤なぜ消えていったか
ア、第六天が仏教の神か記紀神話の神か不明である性格上、明治政府の『神仏判然 令』にふれるものと解され、大部分の社が名前を変え、さらには祭神を変えて生き 残りをはかった。
【大仏次郎『天皇の世紀』、各地の神社関係調査記録】
イ、第六天を含む民間信仰の神々は事実上、修験によって維持されており、修験道の 禁止によって、大部分はその基礎を失った。
【安丸良夫『神々の明治維新』】
ウ、明治後期の政府の『一村一社令』によって残った第六天社も大部分が小祠であっ たため合祀させられた。
【南方熊楠『南方ニ書』、各地の寺社関係調査記録】
エ、戦後の進駐軍の政教分離政策より合祀させられた神社の経済が困窮した。一方、 経済開発などにより、従来、第六天社が存在していた辺地や路傍も急速に蚕食されるようになった。さらには、氏子や『講』が減少し、さらに消滅した。『消えた第六天』、
『残っていた第六天』
著者 藤森勝祐
http://www.tamariver.net/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/071122.htm
1.2 地域にみる信仰の相違
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1.2.2 3地域の相違
多摩川流域に祀られている神社を『新編武蔵風土記稿』から抽出してみると,表7.1.2のとおりになる.つまり稲荷神社が最も多く,次いで神明社(伊勢社・大神宮を含む)・八幡社・熊野権現・山王権現・第六天・山神社の順になっており,前述した三多摩地方とほぼ同じような傾向を示している.けれども流域を上流・中流・下流の3地域に分けて比較してみるとき,興味深い相違点に気付く.まず神社数の多い順に列挙すると,上流地域では熊野・稲荷・山神・神明・八幡・愛宕・山王・天神の順となっており,中流地域では稲荷・山王・八幡・神明・熊野・山神・第六天・諏訪の順,下流地域では稲荷・神明・八幡・第六天・熊野・諏訪・天神・弁天の順となっている.このうち数の多い上位5社についてみると,3地域ともに共通する神社としては稲荷・熊野・神明・八幡の4社がある.これらの4つの信仰は,流域全体において厚い信仰を集めてきた神々と位置づけることができよう.けれどもこれら4つの信仰についても,分布のあり方が相違する.例えば,稲荷信仰の場合は中・下流つまり流域を下るに従って次第に多くなり,八幡神社もほぼ同じような傾向を示す.これとは対照的に熊野神社は流域を遡るに従って増加しており,神明社は上流・中流地域では大きな変化がないのに対し,下流地域において急激に増加する.このように稲荷神社と八幡神社,神明神社は,流域全体で厚く信仰されてはいるというものの,それぞれ異なった分布状況を示しているのである.
しかしながら,上・中・下の3流域を最も特徴づけているのは,前述した共通部分以外の神社といえるのではなかろうか.こうした視点で上位5社をみると,上流地域では山神社,中流地域では山王社,下流地域では第六天社ということになろう.このうち,上流地域に山神社が多いことは,上流地域が山間部,中流地域が丘陵部,下流地域が平野部という立地条件の相違,およびそれに伴う生業差などによるものであると考えられるが,中流地域に山王神社が卓越していること,下流地域に第六天社が卓越していることなどは,なお今後に残された問題である.
また3地域の神社の所有関係においても,上流地域と下流地域とでは対照的なあり方を示している.所有関係については,『新編武蔵風土記縞』では百姓持ち・村民持ち・村持ち・神主持ち・別当・不明に分けることができ,このうち別当を「持ち」のなかに含めてみると,その所有関係は表7.1.2のごとくになる.全般的な傾向としては,百姓・村民・村持ちと寺院持ちが多く,神主・修験持ちは少ないということができるが,流域別にみると,上流地域では百姓・村民などの個人持ちと村持ちが多く,神主・寺院・修験などの宗教者の所有が多いとはいえないのに対して,下流地域では寺院持ちが圧倒的に多くなり,中流地区はほぼ上流・下流の中間的な様相をみせている.こうした傾向からして,下流地域における寺院は,地域社会の民間信仰のなかの重要な部分を掌握するとともに,中核に位置していたとみなすことができる.近世期,徳川幕府は寺院の本末関係,寺請制を行うことによって,寺院をして支配機構の一翼を担わせていたが,下流地域では寺院が神仏両者を掌握しているごとく幕府の意図がかなり貫徹されていたのに対し,上流地域では寺院がそれほど大きな力を堅持しえなかったとみることもできる.
ともあれ,これまで多摩川流域を上・中・下流と3地域に分け,『新編武蔵風土記稿』記載の神社の分布状況と所有関係とを検討してきたが,全体的にみて上流地域と下流地域とは対照的なあり方を示し,中流地域は両者の中間的な様相を示すことが明らかになった.そこで次に,上流地域を特徴づけている山の神信仰と,下流地域を特徴づけている第六天信仰などについて概観する.
山の神信仰 上流地域では,前述した山の神信仰が支配的であることに加え,熊野信仰が少なくはないことなども特徴の1つとして挙げることができる.しかし上流地域の民間信仰を最も特徴づけている信仰は山の神信仰であることからして,その一例として,まず山梨県北都留郡小菅村長作の事例を紹介する(参9).
小管村長作では,林業・製炭などの山仕事,麦・コンニャク・ワサビ・養蚕などの畑作が主生業となっており,かつては狩獵や畑作のなかでも焼畑が盛んに行われていた.こうしたことから山の神に対する信仰も盛んである.この地域の山の神は大山祗命とされ,山仕事をする人,山に入る人を守る神であると考えられている.またその容姿は老人で白い髯をばやし,長い衣裳を着て杖をついており,威勢がよく恐い顔で荒っぽい性格の持主であるともみられている.山の神は臨時に祀られるものと,常時祀られているものとがあり,後者のものでは山の神の木というものが2個所,自然石が1個所,祠が2個所ある.このうちの1個所の祠は3軒の家が共同で祀っている.
山の神の祭礼は,山仕事に従事している人とそうでない人とでは異なり,山仕事に従事している人は毎月17日に山の神の祭りをするが,それ以外の家では1月17日と10月あるいは12月17日の春・秋2回の祭りに限られる.山の神の祭日には山の神が矢射りをするためその矢に当たってはいけないというので仕事を休む.祀り方はミキスズといって竹筒に御神酒を入れて供えるが,以前はミキスズの他に,オカラク(蕎麦粉で作った団子をホウキを燃した火で焼いたもの)を供えた.オカラクはツトッコの笹の葉に3つずつ2包持っていき,ちぎって供え,残りを持ち帰ったという.またその際生木を供えると山の神が自分の木であると思い不思議なことが起こるので,切り株や枝を切って地面に刺して供えたという.また子供達が鶴峠という場所に祀られている山の神の祠の前に集まって火を焚き,蕎麦で作った餅を焼いて食べたこともあった.
林業に従事している人は,毎月の山の祭りの他,伐採に入る前や1月2日の山入り・炭焼きの竈[かまど]をつくるときなどにもミキスズを供えて山の神を祀る.また狩獵の場合,大きな獲物を補ったときなどに「山の神をやろう」といって御神酒をあげ,参加者が回し飲みして,獲物の心臓を参加者の数に等分して山の神に供えるという.
小菅村と接する丹波山村の場合も(参10),生業のあり方や山の神信仰など小管村とほぼ同様であり,林業に携わる人々は,毎月17日の山の神の祭りに仲間うちで集まって酒をくみかわし,互いの無事を祈るとともに,山のあちこちに祀られている山の神にオミキを持っていく.また,かつて盛んであった狩獵は,仲間を組み鹿や猪・熊などを捕るオオモノウチと,ほとんど一人で出掛け鳥類などを捕るコモノウチと分けることができる.このうちオオモノウチに際して獲物が捕れたときには山の神にささげてから持ち帰えり,オヒマチをするといわれるが,山の神にささげるという内容は獲物のレンゲ(心臓)を3つに切って供えることであった.さらに狩獵を行う人々は,毎月の17日,正月3日,10月1日の初狩などのときにタロザケ(竹を2つに切って酒を入れたもの)と,五穀を供えて祝う他,飛竜権現の祭りの日(11月29日)にも獵に出ない,身内に不幸があったクロビの7日間は獵に出ないとする禁忌もあり,「獵師の妻が妊娠すると,獲物が獲れる時はすごくとれるが,獲れない時はさっばり獲れない」という伝承も伝えられている.
以上,小菅村・丹波山村2地区の山の神信仰を紹介したが,上流地区の山の神祭祀は,狩獵・林業など山仕事に従事している人々が行う祭祀と村・講・各家ごとに行う祭祀とに分けることができ,前者の場合は月ごととか仕事の区切りごとなどのように祀る回数も多く,タブーも厳守されている.後者,つまり村・講・各家で山の神を祀ることも少なくはない.例えば青梅市日影和田のように(参11),1月17日に「山の神のお日待ち」と称し,部落の人々が集まって山の神にオミキをあげ,ケンチンジルを食べて祝うところもあり,同市古武士には鎮守として山の神社が祀られているところもある.古武士では春祭3月15日,秋祭9月29日の年2回の祭りがあり,祭りには各15戸位から成る3つの組(ニワバという)が毎年交代で当番をつとめ,海・山の幸を供物として供えるという.
いずれにしても,上流地区は山間部であり,林業などの山仕事が中心に置かれてきたことから,山の神信仰が盛んであり,山仕事に従事する人々が信仰する山の神の性格は,農業でみられるような田の神・山の神の交替をとく信仰がほとんどみられないこと,山仕事の安全を守る神であること,動物などの獲物を与えてくれる神であること,こうした恩恵を与えてくれる反面恐ろしい性格も有していること等々の性格を示している.また山の神については男女の性別を問題にすることも多く,女性,男性,夫婦神などといい,全国的視野からみると小菅村長作のように男神とするものは少なく,むしろ女神と考えていることが多い.多摩川流域でも,男神とする以外にも,女神と考えて櫛を奉納するところや,山の神は女性であらたかな神とするところなどもあるほか,性別を問題にしないところもみられる.
第六天信仰・杉山明神 下流地域においては前述のとおり寺院持ちの神社が多いこと,稲荷・神明・第六天などの神社数が他の上流・中流の地域に比較して急増していることなどに加え,弁天社の数が多くなっていることも特色の一つに加えることができる.また前掲の表7.1.2には示していないが,『新編武蔵風土記稿』によると,杉山社・杉山明神社が川崎・横浜市域に特徴ある分布を示している.戸倉英太郎(参12)も『新編武蔵風土記稿』より杉山神社を抽出し,旧都筑郡24社・橘樹郡37社・久良岐郡5社・南多摩郡6社を数え,現在の地域にあててみると横浜市域50社,川崎市16社,東京都6社になるという.この杉山社は『続日本後紀』838年(承和5)の条や848年(承和15)の条にみえる古社ではあるが,今日祀られている杉山社のなかで,どの神社が『続日本後紀』記載の神社に相当するものか明らかではない.その信仰が自然崇拝に端を発し,忌部氏の祖神を祀るようになったと考えられているものの,今後に残された問題の多い神社である.
さて第六天信仰は表7.1.2にみるごとく多摩川流域全体に分布しているが,下流地域において著しく急増しており,下流地域の民間信仰を特色づけている信仰の1つといえよう.第六天は,第六天の魔王・他化自在天[たけじざいてん]ともいわれ,『仏教語大辞典』(参13)によれば,「常に多くの眷属を卒いて人間界において仏教にさまたげをなす」といい,神仏習合の結果第六天神として祀られ,その祭神は面足尊・惶根尊に当てられている.
民間における第六天信仰については必ずしも明らかではないが,木村博(参14)によると『新編相模風土記稿』からは約140余社,『新編武蔵風土記稿』からは320余社の第六天社を抽出することができるものの,明治初年の神仏分離によって急速に衰退したとされる.また民間における第六天信仰は,伊豆・駿河においては子供の守護神として信仰されており,甲斐においては「魔王さん」と呼ばれ,天神信仰と習合し子供の安全を祈ることが行われている他,疫病神を除く神として信仰されている地域もあるという.けれども,語呂合わせ的発想から第六天王・第六天神信仰から天王信仰,天神信仰へと展開したこと,魔王である第六天が守護神に転化し疫神除けの神として信仰されたこと,今日ほとんど第六天像が見当たらないが,その形態からして三宝荒神などの名で伝承されているのではないかとも推測されている.
多摩流域における第六天社の分布は,ほぼ神明社の分布傾向とほぼ同一である.この点萩原龍夫(参15)が伊勢神道において早くから第六天魔王説がとなえられ,神明社の分布,建立時期と第六天社の分布・建立時期はほぼ一致し,明治初年,旧東京府に限って高木神社・榊神社と改称したと指摘しているように,伊勢信仰の流布と関係があったと思われるが,多摩流域の第六天の信仰内容がいかなるものであったかは,今後の問題として残る.
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1.2 地域にみる信仰の相違 .
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第六天神社ホームページ
場所
神 様
淤母陀琉命(おもだるのみこと)淤母陀琉命(おもだるのみこと)妹阿夜訶志古泥命(いもあやかしこねのみこと)神仏混淆時代の欲介天の第六、最高所に宮殿を構える天魔、他外自在天に由来し、神仏分離の布告により、ご神徳に因み、国生み神話の天神七代の神々の内、第六代の二柱の大神様です。
いわれ 創立年代・創立者等不詳。文献では、江戸幕府編纂の新編相模風土記(天保12年)に初見されますが、 郷土草創期の江戸時代初期ではないかと伝えられております。
ご案内 身の丈は2里、寿命は人間の1600歳を一年として、16000歳の長寿であられ、それに因み、身 体壮健、病気平癒、東海道を上下する覇旅の人々の道中安全の守護神として、又、世の楽しみを自在に 自己の楽しみに替える法力に因み満願成就への導きの神として崇拝されております。尚、織田信長の第 六天への信奉は特に篤く、立身出世いたしましたが、豊臣秀吉は、その強大な神威を怖れて廃社を命じ たため、西日本では皆無に等しく、東日本でも極めて少なく、その強大な法力を戴きたいと参拝する方 々が増えておりますが、その確かな出典が社務所において確認出来ておりません、何方か教えていただ けませんか。
http://members.jcom.home.ne.jp/nobish/887takaido.html
第六天神社
東京都杉並区高井戸西1-7
中央高速道路と環八(環状八号線)が交差するところから、高速に沿って西へ、烏山寺町へと続く「歴史と文化の散歩道」の案内が設置されている。高速ができる前には玉川上水が流れていたところだ。
散歩道の途中の神社で「第六天」の名前を見つけて立ち止まった。このサイトを初めて間もない頃に世田谷の「第六天塚古墳」で初めてその名を知って以来、第六天はいまだにその正体のわからない謎の存在だったのだ。
ある所では、仏教の魔王の名前を第六天といい、信長がその力を信奉したことから第六天社は秀吉によって歴史から抹殺されたという説を聞かされたが、真偽のほどはいかがなものか。
ここを管理している下高井戸八幡神社のHPの説明によれば、当初は男女の別の無かった神がやがて男女に分かれ、だんだんに形が整っていった結果、六代目にしてはじめて愛の歓びを知ったということになっているらしい。それが第六天神と呼ばれる面足尊(おもたるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)だ。そして国産みを行う七代目の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)までを神代七代(かみよななよ)というそうだ。
初めて第六天を解説したものに出会えたが、境内の狛犬は「だからどうしたの」とでも言いたげな愛想のない顔をしていた。