【永享の乱】

【永享の乱】

足利持氏の憤懣

室町幕府四代将軍足利義持は、宇都宮・佐竹(山入)・常陸大掾・小粟・真壁・那須・白河・結城など北関東や南陸奥の国人を「京都様御扶持衆」として組織し、鎌倉府の勢力に対抗させた。その後、五代将軍義量(よしかず)の短い治世ののち、義教(よしのり)が六代将軍となると、鎌倉公方足利持氏は、自分が将軍後嗣となる希望を絶たれたため、すこぶる不満で、正長2年(1429)9月、年号が永亨に改元されたのに、依然として正長の年号を使用しつづける。
                                        二
このことは幕府からの独立を表明することにほかならない。市内荒幡の板碑に、「正長二(四)年」とあるのはこのためであろう(中世資料172p)。正長3年銘の板碑は、このほか新座市に2基、狭山市に1基残っている。

鎌倉府管領上杉憲実(のりざね)の努力により、何回目かの幕府との和解が成り、持氏は永享3年(1431)8月から、永享の年号を用いた。しかし、その後も持氏の反幕府的行動は止まず、永享七年には常陸国の長倉義成(よしなり)討伐の軍を派遣した。

扇谷上杉氏に従って、江戸・品川・河越・松山・深谷の武士たちと、武州一揆も出陣した(『長倉追罰記』)。また、永享9年4月には、幕府の分国である信濃国へ武州本一揆らを派遣しようとした。諌言する上杉憲実と持氏との間は険悪となり、永享10年8月14日、憲実は上野国白井城(群馬県北群馬郡子持村)に退去した。『鎌倉大草紙』よると、上野下向を進言したのは大石重仲らである。重仲は武蔵守護代大石憲儀の弟と推定されている。

永享の乱

これが永享の乱の発端で、持氏は鎌倉を三浦時高に守らせ、8月16日、武蔵国府中の高安寺(東京都府中市)に出陣した。憲実の上野退去は幕府と連絡ずみの行動であって、幕府から伊達氏への奉書は「関東の事、上杉安房下国の上者、時日を廻らさず発向有るべく候」と書かれているのに、日付はなんと8月13日である。

幕府側の連合軍は、9月27日、箱根早川尻で持氏軍を破る。10月3日、鎌倉の留守を守る三浦時高が寝返って三浦に帰る。憲実は10月6日、上野白井城を出て、同19日、武蔵国分倍河原(東京都府中市)に進出、17日に三浦軍が鎌倉へ攻め入った。こうして永享の乱は合戦らしい合戦もなく持氏方の敗北に終わり、4代90年にわたる鎌倉府の支配はいったんとじられる。

なお翌永享11年2月10日、持氏が自害した折、その首を切ったのは浅羽下総守の子の金子入道であり、金子入道はその賞として常陸国下妻庄(茨城県下妻市)内の所領を与えられたという(『持氏滅亡記』)。

四結城合戦

安王丸.春王丸の挙兵

永享の乱の折、鎌倉を脱出した持氏の子安王丸・春王丸は、永享12年(一四四〇)3月、持氏の余党に擁立されて、常陸中郡荘木所城(茨城県西茨城郡岩瀬町)に挙兵した。同月21日、結城氏朝に迎えられると、恩顧の武士たちに呼びかけ、2万の兵を集めた。一方、鎌倉では山内上杉清方が総大将、扇谷上杉持朝が副将となり、率いる兵10万という。永原慶二氏の評価によると「東国の豪族のほとんどといってよい家々で両軍に分かれて戦って」君り、概して惣領側が幕府=上杉側についている。
(所沢市史 上 p338-339)