【鷹場】
第四節鷹場と秣場
尾張家の鷹場
近世鷹場制度の形成
鷹狩は中世には勇壮なスポーッとして公家や武士等の間で好まれ、戦国大名は領内の地理的把握や民情視察、軍事訓練などの手段としても盛んにおこなっていたが、統一政権の形成の中で、次第に権力者に独占されるようになった。
徳川家康が鷹狩を好んだことは、「一富士、二鷹、三なすび」などの逸話で著名であるが、彼は天正十八年(一五九〇)、関東に入封すると、翌年から領内を巡って鷹狩をおこなった。慶長八年(一六〇三)、征夷大将軍に補任されて江戸幕府を開くと、翌年に大名に対して許可なく鷹狩をおこなうことを禁止し、同十七年には公家に対しても鷹狩を禁止した。一方で、自らは各地に鷹狩に赴き、慶長十二年、駿府に移住したのちもしばしば川越・忍(行田市)・岩槻など関東で鷹狩をおこなっていた。
さらに、前田・伊達・佐竹など有力大名に限って鷹場を与え、鷹狩の特権により大名の位階を表現する手段とし、かつ獲物を諸大名などに下賜したり、あるいは鷹狩を許された大名が獲物を献上する儀礼的行為を通じて、身分制的な礼的秩序を形成していった。
三代将軍家光の時代、鷹場の整備は急速におこなわれていった。家康以来、川越・忍・岩槻・鴻巣・東金など、軍事的要衝に設定されていた将軍の鷹場が、寛永五年(一六二八)、江戸周辺の沼辺・世田谷・中野・戸田・平柳・淵江・八条・葛西・品川の九か領五四か村に指定された。ここにおいて、江戸城周辺約五里四方を、一面的に支配の区別なく鷹場を設定し、幕府の鷹匠頭以外の放鷹を禁じ、各領に触村という領内の法令伝達機構を設定し、また鷹場内の治安取り締まりをも強化したのである。
さらに寛永十年、幕府は尾張・紀伊・水戸の御三家に将軍家の鷹場の外約五里から一〇里程度を鷹場として与えた。西の武蔵多摩・入間・新座郡が尾張家へ、北の武蔵埼玉・葛飾郡が紀伊家へ、東の下総が水戸家に与えられた。もちろん天領・旗本領・寺社領が錯綜している場所であり、これらの村々は年貢徴収や裁判を代官や地頭が、鷹場の支配を御三家の鷹役がおこなうという二重支配を受けたのである。
尾張家の鷹場
寛永十年(一六三三)、所沢市域は尾張家の鷹場に編入された。尾張家の鷹場は多摩川と荒川にはさまれ、多少の変動はあったが、市域は元禄六年(1693)、鷹場が一時廃止されるまで、一貫して尾張家の鷹場となっていた。近世前期における尾張家の鷹場は、延宝六年(一六七八)の鷹場絵図(第4-17図)によれば、一五六か村におよび、一〇の区域に分かれていた。それは「清戸より城・本郷分一六か村」として市域の城・本郷・安松・坂之下をはじめ東京都清瀬市・新座市野火止地区、「田無・保谷・小榑分六か村」の東京都田無・保谷市と練馬区大泉地区、「前沢より膝折まで片山分一六か村」として東京都東久留米市と新座市片山地区、「久米川・所沢分一二か村」として東京都東村山市と市域の所沢・秋津・上新井・下新井・牛沼・日比田・亀ケ谷・永井、「表ケ輪分一三か村」として狭山丘陵の南側の村々、山口・焼部分一四か村として市域の荒幡・町屋・菩提木・新堀・大鐘・勝楽寺・堀口・川辺・氷川・岩崎など狭山丘陵の中の村々、「二本木・三ケ嶋・宮寺分一三か村」として入間・狭山市をはじめ市域の北野・三ケ嶋・堀之内・糀谷・林などの村々、「青梅より扇町屋分三五か村」の福生・羽村・青梅・飯能・入間市辺の村々、「新御場二八か村」として新河岸川沿いの志木・富士見市域、その他四か村であった(『志木市史』通史編上)。
このうち市域の坂之下、入間郡鶴間(富士見市)・下宗岡(志木市)・藤沢(入間市)、新座郡館(たて志木市)・下片山(新座市)、多摩郡田無(東京都田無市)・久米川(同東村山市)・箱根ケ崎(同西多摩郡瑞穂町)には鳥見陣屋が設置され、鳥見役人が詰めて鷹場の管理に当たっていた。近世前期の鳥見陣屋や鳥見役の機能・職掌は明らかではないが、尾張藩江戸屋敷の鷹野役所の支配を受けて鷹場の管理や鳥獣の保護に当たり、鷹狩の際に村々から人馬の徴発などをおこなっていたと考えられる。
尾張藩主の鷹狩と所沢
寛永十年二月十三日、尾張藩主徳川義直は将軍家光より鷹場を拝領した。五日後の十八日、義直は早速所沢に赴き、鷹狩を挙行した。当時の鷹狩は多数の家臣を供として引き連れ、多くの勢子を動員して鳥獣を追い出し、鷹を放って獲物を取るという勇壮なものであった。以後、寛永十四年・同十六年・翌十七年と、義直は所沢を中心にしばしば鷹狩をおこなっている。
彼は一〇日から半月程度鷹場内に逗留した様子であり、鷹場内に「御殿」が設けられ、休泊の施設となっていた。ただ御殿だけでは供奉の家臣たちの宿所が足らず、周辺の民家などを接収したため、農民はその接待に忙殺され、大きな負担となった。
寛永二十一年、義直が所沢・前沢(東京都東久留米市)等でおこなった鷹狩には、付家老で犬山三万五、○○○石の城主であった成瀬正虎をはじめ、家臣九五人がそれぞれ家来や中間を率いて従い、他に足軽二三人・中間一四三人等が供奉しており、その総人数は一、○○○人を超えたと推定される。
このとき前沢村では、八○軒の百姓が宿として指定されている。また勢子や侍たちの荷物の運送などに五一か村から一、一六四人の人足が徴発されている。そのうちには所沢六〇人、久米村五五人、三ケ嶋・北野・勝楽寺村各五〇人など市域一九か村から都合五一〇人と半数近い人数が出ているのである(近世史料1-245)。
藩主の休泊にあてられた御殿は、当初入間郡扇町屋(入間市)に設けられたが、のち所沢の薬王寺に移された。薬王寺は南北朝時代に創建されたと伝える曹洞宗の古剰で、近代には二、二〇〇坪程度の境内を持っていた。御殿が新たに建設されたのか否かは不明であるが、おそらく庫裏等を利用し、家臣の多くは所沢村の民家に分宿したのであろう。鷹場内を数日間にわたって巡る中で、徳川義直は各地の寺院を臨時に宿舎としていたようである。
寛永十七年には、所沢のほか多摩郡中清戸村(東京都清瀬市)の全竜寺を宿舎とし、新座郡片山村(新座市)の法台寺などで昼食をとっている。寛永二十一年に、御殿は前沢の延命寺に移されており、所沢を御殿としたのは数年間に過ぎなかったようである。のち延宝四年(一六七六)には中清戸村に移され、のち鷹場が廃止される元禄六年まで使用された。ここには常設の施設が設けられ、「清戸御殿」と呼ばれていたという。
鷹場では鷹狩だけではなく猪狩・鹿狩などもおこなわれた。寛文十年(一六七〇)、二代尾張藩主徳川光友の世子綱誠は、前沢を中心に鹿狩をおこない、自ら鉄炮で鹿を射止めている。当時、市域の山野には鹿や猪もいたのである。
村々では、鷹狩の獲物を保護するために田畑を荒らす鳥獣を勝手に追い払うこともできず、案山子や鳴子などの設置も制限されたものの、年貢は関係なく別の代官・領主などから取り立てられたのである。一方、常に獲物の検分に来る鳥見や鷹匠などにも人足や宿舎を提出し、鷹狩の前には御殿の修復や掃除、道橋の修繕などに駆り出され、鷹狩には勢子や荷物運送のため多数の人足を徴収され、家来たちの宿泊に家屋敷を提供し賄いをするなどさまざまな負担を強いられた。
しかし、鷹狩の勢子として獲物を草むらから追い出したり、山野を駆け巡ったりするなかで、農民たちは今までとはなにか違った感覚を持ち始めたかもしれない。この以前、農民たちは集落周辺の僅かの田畑にしがみつきながら、その周辺を囲んでいた自然界が雨・風・日照りなど威力を現したり、大自然のなかから人里に出没して田畑を荒らす鳥獣に対し、絶えず恐れを抱いていただろう。自然が神として信仰されたり、神の使いが鳥獣であるという古代以来の信仰に、それはよく示されている。それに対し、鷹狩に動員される中で、近世前期の農民たちは幕藩領主の威を借りながらも、自然界の山野を駆け巡り、今まで恐れていた獣を大勢で追い出し、武士たちが勇壮にそれを仕留めるのを眼の当たりにしたのである。
このなかで農民たちが、次第に自然界に対する恐れを克服し始めていくことは想像にかたくない。それは、山野への進出という形で体現されていく。中世末期から近世前期にかけては、日本史上でも有数の大開発時代といわれている。各地で新田開発がおこなわれ、農業生産力が向上したが、それは人々が自然界へ進出することでもあっ。市域の場合、その潮流が村の背後にある広大な武蔵野の開発へと繋がっていくのは当然といえよう。ただそれは人々が自然へ対応するだけで解決する問題ではなかった。開発を巡って人間同士、あるいは周辺の村同士が新たな対応を余儀なくされるのである。
(所沢市史 上 p574-578)