【野中新田 小平町誌】

【野中新田 小平町誌】

第四節 野中新田のなりたち

野中新田は前に述べたとおり、武蔵野に開発された諸村の中で、極めてめずらしい開発事情を持ち、その開発の経過から見て、町人請負新田的な性格をもつ新田である。開発過程も他の四新田に比較して詳細に伝(注)えられている。

新田は現在、善左衛門組・与右衛門組・六左衛門組に分れているが、開発当初に一村であったものが、後に面積が広大で種々不便があるため、それぞれ独立した村になったものである。なお、以上の呼名のほかに、通称として善左衛門組と与右衛門組を合せて北野中新田、六左衛門組を南野中新田と呼び、あるいは与右衛門組が一番北にあるので北野中と呼び、善左衛門組が青梅街道に沿っているため通野中、六左衛門組が南野中と呼ばれることもあった。
(注)六左衛門組は、現在国分寺町に属している。

一 野中新田開発の経過

開発の始まり

享保七年(一七二二)のことである。上谷保村(現国立町)の農民、矢沢藤八は、同村にあった臨済宗の分支である黄檗宗円成院の住職、大堅とともに武蔵野に新田を開こうと計画していた。たまたま、五月には幕府の代官、岩手藤左衛門によって、近辺の村々に新田開発の触書が回され、七月には江戸日本橋の高札で、新田開発令が諸国に布達されている時で、武蔵野附近には、新田開発の気運が満ち満ちていた。

二人は同じ村の農民六名、孫市・市右衛門・平左衛門・喜六郎・元右衛門・弥五左衛門と、おそらく、有力な出資者と考えられる江戸の商人、牛込榎町の米屋喜右衛門・佐野屋長右衛門・玄瑞源右衛門および関口大屋六左衛門の四人とを仲間にしていた。やがて仲間もそろい、新田開発の見込みもたったのだろう、大堅は、十月二日夜、自分の寺の本尊である千手観音から、願は成功するという御くじと毘沙門天王の夢のお告げを請けた、と称して、五日になって藤八と連名で、本尊はじめ日本全国の大小の神祇に対して「上谷保村地続きの武蔵野の地に新田開発を行なう願いを、近々に、江戸の商人喜右衛門の仲介で、幕府に提出することになった。この発端人はわたくしたち二名であって、もし願いが成功したら、新田名を矢沢新田と名付け。箭沢山(やざわさん)長流寺を取り立て、鎮守には毘沙門天王を勧請するつもりで、これは他の仲間と決めたことである。もし誓いにそむくならば、神罰を受けるだろう」という意味の誓願状を捧げた。

こうしてこの誓願状の捧げられた三日後の十月八日には、いよいよ新田開発願が幕府の代官、岩手藤左
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衛門の役所に差出された。開発願の文意は「今の立川市から田無町の間を新田にしたい。所々に草刈場を残して開発を行ない、開発が済み次第、三年目には、公儀の検地をうけて年貢を上納しましょう。なお、砂川村のはずれから玉川上水を分けてくれるなら、田が数十町歩できるでしょう。また公儀の御林を作れというなら、いかほどでも木を植えて差上げましょう」というものである。

この願書に署名した者は五名で、喜右衛門や源右衛門も上谷保村の百姓身分になっているが、同日願書を差出すに先立って、かれらの間には「開発願書を認めたのは仲間十一人相談の上である。願書には上谷保村から三人、江戸商人から二人が上谷保村の百姓名儀で署名したが、開発許可がおりたら、仲間十一人で協議のうえで、諸事運営される」という仲間証文が取かわされていて、先にあげた十一名全員が開発計画者であることがわかる。なお、なぜ江戸商人が百姓身分を称したのか、直接に理由を示す史料はないが、当時幕府は、新田開発に町人が参加することをあまり喜んでいなかった点などから考えて、身分を偽る方が開発許可に有利と考えたからででもあろうか。
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野中屋善左衛門の登場

新田開発は順調に行なわれるかに見えた。翌八年六月には、願地の区割をするため、代官と江戸町奉行所の与力が検分にきて、杭を打つことになった。ところが、ここで願人の間に重大間題が起った。というのは代官所から新田開発の権利金ともいうべき、冥加金二百五十両を上納するように命じてきたのである。かれらの間で、その金を都合できる者はだれもいなかった。冥加金が上納できなければ、許可がおりないことは、火を見るより明らかである。これまでにもかれらは相当の運動費を使っていただろうし、後に述べるように、新田開発が成功すれば、相当な利益があるはずであった。そこで出資者を捜すことになり、当時、すでに隣の鈴木新田の開発に出資していた(一五五ページ参照)上総国望陀郡万国村(千葉県君津郡巌根村)の野中屋善左衛門に、新田の村名には善左衛門の苗字をつけ、土地も望み通りに、願人たちで割合って差出すという条件で出金を依頼することになった。

願地の下付

藤八たちは、新田冥加金の納入を善左衛門に依頼することによって、自分たちの計画を多分に変更せざるをえなかったにせよ、とにかく新田開発人としての資格を充分に整えることはできた。やがて年も変って翌九年(一七二四)五月十四日北野中、同二十八日には南野中の開発が幕府から正式に許可
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された。許可がおりて割渡された面積は五百十三町歩で、土地は早速、開発人仲間十一人と円成院の手によって十二等分された。一人当りの分前は四十二町七反五畝で、この時の分配には、善左衛門は仲間に入っていなない。(注)なお、開発地は幕府によって上谷保村願場と呼称されることになった。
(注)善左衛門は出金の条件として、願人たちから土地を譲受ける約束になっていて、現在の善左衛門組(当時約百三十六町歩)がそれであることは、ほぼ間違いないが、いつ願人たちから譲渡されたか、れを説明する材料は残っていない。

これで、いよいよ新田開発の基礎もできた。この年の九月二日には円成院の大堅も上谷保村から引越して草庵を結んだ。翌三日には毘沙門天の遷宮祭礼が行なわれた。越えて十年四月二日には南野中の鎮守として北野中の毘沙門天が勧請され、鳳林院の境内も定められた。

開発場の一部売却と藤八の引退

享保十年(一七二五)から十一年にかけて、開発場の一部が近村に売却された(第一八表参照)。売主は回り田村への分については不明であるが残りはすべて上谷保村の農民で、孫市・元右衛門・平左衛門の三人である。三人は自分たちの分前の合計百三十一町三反六畝のうち、表でわかるように、百二十七町八反余を砂川・中藤・大岱の三村に売却し、自分の持地は三人分を合せても、わずか三町五反ほどに減ってしまった。

また、開発の発端人として開発仲間のおも立ちであった矢沢藤八も、家屋敷を残らず仲間の源右衛門に売渡して、上谷保村に引込んでしまった。原因は、藤八が享保十年分の幕府に納める役米代金の使込みをしたからである。
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享保十一年五月十一日のことである。

こうして、願場の面積は五百十三町歩から三百五十町ほどに減少し、商人仲間の開発人は、すべて健在であるのに対して、上谷保村出身の開発人七名のうち、四名が新田から消えていった。開発人の勢力分野は大きく変ってしまった。開発人の筆頭者には源右衛門がなった。

開発の進展と村名・村役人の決定

享保十年ごろから農民が遠方近在、所々から次第に集ってきた。善左衛門も同年には移住してきた。通野中に例をとると、十一年に入間郡上留村の喜兵衛、多摩郡大沢入村の善兵衛、比企郡梅木村の義兵衛・七郎兵衛らが、翌十二年には多摩郡・入間郡・足立郡の各地から十二名の入村者があったことが確認される。

この入村者は、宝暦十一年(一七六一)調べのもので、同年まで引続き同地に居住していた者のみが記載されているのであるから、入村農民の移動のはなはだしかった当時のことを考えると、実際にはもっと大勢の農民が移住してきていたであろうことは想像にかたくない。ちなみにこの宝暦十一年調べの善左衛門組「武蔵野新田出百姓之訳ケ書上帳」(野中家文書)を出百姓の入村年代と出身郡別に整理すると第一九表のとおりとなる。比較的初期に多数の入村農民があることと多摩郡や入間郡とい
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うように、近くからの出身者が多いこととがよくわかる。農民は希望にもえて陸続として新開地にやってきた。南野中や北野中でも、おそらく大勢の百姓が開墾に励んでいたことであろう。

野中新田は開発地の割渡し以来、上谷保村願場と呼ばれていたことは、前に述べたが、まだこの段階では、願場が村落として行政的にも経済的にも自立したとはいえないことはもちろんである。しかし、このように入村農民もふえ開発も進展してくると、当然対外的にも対内的にも新田村落として独立する必要が生じてきた。小川新田や廻り田新田のような村請新田であるなら、親村の行政に依存していればよいであろうが、名称は上谷保村願場であっても、開発を請負ったのは村ではなく、上谷保村の農民個人であり、江戸の商人個人であった。かれらの願場はうしろだてとなってくれる親村を持たなかったのである。

かくて享保十一年(一七二六)六月、上谷保村願場は他新田にさきがけて村役人を決定し、新田名もこの時から、先の開発人仲間と野中屋善左衛門の約束に従って野中新田と呼称されることになった。

初代の名主には源右衛門が就任し、組頭には善左衛門・長右衛門の二名が、長百姓には喜右衛門・市右衛門・六左衛門・喜六郎の四名がなった。すべて開発に際して名を連ねた人たちばかりである。

また、先に草庵を結んでいた円成院の大堅も、農民が多くなり、家数がふえたとして、寺社奉行から同寺の引寺を許可され、正式に上谷保村から野中新田に移ってきた(享保十二年春)。宗門人別帳も円成院の寺判によって作製され、野中新田の名前で幕府に差出された。野中新田が自立した村落として、一人歩きのできる態勢はここで全く整ったのである。

・円成院引寺の史料
(前欠)武州多摩郡上谷保村円成院二而拙僧住居仕候処、同所之百姓武蔵野御開発相願享保九年辰五月御開発地御割渡被二下置一候二付、右開発場江辰ノ八月拙
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僧儀も右願人共由緒御座候二付、罷出草庵ヲ結百姓同所二開発仕今以罷在候、然所段々近在遠方汐出百姓多家居仕当六月中、野中新田名御附、名主組頭共二御定宗門人別御改二付、右出百姓由緒之者拙僧方江寺判相願申二付右上谷保村之円成院寺号野中新田江引移右稲荷井観音堂ハ谷保村二差置今二有レ之候処、自明二御座
候、右円成院寺判等差上申候、依而願書如レ件享保十一年午九月武州多摩郡上谷保村
寺社御奉行所御役人中
江戸深川海福寺末円成院(国立町関康二氏文書)

野中新田分割さる

野中新田は第二五図を見ればよくわかるように、非常に広大な面積を持つ、分散した新田で、与右衛門組の東北端から、玉川上水を越えた六左衛門組の西南端まで、直線距離で七、八キロメートルもある。このように面積が広くては、村のまとまりに不便だし、年貢徴収にも困難を感じた。そこで享保十七年(一七三二)十月、新田は今の北野中・通野中・南野中の行政的に独立した三組に分割されることになった。各組の名主には、それぞれ与右衛門・善左衛門・六左衛門が就任し、組の名前は、それ以後、この時の名主名が用いられ、玉川上水の南沿いにある堀野中も、この時善左衛門組に属すること(注)になった(野中家文書)。

(注)なお、この分割に際して、野中新田の一部だった鈴木新田も分離独立した(詳細は次節「鈴木新田のなりたち」一六〇ページを参照)
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検地・新田の完成

本村を離れて新たに定着した農民たちは関墾を引続き行なっていった。かれらの同僚たちの何人かは、苦しい生活に耐えかねて新田を立去って行ったが、残った人たちは自分らの村造りを営々として行なっていた。立去った人たちのあとには新しい仲間もやって来た。享保十八年(一七三三)には、第二〇表のように善左衛門組では百三十一町のうち、屋敷が九反余、畑が四三町余、松林が二反余になった。このような過程を経て、元文元年(一七三六)三月ごろから検地の準備が進められ、十二月、検地を受けて、ここに正式の新田村落として完成したのである。

今、この検地によって完成した村の状況を見れば次のとおりである第二六図、第二七図は善左衛門・六左衛門両組の検地当時の土地所持階層と地目を示したものである(与右衛門組は総反別が百五十町一反六畝三歩あったこと以外は不明)。この図からわかるように、総人員は善左衛門組五十名、六左衛門組四十三名で、両組とも一般的には五反歩ー三町の所持者が圧倒的に多く、特に一町~三町の層が支配的であり、しかも、図には示されていないが、屋敷を持たない農民が善左衛門組で四名、六左衛門組で二名しかおらず、他の新田が屋敷地を持たない持添農民が比較的多いのと対照的である。つまり、野中新田は全く独立した農民によって構成されていることが知られるのである。
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二 商人資本と野中新田

野中新田は今までに見てきたとおり、その開発は商人の参加によって行なわれた。むしろ、善左衛門の出金に見られるとおり、商人資本の参加があって初めて開発が行なわれたともいえるのである。これらの商人たちが、なぜ、新田開発に参加したか、換言すれば新田になにを期待したかという点について触れてみる。開発人たちは新田開発を行なうに当って、開発地を入村農民に売却しようと、次のような見積りを立てていた(野中家文書)。

   覚

一 武蔵野惣町歩之内 弐千町歩余家々願地
   何万町ハ御公儀様御開発成り
一 御開発壱万町歩ニ付代金六千両旦
  是ハ御開発拙者共請負勘定
  千町ニ付 地代金六百両
  百町ニ付 六拾両
  拾町ニ付六両
  壱町ニ付弐分五匁

右者新田御開新地代金万町ニ付右之通り可二差出一、
一 御開発請負手前ニ而右地売払金高書出し、
  万町ニ付 地代金壱万弐千両 但シ本一ぞい
  千町ニ付 地代金干弐百両
  百町ニ付 同百弐拾両
  拾町ニ付 同拾弐両
  壱町ニ付 同壱両、拾匁

右之通万町ニ而上納金積り手前売払金高積り目録仕立之通り相違無レ之候

非常に繁雑な記載をしてるが、文意は、①武蔵野に開発される新田のうち、二千町余は個人の請負開発地である。②請負地は一万町につき、六千両の割合で地代金として幕府に上納する。③請負地は耕作を希望する農民に一万町につき一万二千両の割合で売払うというものである。この文書には署名がなく、これが野中新田の場合の計算であるか、それとも武蔵野一般の請負新田のな
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らわしであるか、はっきりしないが、少なくとも野中新田のような個人の請負地においては、幕府に支払う地代金の倍額をもって、入村農民に土地を分譲することをもくろんでいたことがわかる。

しかも、開発人が地代金の倍額で土地を売払うという見積りは、明らかに実行されていたのである。というのは、享保十三年に野中新田の儀兵衛が、善左衛門から土地を六町歩譲渡された際の証文が現在残されているが、それによると、儀兵衛は即金として金二両、ほかに同地に二軒の家作をし、幕府から家作料金が下付されたら、二軒分とも全額善左衛門に手渡すことを約しているのである。家作料金二軒分といえばちょうど金五両に相当する。つまり、儀兵衛は六町歩の土地を計金七両で買取ったことになるわけで、これは先の見積りで十町の土地を金十二両で売却するという予定とほとんど差がないのである。

もちろん、この一例をもって、全部の土地が地代金の倍額で売却されたと考えるのは早計である。たとえば、開発経過の所で述べたように、上谷保での農民、平左衛門ら三名が砂川村などにまとめて土地を売却した場合などは、もっと安い価格で取引されたと考えるべきであろう。

しかし、開発人が見積りどおり土地を売却するということは、実際に行なわれ、かつ、それがかれらの基本線であったことは間違いなかろう。

ともあれ、開発人たちは以上のように計画し実行していた。もちろん、実際の収支はこの基本的な数字に各種の要素が入るわけであり、実際の利益はこれより低下することは容易に想像されるが、それにしても新田開発という事業は、もし順調に行くならば、かなりの収益を得られる事業であることは疑いない。そしてこの事実が野中新田の開発に商人が参加し、かつ、冥加金の問題で開発が一頓挫した時も、従来の誓約を破ってまで、善左衛門に出金を依頼し、開発を継続した根本的要因であることは間違いないのである。
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三 円成院大堅と野中新田

野中新田の開発の発端人は矢沢藤八と円成院の住職大堅との二名であることは既に述べた。円成院はこれ以後、終始開発人仲間と行動を共にし、新田割渡しに際しては、その十二分の一を自己の取分とし、更に仲間から新田の農民は総て同寺の檀家となるという保証を取るなど、開発に際しての役割は見逃すことができない。そこで次にこの円成院の新田における動きを述べることにする。

円成院新田での地位かたまる

野中新田の開発願が藤八らの手によって、幕府に差出されて間もない享保七年(一七二二)十二月一日、開発願人たちは連名で「本尊千手観音から開発願は成功するという御くじと毘沙門天王のお告げを請けたので、開発願を差出した、もし成功するなら、新田鎮守として毘沙門天の堂地を寄進し、ほかに仏供田なども開発仲間と同様に割合って差上げる。また新田全員の菩提寺と祈願所にするから、新田開発が成功するよう祈祷して欲しい。新田に円成院が支配する辻堂などを建立するのは別として、他宗の堂などは絶対に建立しない。円成院を新田に開基することは、仲間で決定したことであるから
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われわれの子孫に至るまで檀家であることは勿論、入村農民にもこれを守らせる。また新田の諸事を決定する時は、開発仲間と円成院が一緒になって相談する」という内容の約束を円成院との間に結んだ。

この約束にあるような関係が、文言に示されているように、単に祈祷などの反対給付として結ばれたものか、それともこれ以外に開発に際してなんらかの役割を円成院が果したものか、その真因はわからないが、ともかく、この一札は円成院が野中新田に地歩を確立する重要な根拠となった。これによって、円成院は開発人と同等に土地を分割し、新田の経営面に発言権を持ち、更に新田には円成院の希望以外には寺社を建立できず、新田農民を一寺で掌握できる権利を約束されたのである。

この約束は翌八年六月にも「我等儀は申すに及ばず、段々欠(駈)付の百姓へ此の趣き申聞せ、印形取置、末々迄堅相守らせ申候」と再確認されている。

こうして、経過で述べたとおり円成院は新田のうち十二分の一を受取り、上谷保村を去って、野中新田の現在の地に移り、南野中には末寺として、鳳林院を開基し、更に享保十五年(一七三〇)国分寺村の儀右衛門願地と野中新田の五町が、鈴木新田三十五町と交換され、村境が整理された時には、鈴木新田分の出百姓は鳳林院、国分寺分と野中分の農民は円成院の檀徒たるべきことを約束させるなど、新田における確固たる地位を築いた。

開発仲間と円成院とのとりきめの史料

一札之事

先達而武蔵野新田願二付、本尊千手様3諸願成就之御圓を戴き、並毘沙門天王夢相之御告を請、拙者共不レ斗存立願書認、御公儀様江差上候、此儀成就仕候はば
新田村鎮守毘沙門堂地最初に取置宮建立可レ仕候、外二御供面二仏面田面二被レ成と何里相成候場所二而拙者共同前二割賦可レ仕候、惣村中菩提寺と祈願所共願上候意趣を書認、本尊之御内陣江納置候、伍而日夜丹誠之御祈疇被レ成候、御願二而御定相済候はば善願
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文之通社地寺地とも二御望之所二て御取可レ被レ成候、拙者とも随而手伝建立可レ仕候、且又貴院様御支配之辻堂御取立之儀ハ格別他宗より密二而茂取立申間舗候、勿論拙者共連判開基仕候上ハ、子々孫々迄師旦之間遺恨ヲ含、離之心立杯者堅仕間敷候、此儀者大小之百姓へ相守らせ可レ申候、惣而新田中取沙汰之儀ハ拙
者共汐貴寺御住僧を同座相談之上二而万事正道二相極メ可レ申候、右之趣永々違変為銘々印形如レ此御座候以上享保七寅年十二月朔日開発人藤八印(他十名連印)上谷保村円成院様

円成院檀家問題

円成院は開発人から一村一寺の確約を取り、入村農民からも、それを守らせる約束を取った。しかし、この約束が全くなんの支障もなく履行されたわけではなかった。開発早々から農民の反対にあっていたのである。入村農民は各地からやってきた。かれらの中には本村では他宗派の人が多かったろうし、改宗を拒む者もあった。

たとえば、南野中の七兵衛ら八名が享保十三年五月九日、円成院の壇徒になると村役人に証文を入れて置きながら、無断で府中の明光院の檀徒になり、それが不届であると吟味されて、村定めのとおり円成院の檀家になるという事件があったし、更に開発に際して金銭面で重要な役割を果した善左衛門も、円成院の支配に不服であった一人であった。というのは享保十九年(一七三四)善左衛門が何人かの農民を引連れて、善左衛門組に新しくできた延命寺に菩提を頼んでしまったのである。

事件(注)は鈴木新田宝林院により、当時の幕府の代官、上坂安左衛門に訴えられ、善左衛門と与右衛門組の名主与右衛門とは江戸預けになってしまった。与右衛門も善左衛門に加担したのかもしれない。この争いは結局善左衛門らの敗北に終り、もとどおりに、円成院と宝林院の檀家に帰ることを約して、落着するのであるが、善左衛門にしてみれば、円成院の檀家になるという最初の開発仲間の約定に加判してはいないし、自分の出金で初めて開発許可が下りたのであって、村名にも野中新田と自分の屋号をつけたほどであるから、円成院の支
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配を快く思っていなかったのであろう。ともあれ、この事件は、依然として円成院の権威が絶大であり、当時村の掟がいかに厳重であるかを証拠だてるものであるとともに、既に延命寺のように円成院の支配下にない寺院が、野中新田に建立されているというようなこともあったのである。ちなみに、善左衛門はその後再び延命寺の檀家となったが、もはや円成院はそれをどうすることもできなかったのである。

*善左衛門の離檀出入を示す史料

差上申済口証文之事

一 此度鈴木新田宝林院、野中新田名主善左衛門並出百姓、離旦出入申上候所二、段々御吟味有レ之、宝林院円成院両寺江、前度旦那相極候証交入置候而、其後延明寺江菩提相頼候儀、私共不届キ見取御奉-行所御差出シ可レ被レ遊段被二仰渡一奉二承知一候、此儀者私共不調法千万二奉レ存候。依レ之宝林院江前々入置候証文之通、此度レ不残帰旦仕候上者、菩提旦那儀ニ付、双方∂向後出入ケ間敷儀一切申上間舗候、為二後日}済口証女傍而如レ件享保十九年寅十二月鈴木新田宝林院印名主利左衛門印(他三名連印)

野中新田
名主組頭百姓代名主
与口儀善右丘左衛兵ハ衛門衛衛門印印印印
上坂安左衛門様御役所右之通り出入ニ麟能成野中新田名主与右衛門、同善左衛門、江戸宿預ケ被轟仰付}候二付、私共御訴訟申上書面之通り相済申候上者、前々証交之通円成院宝林院両寺旦那、相違無二御座一候以上寅ノ十二月野中新田円成院印,(以下略)(注)鈴木新田宝林院は現在、所在がわからない。南野中の鳳林院と同一と考えられる。


野中新田の諸社寺
イ円成院

円成院は現在、与右衛門組の地にあり、前述のとおり、もとは上谷保村にあった、江戸深川の海福寺の
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末寺で、開山は実山通伝である。宗派は我国では江戸時代になってから起った臨済宗の分支、黄檗宗であった。黄檗宗はそのため古村に勢力をのばすことが困難であるので、特に新田に注目していた。円成院が野中新田の開発に熱心であったのも、これらの事情からであろう。なお、円成院大堅は延享元年(一七四四)五月三日没した。円成院は前述のとおり、南野中の鳳林院を開基し(開山は大堅)毘沙門天支社を建て、その他二・三の庵室を附属していた。

ロ延命寺

延命寺は善左衛門組の西部、青梅街道の北側にあり、伽羅陀山地蔵院の号を持っている。北多摩郡村山町中藤にある真福寺の末寺で、宗派は新義真言宗である。享保二十年(一七三五)ここに移ったと記録にあるが、十九年には延命寺をめぐって、善左衛門等が紛争を起していることなどから考えて、これ以前に移転していたのではなかろうか。

ハその他

享保十九年に弁天社を奉ずる玄要庵が円成院に附属し、元文元年(一七三六)、江戸亀戸羅漢寺に附属している閑翁庵が堀端野中に移り、このころ蔵本院も移ってきた(本項は主として「武蔵野歴史地理」高橋源一郎氏によった)。

(注)本節で明示しなかった引用史料は、すべて野中家文書である。

小平市三○年史p48

以上のような経過を経ながら、三日後の八日には早速岩手藤左衛門役所に新田開発願が出されている。「柴崎村から田無村西原まで近村の入会地になっているが、地味の良い所を開発したい。所々に草刈場を残して開発し、三年後に公儀の検地を受けて年貢を上納する。なお砂川村はずれから玉川上水を分けて下さるなら、数十町歩の水田ができる。また公儀の御林を作れというのならいかほどでも植えて差上げる」という内容の願書だった。この願書に署名した者は上谷保村の藤八・喜右衛門・市右衛門・源右衛門・孫市の農民五人である。ここに出てくる喜右衛門と源右衛門の二人は実は江戸の商人である。彼らは農民ということにして願書を出したのであるが彼ら五人のほかにも仲間がいた。「開発願書を認めたのは仲間一一人相談の上である。願書には上谷保村から三人、江戸商人から二人が上谷保村の百姓名義で署名したが、開発許可が下りたら仲間一一人で協議の上で諸事運営される」という仲間証文が願書を差出す前に取交わされていた。先に挙げた五人のほかには、上谷保村の農民で平左衛門・源八・元右衛門.弥五左衛門、江戸の商人で佐野屋長右衛門・大屋六左衛門の六人がいた。そして新田に関することはこれら二人の開発仲間と円成院住職の合議で決められることになっていたようである。翌年の享保八年(一七二三)六月になると願い地の区画のために代官と江戸町奉行所の与力が検分に来て杭を打つみようがきんことになった。そして代官所からは開発の権利金ともいうべき冥加金二五〇両を上納するよう命じてきた。しかし願きゅうきょい人の間にはその大金を都合できるものは一人もいなかった。そこで急遽出資者を探すことになり、当時すでに隣かずさのくにもうだぐんまんごくむらの鈴木新田の開発に出資していた上総国望陀郡万国村(千葉県木更津市)の野中屋善左衛門に、「新田の村名は善左衛門が付け、土地も望みどおりに願い人たちで割り合って差し出す」という条件で出資を依頼することになった。こうして藤八たちはなんとか新田開発人としての資格を整えることができたのだった。冥加金の工面でやや苦労したものの、享保九年(一七二四)五月一四日に北野中(小平市域)の、二八日には南野中(国分寺市域)の開発が正式に許可された。野中新田として割渡された面積は「五=二町歩請負人一二人 ただ
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村名・村役人の決定ねがいば新田の開発が進んだ享保一一年(一七二六)六月には、それまで「上谷保村願場」と呼ばれていたこの新田は、ほかの新田にさきがけて村役人を決定、村名も正式に野中新田と決められた。名主には後に与右衛門と改名することにおさなる源右衛門がなり、組頭には前年にこの地へ移住してきた善左衛門と長右衛門、長百姓に喜右衛門・市右衛門・六左衛門・喜六郎(源八)・弥五左衛門が就任した。これを見ると村政の中心となる名主・組頭を商人が占めており、このことから野中新田は町人請負新田の性格が強いことが分かり、それがまたこの新田の大きな特徴ともなっている。時代は下って享保一七年一〇月になると、北野中が二つと南野中との三組に分割されることになる。なお名主にはそれぞれ与右衛門・善左衛門・六左衛門の三人がなり、以後このときの名主名が組の名前として用いられることになる。広く分散した新田であるため、村としてのまとまりに欠けるうえに年貢徴収にも不便だったためである。この
とき野中新田の一部になっていた鈴木新田も分離独立している。このような経過をたどりながら野中新田は元文元年(一七三六)一二月に検地を受けて、新田村落として完成したのである。反別および村高は与右衛門組が一三三町九反歩で四六六石八斗七升七合、善左衛門組が一三一町歩で三六九石八斗七升七合、六左衛門組が八四町五反歩で三六四石四斗三升五合であった。善左衛門組の地目面積(与右衛門組は不明)は表一ー八のとおりで、小川新田の独立分に比べ、中下はなく、林畑・野畑が五二・八%もあり、地味が良くなかった様子が分かる。野中新田の寺社
これまで述べてきたように野中新田の開発には円成院という寺が深く関係していた。この寺は江戸深川の海福寺の

安島原稿(2010南街公民館)

①野中新田の願出

享保7年(1722)5月、多摩地方に奨励の触れが回り、7月、江戸日本橋に新田開発奨励の高札が掲げられた時のことです。上谷保村農民・矢沢藤八が同じ村の円成院住職大堅(たいけん)とともに新田開発の仲間を募ります。なかなか興味ある背景を含んでいますので、小平町誌から紹介します。

『大堅は、10月2日夜、自分の寺の本尊である千手観音から、願は成功するという御くじと毘沙門天王の夢のお告げを請けた、と称して、五日になって藤八と連名で、本尊はじめ日本全国の大小の神祇に対して「上谷保村地続きの武蔵野の地に新田開発を行なう願いを、近々に、江戸の商人喜右衛門の仲介で、幕府に提出することになった。この発端人はわたくしたち二名であって、もし願いが成功したら、新田名を矢沢新田と名付け。箭沢山(やざわさん)長流寺を取り立て、鎮守には毘沙門天王を勧請するつもりで、これは他の仲間と決めたことである。もし誓いにそむくならば、神罰を受けるだろう」という意味の誓願状を捧げた。

こうしてこの誓願状の捧げられた三日後の十月八日には、いよいよ新田開発願が幕府の代官、岩手藤左衛門の役所に差出された。開発願の文意は「今の立川市から田無町の間を新田にしたい。所々に草刈場を残して開発を行ない、開発が済み次第、三年目には、公儀の検地をうけて年貢を上納しましょう。なお、砂川村のはずれから玉川上水を分けてくれるなら、田が数十町歩できるでしょう。また公儀の御林を作れというなら、いかほどでも木を植えて差上げましょう」というものである。

この願書に署名した者は五名で、喜右衛門や源右衛門も上谷保村の百姓身分になっているが、同日願書を差出すに先立って、かれらの間には「開発願書を認めたのは仲間十一人相談の上である。願書には上谷保村から三人、江戸商人から二人が上谷保村の百姓名儀で署名したが、開発許可がおりたら、仲間十一人で協議のうえで、諸事運営される」という仲間証文が取かわされていて、先にあげた十一名全員が開発計画者であることがわかる。なお、なぜ江戸商人が百姓身分を称したのか、直接に理由を示す史料はないが、当時幕府は、新田開発に町人が参加することをあまり喜んでいなかった点などから考えて、身分を偽る方が開発許可に有利と考えたからででもあろうか。
新田開発は順調に行なわれるかに見えた。翌八年六月には、願地の区割をするため、代官と江戸町奉行所の与力が検分にきて、杭を打つことになった。ところが、ここで願人の間に重大間題が起った。というのは代官所から新田開発の権利金ともいうべき、冥加金二百五十両を上納するように命じてきたのである。

かれらの間で、その金を都合できる者はだれもいなかった。冥加金が上納できなければ、許可がおりないことは、火を見るより明らかである。これまでにもかれらは相当の運動費を使っていただろうし、後に述べるように、新田開発が成功すれば、相当な利益があるはずであった。

そこで出資者を捜すことになり、当時、すでに隣の鈴木新田の開発に出資していた上総国望陀郡万国村(千葉県君津郡巌根村)の野中屋善左衛門に、新田の村名には善左衛門の苗字をつけ、土地も望み通りに、願人たちで割合って差出すという条件で出金を依頼することになった。』(小平町誌p137)

開発願いの段階から多少の眉唾を感じますが、250両の冥加金となると当時の幕府の置かれている状況が浮き上がってきます。ともかく、資金の調達がなされました。

②野中新田の許可、開発

・享保9年(1724)5月14日には、北野中(小平市域)、28日に南野中(国分寺市域)の計512町歩の開 発が許可されました。名称は上保谷村願場です。
・全面積が開発仲間12名によって42町7反5畝ずつに均等分割されました。
上谷保村  藤八・平左衛門・源八・元右衛門・弥五左衛門・孫市・市右衛門
江戸の商人 米屋喜右衛門・玄瑞事源右衛門・佐野屋長右衛門・大屋六左衛門
円成院   住職大堅
・不思議なことに冥加金を立て替えた野中屋善左衛門は名前を出していません。しかし、後に136町 歩の野中新田善左衛門組という開発地が表れてきます。
・別の資料で、野中新田だけではありませんが、野中家は支出金6000両に対し地代1万2000両を見 込んでいます。

③新田用地の売却

・明細は判明していませんが、新田用地は早速売却 されます。
・売却先が砂川村、中藤村、大岱村、廻り田村であること、売主は当初はいずれも谷保の農民の形をとっていることにご注意下さい。元右衛門・孫市・平左衛門は売却後、保谷村へ帰村しています。
廻り田村は江戸の商人が売却しています。
・享保9年(1724)に開発許可がおり、2年後に早くも売却しています。これでは、売り地が新田として成立していたのか疑いがもたれます。
・総面積512町歩の内165町歩が売られ、残りは350町歩を切ります。
・享保11年(1726)5月、発起人で開発仲間の中心人物・矢沢藤八が上谷保村に退去します。理由は
「享保10年分の役米代金を使い込んで上納できなくなり、土地家屋を残らず仲間の源右衛門に売渡して、それで役米代金を払ってしまったので、開発を続けられなくなってしまった」とされています。
源右衛門は後に廻り田村へ売却しています。

④野中新田村の成立

新田割り付けを受けた保谷村の農民7人の内4人が帰村してしまい、3人が残りましたが、江戸商人4人が主導権を持ちます。また、野中屋善左衛門を加えると、商人5,農民3で、上保谷村願場は解体の危機を迎えます。

その時、享保11年(1726)6月、にわかに「野中新田」が成立します。
名主  源右衛門(後に与右衛門と改名)
組頭  善左衛門(前年に移住してきた)、長右衛門、
長百姓 喜右衛門・市右衛門・六左衛門・喜六郎(源八)・弥五左衛門

名主・組頭は商人で占められ、野中新田は町人請負新田とも解される所以です。この新田に高木村の村人達が参入しています。