大槻磐渓

大槻磐渓

 大槻 磐渓(おおつき ばんけい、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年)6月13日)、名は清崇、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。

 父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭、大槻平泉がいる。
 磐渓の本格的な学問修行は、1816年、16歳のころ昌平坂学問所(昌平黌)で大学頭を務める林述斎の林家に入門したことから始まる。ここで磐渓は高弟の葛西因是から文章を、松崎慊堂から経学を学んだ[3]。葛西は父の玄沢と懇意でもあった。翌1817年、17歳で昌平黌に入寮し、27歳までの11年間、(断続的ではあるが)ここで学び続けることになる。

 1818年春、父の弟子・佐々木中沢を伴って、初めて郷里の仙台藩磐井郡 中里村へ帰郷し、一族の大槻平泉や、仙台藩の藩校・養賢堂を訪ねている。また、江戸から大槻家を訪ねていた松崎慊堂とここで初対面を果たした[4]。

 22歳の頃、仙台藩校の養賢堂に入る。ここで学頭を務める親族の大槻平泉に抜擢され、指南役見習となった。しかしこの職は普通30-40歳程度の学者が就く職であり、これを行き過ぎとみた父玄沢の意見により、翌1823年、磐渓は江戸の昌平黌に戻った。ところが、翌1824年にはまた養賢堂へ戻っている。また、このころの学友に安井息軒がいる。

砲術修行[編集]

 1841年、武蔵の徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で、高島秋帆の指導のもと洋式軍の訓練が行われた。砲撃演習も行われ、これを見学していた磐渓は「漢学を本業、西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と西洋砲術を学ぶ決意をする。1848年、秋帆の門人・大塚同庵から西洋砲術の皆伝を受け、1851年2月には藩から「西洋砲術稽古人」を命じられた。11月には佐久間象山が西洋式カノン砲の試し撃ちを行ったが、磐渓はこの手助けを行っている。1855年11月には藩から「西洋流砲術指南取扱」を命じられ、12月に江川英龍に入門している[11]。

開国論[編集]

 また、この頃から磐渓は開国論を唱え、1849年には幕府老中・阿部正弘へ開国論「献芹微衷」(けんきんびちゅう)5編を建白した[12]。彼の主張は親露開国論であり、アヘン戦争以後、知識人の間ではイメージの悪かったイギリス・アメリカではなく、古くから交流のあったロシアに接近しつつ開国しようという考えである。

 そもそも、家柄により幼いころから異国の文化に触れる環境で育ったため、磐渓には西洋人を「夷敵」ととらえる発想はなかったようである。しかし、当時の世論は圧倒的に攘夷論が優勢であり、磐渓の態度は多くの非難を浴びた。

 ペリーが来航した1853年には、幕府が諸藩に対応の助言を求めたことに応じ、藩命で黒船見学のため2度浦賀へ出張している。その後に開国論をまとめた「米利幹議」(めりけんぎ)、「魯西亜議」(ろしあぎ)2つの外交建白書を著した。 (ウキペディア)