【松根油】
【松根油】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられ、戦時中の日本の窮乏ぶりを語る例としてしばしば取り上げられる。
松根油はよく樹液や樹脂(松やに)あるいはそれらからの抽出物と混同されるが、このうち樹液は木部を流れる水および師部を流れる糖などを含む水溶液であり関係ない。松根油はテレビン油の一種であり、上質なテレビン油は松やにを水蒸気蒸留して得るが、松根油はマツの伐根を直接乾溜して得られるものであり、採取した松やにから得るものではない。戦前は専門の松根油製造業者も存在し、塗料原料や選鉱剤などに利用されていた。昭和10年頃の生産量は6,000キロリットルほどであった。
目次 [非表示]
1 成分および製法
2 日本における航空燃料としての利用の試み
3 参考文献
3.1 出典
4 関連項目
5 外部リンク
成分および製法 [編集]
松根油の成分は主にα-及びβ-ピネンなどのテルペノイドだが、戦時中に松根油を担当した研究者による再現実験では、モノテルペンとジテルペンをほぼ等量含み少量のセスキテルペンその他を含む混合物が得られている[1]。当時の製法では、発掘した伐根を小割にして乾溜缶に入れ、最終的に300度程度にまで加熱して得られた揮発成分を冷却液化していた。この段階で得られたものを松根原油あるいは松根粗油と呼ぶ。大量の木酢液やタールが同時に発生するが、比重差を用いて分離が可能である。松根粗油を蒸留精製して松根油を得た。
松根油の製造には老齢樹を伐採して10年程度経った古い伐根が適しており、収率は20%?30%にも達する。新鮮な伐根では松根油の収率は10%程度である。樹脂を多く含むマツの伐根は「あかし(松明)」「ひで(肥松:こえまつとも読みこれは樹脂分の多いクロマツ材をいうこともある)」などと呼ばれ、それ自体が照明用燃料として長い歴史を持つ。戦時中の宣伝によると「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」とされていたが、これは数十年かけて育ったマツ1本を消費してもわずか18秒分にしかならないということであり、バイオマスエネルギー資源としては効率及び再生産性に欠ける。
この他にテルペノイドを主成分とするバイオマス資源としては、柑橘類の皮がある。
日本における航空燃料としての利用の試み [編集]
1944年(昭和19年)7月、ドイツではマツの木から得た航空ガソリンを使って戦闘機を飛ばしているとの断片的な情報が日本海軍に伝わった。日本でも南方からの原油還送が困難となって燃料事情が極度に逼迫していたため、国内で同様の燃料を製造することが検討された。当初はマツの枝や材を材料にすることが考えられたが、日本には松根油製造という既存技術があることが林業試験場から軍に伝えられ、松根油を原料に航空揮発油(ガソリン)を製造することとなった。
1944年10月20日に最高戦争指導会議において松根油等緊急増産対策措置要綱が決定され、1945年(昭和20年)3月16日には松根油等拡充増産対策措置要綱[2]が閣議決定された。原料の伐根の発掘やマツの伐採には多大な労力が必要なため、広く国民に無償労働奉仕が求められた。得られた伐根を処理するため大量の乾溜装置が必要となり、計画開始前には2,320個しか存在しなかったところ、同年6月までに46,978個もの乾留装置が新造された。これらは原料の産地である農山村に設置されて、大量の松根粗油が製造された。その正確な量については不明であるが、『日本海軍燃料史』(上)45ページには「20万キロリットルに達す」という記述があるという。
製造された松根粗油は、各地に配置された第一次精製工場で軽質油とその他の成分に分け、そのうち軽質油をもとに第二次精製工場で水素添加などの処理を施し他の成分を加えて、航空揮発油を製造する計画であった。第二次精製工場の主力は四日市市と徳山(現周南)市の海軍第二・第三燃料廠であった。しかし四日市では度重なる空襲により最終製品の製造には至らず、徳山でも1945年5月14日から生産された500キロリットルの完成を見たのみである。
製造された航空揮発油はそのまま使用できるものではなく、エンジンを含めテストと調整が必要であった。戦後進駐軍が未調整のままのものをジープに用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるという。なお、海軍の当初計画でもテストおよび調整が完了し実戦に投入されるのは1945年(昭和20年)後半の予定であった。
この松根油確保の為に、谷田部海軍航空隊の練習航空隊の学生も借り出されている。この任に予備学生14期として従事した、元鹿屋海軍航空隊昭和隊所属の杉山幸照少尉曰く、当時に「こんなものを掘って、いつまで続くもんかなあ……」と思った著書で述べている。
戦後残された松根油は、漁船の燃料として活用された。
参考文献 [編集]
脇英世「三燃最後の生産物・松根油」『徳山海軍燃料廠史』第三編第二章、脇英世ほか、徳山大学総合経済研究所<徳山大学研究叢書7号>、1989年。
杉山幸照著「海の歌声」、行政通信社、1972年。
出典 [編集]
1.^ 松根油抽出実験
2.^ 松根油等拡充増産対策措置要綱1945年(昭和20年)3月16日 閣議決定 (国立国会図書館 議会官庁資料室)
関連項目 [編集]
テレビン油
バイオ燃料
外部リンク [編集]
松根油は語る(上記「松根油抽出実験」はこの一部)
「松根油」(しょうこんゆ)を訪ねて
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%A0%B9%E6%B2%B9」より作成
カテゴリ: 燃料 | 木材 | 化成品
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070815104.htm
◎消えゆく戦争の痕跡 代替燃料「松根油」採取 戦後、クロマツ600本枯死 小松・安宅
戦時中、松根油の原料として活用されたクロマツ。今でも傷跡が残る=小松市安宅町
小松市安宅海岸の防砂林で戦時中、ガソリンの代替燃料だった松根油(しょうこんゆ)の原料を採取していたクロマツが、終戦直後に比べて約六百本減ったことが分かった。松くい虫の被害などが原因で、「ガソリンの一滴は血の一滴」と称された歴史の証が徐々に姿を消していく光景に、地元関係者は時代の流れとしながらも、戦争の痕跡や記憶が遠のく現状に寂しさを募らせている。
安宅住吉神社周辺の海岸では、藩政期から大正期にかけ、防砂と防風を目的にクロマツが植えられた。太平洋戦争末期に航空機用のガソリンが枯渇すると、国家プロジェクトとして松根油を代替燃料とすることが決まった。松根油は「二百本の松で航空機が一時間飛べる」「戦闘機の血液」などと周知され、旧海軍小松航空基地での活用も目的に集められたとみられる。
安宅海岸の国有林約二十四ヘクタールでも一九四四(昭和十九)年ごろから約千五百本の木で松根油の原料となる松やにが採取され、学徒動員された小中学生が懸命に幹をはがした。今でも木肌に一メートル前後に斜めに傷を入れた松が所々に残り、戦争の痕跡を伝えている。
同神社の北村嘉章祢宜(ねぎ)(53)によると、終戦直後は約一万五千本の松がうっそうと茂っていたが、次第に松くい虫にやられ、どんどん数が減っていった。管理する石川森林管理署と同神社は、防除や間伐のほか、松くい虫の天敵であるキツツキ科のアカゲラを放つなどしているが、一九七〇(昭和四十五)年前後に約五千本が枯れ果てた。さらに記録的な猛暑だった二〇〇五、〇六年にも約千本が枯死したため、戦争の痕跡を伝える松も千五百本から九百本に減り、このままでは老木が全滅する可能性もある。
北村祢宜は「傷がある木からは、今でも樹液がしみ出すことがあり、戦禍を今に伝えているようだ。平和の尊さをとどめる宝として一本でも多く後世に残していきたい」と話している。