【弾左衛門】
【弾左衛門】
江戸の被差別民衆と弾左衛門
現在、被差別部落民(「部落民」)と呼ばれている私たちの先祖は、少なくとも中世にさかのぼるさまざまな被差別民衆だったと考えられています。
江戸時代、浅草に幕府の下にあって東日本全域の被差別民衆を支配した「弾左衛門」(だんざえもん)という人がいました。江戸の被差別民衆は、この弾左衛門の直接・間接の支配下にあって、被差別民衆の仕事とされるさまざまな仕事に従事し生活していました。この江戸の被差別民衆が、私たち東京の部落民の祖先です。
2-1 弾左衛門とは?
弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代13代続いた全関東の被差別民衆の支配者です。幕府側の正式呼称は「穢多頭弾左衛門」、自らは「長吏(頭)弾左衛門」と称しました。世襲制で身分は長吏(穢多身分)に属し、江戸町奉行の支配をうけていました。
弾左衛門の支配下にあった被差別民は、長吏(ちょうり)、非人(ひにん)、猿飼(さるかい)、乞胸(ごうむね)などです。また歌舞伎を江戸中期まで興行面で支配しました。皮革・灯心・筬(おさ)等各種の専売権や全関東の被差別民衆への支配権を背景に、歴代弾左衛門は、旗本なみの屋敷に住み、上級旗本の格式で生活し、その財力は大名をしのいだと言われています。
弾左衛門とその配下にある長吏たちは、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理をつとめていました。こうした役は中世以来長吏たちの仕事だったのです。また弾左衛門は、巨大な財力を背景に金融業を営み、市中に手広く貸し付けていました。町民たちはこの金を「穢多金」などど呼んで蔑視していましたが、しかし借りに来る町民は後を絶ちませんでした。
巨大な権力と財力にもかかわらず、弾左衛門の身分は賤民であり、武士はもちろん江戸の町人からも差別される対象でした。歌舞伎や古典落語、あるいは各種の記録には弾左衛門とその配下に対する江戸庶民の強い差別感情が記されています。一方、歴代の弾左衛門は、被差別民の専制的支配者であると同時に代表者としても行動しています。被差別民の利益確保のために幕府に対して様々な訴えをおこないました。特に最後の弾左衛門となった13代集保(ちかやす?)は、幕末・明治維新の動乱期に、自分と配下の被差別民の身分引き上げをもとめて強力な活動を展開しています。
弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、鎌倉以来の家の由緒を述べた。そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。実はこのとき、後北条氏のもとでそれまで関東の被差別民の筆頭の地位にあった小田原の太郎左衛門が「後北条氏発行の証文」を差し出して支配権の正当性を訴えたが、徳川氏はこれを許さなかった。そして太郎左衛門の「証文」を取り上げて弾左衛門に与えてしまった ―
この家伝のうち、徳川家康の江戸入府以降の話は事実、それ以前の話は、弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための作為と考えられています。おそらくこうした作為は幕府にとっても都合がよかったので、積極的に「許容」されたということでしょう。
徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門の地位ですが、江戸近辺に定住する中世以来の地域の被差別民の頭、後の長吏小頭(ちょうりこがしら)的存在であったと考えられます。また、まだその頃には「弾左衛門」と名乗っていなかった可能性も強いと言われています。
いずれにせよ弾左衛門の支配体制は、あるとき突然確立したものではりません。それは江戸幕府と強く結びつくことによって、近世中期(享保期)になってようやく確立したものでした。(詳しくはコラムを参照してください)
浅草弾左衛門の旧住居跡を訪ねて(2001/11/3)
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2001年10月25日、浅草弾左衛門の居宅跡を訪ねた。
「第13代弾左衛門直樹は、摂津国菟原郡灘住吉村中ノ町に生まれ、天保12年(1841年)に18歳で穢多頭となった。当時、穢多頭は、囲内二百三十二軒、猿飼四十六軒、江戸非人小屋七百三十四軒、当地外非人小屋千二百六十一軒の支配をまかされた。総計で七千七百二十軒になる。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
私は、「摂津国菟原郡灘住吉村中ノ町」のあたりに、震災の頃に住んでいたことがある。それで、東京に行った折りに、弾左衛門の居宅跡を訪ねたいと思っていた。今回、「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)と「太陽コレクション古地図散歩、江戸・東海道」(平凡社)を頼りに歩いてみた。
「藪之内を右に折れ、随身門【いまの仁天門】から浅草寺の境内へ入った。輪堂、層塔が雁行して並び建ち、あいもかわらず、人びとが肩摩轂撃【肩と肩をぶつから】している。楊枝歯薬を売る店が並び、厚化粧の女が客を招く。その雑踏にまぎれ、たとえひと時であろうと、我を忘れることで、おのれをとりもどしたい。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
雷門
「本堂で参詣をすませた者どもが、言い合せでもしたように、奥山へとむかっている。そこには、茶屋、矢場をはじめ、独楽を廻して薬を売る者、太鼓や角笛にあわせて梯子の天辺で逆立ちする者がいる。右手に赤い扇、左手に蛇目傘を持って綱を渡る者がいる。腰蓑だけの裸で謡を唱う願人坊主がいる。独り相撲、蛇遣い、辻祭文、阿呆陀羅経も、人を黒山に集めている。ここでは一年じゅうが祭であった。
これら大方の者は、乞胸【合棟】と呼ばれている。浅草菊屋橋に住む仁太夫を親方にし、両国や下谷の棟割長屋からここへ通ってきた。仁太夫は、非人頭に月額三十貫文【五両弱】を冥加金として納める習わしで、また弾左衛門が非人頭より徴税しているからには、拍手とともにぱらぱらと投げられる鳥目【銭】のいくらかは彼の屋敷にも運びこまれているわけで。大道芸人の隆盛は慶賀すべきことであった。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
仲見世中門本堂
「屋根の先に金龍山浅草寺の五重塔が黒くつきだしている。追い抜いていく駕籠が三つ、四つとあり、粋な形の遊客がふえた。春の宵を楽しむ風情がある。こんもりと緑にかこまれた聖天山(待乳山)をすぎて橋に出た。橋の下は幅六軒(十一メートル)ほどの堀で、右手すぐ近くの大川から猪牙船が幾艘も入り込んできている。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
五重塔
「これが山谷堀よ。こっちの土手が日本堤で吉原に行く道。この橋が今戸橋。堀の向こうの板塀がござろう、あれが新町でござる。」
「山谷堀に一部分を接して、いかめしくどこまでもつづく板塀が見えていた。それが新町という。小さい門があり、石段が塀にむけておりている。そこへ船を着けてそのまま中へはいれる寸法で。今戸橋を渡った左手は寺で慶養寺と読めた。そこをすぎて左へおれると、さきの板塀につづく瓦屋根の長屋が現れた。その中央が武家屋敷のような長屋門であった。正面の大戸も、左右の潜戸も開かれ、サルかだれかが到着を告げたのだろう、迎えに駆けつけてくる下人たちがあわただしかった。門の両側には、箱根のお関所の大門と同じく、六尺棒を持った男が立っていた。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
今戸橋今戸橋から台東商業高校を望む。山谷堀は埋め立てられて公園・道になっている
「源壽寺、浄運寺、宝蔵院、念仏寺など、三十いくつもの寺が、堀や堀の外を埋めている。いずれも囲内に尻をむけていた。新町を守るように見えて、実は町人や遊客の目から隠そうとするようで。囲内の多くの場所から、塀ごしにのぞいた卒塔婆や本堂の屋根瓦が見えた。生まれたときから目にしている人は慣れっこであろうが、彼にとっては、しばらく異様であった。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
江戸時代の新町「太陽コレクション古地図散歩、江戸・東海道」(平凡社)より
「瓢箪池を包むように、松や榎や槐の大木が鬱蒼と茂り、葉陰に夏の終わりの木疎さが忍びこんでくる。鶴岡ならぬ亀岡八幡社の屋根瓦が、右手の庭の隅で光った。」
「彦一の追いつくのを待って、裏門を抜けた。七百四十坪(二四四二平方メートル)の屋敷の外は、一万四千四十二坪(四万六千00平方メートル)の囲内である。屋敷を中心にして十数軒の旅籠があり、牢があり、金方役所があり、皮革や燈心を納める土蔵七棟もある。家老職の屋敷、上役や下役の手代の大小の家が取りまいている。行きたいのは、山谷堀のほうではなかった。細長い囲内を断てに割っている広い通りを、北へくだる。そこは竈数二百数十の長屋で埋まっている。髪結床もあれば、湯屋も質屋も太物店(綿や麻の織物を扱う呉服店)もある。粗末な形の老若男女が密集し、むんむんとする体臭を放っている。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
今戸神社(明治時代に建立)、大門あたり?
都立台東商業高校テニスコートの辺りが居宅跡、東京解放会館の人の話では、校内に「居宅跡の碑」があるようだ。
「長昌寺の門前町を抜けて、川岸に出た。瓦師が竈を築いている。瓦を焼く煙が細く立ち上り、焼き場を連想してか、ふと不吉さを覚えた。人ひとりをのみこんだとは思えぬほど、川面はとろりと火に焙られている。春と秋には都鳥が数多く集まってくる場所であった。対岸は向島(墨田区のもと景勝地)で、土手に桜並木がある。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
本龍寺(弾家の菩提寺、弾左衛門直樹の墓がある)
神戸市の専念寺(とてもモダンな建物。弾左衛門直樹のゆかりの寺、分骨された)
弾左衛門住居跡近くの隅田川公園
昭和20年3月10日の東京大空襲では、10万人近くが亡くなった。言問橋上でも大勢の市民が焼け死んだ。現在、隅田川公園に付け替えた言問橋の一部が記念碑として使われている。この碑の一帯は、それら市民を仮埋葬した場所である。
戦災により亡くなられた方々の碑。碑の説明文(台東区)
11-2 「封建制社会の長吏と非人」
封建制社会の長吏と非人
長吏とは穢多身分のものを指すが、これは江戸浅草の弾左衛門支配地域での呼称で、これら身分の人たちが長吏と呼ばれることを主張した経緯があります。
死んだ牛は百姓の手を離れて長吏のものになりました。
これは、当時の長吏・半右衛門が「弾左衛門が支配している関東その外の場所では、死んだ牛馬が出たときには長吏の権利である」と明瞭にいっています。これを斃牛馬取得権といいます。
この斃牛馬取得権というのは、戦国時代に戦国大名らが鎧や鞍などの武器としての皮革調達のために、長吏に皮の上納を命じたことに始まるといわれています。もっとも、それ以前から長吏といわれた人たちが、死んだ牛馬の皮を取得していたからではありますが、それを戦国大名が組織的に長吏を「役目」として利用したのです。
その替わり、長吏は大名から大事に保護されます。小田原の北条氏の発行した史料などを見ますと、「徳政」をしたとあります。その内容については明らかではありませんが、納入する皮の値段を高く買ってやるとか、年貢を負けてやるとか、とにかく皮の確保のための優遇処置をしたとあります。
足利の長吏・半右衛門と館林の長吏半左衛門は、戦国時代の旧主であった長尾但馬守顕長から大事にされた旧恩を忘れず、江戸時代の後期になっても、当時古河藩主土井大炊頭の家来になっていた顕長の子孫の長尾氏のところに、毎年正月の挨拶のためはるばる連れ立って出向いたことが足利半右衛門家の史料にあります。
この原皮確保のために、百姓らは牛や馬が死ねばその所有権は消滅し、これを捨場に出すことが義務づけられました。そして、この斃牛馬を無償で取得する独占的な権利を長吏に保証したことにあります。
このように戦国時代からの役目から生じた一種の特権が、その後も引き続き江戸時代の全期を通じて幕府によって公認されていたのでめります。そして、この斃牛馬取得権は、この慣習法によって受け継がれた長吏の権利ですが、後には一種の「株」のようなものと考えられ、長吏の間で質に入れたりすることができました。
ところで、従来の部落史研究書では長吏が皮を取得することを斃牛馬処理権(へいぎゅうばしょりけん)と呼んでいます。しかし、この「処理」という言葉から受ける印象は、いかにも長吏が斃牛馬を解体したかのように思われがちです。関東では百姓が斃牛馬を捨場に捨て、非人がこれを解体し、長吏がこれを取得するというのが実態なのです。
群馬部落研の池田氏などはこの点に着目し早くからこの斃牛馬処理権を斃牛馬取得権(しゅとくけん)に改めるべきであると主張しています。この点でも関西と関東では違いがあります。
一、江戸の弾左衛門役所機構について
弾左衛門役所は江戸浅草の新町にあったところから、普通新町役所と称し、これは弾左衛門が幕府機構の一部署として任命されることになっているため、訴状などは支配下の長吏・非人はいうまでもなく、たとえ百姓・町人でも「新町御役所様」または「浅草御役所様」と宛名しない限り、これを受理しなかったといわれています。
この「新町」という地名は「しんちょう」と呼ばれています。
その支配範囲は、関東全域と伊豆一国・三河国信楽郡の一村・甲斐国都留郡・駿河国駿東郡・陸奥国白川郡棚倉町までといわれています。但し、日光神領・水戸藩・喜連川藩は除かれました。
寛政十二年(一八〇〇)に、弾左衛門が町奉行所に提出した書上によると、江戸府内での長吏(手代・書役ー役人ー平の者)二三二軒、非人(非人頭・組頭・小屋頭・小屋主・小屋者)七三四軒、猿飼一五軒。地方では長吏(小頭・小組頭・組下ー場主・水呑)五四三二軒、非人(小屋頭・下小屋主・抱)一二六一軒、猿飼四六軒ありました(三好伊平次「同和問題の歴史的研究」)。
これを一軒五人としますとしめて七七二〇軒ですから約四万人程度となります。
役目は、主に幕府の皮御用・仕置役・浮浪者の取締りなどで、役所自体は地方の小頭への通達や町奉行所からの犯人の人相書など、また地方の長吏・非人などの裁判・調停・一般百姓・町人など他身分紛争に、主に長吏・非人側に立って裁判訴訟の指揮を採りました。
二、非人などについて
非人頭浅草の車善七の下には乞胸頭・仁太夫がおりますが、この乞胸とは、身分は町人でありましたが、稼ぎをする時だけ非人頭・浅草の車善七の支配を受けました。
地方では、非人小屋頭の紹介で長吏小頭の許可を受けて、その縄張りで稼がして貰いました。
乞胸の語源は、乞胸頭仁太夫の家伝によりますと「家々の門に立ち施しを乞い候儀、先方の胸中の志を乞い候と申す意にて、乞胸と唱え候趣と申し伝え候」とあります。また、乞胸は「合棟」の意で、合棟長屋に住んでいたというところから出たと言う説が妥当であろうといわれています。稼ぎには綾取り、猿若、江戸万歳、辻放下、操り、浄瑠璃、説教、物真似、仕形能、物誌、講釈、辻勧進などがあります。
一般的に非人というのは人に非ずと書き、浮浪者・乞食と思いがちですが、そうではなく幕府によって「身分の者」として公認された者のことです。したがって、人別帳といって今日の戸籍簿のような幕府に提出する書類にも記載され、一定の保護を受けている者なのです。身分の者というのは、今日でいえば海外旅行などに行くときに、パスポートを受ける資格のある者とでもいえるかと思います。
また、非人のことを番太(ばんた)ともいいます。長吏によって各村々に派遣され、長吏の命令を受けて捨場の見回り・死牛馬の解体などの役と村方に入ってくる浮浪者ー野非人の排除や犯罪者の探索・逮捕・仕置などの任務についておりました。
野非人というのは浮浪者のことで、彼らには戸籍はありません。しかし、野非人といえども生きるためにはどんなことでもします。ことに幕府は、この野非人の対策に頭を痛めます。これらを取り締まっていたのが、長吏の手足となって働いた非人なのです。
小屋頭といって、一般非人身分のもの、これを抱え非人と呼んでいますが、このものたちよりも一格上の頭分の者だったのです。
三、長吏と非人の関係
小屋頭を含む非人身分のものが、長吏の支配下にあったというというのは何故かといいますと、さきほどは長吏の斃牛馬取得権についてふれました。これとは別に長吏にはもう一つの権利があったのです。これを勧進権といいます。
旦那場(縄張り)村内百姓各戸からの夏麦・秋籾の買いうけ、吉凶(正月・五節句・婚礼・葬式など)及び月並み(朔・望日など)の呪術的勧進廻りによる百姓各戸からの米麦銭の貰い受け(布施・祝儀)、野辺へ出し候物の取得、祭礼の際の場銭、市役銭などの徴収などです。
この勧進の権利の一部を非人に譲渡し、これによって非人は長吏の縄張り内で生活ができたのです。この長吏と非人の関係つまり、長吏によって非人が支配されていたということは、弾左衛門支配地の特長でして、関西ではこのような関係はありません。
非人は、死牛馬の捨場の見回り・場主への通報・死牛馬の解体・運搬、そしてその詳細を記帳などすることを義務付けられました。これは非人の最も大事な役目で、これを場役といい、また非人の表役ともいわれました。そして、非人はこの役目を果たすことによって、縄張り内の村々で生活することをできたのです。
とくに、この日の場主は誰であるかを確かめて、その日の場物(死牛馬)を的確に場主に通報し届けるということは、職場日割帳を読んで理解しないかぎり納得した行動はできないし、まして、小頭に提出する死牛馬出方帳面への記入などはできるものではないと思います。
このように見てきますと、非人といっても結構文字の読み書きができたことがわかります。現に佐野地方に残っている江戸時代の史料からは、明らかに非人身分のものが自筆したと見られるものが多数出てまいります。
四、職場
次に、職場日割帳と、場主について述べてみたいと思います。
職場日割帳といいますのは、弾左衛門が代替りーつまり、新しい弾左衛門(役名)に替わるとき、関東各地の長吏小頭が職場絵図面と一緒に弾左衛門役所に提出した書類のことです。
これは一カ月を三十日とし、一日から五日までは誰兵衛、六日から十日までは誰というように日毎に縄張り村の死牛馬取得などの権利を書き留めた、いわば公正証書のようなものです。この書類に記載された人を場主といい、所持する日数を場日といっています。そして、場主はこの権利によって非人を公的にも私的にも監督使役する権利をもっていたのです。このような権利をもった長吏を場主といい、史料などでは一軒前の長吏ともいいました。百姓でいえば本百姓と水呑み百姓のうちの本百姓の部類に当たります。
また、弾左衛門支配下の長吏たちは、弾左衛門役所に年貢銀を納めることになっていました。この年貢銭のことを職場年貢銀といい、古くはお絆綱銭といいましたが、この外に軒毎に納める家別年貢銀があり、非人は小屋役銀を納めていました。これを三役銀といいます。
上納する職場年貢銀の算定は非常に厄介な仕組みになっていますが、ごく簡単にいえば一年に場日一日あたり銀〇・五匁(当時の貫文に直して約五十六文)を、小頭が取り纏めて納めていたようです。
現在史料的に明らかにされているのは佐野犬伏町の小頭太郎兵衛の縄張りですが、ここは一九四日場で職場年貢銀九七匁を納めたとあります。天保十三年当時、新田郡牛沢村で白米一升百文だったと太田市牛沢の関口さん宅の史料に見えています。
その外に、家別役銀といって一軒につき一年に銀二匁五分を小頭を通じて弾左衛門役所に納めていました。佐野の場合、小頭太郎兵衛は百五軒の長吏を支配していましたが、先祖が弾左衛門のところに娘を嫁に差出しだというわけでもありましょうか、増減に拘らず四十九軒分の銀百二十二匁五分しか上納しませんでした。また、非人の小屋頭は一人銀四匁五分、下小屋の者は一人銀一匁五分づつ納めていました。
五、長吏の実態
多くの長吏の実態は、零細であれなんであれ、その殆どは土地を所有していた百姓であります。佐野地方の長吏の持っていた田畑は、これまでの部落の説明書のような零細で痩せた、等級の低い田畑ではありません。例えば、田の場合を見ますと、全部で一五町六反余のうち、実に上田と中田が十二町二反歩もあることが判ります。また、畑にしましても下畑以下の反歩は、全体の二十町三反余の五%しかありません。先日、足利市の郷土史研究者の小野先生からの連絡では、足利の部落でも上田・中田を持っている人が多いとのことでした。
ですから、一般の部落関係の解説書などに長吏は等級の低い田畑しか持つことができなかったと書いているようですが、ここ東毛地方に限っていえば、史料的には明らかに間違いであります。そして、何よりも長吏たちは勤勉であることです。佐野地方の田合計十五町六反余のうち、百姓から質地として買い取った田は四町七反余ほどもあり、実に田の三割に達していることも特徴的なことであります。
また、長吏たちの生業として草展ー竹皮草履や藁草履・草畦などの生産・販売を見過ごすわけにはまいりません。特に竹皮草履の製造・販売は長吏の特権専売でした。上州山田郡丸山村(現太田市丸山)のある名主家の史料によりますと、明治三年の記録ですが、当時三十五軒の長吏たちが年に三百五十両もの収入があったと岩鼻県庁に報告しています。当時の侍でも一番下の給料は、一年に三両一人扶持でした。俗にこれをサンピンといって馬鹿にする言葉となっていましたが、このサンピン侍から見れば、年に十両という収入が如何にたいへんな金額であったかが判ります。
その点、死牛馬の皮取りについては、場主の半分は一年に一枚も収穫がありませんでした。
ですから、一般にこれらの事情を知らない人たちが、長吏は死んだ牛馬の皮を剥いで生活していたなどと、事実に基づかない考えや発言をしていることは大変な間違いであります。
県内では、水戸・結城・利根などで近世社会の身分制の実態解明がすすめられています。
(新井直樹、九三年群馬部落研東毛地区近世史学習会・池田氏より教示)