【川越藩の江戸湾警備】
【川越藩の江戸湾警備】
江戸湾の警備
幕末における外国船のわが国近海への出没は、海からへだたった埼玉の地域にも影響をあたえることになった。文化五年(1808)、長崎で〝フェートン号事件〟が勃発し、長崎奉行が自刃するなどのことがあったが、沿岸警備の重要性を考えた幕府は、文化七年(1810)には白河藩主松平定信に房総沿岸、会津藩主松平容衆に相模沿岸の警備を命じた。会津藩は文政三年(1820)に警備を免除され浦賀奉行がかわって警備にあたることになったが、このとき川越藩に非常のさいの警備を命ぜられた。埼玉県内の藩がはじめて沿岸警備に関係することになったわけである。このとき幕府は相模国三浦郡に一万五〇〇〇石の地をあたえ、これとひきかえに川越藩領のうち一万五〇〇〇石を上知させた。川越藩では新領内の浦郷村に陣屋をおいて120人の藩兵を派遣したが、文政五年(1822)英船サラセン号が薪水を求めて浦賀にきたときには、国元からさらに348名の藩兵を警衛のため派遣した。このとき宿所とした民家への手当や夫人馬・水夫などの雇上げ費のみで約400両の支出があったという。沿岸警備が藩財政にいかに大きな負担となったかがわかる。
房総警備を受けもっていた白河藩は、文政六年桑名へ転封となり、同時に房総警備を免除された。以後房総の警備は幕府代官が受けもつことになったが、外国船の跳梁をおそれた幕府は文政八年(1825)、ついに〝異国船無二念打払令〟を公布した。このため川越藩ではいっそう警備を厳重にしたが、天保八年(1837)米船モリソン号が漂民を送って浦賀に入港したときは、ただちに砲撃を開始し、これを退去させるという事件もあった。このときモリソン号は非武装であったからすぐに退去したが、幕府は翌年六月オランダ商館長からの報告により、はじめて同船来航の目的を知るありさまであった。
こうした事情もあったうえ、その後清国がアヘン戦争によって窮地におちいった実情を知った幕府は、外国船撃攘の危険をさとり、天保十三年(1842)にいたり、打払いんの方針を改め、異国船に薪水を給与することとした。しかし江戸湾の警備は従来よりいっそう強化し、川越藩には浦郷から三崎にいたる三浦半島東南岸一帯の警備を命じ、また新たに忍藩にも房総半島の富津から北条にいたる西岸一帯の警備を命じた。こうして県内の二藩が奇しくも江戸湾の入口を扼して警備にあたることになったわけである。
弘化三年(1846)閏五月、アメリカの軍艦コロンブス・ヴィンセンスの二艦が江戸湾頭に姿を現わした。川越藩・浦賀奉行・忍藩ではそれぞれ小舟をくりだし、両船に漕ぎよせたが、そのうち川越藩の内池武者右衛門が先駆してヴィンセンス号に乗り移り、つづいて忍藩の後藤五八も乗船して交渉にあたり(「先登録」)、翌日浦賀奉行が通辞を派遣して両艦を退去させるという事件もあった。
江戸湾の警備は両藩にとってきわめて大きな経済的負担となった。川越藩では当時二万石の加増をえていたが、新しく警備を受けもった忍藩では竹ガ岡に陣屋を構えるとともに大房崎に砲台をきずいて、約600人の藩兵を派遣して警備をかためた。しかし、このために藩の財政がいちじるしく圧迫されたため、家中に対し面扶持(家族員数に応じて米を給与する方法)を実施するとともに、領内村々に対して高100石につき三両の臨時課税をおこなった。このあと忍藩では幕府に対し、『相州路大和守様(川越藩)御持場は、内海五~六里で、浦賀奉行と共同して警備しているのに、下総守(忍藩)持場は、内海のみで十八里、外房も入れると実に二十八里の場所となり、小高の忍藩の人数ではとても厳重な警固は行き届き難い』と訴えている。このため弘化四年(1847)警備区域は房総半島の先端洲ノ崎から大房崎までに縮小され、富津から竹ガ岡までは会津藩の分担とされた。藩では北条の陣屋に兵船50隻を常備して異国船来航にそなえた。
なお、川越・忍両藩のほか、岩槻藩でも外房勝浦の付近に飛地を所有しており、郡奉行以下を派遣していたが、同時に外房沿岸の警備をもおこなっていた。岩槻藩の児玉南柯が郡奉行に在任中の安永九年(1780)、清国船が同地に漂着したが、このとき南柯が現地に急行し筆談をもって事件を処理したことは、その著「漂客記事」にくわしい。
嘉永六年(1853)幕府はペリーの要求に屈して日米和親条約をむすんだ。これによって幕府は在来の警備体制を根本的に改め、品川沖に台場をきずいて江戸城の防備を厳重にすることになったが、川越藩・忍藩はともに在来の警備区域を免除され、改めて忍藩は第三台場、川越藩は第一台場を受けもつことになった。