【杖刀人首】
【杖刀人首】
銘文によると、ヲワケの臣はその七人の祖先の名をあげながら、世々杖刀人の首として奉事し、今に至ったことを誇示している。杖刀人が大王の親衛隊をさすことは、多くの人が共通して指摘しているので、かれは親衛隊の長として活躍していたとみてよいだろう。
ただし、その地位が上祖先以来のものかどうかについては、簡単に事実とするわけにはいかない。
先祖七人の生きた時代は、一世代の重ならない年数を約二五年とすれば、ヲワケの臣より一七五年ほ
ど昔にさかのぼる。四七一年説をとれば、三世紀の末ごろにまでいき、五三一年説をとっても、それ
は四世紀の中ごろのことになる。古墳がつくられはじめたこと、あるいはそれからまもなく、大王の
親衛隊の長として活躍しはじめたというわけである。
しかし系譜というものは、必ずしも事実そのままを伝えるとはかぎらない。系譜の骨格は始祖H上
祖の名、および自分がその始祖の子孫だということを強調する点にある。自分と始祖のあいだの人物
の名や数は、その必要と時代に応じて省略されたり、逆に増補されたりする場合が多いのである(原
島「埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘について」『歴史評論』一九七九年二月号参照)。したがって、七人の人物のすべてを実在していたとみることは、ほかに証拠となるものがなければ、やはりむりだろうとみざるをえない。
それにしても、この銘文がつくられた五世紀の末から六世紀にかけては、大王の王統譜がしだいに
固まりはじめた時代である。銘文中の系譜がそれとどの程度の関わりをもっていたのかは、みのがせ
ない問題だろう。そこで皇統譜と銘文中の系譜を対比してみよう。
以下省略
Bオホヒコダカリテヨカリータカビシタサキハテヒカサヒョーヲワケ
Aは『古事記』『日本書紀』が伝えるものだが、AとBを対比すると、オホヒコは辛亥年H四七一
年説をとっても、崇神天皇よりも一世代あとに位置づけられる。五三一年説をとれば、さらに二世代
すれるだろう。
ところで、このAをさらに分析して、『古事記』『日本書紀』の時代よりも古いころの王統譜が推定復原されている、Aは八世紀のはじめまでに到達した完成期の皇統譜だから、これより二〇〇年以上前につくられたBと比べるには、Aより前の王統譜がふさわしいのである、そこで以下に、前之園亮
(原島礼二 古代東国の風景 吉川弘文館 平成5年 \1980 P62-63)