京都・奈具岡遺跡で大規模な水晶加工工房確認 邪馬台国論争に影響も(解説)
京都・奈具岡遺跡で大規模な水晶加工工房確認 邪馬台国論争に影響も(解説)
95.11.14 東京読売朝刊 21 AP 13 03 01558
京都府・丹後半島の弥生中期後半(約二千年前)の遺跡から、東アジア規模でも例のない巨大な水晶玉作り工房が確認された。当時の倭王権の存在とも絡み大陸の先進技術と直結した「弥生の工房」が持つ意味は大きい。
解説委員(大阪)
坪井 恒彦
京都府埋蔵文化財調査研究センターが発掘した弥栄町の奈具岡遺跡で、三十七基の竪穴(たてあな)式工房群から水晶の原石から完成品まで剥片(はくへん)を含めて数万点と、鉄片二千七百点が混ざって出土した。
現場の丘陵上に立つと、北西のふもとを北流する竹野川が望める。丹後半島の根元、大宮町を源に峰山、弥栄、丹後の各町を縦断して日本海にそそぐ全長二十三キロのこの川の流域は、弥生・古墳時代の“特異地帯”として以前からたびたび脚光を浴びてきた。
奈具岡の工房群が営まれる少し前、弥生前期末には全国最古の大型高地性集落・扇谷遺跡(峰山町)が出現する。要さい的な村の周囲には長さ一キロに及ぶ底がV字形の内堀(幅六メートル、深さ四メートル)が鉄器を使って掘られていた。村内には玉作り・ガラス工房があったようだ。
奈具岡が使命を終える弥生後期には、三坂神社墳墓群(大宮町)はじめ、弥栄町、丹後町などに、首長クラスの墳墓が次々に登場する。いずれも、墳墓の規模に比べ、驚異的といえるほど多量のガラス製の玉や鉄製品を副葬していた。
古墳時代の竹野川流域の目玉は、太田南五号墳(弥栄町)。ここからは卑弥呼が中国魏の皇帝から与えられた「銅鏡百枚」に当たるとされる「景初三年(二三九)」銘の三角縁神獣鏡より四年古い「青龍三年」銘鏡が出土し、邪馬台国の所在地論争を再燃させた。さらに古墳後期には、古代の製鉄団地、遠所遺跡(弥栄町)が営まれる。
これら竹野川流域の遺跡群に共通の特徴は、鍛冶(かじ)や製鉄に携わる渡来系の大規模な鉄技術集団の存在だ。玉作り自体は、縄文期の日本海側でヒスイを素材に始まった技術で、弥生期に入って碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩、ガラス製が普及する。一方で、より硬い素材へのあこがれと花こう岩地帯で入手しやすい水晶が重視される。
水晶の玉作りは日本色の濃い文化だが、その起源は硬くて扱いにくかった水晶の加工を可能にした大陸渡来の鉄の技術との結合だったともみられる。
さらに当時の東アジアでは奈具岡のような水晶の玉作り工房は見つかっておらず、その製品が出土する墳墓も、倭国と関係の深かった地域に限られている。
倭国にもたらされた大陸文化の窓口で、漢帝国が朝鮮半島支配の拠点とした楽浪郡(現平壌付近)。その石巌里二〇五号墳からは水晶の切り子玉が出土している。また同半島南部で、倭国ととりわけ交流の激しかった伽耶諸国に当たる韓国慶尚南道の良洞里、下垈の両遺跡からも水晶の首飾りが発掘されている。
奈具岡に続く時期の弥生の水晶玉作り遺跡は、西高江(鳥取県大栄町)、平所(ひらどころ)(松江市)、江上A(富山県上市町)の丹後半島を挟んだ日本海側の各遺跡に限られ、奈具岡の技術が受け継がれた可能性が高い。
この奈具岡の工房のルーツで、いま二通りのケースが考えられている。一つは門脇禎二・京都橘女子大学長(日本古代史)が想定する「丹後王国」の基盤になるような勢力が、朝鮮半島南部や中国江南地方との交流で技術を築き上げ、独自に作った水晶玉を特産品的に交易していたとの見方だ。
もう一つは大和を中心とした畿内の集団が、地理的にも大陸に近い丹後の勢力に、従来、鍛冶技術などの文化導入の窓口の役割を担わせ、そんな経緯から彼らに水晶玉作りを任せていたのではないかとする説だ。
弥生中期の列島で従来、先進地域とされてきた北部九州を凌駕(りょうが)する技術力が丹後に存在していたことは、今回の奈具岡で確実になった。それは後の邪馬台国の所在地にも影響しそうだ。
弥生の水晶工房、京都・奈具岡遺跡から出土 国内最古、最大規模
95.10.27 東京読売朝刊 34 AJ 14 03 写 00679
京都府埋蔵文化財調査研究センターは二十六日、同府弥栄町の奈具岡(なぐおか)遺跡から、弥生時代中期(紀元前一世紀―後一世紀)の国内最古で最大の水晶の玉作り工房跡が出土したと発表した。水晶玉作り工房では、これまで弥生中期末―後期(二世紀)の鳥取県・西高江遺跡が最古と言われ、約一世紀さかのぼることになった。水晶は原石から完成品まで数万点に上り、大量の半製品から不明だった玉の生産工程が初めて明らかになった。倭(わ)国の先進的な玉作り工人の拠点で、環日本海文化に光を当てる発見といえる。
遺跡には弥生時代中期の竪穴(たてあな)住居が三十七基あり、うち二十五基から多量の水晶の原石、半製品、完成品が散乱した状態で発見され、ノミや鉄製の錐(きり)、砥石(といし)なども出土。工房は約五十年間続いたと推定される。
原石は無色または白色の透明で、小指の先程度から小石大まで。完成品はソロバン玉に似たものや、なつめ玉、管玉などで、糸を通して首飾りなどの装身具にしたと考えられているが、これまで九州から千葉県までの二十一遺跡から、計百点程度しか出土していない。
また、工房跡からは二千六百四十七点もの鉄片や鉄鏃(てつぞく)(やじり)、鉄斧(てっぷ)なども出土し、鉄の原材料を加工していたらしく、鉄器生産は近畿では弥生時代後期からという定説を覆した。
水晶玉作り遺跡に詳しい清水真一・奈良県桜井市教委文化財係長の話「日本で最初の本格的な水晶玉作り工房だ。硬い水晶を加工できる鉄器をいち早く手にする力があったからこそ、大規模に生産できたのだろう。朝鮮半島や中国へ輸出していたかもしれない」
水晶玉工房(弥生時代中期1C)
京都府竹野郡弥栄町
奈具岡遺跡
水晶玉、管玉の未完製品多数発見。
専門集団を集めた玉つくりの大工房群と考えられる。製品の供給先等、弥生社会の生産、流通体制などの解明が期待される。玉造の核となっていた場所が京都・丹後半島に存在した可能性も出てきた。弥生時代は海上交通が発達していたため、同地で製作した水晶玉を九州の権力者に運んだことも考えられる。
具体的な製作法も判明。弥生人の装飾品の生産技術を知る上で貴重な発見。
丘陵上の約4000平方メートルの地域に、約20棟の竪穴住居跡があり、そこから緑色凝灰岩の未完成の管玉や砥石、きり等の工具類が出土。
数棟からは水晶玉の未完製品や原石、破片数十点が出土。
原石を手ごろな大きさに砕き、最後は砥石で磨く製法。
製作工房遺跡は鳥取県大栄町の西高江遺跡が2ー3C時代のもの。
(日経 92、10、10)