【平一揆】
【平一揆】
南北朝期の武蔵武士
~武士団の再編成~
南北朝時代になり、さまざまな形で歴史上にあらわれる「一揆」とはどの様な手段であろうか。
この時代になると、一族をまとめる惣領家に対し庶子家が独立する傾向を示すようになり、惣領制が崩れつつあった。この様な一族内部の対立が、さらに南北朝の対立に拍車をかけたのである。
武蔵では、平安時代末から武蔵七党と称される同族意識を持つ中小武士団がそれぞれ対等な関係のなかで構成されていた。しかし、惣領制の崩壊のなかでこうした同族的武士団の結束力も次第に弱まる結果となり、武士団としての機能を喪失するようになっていった。
「一揆」とはこの様な情勢のなかで血縁関係を主体とした党的武士団とは異なる、地縁的要素も含んだ武士団として全国各地に構成されていった。武蔵国では、武蔵野合戦の頃から、八文字一揆・平一揆・白旗一揆などが歴史上にあらわれ、おくれて武州中一揆・武州北白旗一揆・武州南一揆など続々と成立した。
そのなかで平一揆は、その名称が端的に示すように平姓秩父氏の流れをくむ武士たちが「小手ノ袋・四幅袴・笠符二至ルマデ一色二皆赤カリケル」と合戦のときは全て赤を用いていたと記されており(『資料編古代・中世』中世中期・文学作品編一三)、その中核は河越直重で、高坂・江戸・古(尾)屋・土肥・土屋ら武蔵・相模の武士が加わった(『資料編古代・中世』中世中期・文学作品編二〇)ほか、咽田時幹のように常陸国の武士も加わっている(『資料編古代・中世』中世中期・古文書編二五)など、血縁・養子縁組・婚姻関係で結びついた族縁的集団の要素の強い一揆であるという特徴を見出すことができる。
また白旗一揆は、「白葦毛・白瓦毛・鴨毛ナル馬二乗テ、練貫ノ笠符二白旗差シタル」白色・白旗で統一していたことが記され、児玉・猪俣・村山など武蔵七党の武士らによって構成されていた(『資料編古代・中世』中世中期・文学作品編一三・二〇)というように、平一揆と同様に族縁的な側面を持っている。しかしこの白旗一揆についての詳細は後述するが、のちに武州白旗一揆・武州北白旗一揆・武州南一揆をも呼ばれるようになり(『資料編古代・中世』中世中期・古文書編三八・四一・五三・六二)、時代とともに地縁的なつながりにより細分化されたものと思われる。
南北朝時代の関東ではこの様な武蔵七党の武士や「一揆」といった中小武士団を従えることによりその支配の基礎を確立させてゆくのであるが、その彼らを直接統率・支配するという重要な役割を担ったのが武蔵守護であった。
平一揆の乱
鎌倉府の基礎を築いた基氏は、貞治六年(正平二二・一三六七)四月病のため二八才の若さで没し、
子息の金王丸(氏満)が跡を継いだ。京でも同年一二月将軍義詮が没し義満が将軍となり、鎌倉府で
は、義満の家督継承慶賀のため幼少の氏満の代理として、上杉憲顕が翌応安元年(正平二三・一三六八)正月上洛した。ところが、鎌倉では憲顕の留守中の二月、河越氏ら平一揆が下野の豪族宇都宮氏綱らと連携して鎌倉府に対して反乱をおこした。そして彼らは一揆の中心的存在と思われる河越氏の館に楯籠った(『資料編古代・中世』中世中期・記録編七・八)。在京中の憲顕は急遽鎌倉へ戻り、氏満を擁して平一揆の討伐に向かい、閏六月河越館を陥落させた。その後氏満は、平一揆と連携していた宇都宮氏の討伐へも向かい、宇都宮氏綱を降参させて鎌倉に帰還したのは九月になっていた(『資料編古代・中世』中世中期・記録編七・八)。
平一揆はなぜ鎌倉府に対し反乱を起こしたのであろうか。その理由について、はっきりとしたことは解っていないが、鎌倉時代を通じて武蔵を代表する武士団として活躍した河越氏や下野の宇都宮氏ら豪族は、南北朝の動乱期に至り鎌倉府支配確立に大きな貢献をした東国武士の代表的な存在である。それにも関わらず、観応擾乱の際に尊氏に抵抗した上杉憲顕の政務復帰、関東管領就任にからんで、その守護職を解任されるなど冷遇されたことに対する不満が爆発したものと考えられる。
平一揆の乱鎮定後、鎌倉府ではその反乱に加わった武士に対して処分を行った。一揆の中核を成していたと思われる、河越氏に関しては具体的に明らかにする史料は残っていないが、河越氏の本領である河越荘は後年上杉氏の所領となっており、また河越氏と同族で畠山国清の乱後伊豆守護となっていた高坂氏に至っては、その本領地(入西郡高坂郷)は没収され、京の鹿王院に寄進されてることなどから、非常に厳しい処分が行われたため、没落していったと思われる。それに対しその他の平一揆に味方した武士に対しては、観応二年(一三五一)に薩唾山の戦いによる功績で拝領した恩賞地が全て没収されただけで本領は安堵され、薩唾山の戦いでの新恩地がない武士に対しては、本領の三分の一が収公されるといった内容であった(『資料編古代・中世』中世中期・記録編七・九)。
この結果平一揆の乱によって武蔵国では、上杉氏に対抗できるような河越氏などの豪族が没落し、次第に関東管領で武蔵守護を兼任するようになった上杉氏の支配が浸透した。そのため武蔵国の中小在地領主は、次第に上杉氏によって掌握・被官化されていくことになるのである。
(武蔵村山市史上p557~560)
http://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/15114986.html
(3)上杉憲顕と平一揆の乱
鎌倉の鎌倉公方は初代の基氏から5代の成氏まで5人の公方が続きました。5代目の成氏は途中で下総の古河に移り、古河公方になりました。5人の公方は以下のとおりです。
鎌倉公方(在位期間)
1 基氏(1349~1367)
2 氏満(1367~1398)
3 満兼(1398~1409)
4 持氏(1409~1439)
5 成氏(1449~1455)
この5人の公方に共通するのは、公方就任が異常に若くそして短命だったことです。
初代基氏は、1349年に9歳で鎌倉公方に就任し28歳で亡くなっています。2代氏満も9歳で公方になり、こちらは一応39歳まで生きました。しかし、3代満兼は20歳で公方になりましたが31歳で亡くなっています。4代持氏も11歳で就任し、41歳で亡くなっています。5代成氏は生年がはっきりしませんが、公方就任時は10歳前後でした。
平一揆の乱
したがって、鎌倉府にあっては上杉氏の役割は非常に大きかったと思います。この上杉氏が関東の実力者としてはっきりその地位が確立したのは、初代基氏から二代目の氏満に代替わりした時でした。この時に武蔵で平一揆の乱が起こり、上杉憲顕はこの乱を平定することで関東における覇者になりました。
1368年の平一揆の乱は武蔵の大豪族河越氏を中心とする反乱でした。河越氏は平安時代中期に現れた桓武平氏の一族秩父氏の流れです。秩父氏は板東八平氏の一つで、平安末から武蔵留守所検校という、国司にかわって武蔵を統括する在庁官人のトップの家柄でした。河越氏はこの秩父氏の宗家で、鎌倉時代には義経の妻を出した名門でした。義経の謀反で頼朝から連座の責めを受け一時没落しましたが、その後復活しました。
河越氏は今の川越市に大きな舘を構え、同族の高坂氏(今の坂戸市高坂)とともに平一揆という在地豪族の連合組織の盟主でした。この一揆には入間川流域の武蔵七党の面々も参加していましたし、反乱の参加者を見ると今の東京東部の豪族たちも加わっていたようです。(一揆というと江戸時代の百姓一揆を連想しますが、元々は地縁や宗派による横の組織です。室町時代には、この一揆は武蔵だけでなく全国的に広く見られます)
この時の河越氏の当主は直重でした。彼は先の武蔵野合戦では尊氏につき、その功で相模の守護に任命されていました。そして、畠山国清が京都に遠征した時には高坂氏と共に平一揆の面々を率いて出陣しました。この時、直重と高坂氏は赤一色の派手な衣装に豪華な装飾を施した武具をまとい京都市民の度肝を抜いたことが「太平記」に書いてあります。もっとも、その持ち物も盗賊に入られて盗まれたとも書いてあり、想像するに、この河越直重は動乱期にありがちな直情怪行の人だったようです。とはいえ、この頃が直重の絶頂期でした。
その後、平一揆は国清が失脚すると討伐軍に加わり、その功で一族の高坂氏は伊豆の守護に任命されました。しかし、翌63年に直重は相模の守護を解任されてしまいました。
この63年は上杉憲顕が執事になった年で、下野の豪族であった宇都宮氏も上野、越後の守護職を解任されています。ですから、憲顕の登場で今まで鎌倉府内で厚遇されていた河越氏や宇都宮氏が急激にその地位を低下したことがわかります。
この反乱については、直重が相模の守護を解任されたことが原因とされています。この反乱では宇都宮氏も同時に兵を挙げています。ですから、守護解任をふくめて上杉氏から冷遇され続けた両氏が公方の交代という混乱時をねらって立ち上がったというのはその通りだと思います。しかし、この乱の経過とその後の河越宇都宮両氏の戦後処置を見ると、どうも河越氏は憲顕の挑発に乗せたれたのではないかという気がします。
反乱は氏満が公方に就任し、憲顕がその報告と義満の将軍就任を祝賀するため上京していた間に起こりました。憲顕の隙をついたといえば、隙をついたことになりますが、憲顕は少しもあわてませんでした。憲顕はすぐには帰国せずしばらく京都に滞在します。その一方、鎌倉では憲顕の女婿で後継者の関東管領が就任したばかりの公方氏満を陣頭に立てて出陣しました。
平一揆側は今の東京都墨田区にも拠点をつくりましたが、戦いらしい戦いもないまま河越舘にたてこもりました。河越舘は二重の堀で囲まれた大きな要塞のような館ですが、ここは入間川そばの平地です。しかも後詰めのない戦いでしたから、各地から続々集まってくる討伐軍に包囲され結局壊滅してしまいました。敗れた直重は三重の南朝勢力を頼って逃れたという説もありますが、よくわかりません。(ただ、三重県に川越町があります。この川越町は河越氏の落ち武者たちの町というのですが、真偽のほどはわかりません)
以上が平一揆の乱の経過です。河越氏はあっけなく滅亡してしまいました。しかし、考えてみると、河越氏がこんなに簡単に敗れたのにはそれなりの理由があったからだと思います。
この平一揆と同じような反乱に、70年後の結城合戦があります。この合戦も結城氏が上杉氏を相手に籠城戦をしましたが、よく見ると籠城戦になるまで各地で激しい戦闘がありました。それは結城氏支持の勢力が各地にいたからです。武蔵でも結城側の武士があちこちでゲリラ的な戦いをしていて、その中には比企郡慈光寺の僧までいました。
ところが平一揆にはそういう広がりがありませんでした。反乱軍はどこからも支援を得られず、やむなく籠城戦になりました。これは、この時同時に立ち上がった宇都宮氏もほぼ同じでした。
たぶん上杉憲顕の周到な対策がありました。憲顕は京都にいる間に十分な政治工作をしたのだと思います。それは幕府の支持を取り付けるだけでなく、関東の豪族たちが平一揆側や宇都宮氏側につかないよう強力な措置をすることでした。そのため孤立無援の平一揆はあえなく鎮圧されてしまいました。
この平一揆の乱には宇都宮氏も同時に立ち上がりました。しかし、その戦後処理は大きくちがいました。河越氏と高坂氏は降伏することも認められず滅亡しましたが、宇都宮氏は勢力をそがれたものの、その後も存続しました。
こ
のちがいは、武蔵と下野の地理的なちがいがありました。この乱の後、武蔵は上杉氏の守護国になります。高坂氏の伊豆も上杉氏が守護になります。相模は直重の後任は地元の名家三浦氏が守護でしたが、その後三浦氏は守護代になり、上杉氏が守護におさまります。
上野と越後はすでに上杉氏が守護でした。そこで、これらのことを考えてみると、河越氏を滅ぼすことで、上杉氏は
鎌倉街道 鎌倉-武蔵-上野-越後
東海道 伊豆-鎌倉
と関東の主要交通路を掌握したことになりました。
これこそが上杉氏が望むことでした。とりわけ、上杉氏にとって鎌倉街道を確保したことは非常に大きい意味をもちました。この後、戦国時代までの長い期間、上杉氏はたびたび苦境に陥ります。その時、上杉氏の苦境を救うのは同族の越後上杉氏でした。関東の上杉氏が危機に陥ると、越後上杉氏はこの鎌倉街道を通って強力な越後兵を関東に送りこみました。たぶん、越後上杉氏は室町時代の東国では最強の軍隊でした。
(新潟県は稲作の日本最大の適地です。この時代には人口も圧倒的に多かったと思います)
平一揆の乱で河越氏を滅亡に追い込むことで、新興勢力の上杉氏は関東における覇権を確立したのです。平一揆の乱は上杉氏にとって絶好のチャンスでした。この乱の背景には上杉憲顕の何らかの意図があったのはたしかでした。
武蔵の守護職を得た上杉氏は守護代を置きました。武蔵守護代ははじめは上杉氏でしたが、その後執事の長尾氏や大石氏がなります。とくに大石氏が守護代につくことが多かったようです。
大石氏は武蔵野合戦で尊氏側につき、尊氏から武蔵西部の地を与えられました。大石氏は今の東京都あきる野市に本拠を置いていましたが、後に今の八王子市の滝山に移ります。ここは多摩川の右岸で、対岸には武蔵最大の軍事的要衝である府中があります。これも当然上杉氏の指示でした。
河越氏が滅んだ後、武蔵には鎌倉府を脅かす大きな豪族はもはやなくなりました。以後、武蔵は中小豪族がひしめく地になり、彼らは武蔵一揆という緩やかな連合組織をつくりますが、その活動はだいたい上杉氏の手兵として働くことでした。
http://hya34.sakura.ne.jp/iruma/kawagoeyakata/tairaikimetubou.html
関東最強軍平一揆、その繁栄と滅亡
一揆とは?
南北朝から戦国中期にかけて日本全国に一揆なる武装集団が存在しました、一揆とは百姓一揆、国人一揆、一向一揆など同じ利害関係を持った武装集団を指していいますが元々の一揆とは中小土着武士による結合集団で共に自らの利益を守るための軍事組織が一揆の始まりです、それら一揆は大名クラスの武士団と互角に張り合うだけの軍事勢力を持ち、自分達の利害に有利な方に味方をするという傭兵部隊のような性質を持っていました。事、武蔵国に措いてはその活動は盛んで数多くの一揆が存在しています、主だった一揆衆としては別府氏同族による武蔵一揆、秋川周辺西党により結成された南一揆、河越氏を中心とした秩父党平一揆、高麗氏系武士団の八文字一揆など同族武士を中心とした組織体制を組んだ一揆衆が多数活躍していました、
平一揆の結成と組織体制
さてその平一揆ですがその結成時期は明確ではありません、しかし初めて平一揆が文献に登場するのは太平記の中で観応の擾乱(足利将軍尊氏と弟直義による足利政権を二分した争い)の後に敗北した直義方残党と尊氏軍との戦い、武蔵野の合戦で尊氏軍として活躍するのが最初で、おおよそこの時期が平一揆の結成時期ではないかと考えられます。
ではその組織体制とはどの様なものであったか?平一揆とは旧桓武平氏秩父党を中心として構成され主だったメンバーとしてはそのリーダー格の河越氏、河越氏同族の高坂氏、竹沢氏、同秩父党豊島氏、江戸氏、又後に八文字一揆が平一揆に吸収され高麗氏などもそのメンバーとなります、これら構成武士団を見る限り関東名族揃いで他の一揆衆とは勢力、軍事力共に大きく上回る存在であったのです。
平一揆、繁栄と没落
平一揆の結成から没落までを簡単にまとめてみました、
1352年(文和元年)
1353年(文和二年)
同年
1355年(文和四年)
1359年(延文四年)
1361年(康安元年)
1362年(貞治元年)
1363年(貞治二年)
1367年(貞治六年)
1368年(応安元年)
武蔵野の合戦にて平一揆、白旗一揆、足利尊氏軍として旧直義党、南朝勢力の連合軍と戦う、(平一揆初めて文献に登場する。)
河越直重、武蔵野の合戦の功により相模守護職となる、
関東公方足利基氏、南朝勢力に備えて鎌倉を出て平一揆の勢力圏入間川に陣をはる、
高坂氏に率いられ平一揆、白旗一揆ら京で南朝方と戦う
南軍討伐のため畠山国清に従い河越直重、京に入る、
畠山国清の乱平定のため河越直重ら平一揆、足利基氏より伊豆へ
派遣されるがあえなく撤退、
畠山国清没落後、高坂氏重、伊豆守護と成る、又侍所の役に就く、
岩殿の合戦、平一揆勢、基氏軍として宇都宮氏と戦う
足利基氏、河越治部少輔らに子、氏満の補佐をたくし没する、
河越氏、関東執事職上杉憲顕と対立、河越館に篭城し平一揆の乱が起こる・・・・河越氏、高坂氏滅亡、
1335年(建武二年)、中先代の乱(南北朝の乱勃発)において河越氏、高坂氏、豊島氏、江戸氏ら秩父党のメンバーは足利尊氏、新田義貞、両軍に一族が分かれて争いました、そのため秩父党各諸氏たちは一族が分裂し存亡の危機にさらされたのです、そこで河越、高坂氏が中核と成り平一揆なる一大軍事同盟を形成させたのでした、平一揆は河越氏を中心に同族高坂氏、古尾谷氏、竹沢、同秩父党豊島氏、江戸氏、八文字一揆(高麗氏系武士団)、相模国においては土肥氏、土屋氏、が主な構成員で常陸国にも平一揆のメンバーは存在していました、それら諸氏の勢力を結集させれば総勢1万の兵力は優に超えた事でしょう、それは西国大内氏、山名氏、東海今川氏などの有力大名と互角又はそれを凌ぐ強大な戦力でした、これぞ正に関東最強軍で武蔵野の合戦以後、宇都宮氏と並び鎌倉府体制下において主力部隊として鎌倉公方足利基氏の指揮下に組み入れられていったのです、政治的場面においても武蔵の乱の功により河越直重が相模守護職、執事畠山国清の乱平定後に高坂氏重が伊豆守護に任命されるなど公方基氏より厚い信頼を受けて鎌倉府体制の中で重要な地位をしめていました、これは他国の一揆衆には見られない事でそれだけ平一揆は他の一揆とは異なり関東ないし全国的に強大な軍事組織だったのです。
そして没落へ
繁栄の一途をたどる平一揆、河越、高坂の両氏でしたがその盛運も長くは続かず、1363年(貞治二年)武蔵野の合戦において旧直義党(南朝軍)に属して越後に追われていた上杉憲顕が足利基氏に呼び戻され関東執事職と越後守護職に就任し関東の政治の舞台に復帰してきたのです、この事にまず反発したのは宇都宮氏で自らの政治的立場を憲顕に侵されるのを恐れ関東復帰を実力で阻止しようと岩殿(埼玉県東松山市)で基氏軍と合戦と成ったのです、この時に平一揆は基氏方で宇都宮氏と戦いました、乱は鎮圧されたのですが問題はこれだけでは治まらず1367年(貞治六年)幼少の子、氏満の補佐を河越治部少輔らに託して関東公方足利基氏死去、それにより基氏を中心として河越、上杉両氏の調和を計っていた鎌倉府体制も崩れ始めてきたのです、まず上杉憲顕が幼少の氏満を盾に河越氏を阻害し自らの独裁体制を築こうとしたため妨げられた河越氏が猛反発、1368年(応安元年)河越氏は蜂起して河越館に篭城、ついに関東最大の軍閥が鎌倉府と幕府に対して刃を向いたのです、しかし戦況は相模、常陸などの平一揆のメンバーの協力を得られず河越、高坂、豊島、江戸、高麗当の武蔵国メンバーのみで戦う事と成り俄然形勢は不利、乱は鎮圧され河越氏とその氏族、高坂、竹沢、古尾谷氏は領地没収、豊島、江戸氏ら乱に加入した氏族に対しては所領の3分の1を割譲され関東最強軍平一揆は解散、400年の歴史を誇る名族河越氏もここに滅び去ったのです。