【神仏分離令】
【神仏分離令】
神仏分離令 しんぶつぶんりれい
アジア 日本 AD1868 明治時代
1868年(明治元),明治国家の神道国教代政策への地ならし政策として,神道擁護,神仏混淆の廃止を目的として出された法令。復古神道の影響下で,天皇の神聖化を目的とする。1868年(慶応4)3月13日,神仏判然令によって具体化されたもの。これによって中世以来の神仏習合の状態を改めるための一連の改革がなされている。それによって太政官布告は,神社と神主以下の神職の神祇官直属を命令し,同17日には社僧・別当の復飾をみとめ,同28日には神仏混淆廃止が神道事務局より命令が伝達された。そして神仏分離令の中核とされ,社僧・別当の還俗,神職の神策への道が開かれて,神仏分離が強攻され,祭政一致,神道国教化政策への道を地均した。その事務局は平田派,大国派の国学者が中心となり,幕末以来の神道宗門運動の具体化でも一部あり,排仏毀釈をともなっている。その結果,社僧干与の民俗芸能は中絶状態となり,維新の断絶の影響も少なくなかった。
【神仏混淆】日本民族は在来の神道宗教と外来宗教としての仏教とが接触することによって融合・混淆現象がおき,また神仏習合とも呼ばれる現象がかなり早いころから始まってきた。仏教伝来の当初はその宗教領域において教義・教理面で神社祭祀に影響を与えたため,仏像,幡蓋,経巻建築に魅了された貴族や知識文化人たちは仏教美術文化の影響をうけた。そのため仏教文化の定着・土着化のなかで広く国民のなかに入り,古神道をおえた神代の致祀,民俗宗教と法令,教義とその選択のなかで,具体的な形で影響をうけるにいたった。それが本地垂迹説とか,神宮寺,別当寺を建立し,寺院の境内中に地主神をまつるにいたった。こうした神仏習合の矛盾に対し反本地垂迹説を説いて神仏分離を説くものもあったが,それが強まるのは幕末をまたねばならなかった。そうした傾向は葬式仏教化によって仏教が民俗土着化とともに俗化し,宗教性を稀薄としたこと,仏僧や寺院が生活指導したが,しだいに俗化し精神教化の実を失って習俗化したこと,そして民族本来の祖霊信仰,祖先祭祀へと傾斜して,仏教からいえば異端化し,逸脱して,神道の本来のものを再興させる条件が具備しつつあった。こうした機運に乗じて儒教神道,仏教神道をのりこえる形で,復古神道が形成されている。
【神仏分離】神仏習合を改め,神職を神祇官の直属とし社僧・別当の復飾,神仏混淆廃止の一連の政令が出て明治維新が実現し,神仏判然令が出た。その結果,神仏分離政策は,祭政一致,神道国教化を意図するものであった。具体的には神道事務局に属した大国隆正,福羽美静,矢野玄道,玉松操,亀井茲監,平田銕胤が仏教色を排除し,権現・薬師・菩薩の社名を廃止するにいたった。この種の行動はしだいに各地に波及するにいたった。とくに神仏判然令は,急速に廃仏毀釈へ向かわせる要因となっている。とくに苗木藩における廃仏帰神は,藩主指導型で行われ,路傍の地蔵,薬師の小堂まで片っぱしから破壊つくされ,仏具類などを所蔵するものはことごとく厳罰に処せられ,その結果として仏具,旧地を失ってしまった。1871年(明治3)9月,諸宗の寺院住職を呼びだし,彼ら僧侶個人の生活と社会的地位とを保障している。したがって旧体制の必ずしも否定ではなかったが,坊主への追求はきびしかった。その結果,蛭川村は全員神道へ改宗している。その運動の中心にいたのは奥田正道であり,平田没後の門人であった。そのためか中津川につくられた興風学校では学神祭までとり行われている。
【こうした動きの背景】片桐寿一(伊那座光寺平田門国学者)に例をとると「天下無窮泰平基録」で朝憲回復,屈辱条約の破棄,神道復興,仏教厳禁,古道学の振興,廃仏毀釈とあるような思想形成があったように,幕末以来醸成されていたものである。ところによっては神道宗門運動が行われ,慶応末年に伊那の小野では小作が祭林寺にあつまったのを怒り,倉澤義髄は檀那寺よりはなれている。そして神葬復礼運動を展開している。これなどはその背景の一つである。
〔参考文献〕芳賀登『草莽の精神』1970,塙書房
神仏分離へ
太 政 官 布 告・神 祇 官 事 務 局 達・太 政 官 達 など
★いわゆる「神仏判然令もしくは神仏分離令」に関する太政官布告・神祇官事務局達・太政官達 など
太政官布告 慶応四年三月十三日
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ,先ハ第一,神祇官御再興御造立ノ上,追追諸祭奠モ可被為興儀,被仰出候,依テ此旨 五畿七道諸国に布告シ,往古ニ立帰リ,諸家執奏配下之儀ハ被止,普ク天下之諸神社,神主,禰宜,祝,神部ニ至迄,向後右神祇官附属ニ被仰渡間,官位ヲ初,諸事万端,同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調,并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共,差向急務ノ儀有之候者ハ,可訴出候事
神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日
今般王政復古,旧弊御一洗被為在候ニ付,諸国大小ノ神社ニ於テ,僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ,復飾被 仰出候,若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ,可申出候,仍此段可相心得候事,但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ,是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候,官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間,当今ノ処,衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事,右ノ通相心得,致復飾候面面ハ,当局ヘ届出可申者也
神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
一、中古以来,某権現或ハ牛頭天王之類,其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候,何レモ其神社之由緒委細に書付,早早可申出候事,但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ,是又可伺出,其上ニテ,御沙汰可有之候,其余之社ハ,裁判,鎮台,領主,支配頭等ヘ可申出候事,
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ,以来相改可申候事,附,本地抔と唱ヘ,仏像ヲ社前ニ掛,或ハ鰐口,梵鐘,仏具等之類差置候分ハ,早々取除キ可申事,右之通被 仰出候事
太政官布告 慶応四年四月十日
諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、
但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、
太政官達 慶応四年四月二十四日
此度大政御一新ニ付,石清水,宇佐,筥崎等,八幡宮大菩薩之称号被為止,八幡大神ト奉称候様被.. 仰出候事
太政官達 慶応四年閏四月四日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、
但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、
是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
太政官より法華宗諸本寺へ達 明治元年十月十八日
王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被 仰出候処、於其宗ハ、従来三十番神ト称シ、皇祖太神ヲ奉始、其他之神祇ヲ配祠シ、且曼陀羅ト唱ヘ候内ハ、天照皇太神八幡太神等之御神号ヲ書加ヘ、剰ヘ死体ニ相著セ候経帷子等ニモ神号ヲ相認候事、実ニ不謂次第ニ付、向後禁止被仰出候間、総テ神祇之称号決テ相混ジ不申様、屹度相心得、宗派末々迄不洩様、可相達旨 御沙汰事、
但是迄祭来候神像等、於其宗派設候分ハ、速ニ可致焼却候、若又由緒有之、往古ヨリ在来之分ヲ相祭候類ハ、夫々取調、神祇官ヘ可伺出候事、
神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達 慶応四年閏四月十九日
一、神職之者ハ、家内ニ至迄、以後神葬相改可申事、
一、今度別当社僧還俗之上者、神職ニ立交候節モ、神勤順席等、先是迄之通相心得可申事、
★淀藩による神仏混淆禁止令
「触書」・・・慶応4年4月(9月に明治と改元)淀藩が領内寺社に対して出した「神仏混淆禁止令」の要旨は以下のとおり。
淀藩は現久御山町の領主であった。
1.・・牛頭天王と相称し候神号は相除き、・・元の神名又は地名・・等に相改め、何大明神・何の社と唱え替へる可
1.某権現と相称し候分、・・(同上)・・・と唱え替へる可
1.熊野権現は熊野大神宮と唱え替へる可
1、山王権現は仏号に付き、・・・・日吉大明神と唱え替へる可
1.寺院鎮守の向は、先ず其儘差置き苦しからず事
1.全て神前鰐口取除き、・・・員数書出し・・・
1.神社境内・・・(の)梵鐘取除き、・・・・・・・・・鐘楼堂は・・・其儘差置き申す可く候
1.同境内・・・(の)堂庵は・・其儘差置き、仏体・仏具ならびに印塔の類は取除き申す可く候
1.略
1.十禅師権現或は宮と唱え候分神体は取調べ仏像に候はば、取除き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.八王寺権現は、八王子(寺)大明神と唱え替へる可
1.若王寺、右同断
1.蔵王権現、地名等に相改め、何大明神・何の社と唱え替へる可
1.・・・准提観音、奥宮薬師は、取除き・・・・・、右の外にも神仏粉敷き義これ在り候はは、その旨申し出で可き事
1.神社境内・・・守護の寺院は仏具取除き社家に致し、出家は還俗の上、社人・神主に申し付け候御主旨に候・・・・
1.寺院境内・・・(の)氏神と申す程の神社にて、・・・神主所に致させ神勤め申し付け候義に付き、・・・
1.略
淀寺社方
神仏分離へ
(しんぶつぶんりれい)とは、慶応4年(1868年)3月13日から明治元年10月18日までにに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称。
明治以前修験道など神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教の境をはっきりさせた(神仏分離)。
神仏分離の傾向は江戸時代より各地で起こってきており、水戸藩や淀藩など独自の神仏分離令を出した藩もある。
神社にあった仏像仏具、ひいては寺院や仏像を破壊する廃仏毀釈運動がおきた。
神仏分離(しんぶつぶんり)は、仏教と神道は同一である神仏習合を否定し、神と仏、神道と仏教、神社と寺院とをはっきり区別させること。
その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指す。1868年(明治元)3月に政府より出された神仏分離令により公的に神仏分離が進められた。