【池田頼方】
【池田頼方】
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池田 頼方(いけだ よりかた/よりまさ、享和元年(1801年) - 明治9年(1876年)2月17日)は江戸時代末期(幕末)の幕臣、旗本。
系譜 [編集]
池田頼功の子。官位は従五位下、播磨守。安政の大獄における江戸町奉行で、現場の指揮官。妻は摂津国三田藩主九鬼隆国の娘。養子に池田頼誠。
遠祖下間頼龍は下間(しもつま)の家名を称え、その子・頼広(池田重利)は縁戚の池田輝政に従軍し、徳川家康より播磨国新宮藩1万石を賜るものの、子孫邦照が幼死し改易。邦照の弟重教に3000石が下され、以後、交代寄合として家名継承し、頼方の代へと続く。
経歴 [編集]
※日付は旧暦。
天保3年(1832年)8月7日、寄合のまま、火事場見廻を兼帯。隼人を称す。
天保4年(1833年)9月19日、寄合肝煎に異動。
天保7年(1836年)9月20日、西丸(世子徳川家慶。家慶将軍就任の後は、世子徳川家祥)目付に異動。在職中、隼人から将監に改称す。
天保8年(1837年)11月1日、浦賀奉行に異動。
天保12年(1841年)9月24日、奈良奉行に異動。在職中、従五位下に叙位。播磨守に任官。時に石高3000石。
弘化3年(1846年)1月11日、普請奉行に異動。
嘉永元年(1848年)11月8日、勘定奉行・公事方に異動。
嘉永3年(1850年)7月、道中奉行兼帯。この年、上州侠客国定忠治に死刑(磔)を申し渡す。
嘉永4年(1851年)、老中阿部正弘の命により、寺社奉行脇坂安宅、江戸南町奉行遠山景元と共に、恩赦に関する公式な制度の確立の為制定作業に携わる。
嘉永5年(1852年)3月30日、江戸南町奉行に異動。
安政4年(1857年)5月22日、序列を留守居次席とする。12月28日、大目付に異動、海防掛を兼帯。
安政5年(1858年)2月2日、鉄炮改兼帯。7月6日、幕府上使として、水戸藩前藩主・徳川斉昭に対して不時登城の咎により謹慎の沙汰を申し渡す。10月9日、江戸南町奉行に異動。序列は、留守居次席。
安政6年(1859年)2月3日、勘定奉行・公事方兼帯。11月、安政の大獄における吉田松陰の判決に際し、流罪を相当とし、大老井伊直弼に書面を提出するが、井伊の裁可によって覆され、死罪と書き改められる。
万延元年(1860年)3月3日、大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後、幕府は評定を五手掛(構成員:寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付)で行い、町奉行では池田が評定所の構成員となる。同年12月5日、アメリカ通訳官ヒュースケンが惨殺された事件で池田は犯人捜索を命じられる。
文久元年(1861年)5月26日、寄合に異動。
文久2年(1862年)10月24日、寄合肝煎に異動。11月23日、桜田門外の変に際して、大老井伊直弼の死を隠蔽した罪により寄合肝煎差扣。寄合となる。
文久3年(1863年)10月8日、寄合肝煎に異動。
元治元年(1864年)7月2日、書院番頭(二番組)に異動。7月6日、江戸北町奉行に異動。
元治2年(1865年)2月21日、序列を留守居次席とする。
慶応2年(1866年)6月29日、勤仕並寄合に異動。
武蔵金沢藩主米倉昌寿の7男を養子とし、池田頼誠と名乗らせ後を継がせた。
墓所は東京都台東区の大雄山海禅寺。法名:普聞院殿圓應萬籟居士
逸話 [編集]
江戸町奉行を3度歴任。他者に例はない。また、稀有な事例として江戸町奉行で勘定奉行を兼帯する時期もあった(他に鳥居耀蔵)。