【御館の乱】

【御館の乱】
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御館の乱
戦争:戦国時代
年月日:天正6年(1578年)
場所:越後国内
結果:景勝方の勝利
交戦勢力
上杉景勝 上杉景虎
指揮官
上条政繁
斎藤朝信
新発田長敦など 上杉景信
北条景広
本庄秀綱など
戦力
- -
損害
- -
御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で起こった越後の内乱。御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。現在の直江津駅近くに当時の御館の跡が御館公園として残っている。

目次 [非表示]
1 概要
1.1 謙信の死と二人の後継者候補
1.2 乱の勃発
1.3 上杉家中の去就
1.3.1 景勝方
1.3.2 景虎方
1.4 景虎の攻勢と周囲の加勢
1.5 景勝、勝頼を買収する
1.6 戦局逆転
1.7 景虎の滅亡と乱の収束
2 周辺とその後への影響
3 参考文献
4 関連項目


概要 [編集]
謙信の死と二人の後継者候補 [編集]

上杉家の当主上杉謙信天正6年(1578年)3月9日、上杉謙信は春日山城の厠で「不慮の虫気」のため倒れ、13日に意識が戻らぬまま死亡した。

景虎が謙信に代わって雲門寺など寺社への新年祝賀の礼状を送っていたことや、軍役を課されないなどの優遇措置をとられていた点などから、景虎が後継者であったという説がある。越相同盟が破綻する元亀2年(1571年)頃までは北条家を実家とする景虎が上杉家と北条家の取次ぎに重要な役割を担っていたことが明らかであり、翌年初頭には謙信の寵臣である河田長親から送られた陣中見舞いへの礼状が残存するほか、同盟以来景虎とは非常に縁の深い柿崎家の文書には少人数の動員ながらも松木加賀守らに軍役を命じた書状(当時、軍役を命じる文書は必ずしも大名とその後嗣にのみ見られるわけではないが)も残っている。

しかし一方で、景虎に軍役が課されなかったことの根拠とされる天正3年(1575年)の上杉家軍役帳は必ずしも上杉氏の全軍事力を網羅したものではなく、関東その他の地域の在番衆などを除く本国越後の春日山城周辺から動員が可能な諸士にのみ記載が限られていることから、景虎の名がないのは作成時期と地域における軍事力・秩序区分から除外されたためであり、したがって軍役の記載がないことが優遇措置ひいては景虎後継者説の論拠には直結しないという見解もある。

この軍役帳の記載からは、謙信が景勝を他の上杉一門衆(山浦・上条・古志など)をしのぐ最上位に位置づけていたこと、家中最大級の兵力を担わせていたこと(最大の兵力を擁したのは山吉豊守である。天正5年(1577年)の豊守(盛信?)死後、その家臣団の一部は景勝直属部隊である五十騎組に配され、景勝の権力基盤である上田衆の中に組み込まれる)、また家臣たちの景勝に対する呼称が謙信への尊称である「御実城様」と類似した「御中城様」であったことも示唆され、他の一門衆が「十郎殿」などと通称や姓に「殿」付けで記されている(山浦国清と上条政繁は謙信の養子ではあるが、分家の当主となった)のに比し、謙信と同じく「御」「居住場所(中城)」「様」で敬称されている景勝は謙信の養子のなかでも高い地位を与えられていたことがわかる。

また、謙信が上田長尾家当主として長尾顕景を名乗っていた景勝に天正3年(1575年)、上杉景勝の名を与え弾正少弼を譲っていることから、晩年の謙信が景勝の更なる地位の補強を図っていたという見方もある(ただし弾正少弼を与えることで関東管領職候補から景勝を外す意図であったとする意見もある)。

謙信が没する直前の天正5年(1577年)12月に作られた上杉家家中名字尽手本には、景勝の名は記載されておらず、この頃には上杉家家臣・上田長尾家当主としてではなく、謙信の子として扱われている事が伺える。

上記の官途の問題も影響し、謙信は関東管領職を景虎に、越後国主を景勝にそれぞれ継がせるつもりであったと論ずる研究者もいるが、いずれにせよ現段階の研究では、景虎の関東管領・景勝の越後守護相続による分権説、景虎と景勝のどちらかを唯一の正統な後継者と目する説のどれも通説とは言い難い。

乱の勃発 [編集]
景勝と景虎の後継争いは死の直後から小規模ながら勃発し、早くも翌14日には景虎派と目されていた柿崎晴家が景勝方に暗殺されたと言われる。しかし晴家の死亡時期や死因には諸説あり、断定されているわけではない。また一級史料による正確な日付は不明であるが、景勝はその後いち早く春日山城の本丸に移ったものと考えられ、金蔵、兵器蔵を接収、3月24日付の書状において国内外へ向け後継者となったことを宣言し、三の丸に立て籠もった景虎に攻撃を開始する。3月中に戦闘が起こったかどうかはわからないが、この頃の景勝の書状に「鬱憤を晴らすための戦い」とあり、景勝の本丸入りも両派の城内戦の末であったと考えられる。

4月に入ると、会津蘆名氏家臣の小田切盛昭が、本庄秀綱らと共に景勝方の菅名綱輔を牽制し、盛昭は16日に蘆名盛氏へ状況を報告している。このような睨み合いが越後各地で続いていたようである。

5月5日には大場(上越市)において景勝方と景虎方が衝突、春日山城でも景勝方の本丸から景虎方の三の丸に攻撃を始めた。同月半ばに景虎が退去するまで春日山城を舞台としての交戦状態が続き、その間を利用して景勝・景虎双方とも越後諸将に対する工作を展開していった。

上杉家中の去就 [編集]
景勝方 [編集]

上杉謙信の甥上杉景勝景勝方には以下の諸将が加担した。直江信綱や斎藤朝信、河田長親といった謙信側近・旗本の過半数(特に大身の直江・山吉の参陣が大きい)が加担している点、及び新発田・色部・本庄といった下越地方の豪族である揚北衆(あがきたしゅう)の大身豪族が加担している点が特徴である。特に謙信側近中の重鎮や謙信旗本の多くが景勝に就いていることから、上杉家家中では景勝が後継者と見做されていたのではないかという意見もある。上杉一門の加担者では、謙信の4人の養子のうち当事者である景勝・景虎以外の、上条上杉氏を継いだ上条政繁や山浦上杉氏を継いだ山浦国清が味方している。

上条政繁:上杉一門(上条上杉家当主)。刈羽郡上条城主。『上杉氏軍役帳』では軍役96人。
山浦国清:上杉一門(山浦上杉家当主)で実父は村上義清。蒲原郡白河荘山浦領主。『上杉氏軍役帳』では軍役250人。
山本寺孝長:上杉一門。山本寺上杉家当主であった定長の実弟。
甘粕景持:小荷駄奉行。山東郡桝形城主。
柿崎千熊丸:柿崎晴家嫡男。
河田長親:謙信側近。越中国松倉城主。
斎藤朝信:謙信側近。刈羽郡赤田城主。「上杉氏軍役帳』では軍役213人。
直江信綱:謙信側近。直江景綱の婿。山東郡与板城主。
鯵坂長実:謙信旗本。七尾城代のうちの1人。
今井国広:謙信旗本。下平氏一族。魚沼郡千手城主。
上野家成:謙信旗本。上野国利根郡沼田城代。
千坂景親:謙信旗本。蒲原郡内領主。
山吉景長:謙信旗本。木場城主。
吉江宗信:謙信旗本。蒲原郡吉村領主。
吉江景資:謙信旗本。父は吉江宗信。
大石綱元:上杉氏重臣。関東管領家古参。
北条高定:上杉氏重臣。刈羽郡佐橋荘領主。『上杉氏軍役帳』では軍役105人。
安田顕元:上杉氏重臣。刈羽安田氏当主。刈羽郡安田城主。
色部長実:揚北衆色部氏当主。岩船郡平林城主。
新発田長敦:揚北衆新発田氏当主。謙信側近。蒲原郡新発田城主。『上杉氏軍役帳』では軍役194人。
五十公野治長:揚北衆新発田長敦の弟。蒲原郡五十公野城主。後に新発田重家と改名。
長沢道如斎:揚北衆新発田長敦の義弟。蒲原郡三条町奉行。後に五十公野信宗と改名。
中条景泰:揚北衆中条氏当主で実父は吉江宗信。蒲原郡鳥坂城主。
本庄繁長:揚北衆本庄氏当主。岩船郡本庄城主。
安田長秀:揚北衆蒲原安田氏当主。蒲原郡白河荘安田城主。
須田満親:信濃国高井郡領主。
狩野秀治:景勝側近。
樋口兼豊:景勝側近。兼続・与七の父。
樋口兼続:景勝側近。兼豊の長男。後に直江兼続と改名。
樋口与七:景勝側近。兼豊の次男。兼続の弟。後に大国実頼と改名。
岩井信能:信濃国人出身。
景虎方 [編集]
景虎方には前関東管領・上杉憲政や上杉一門衆の多くが加担した。越後長尾家は長年一門同士の権力争いが激しく、特に上田長尾家と古志長尾家は謙信時代にも敵対しており、上田長尾家出身の景勝が上杉家当主となることは、古志長尾家からすれば到底認められるものではなかった。このほか、上杉家臣団では大身である北条高広も加担し、本庄秀綱ら謙信の旗本・側近で景虎に味方した者も少なくない。揚北衆の一部も加担しているが、これには本庄氏や新発田氏との対立関係も影響している。もう一つの特徴としては、周辺の戦国大名がことごとく景虎方に加担している点が挙げられる。血族である北条氏や、その同盟者である武田氏、奥羽からは同じく北条家と同盟関係にあった伊達氏に加え、蘆名氏・大宝寺武藤氏が加担している。このことから、景虎の支援に実家である北条家の力が大きく働いていたことが伺え、対外的には景虎が後継者と見なされていたのではないかという意見もある。

上杉憲政:前関東管領。
上杉憲重:父は上杉憲政。
上杉景信:上杉一門(古志長尾氏当主)。『上杉氏軍役帳』では軍役81人。
山本寺定長:上杉一門(山本寺上杉家当主)。頸城郡不動山城主。『上杉氏軍役帳』では軍役71人。
琵琶島善次郎:上杉一門。弥七郎の子か?
桃井義孝:謙信の客将、伊豆守。飯山城主。
神余親綱:謙信側近。蒲原郡三条城主。外交担当。
河田重親:謙信側近。長親の叔父。
柿崎晴家:謙信側近。千熊丸の父で、頸城郡柿崎城主。当時には既に没していたとも。
本庄秀綱:謙信旗本。古志郡栃尾城主。『上杉氏軍役帳』では軍役240人。
椎名景直:謙信旗本。長尾家出身で越中国小出城主。『上杉氏軍役帳』では軍役81人。
堀江宗親:謙信旗本。頸城郡鮫ヶ尾城主。
北条高広:上杉氏重臣。上野国厩橋城主。
北条景広:上杉氏重臣。父は北条高広。
鮎川盛長:揚北衆鮎川氏当主。岩船郡大葉沢城主。
黒川清実:揚北衆黒川氏当主。蒲原郡黒川城主。
加地秀綱:揚北衆加地氏当主。蒲原郡加地城主で、景勝の従兄弟にあたる。
本庄顕長:本庄繁長嫡男。
下久長:父は守護上杉家被官・下重実で、奥山庄領主。
岩井成能:信濃国人出身、信能の伯父。
蘆名盛氏:蘆名氏当主。陸奥国会津郡黒川城主。
金上盛備:蘆名氏重臣。蒲原郡津川城主。
小田切盛昭:蘆名氏家臣。蒲原郡笠萱城主。
伊達輝宗:伊達氏当主。出羽国米沢城主。
武田勝頼:甲斐武田氏当主。甲斐国府中・躑躅ヶ崎館主。のちに景勝方と和睦し戦場を離脱する。
北条氏政:北条氏当主。相模国小田原城主。景虎の実兄。
北条氏照:武蔵国滝山城主。氏政の次弟で景虎の実兄。
北条氏邦:武蔵国鉢形城主。氏政の三弟で景虎の実兄。
武藤義氏:大宝寺武藤氏当主。出羽国尾浦城主。
景虎の攻勢と周囲の加勢 [編集]
工作によって諸将の旗幟が鮮明になってきた5月13日、景虎が三の丸から退去して同日のうちに御館に移り、籠城して北条氏政に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城城下に放火を行うなど撹乱戦術を展開した。17日には約6000の兵で春日山城を攻め立てたが、撃退された。

景虎方は体勢を立て直し、22日にも再び春日山城を攻めたが、結果は変わらなかった。この頃になると、他方面でも景勝方・景虎方の交戦が展開されていった。中でも上野では北条高広・景広父子が中心となり、三国峠を守る宮野城目指して進軍を開始した。この方面では景勝方はよく持ちこたえたものの景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方は後詰めを得られなかった景勝方の宮野・小川等の城をことごとく奪い、小田原の北条勢を越後へ引き入れる態勢を作り上げたのである。

ところが、氏政・氏照ら北条軍主力は、折しも鬼怒川河畔において佐竹・宇都宮連合軍と交戦中であり、遠方の越後に向けて早急に救援軍を派遣できる状況では無かったので、当面の策として同盟国の武田勝頼に景虎への助勢を要請した。これを受けて勝頼は、5月下旬に武田信豊を先鋒とする2万の大軍を信濃経由で越後に送り込み、5月29日頃に信越国境付近に到着した。

景虎はさらに、奥羽の蘆名盛氏・伊達輝宗らにも援軍を要請した。これに応えて蘆名勢は蒲原安田城を攻略、さらに兵を新発田へと進めたが、景勝方の五十公野治長の頑強な抵抗に遭って食い止められた。とはいえ、この時点においては戦局は依然として景虎方有利であった。

景勝、勝頼を買収する [編集]
三方から攻め立てられ形勢が不利になった景勝は、先鋒の信豊を通じて勝頼に「武田が充分潤うほどの金額の黄金」(『甲陽軍鑑』では「一万両」と明記しているが、正確な額は不明。「一万両」は誇張という見方もある)と上野沼田の武田領有(謙信死後に北条氏政が占領)、そして景勝・武田の同盟を提案して和議を申し入れた。

景勝方に武田の内情等がどれだけ知れ渡っていたかは不明であるが、長篠の戦いで惨敗し、織田信長・徳川家康の圧迫を受けている時期に大軍を派遣してきたことに驚いている史料もある。景勝方が勝頼の一番痛いツボをどのようにして知ったかも不明だが、ともかく出兵に次ぐ出兵で金欠に苦しんでいた勝頼にとって、莫大な収入はまたとない吉報であった。しかし和議を申し入れられた側の信豊はあまりに話がうますぎると判断し、とりあえず勝頼の指示を仰いだ。その勝頼は6月に入って出陣したが、景勝方の和議が本気なのかどうかいまだ信じかねていた。

6月12日、海津城に入った勝頼は信豊と協議した結果、同盟締結を受け入れた。勝頼は小田原北条氏、特に氏政の動きが遅いことや家康の圧迫が日増しに大きくなっていたこともあり、景勝方との同盟を受け入れたわけであるが、結果的に勝頼のこの判断が乱の顛末のみならず、勝頼、ひいては武田家自体のその後の運命を半ば決めてしまう格好になってしまった。

戦局逆転 [編集]
武田を金で封じ込めた景勝方は、背後を気にする必要がなくなった。同盟締結の12日には長尾景明を討ち取って直峰城を奪取し、春日山城と景勝の本城であった坂戸城の連絡が可能となった。逆に景虎方は翌13日には景明に続いて上杉景信をも討ち取られ、日に日に形勢が不利となっていった。景勝方は勢いに乗り、中越地方の景虎方の諸城への圧迫を強めていった。形勢を見ていた勝頼は、春日山城近辺まで進撃しつつ景勝との和議交渉を本格化させ、29日に和議が成立した。

勝頼は景勝・景虎双方にも和睦を提案し、8月ごろにはいったん和議が成立したもののすぐ破談となった。しかし勝頼からすれば手出しできないもどかしさはあろうとも、とりあえず金と景勝との和議という果実を手に8月28日に撤兵した。9月に入ると氏政がようやく本腰となり、氏照・氏邦が氏政の命を受け越後に向けて進軍を開始した。小田原北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、小田原北条勢は樺沢城に氏邦・高広らを置き、景広を遊軍として残置し撤退した。

春日山城下を撤退した武田勢はこの頃、春日山城・御館と坂戸城の間を当てどなく徘徊していただけであったが、結果的に景虎方・小田原北条勢に対する抑止力となった。10月に入ると、景虎方では御館を初めとして兵糧の窮乏が相次いだ。いったんは兵糧搬入に成功し、春日山城を攻め立てたりもしたが、如何せん諸将との連絡が途切れがちなので勢いは知れたものであり、この状態で年を越すこととなった。なお、景勝は12月に勝頼の妹・菊姫と婚礼を挙げている。

景虎の滅亡と乱の収束 [編集]
外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の収束を決心した。一方、景虎方は味方の相次ぐ離反や落城を止めることが出来ず、窮地に陥った。そして天正7年(1579年)2月1日、景勝は配下諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じた。早くも同日には景広を討ち取り、方々に火を放った。

小田原北条勢の橋頭堡であった樺沢城も景勝方に奪回された。雪に阻まれて北条勢からの救援も望めず、3月17日には謙信の養父である上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。御館は放火され落城し、景虎は御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主堀江宗親に攻められ、24日に自害した。

越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となったが、最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを攻めて最終的に乱が収束したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことであった。

周辺とその後への影響 [編集]
乱は景勝の勝利に帰したが、深刻な負の影響を残した。まず血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事侵攻に苦慮することになる。また恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらした。

戦後に与えられた恩賞は、景勝の出身母体かつ権力基盤である上田衆に多く与えられたため、恩賞を巡るトラブルで安田顕元らが非業の死を遂げ、さらには不満を抱いた新発田重家が蘆名盛隆・伊達輝宗に通じて自立する。この反乱鎮圧には実に7年もの歳月を要した。

加えて、この内乱の隙を突いて信長配下の柴田勝家が上杉領及び同盟勢力である加賀や能登、越中を席捲し、会津からも改めて蘆名盛隆が侵攻してくるなど、この御館の乱は謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく後退させたのである。

御館の乱は、武田家滅亡の遠因にもなった。氏政は、実弟(異説もある)の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼した。当初、勝頼は景虎を支援して自ら出陣したが、その後景勝支援に回る。その理由として、隙をついた徳川家が遠江・駿河方面に侵攻してきたこと、北条氏の景虎救援の動きが鈍く消極的なことから同盟者としての信頼が揺らいだこと、景虎の勝利により北条家が勢力を拡大させること(具体的にいえば、上杉家と北条家が一体化することで三日月を描くように武田領が包まれる形)を警戒したこと、景勝が講和条件として上野沼田領の割譲と黄金の提供とを申し出たこと等が挙げられる。

これに対し、越後の豪族達の支持を得る必要性があった景虎は、逆に勝頼に北信濃等の譲渡を求めていた。これにより、武田家中では景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼は景虎を裏切って景勝との和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。氏政はこれを勝頼の背信として第二次甲相同盟を破棄し、天正7年(1579年)に徳川氏と、翌8年(1580年)に織田氏と同盟する。これにより、上杉氏の国力が著しく疲弊していく中で武田氏は三方に敵を迎える。北関東では北条氏を圧倒した勝頼であったが、逆に駿河沖での海戦では大型安宅船をもつ北条水軍に敗北、さらに度重なる伊豆・東海道方面の戦いでは北条・徳川両家の共同作戦によって勝頼は東西に振られることとなり、武田家の経済状況は逼迫した。これは駿河を統治する穴山信君の負担と不満を増大させ、武田家の弱体化の大きな要因の1つとなった。

天正10年(1582年)の織田・徳川・北条勢による武田征伐は、結果的に上杉氏に重大な危機をもたらす結果となった。景勝には同盟者勝頼を支援する余力はなく、武田氏は約1か月で滅亡し、越後と接する旧武田領はことごとく織田領と化して緩衝地帯が消滅し、上杉は全方向を敵に囲まれることになり、これまで戦ってきた北陸の柴田勝家、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆に加えて、信濃から森長可、上野からは滝川一益にも攻め込まれ、崩壊一歩手前まで追い詰められた。しかし、本能寺の変によって織田軍は退却し、織田領となっていた旧武田領は景勝と家康・氏政が奪い合い、景勝は北信濃を支配下に置くことができたが、それ以上積極的な動きをすることができなかった。

景勝を取り巻く状況は依然として厳しかったが、蘆名盛隆が天正12年(1584年)に、伊達輝宗が翌13年(1585年)に相次いで死んだことにより、後ろ盾を失った新発田重家に対しようやく有利に戦いを進められるようになった。天正14年(1586年)、信長の後継者争いを勝ち抜いた羽柴秀吉が、石田三成を通じて景勝に臣従を求めてくると、景勝は上洛して秀吉の傘下に入った。以降、景勝は秀吉の全面的な支援の下、重家を討ち取り、佐渡・出羽庄内を領有する。豊臣政権に早くから服従した景勝は秀吉からの信任が厚く、慶長3年(1598年)に秀吉の命により会津に移封される。会津への移封は東北諸大名と家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなる。関ヶ原の役の直接の原因となった景勝は、慶長6年(1601年)には米沢へ減移封され、信越に覇を唱えた上杉家も景勝一代で東北の一大名へと没落した。

参考文献 [編集]
阿部猛・西村圭子:編『戦国人名辞典』(新人物往来社 1987)
福田誠「上杉激震!御館の乱 龍を継ぐ者たちの仁義無き抗争」(『歴史群像』2007年4月号 学習研究社)