【蔵敷村と里正日誌】里正日誌の世界

【蔵敷村と里正日誌】里正日誌の世界

一はじめに

 里正日誌とは、本来名主の日誌という意味であるが、ここでは具体的には、武蔵国多摩郡蔵敷村内野家の主として名主として活動した文書・記録を編年順に編成したものである。全六六冊で天正元年(一五七三)から明治六年(一八七三)までの三〇〇年間に及び、質量ともに優れた編さん史料である。その全冊については巻末別表に示したとおりである。

 里正日誌は、現在、内野秀治氏の屋敷内の「郷土史料庫」に三〇〇〇点余の内野家文書とともに所蔵され、昭和五十五年(一九八〇)には、東大和市の文化財に指定された。同書の全貌については、すでに昭和四十九年(一九七四)に里正日誌の各巻頭に収載された目録を集成した『里正日誌目録』が東大和市教育委員会から刊行され、およその概要が把握できるようになった。

 里正日誌はこれまでも『大和町史』をはじめ『新編埼玉県史』や『神奈川県史』等、また多くの研究論文にも活用されてきた。東大和市教育委員会では、里正日誌の全冊を公刊することとし、巻末別表のとおり全冊を十二巻に編成し、平成六年三月に『里正日誌』第九巻(元治元年~慶応三年、五冊)、同七年三月に第七巻(安政元年~同六年、六冊)、同八年三月に第十巻(明治元年~同二年、五冊)をそれぞれ刊行した。

 今回、『東大和市史』資料編の一冊として、本書『里正日誌の世界』を刊行することとしたが、本書は、先に教育委員会から出版された三巻の『里正日誌』の中から、幕末維新期を特色づける主題十二項目を選定し、誰にでも親しめる史料集として編集したものである。

 ここでは、内野家が里正(名主)として治めた蔵敷村の概要と里正日誌の基礎となる文書・記録を作成した内野家の里正の人たち、それに里正日誌の特色等について簡単に述べてみたい。



二蔵敷村の概要

 現在東大和市に属する蔵敷村は、狭山丘陵南斜面に位置し、南端を野火止用水が流れ、地内を青梅街道が通る。正徳年間(一七一一~一五)に隣接の奈良橋村から分村した。領主は、近世前期には旗本石川太郎右衛門であったが、 享保十八年(一七三三)には幕府直轄領となり、安政五年(一八五八)二月から同六年三月までは一時的に熊本藩細川家の預り所となるが、再び幕府領となり明治維新となった。

 村高は二一五石余で、その大半が畑作地帯であった。
 家数は安永七年(一七七八)五十七軒、文化文政期(一八〇四~二九)五十五軒、慶応三年(一八六七)五十六軒で、ほとんど変化がみられない。

 人口は安永七年二五〇人、寛政期(一七八九~一八〇〇)二二〇人程度、文政元年(一八一八)は一九八人と最低となり、文政期後半から天保期(一八三〇~四四)にかけて二三〇人と回復し、以後幕末まで増加をたどり、慶応三年(一八六七)には三〇九人、明治七年(一八七四)には三三三人となった。
 家数は固定化していたが人口は変動した。

 近世後期になると、農間余業者が出現し、文政八年(一八二五)には炭薪渡世人(たんしんとせいにん)が十八人も存在した。安政二年(一八五五)の書上げによると「農間稼、男ハ樵炭焼、女ハ木綿糸より同機織、江戸並びに最寄市場江持出し稼仕候」「産物柿栗、江戸並びに最寄市場江持出し申候」とある(『里正日誌』第七巻一三七頁)。女性の農間稼として行われた木綿織物は村山絣(かすり)とよぼれ、当地方の名産となった。

三 幕末維新期の里正内野家の人たち

 内野家は、慶長七年(一六〇二)以前より、現在の蔵敷に居住していたといわれる。内野家が蔵敷村の里正、すなわち名主役に就任したのは寛延二年(一七四九)からである。同年の「武州多摩郡奈良橋村之内蔵敷新田明細帳」に名主杢左衛門が登場する。内野家は代々杢左衛門を通称とした。

 本書『里正日誌の世界』は、安政元年(一八五四)から明治二年(一八六九)までの幕末維新期の十五年間を対象としたが、この時期に関連し、活躍した里正杢左衛門は三人である。すなわち、孝秀・星峰・秀峰である。これら三人の簡単な紹介をしておきたい。

(1)内野杢左衛門、諱(いみな)重泰、号孝秀

 内野家の菩提所である弁天墓地の墓碑によると、重泰は、寛政十一年(一七九九)に生れ、天保元年(一八三〇)三〇歳のときに父に代って里正となった。天保年中、父と相談して弁財天の村社を営む。安政三年(一八五六)五十七歳のとき、老を告げ、
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緑右衛門と改名し、文久三年(「八六三)正月二十日病没、時に享年六十五歳であった。里正として二十七年間活躍した。

(二)内野杢左衛門、諱敷隆、号星峰

 同じく墓碑によると、重泰の子敷隆は文政六年(一八二三)に生れ、初め福太郎と称した。安政四年(一八五七)三十五歳のとき、父の後を継ぎ杢左衛門と改名し、里正となる。同五年三十六歳のとき、蔵敷村が細川家の預り領となると、杢左衛門は細川家より苗字帯刀を許され、人足差配役を命ぜられる。文久三年(一八六三)四十一歳のとき、蔵敷村はじめ江川代官所支配の村々で農兵設置が実施されると、その世話役に任ぜられた。また所沢組合の小惣代名主として、組合内村々の訴訟の仲裁に入り、その多くを内済示談で解決した。明治五年(一八七二)名主制度の廃止により戸長となるが、すぐに子嘉一郎に譲った。明治十二年(一八七九)五十七歳頃より杢平と改名、同二十九年(一八九六)九月二十四日、七十四歳で死去した。

 明治二年(一八六九)十月韮山県役所から「寄特者」として褒美金二〇〇疋が与えられた。その表彰の文面には「蔵敷村名主杢左衛門、其方儀鰹寡孤独ヲ欄小前之もの共質素之風二教導し勧農心掛候趣寄特之事ニ候、依而御褒美被下之」とある(『里正日誌』十巻五〇二頁、村からの推薦文は同書四九二~四九三頁にある)。幕末維新期の十五年間に里正として活躍した杢左衛門は、この敷隆・星峰であった。

(三)内野杢左衛門、諱徳隆、号秀峰「里正日誌」の編者と目されている秀峰杢左衛門は、安政三年(一八五六)に敷隆の子として生れ、嘉一郎と命名された。

 明治三年(一八七〇)十五歳で名主見習となり、同五年(一八七二)十七歳で戸長となった。明治十二年(一八七九)二十三歳で第一期神奈川県会議員となり、同二十年(一八八七)まで八年間議員を勤めた。その間、同十三年二十四歳のとき国会期成同盟に参加し、翌十四年自治改進党にも参加した。この頃、新聞購読会を結成し、民権系の「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」「朝野新聞」などの回覧や民権運動の普及に努めた。

 明治二十二年(一八八九)三十三歳より昭和三年(一九二八)七十二歳まで高木村外五か村組合議員と大和村会議員に連続当選し、実に三十九年間にわたり公共に尽力したが、昭和五年(一九三〇)三月二日、七十四歳で死去した。

 内野家は文政八年(一八二五)には持高一〇石一斗二升、農間商いとして炭薪を販売した。安政五年(一八五八)からは質屋稼ぎを営み、元治元年(一八六四)には持高十五石七斗余となった。明治三年(一八七〇)には所持地も五町一反歩と村内では最大の地主であった。内野家は、秀峰杢左衛門以後は、玉峰禄太郎、悌二、秀治の各氏と連綿と今日に至っている。

四 里正日誌の特色

里正日誌の全冊を必ずしも把握しているわけではないので、ここでは、刊行された『里正日誌』から、その特色と思われるものを若干あげてみることとする。
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①里正日誌は、必ずしも後世の単なる編さん物ではなく、幕末期においては、同時代の記録といえる。とくに星峰杢左衛門敷隆が活躍した時代は敷隆が作成した記録に、「里正日誌」という表題を付したともいえる。例えぽ、元治元年里正日誌では表紙の次にある中扉(内扉)の表題は「元治元甲子年正月ヨリ御支配様御用向諸留控蔵敷村里正内野杢左衛門所蔵」とあり、敷隆・杢左衛門の作成した「諸留控」が、丸ごと「里正日誌」という表題が付されているのである。同じことは、慶応二年里正日誌二冊上、慶応三年里正日誌についてもいえる。とくに慶応三年里正日誌の中扉には「慶応三丁卯年御支配御代官御用留記附農兵一件書込蔵敷村村長内野杢左衛門敷隆」とあり、敷隆という作成者名が記入されているのである。
②里正日誌は、各冊とも比較的まとまったテーマの文書が集められ、編さんされている。例えば、文久三年里正日誌は農兵特集、慶応二年里正日誌二冊上は武州世直一揆特集という観を呈している。
③里正日誌には、蔵敷村の記事だけではなく、近隣はいうまでもなく他国の出来事も収録されている。これは当時の情報収集のあり方を研究する手がかりを与えてくれる。④里正日誌には、当時の原文書がしばしば綴り込まれており、また、現場に立合った人間でなければ知り得ない記載が少なからずみられる。また、関係する日記や手紙も収録されている。

 以上のことから、この里正日誌は、単なる御用留や日記とも異なり、むしろ、それを総合的に編さんした一種の史料集という性格を有している。このような史料編さんが、いつ、どのような意図でなされたか。その解明は今後の課題である。

1異国船渡来騒動
              安政元年里正日誌

嘉永七年(一八五四)正月、アメリカ東イソド艦隊司令官ぺリーは前年より三隻(せき)多い七隻の艦隊を率いて再び江戸湾に入り、大統領フィルモアの国書に対する日本政府(江戸幕府)の返答かせを求めた。これに対し幕府は何とか時間を稼ぎ、回答を延期しようとしたがついにペリーの砲艦外交に屈し、日米会談の結果、三月三日に日米和親条約(神奈川条約)が結ぼれた。その内容まきヒは、アメリカ船に薪・水・食料・石炭などを補給することを認さこくたいせいめたもので、鎖国体制を破った最初の条約である。えがわたこの異国船再渡来についてまず正月十六日付で、代官江川太ろうざえもんひでたつ郎左衛門英龍から江戸の出口四か宿(千住・板橋・新宿・品川)わきおうかん及び組合村の脇往還入口村々に対し取締りが命じられている。ついで正月一八日、関東取締出役中山誠一郎ほか二十二名の連名で在中取締りを所沢村組合四十八か村に命じている。組合村こそうだいおとり小惣代でもある蔵敷村名主杢左衛門は正月二十三日に「御取しまりむきうけいんちょう締向請印帳」を作成し小前百姓らに対し理由のない他出を禁たけやり止すること、万一のとき竹鎗を持ってかけつけることなどを誓わせ、連印させた。これが「心得之事」である。アメリカの強硬な姿勢に備えるため代官江川英龍は品川沖に内海台場を築くことを幕府に建言し、それは直ちに許可され勘かわじとしあきら定奉行川路聖護とともに江川英龍はその責任者となった。建設
ばくだいけんきんこうのうには莫大な資金を必要とする。献金は江戸の町人、関東の豪農しょうそう商層に命じられた。このときの献金額は所沢組合全体で八六ほうび一両であった。献金をした者に対し幕府から褒美として金一両につき銀壱匁八分五厘の割り渡しがあった。嘉永七年二月三日くらしなすけうえもんに指示があり、二月九日に所沢組合寄場名主倉片助右衛門を通じて出金人に直接割り渡され、請取証文が同時に作成された。なかとうこの内海台場建築の際に用いられた材木は中藤村(武蔵村山市)の松丸太であった。嘉永六年九月、同七年六月の二度にわばくふごふしんやくいわがみくめえもんたって幕府御普請役岩上粂右衛門ら三人の要請により、横田・三ツ木・砂川・芋窪・蔵敷・奈良橋・勝楽寺・中藤の八か村から人足が出動した。人足の延べ人数は四〇六七人であった。材ふっさがししゃりき木の伐出し、根切りや福生河岸までの車力賃として一人あたり永二文四分五厘支払われている。このようにして多摩の農民たちは献金、材木伐出しといった形で本人の意思と関係なく国防のため動員させられていったのである。こくしょうにん一方、この異国船渡来騒動に乗じて、穀商人や一部の農民らが米の買占め、売り惜しみをしてひともうけをねらったようである。二月十二日付で所沢村寄場名主が代官江川英龍に提出ししぶた請書によると米を囲持したり米の売出し方を渋ったりし江戸の米穀が欠乏状況になったことがわかる。
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