【綿織物の歴史】

【綿織物の歴史】

[日本] 

日本に本格的に木綿が伝えられたのは室町時代のことである。それ以前、古く奈良時代にも木綿が舶載されていたことは、正倉院に伝わる2、3の木綿の断片によって知られ、また平安時代初期の799年(延暦18)には崑崙人が三河に漂着して、その種子を伝えたと《日本後紀》に見える。しかしその種子はほどなく絶えたものらしく、平安期を通じて木綿の資料は残っていない。

下って鎌倉時代になると黄緞(おうどん)(木綿と絹の交織)など渡来裂としての綿織物が若干認められる。室町時代に入ると、しだいに活発化した商船の往来によって各国の木綿が輸入されるようになる。最も早くは朝鮮からもたらされたもので、その交易の契機となったのは、倭寇に捕らえられた朝鮮人を送還するに際しての回贈品としてであった。交易が軌道にのると、特に朝鮮国内で正布(麻布)に替わって綿布が主として貨幣の役割を果たすようになった李朝第4代世宗(在位1418‐50)の時代には、日本との貿易品としても木綿が最も多くなり、その現象は日本の要求もあって成宗(在位1469‐94)の時代まで続いている。

しかし天文年間(1532‐55)の半ば以降に中国の華南地方から唐(から)木綿が輸入されるようになると、唐木綿の人気が高まり、これが朝鮮木綿をしだいに圧していった。僧侶や公家の日記に〈唐木綿〉の名が贈答品として散見されるのもこのころからである。また中国から舶載された綿織物には一般の需要に供される白木綿のほか、黄緞、間道(かんどう)、綿錦なども含まれていた。近世初頭16~17世紀にはイギリスやオランダ船によってインド、東南アジアの綿布が各種もたらされ、日本近世の模様染や縞織などの発達を促した。

一方、室町から桃山時代を経る間に、日本における綿生産は急速に発達した。木綿が舶載され始めてわずか200年後の慶長年間(1596‐1615)には、イギリスの商館員ウィリアム・アダムズが〈当国には木綿多きがゆえに金巾およびカンバイヤ織物の需要なし〉〈キャラコおよびその他の此種の商品は此国に棉や棉製品の産額多きをもって甚だ廉価なり〉と記している(《慶元イギリス書川》)。

こうして江戸時代以降には完全に従来の麻を圧して、庶民の衣料として定着するようになる。栽培地も温暖な九州地方から三河、伊勢、大和、河内などに広がり(〈ワタ〉の項の別欄[近世日本の綿作]を参照)、特に伊勢、大和、河内で主産される晒(さらし)木綿は良質であるとして、京都や江戸にゆきわたった。

また糸染や模様染を施した各種の綿織物も生産されるようになり、なかでも久留米や伊予の絣、小倉の袴(はかま)地や縮緬(ちりめん)、有松や鳴海の木綿絞、江戸の中型(ちゆうがた)染などは著名である。また、各地方の民家でつくられる自家用品にも縞、格子、絣などさまざまに意匠をこらしたものが製作され、その用途も多岐にわたった。なお日本における綿織物の工業的生産については、〈綿織物業〉の項を参照されたい。                    小笠原 小枝