【鎮守府将軍】

【鎮守府将軍】

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、日本の奈良時代から平安時代にかけて北辺の防衛のためにおかれた令外官の官職の将軍である。はじめ鎮守将軍(あるいは陸奥鎮守将軍)といい鎮守府将軍とは言わなかった。平安時代に入り鎮守府が移動して陸奥国府と距離ができると「府」の字を入れ「鎮守府将軍」と呼ばれるようになった。武門の栄職として、歴代の清和源氏の大将も叙任した。源頼朝が征夷大将軍となって以降、事実上、無名化した。建武の新政下において鎮守府将軍職が再び置かれることとなり北畠氏などが叙任した。ちなみに三位以上が同職に就くときには征夷大将軍と同格であるとして大の字を加え府の字を去り「鎮守大将軍」と呼ぶ。鎮守大将軍は幕府機構を開設し最低でも参議を兼ね陸奥・出羽・常陸・下野の四ヶ国を直轄支配する。


[編集] 多賀の鎮守将軍
鎮守将軍の始まりを直接記した史料はないが、知られる限りでは大野東人がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている。司令部ははじめ「鎮所」、後に「鎮守府」と呼ばれた。神亀元年(724年)に多賀(多賀城)に城柵が築かれてからは、その地に置かれたと推定される。多賀にはまた陸奥国府が置かれていた。

鎮守将軍は、陸奥国と出羽国の兵士と他国から来て両国に駐屯する兵士を指揮し、陸奥国と出羽国の軍事を統括する任にあたっていた。「将軍」と名がつくものは、鎮守将軍を除けば臨時の官職だったので、鎮守将軍は平時に唯一人の将軍であった。しばしば管轄地域を同じくする陸奥按察使が兼ねて政軍両権をあわせた。

鎮守将軍が対峙したのは陸奥国と出羽国の北にいた蝦夷であった。大きな軍事行動が必要になると、中央から派遣された様々な臨時の将軍・大将軍が他国からの兵とともに来着し、鎮守将軍を指揮下におさめた。

また、万葉集の編纂者とされている大伴家持が鎮守将軍在任中の延暦4年(785年)にこの地で病死している。


[編集] 胆沢の鎮守府将軍
征夷大将軍の坂上田村麻呂は、延暦21年(802年)に胆沢城を、延暦22年(803年)に志波城を築いた。築城と同時か数年後に鎮守府は胆沢に移転した。正確にいつかは不明である。胆沢の前に志波に置かれた時期があったかもしれない。以後の鎮守将軍(鎮守府将軍)は、陸奥国府から離れて胆沢で勤務することになった。

移転以前の鎮守将軍は国司の上に立って北方の鎮めにつく役職であったが、「征夷」の停滞後は陸奥国の一部を管轄することになり、陸奥国司よりやや格が下がることになった。行政官化した将軍の職権が国司の職権と重複する部分もあり、将軍と国司の激しい対立がしばしば起きた。このため、鎮守府将軍は早期に事実上名誉職化し、鎮守府に居ることも少なく、鎮守府は国府より早く廃絶した。しかし、前九年の役、後三年の役の発生により、現地の指揮官として出羽にも及ぶ軍事指揮権を与えられ復活する。

ちなみに、武門の棟梁となる清和源氏では、初代 経基王以来、源氏の大将の多くが任ぜられ経基王の嫡男満仲や満仲の子にあたる頼光、頼信兄弟、頼信の子 頼義と頼義の子義家に至るまでこの重職に叙せられている。また、新田氏の祖となる新田義重も贈鎮守府将軍として記録されていることから没後、贈官を受けたものと考えられる。


[編集] 名誉職の鎮守府将軍
鎮守府が実質的に機能しなくなってから、鎮守府将軍は優れた武士に与えられる名誉職的なものになった。


[編集] 主な鎮守府将軍(贈官を含む)
大野東人
坂上苅田麻呂
物部足継
藤原利仁
平高望
平国香
平良将
藤原秀郷
平貞盛
経基王
源満仲
源満政
源頼信
源頼義
清原武則
清原武貞
清原真衡
源義家
藤原秀衡
新田義重(没後、贈官)
北畠顕家
北畠顕信
足利尊氏
足利直義

[編集] 参考文献
工藤雅樹『蝦夷の古代史』(平凡社新書)、平凡社、2001年。ISBN 4-582-85071-5
高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版、人物叢書)、吉川弘文館、1988年。ISBN 4-642-05045-0
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E5%B0%86%E8%BB%8D" より作成


鎮守府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鎮守府(ちんじゅふ)は、古代日本の地方軍政府または、近代の日本海軍の機関の名称である。詳細については以下において述べる。


[編集] 古代 鎮守府
鎮守府(ちんじゅふ)は、古代の陸奥国に置かれた軍政を司る役所の事である。その長官である将軍の名が 729 年(天平 1)に初めて見えることから、奈良時代前半には鎮守府が設置されたと思われる。

鎮守府の前身を続日本紀に見える鎮所(ちんじょ)とする考え方が根強い。しかし、鎮所は鎮守府の存在と密接に関連した呼称であるが、本来正式な機関名としての鎮守府とは同列に置いて比較すべき用語ではない。


[編集] 多賀城時代の鎮守府
鎮守府は、初め多賀城に置かれた。

759年(天平宝字3)には、将軍以下の俸料(ほうりよう)と付人の給付が、陸奥の国司と同じと決められた。この頃より、鎮守将軍はほぼ4年毎に任命された。

この時期の将軍は按察使(あぜち)または陸奥守を兼任するのが通例で、中には3官を兼任する場合もあった。

一般的に、征夷の際には、征夷大将軍が任命され、征夷軍が編成される。鎮守府は通常の守備と城柵(じょうさく)の造営、維持など陸奥国内の軍政を主な任務としていた。


[編集] 胆沢城時代の鎮守府
802年(延暦21)坂上田村麻呂によって胆沢城(いさわじょう)が造営されると、多賀城から鎮守府が移された。移転後の鎮守将軍の位階は、以前の四位から五位相当に下がり、陸奥介を兼務する例も見られた。また機構整備も積極的に進められ、例えば、812年(弘仁3)には、鎮守府の定員が将軍1名、軍監(ぐんげん)1名、軍曹2名、医師・弩師(どし)各1名と定められた。

834年(承和1)には、元は陸奥国印を使っていたのが、新たに鎮守府印を賜っている。このように、移転後の鎮守府は、多賀城にある陸奥国府と併存した形で、いわば第2国府のような役割を担い、胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めていた。

このように、鎮守府の本来の性格は、正にこの平常時での統治であり、非常時の征討ではない。従って、平安時代中期以後になると、鎮守府本来の役割は失われ、鎮守府将軍の位のみが武門の誉れとして授けられた。


[編集] 海軍 鎮守府
鎮守府(ちんじゅふ)は、日本海軍の機関で、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関。

その前身は1871年(明治 4)兵部省内に設置された海軍提督府である。


[編集] 鎮守府の歴史
1875年日本周辺を東西の2海面に分け、東西両指揮官の指揮下に置くことになり、1876年東海、西海の両鎮守府を設置することになった。

東海鎮守府はまず横浜に仮設され(西海鎮守府は開設されず)、1884年には横須賀に移転され、横須賀鎮守府と改称された。

1886年海軍条例の制定により、日本の沿岸、海面を5海軍区に分け、各海軍区に鎮守府と軍港が設置されることになった。

横須賀のほかに、1889年には呉と佐世保に、1901年に舞鶴に鎮守府(舞鶴鎮守府)が開庁した。

しかし、当初予定されていた室蘭への設置は1903年に取止めとなった。

1905年には旅順口鎮守府が設置された(1906年旅順鎮守府と改称、1914 年廃止)。

また舞鶴は1923年にはワシントン軍縮条約の煽りで一時廃止(要港部への格下げ)されたが、1939年に復活した。

各鎮守府は、所轄海軍区の防備、所属艦船の統率・補給・出動準備、兵員の徴募・訓練、施政の運営・監督にあたった。

鎮守府司令長官(大・中将)は軍政に関しては海軍大臣の、作戦計画に関しては海軍軍令部長(軍令部総長)の指示を受けた。

なお、大湊(現:むつ市)軍港には、鎮守府よりも格下の警備府が設置されていた。

鎮守府は第二次世界大戦後の1945年11月に廃止された。もっとも、1952年(昭和27年)に発足した警備隊、1954年(昭和29年)に発足した海上自衛隊では、かつての海軍区・鎮守府に相当するものとして地方総監部・地方隊を置いた(現在は横須賀・舞鶴・大湊、佐世保・呉地方隊が置かれている