【足利義兼】
【足利義兼】
乱後まもない保元二年(1157 )五月二九日、義康は没するが、その子に義清・義長・義兼らがいた。足利氏の家督を継いだのは熱田大宮司季範の娘を母とする三男の義兼〔1154 ~99 .46 歳〕であった。
彼らは、鳥羽法皇の皇女上西門院〔1126 ~89 .64 歳〕や八条院〔1137 ~1211 .75 歳〕に仕えて蔵人や判官代などに任ぜられ、やはり京都にあったようである。なかでも八条院は足利荘の本所であるから足利氏との関係は特に密であった。
治承四年(1180 )五月、平家による政権を打倒すべく、源頼政〔1104 ~80 .77 歳〕が御白河上皇の皇子以仁王〔1151 ~80 .30歳〕の令旨を奉じて挙兵したが、以仁王は八条院の猶子でもあり、又、八条院の御所は当時反平氏の拠点でもあったため、義清兄弟は平氏打倒の軍に加わったようである。しかし、宇治に於いて頼政軍は敗走し、頼政は敗死したため、義清らはいずれかに退いたと思われる。その後、同年八月、伊豆の源頼朝〔1147 ~99 .53 歳〕が平氏打倒の旗を挙げると、諸国の源氏が一斉に蜂起し、義清と義長は木曽義仲〔1154 ~84 .31 歳〕の軍に同行するが、閏一○月一日、備中国水島の海戦で、義清は弟義長や家人と共に壮烈な戦死をしてしまった。
一方、足利氏の嫡流である三郎義兼は、兄義清と行動を共にせず、鎌倉に参向し、頼朝の下に加わった。自分と同じく熱田大宮司の娘を母とする頼朝に対しての親近感もあったのであろうか。この時期に於いては、頼朝は木曽義仲をはじめとする諸源氏の間にあって、未だ優位の地歩を築くにいたっておらず、義兼が頼朝と結んだことは頼朝にとって大いに力を得ることになったであろう。かつて、保元の乱の時に、武士の棟梁として頼朝の父義朝と対等の立場であった足利義康の嫡子義兼に対し、頼朝は相応の歓迎をしたはずである。
翌養和元年(1181 )二月、頼朝の計らいで、頼朝の妻の北条政子〔1156 ~1225 .70 歳〕の妹である北条時政の娘時子を、義兼の妻として迎えることになった。既に、頼朝と義兼は母親同士が姉妹であったことから従兄弟の間柄であったが、ここにまた同じく北条時政〔1138 ~1215 .78 歳〕の娘を妻室とする相婿となって義兄弟の関係を持ち、両者の間は一層密接なものとなった。
後のことであるが、頼朝が歯痛で悩んだ時に義兼は日向薬師に代参を勤めたり、義兼の妻室時子が病の際には、姉の政子が親しくその病床を見舞ったり、又、建久五年(1194 )二月義兼が鶴岡八幡宮に一切経と曼荼羅を寄進して法要を営んだ時にも頼朝・政子夫妻がそろって臨席するなど、両家の間は親類縁者として特別な親近関係にあったようである。
ところで、頼朝の軍下に入った義兼は、武勇に優れ、源範頼の軍に属して平家追討の戦いに従い、その功によって文治元年(1185 )八月に上総介に任ぜられた。続いて文治五年(1189 )の頼朝の奥州藤原氏の平定にも従軍下向するなど数々の戦功をあげた。
一方、源氏の嫡流として平家政権を打倒した頼朝は、名実共に関東武土団の頂点に立つことになったが、このことは同じ源氏の一族である足利義兼にとっては、鎌倉御家人の一人として頼朝の配下に明確に位置ずけられることになり、その立場は相対的に低くなったともいえる。
しかしながら、義兼の御家人としての地位は極めて高く、例えば『吾妻鏡』を見ると、毎年正月に行なわれる「※飯(おうばん)」と呼ばれる重臣から頼朝への馳走の儀式に、足利義兼が文治四年(1188 )に勤仕し、建久五年(1194 )と翌六年には筆頭として元旦に勤仕していることや、将軍へ随行の序列では、最上位にランクされるなどその政治的地位は源氏の門葉として第一位にあったと見られる。
※土へんに「完」
しかし、そうした地位は同時に同じ源家の頼朝の地位さえもおびやかす可能性も有しているわけで、その立場は微妙なものでもあった。事実、頼朝が弟の義経〔1159 ~89 .31 歳〕や範頼〔生没年未詳〕を除き同じ源氏の安田義定〔1134 ~94 .61 歳〕父子を滅すといったことが続く中で、義兼は、その身の危険すら感じていたともいえよう。
そのためであろうか、今川了俊〔1325 ~1420 ?.96 歳?〕の『難太平記』によれば、義兼は晩年、頼朝の猜疑をさけるために空物狂(そらものくるい)となって無事に過したと伝えている。
義兼は、建久六年(1196 )三月二三日、頼朝が東大寺供養のために上洛した時これに従い、供養の儀式に供奉しその直後、東大寺において出家をとげたという。法名を義称もしくは、鑁阿と称し、その後、彼は足利に隠棲し、邸内に持仏堂を設け、念仏三昧の日々を送ったと言われる。この持仏堂は堀内御堂(ほりのうちみどう)と呼ばれ、これが後の鑁阿寺に発展するわけである。
義兼はこうして晩年をひそかに過した後、正治元年(1199 )三月に(四六歳)卒した。時あたかも頼朝の死の直後であった。
(HP『後深草院二条』の「メモ&新規アップファイル一覧」)