奈良・纒向遺跡から鉄精錬の遺物出土 古墳時代前期の最古級資料/橿考研



奈良・纒向遺跡から鉄精錬の遺物出土 古墳時代前期の最古級資料/橿考研

98.09.22    大阪読売朝刊      26    AJ    14    01    写      00257
奈良県桜井市東田(ひがいだ)町の纒向(まきむく)遺跡で、炉に送風するふいごの羽口二点や未完成の鉄製品=写真=約二十点など、古墳時代前期(三世紀末―四世紀初め)の鍛冶(かじ)関係の遺物が出土したと二十一日、同県立橿原考古学研究所が発表した。鉄の精錬を示す最古級資料という。
池の改修に伴い、二百二十六平方メートルを発掘。古墳時代前期のごみ捨て穴から、ふいごの羽口(幅十一センチ、高さ九センチ)、木片の付いた鉄製きり一点(長さ七・二センチ)、鉄を精錬した際に出るくずの「鉄滓(てっさい)」約二十点などが出土した。


=== <980921-32> news.asahi/society, -(-), 98/ 9/21 19:37, 22行
標題: 初期大和王権の中心地にも鉄器生産技術
---
奈良県桜井市にある古墳時代初期の大集落跡である纒向(まきむ
く)遺跡の紀元三〇〇年前後の土坑(ごみ捨て穴)から、鉄を溶か
したときにできる不純物の塊(鉱さい)が付着した「ふいご」の破
片や、鉄製の錐(きり)などが見つかった。同県立橿原考古学研究
所が二十一日、発表した。鉄を高温で溶かして加工する鉄器生産の
跡としては最古級であることがわかった。これまで最古とされ、今
回と同様にふいごの破片が出土している博多遺跡群(福岡市)とほ
ぼ同時期のもので、初期大和王権の中心地が鉄器の生産技術でも、
これまで先進地といわれていた北九州と肩を並べていたことを示す
ものとして注目される。
遺跡のほぼ中央にある土坑(縦二・二メートル、横二・六メート
ル、深さ〇・八メートル)から見つかった。ふいごの破片は土製で
、大きいものは高さ約九センチ、幅約十一センチ、厚さ約三センチ
。炉に風を送る穴(縦五センチ、横二・五センチ)が開いている。
また、錐の鉄の部分(長さ七・二センチ)や鉄片、鉱さい、鋳型を
転用して作った砥石(といし)など数十点も発見された。
炉跡は見つかっていないが、製鉄用の炉ではなく、鉄素材を高温
で溶かして炭素分を減らし、加工する鍛冶(かじ)炉が近くにあっ
たとみられるという。
鉄器の使用は弥生時代の前期から見られるが、鉄を溶かして加工
した三~四世紀の遺跡は少なく、近畿では、四世紀後半の芝原遺跡
(滋賀県彦根市)が最古とされてきた。

魏志倭人伝と邪馬台国 新たな解釈に厳しい見方も

97.07.14    大阪読売夕刊      15    FA    03    03    写      00928
邪馬台国時代に重なる巨大な都市型集落・纒向遺跡(奈良県桜井市)周辺の発掘調査が進み、同国の所在地をめぐる畿内説や九州説などの議論が再び盛んになりつつある。だが、肝心の所在地を伝える唯一の同時代の中国の史書「魏志倭人伝」からの追求は、方位や行程(里程・日数)の解釈に行き詰まって、長年、困難な状況に陥ってきた。
これに対し最近、民間研究者らから倭人伝に関する意欲的な解釈を試みた著作の出版が相次いでいる。滝川学園(神戸市須磨区)の数学科教諭岡本一郎氏=写真=もその一人。著書「倭人伝の謎を解く」は、この史書をあくまで古代中国の魏人が後世の魏人のために書いたとの原点に戻って読み解いている。
例えば「南のかた投馬国に至る、水行二十日」や「南のかた邪馬台国に至る……水行十日・陸行一月」の解釈の仕方は、その前に記されている「不弥国」から連続してたどるか、“放射式読み方”で外交拠点のあった伊都国を起点にするかが一般的だ。
ところが、岡本氏は、魏人による倭人伝なら魏の朝鮮半島の出先・帯方郡の中心(ソウル付近)を起点とするのが当然であり、「郡より」は省略されたと考える。とすれば、壱岐から不弥国までの一連の九州諸国、そして投馬国、邪馬台国への出発点はいずれも帯方郡で、三つの道程を区別しているからには投馬国、邪馬台国は九州とは考えにくい。問題の邪馬台国への方位「南のかた」も九州から南でなくソウル付近から南なので、西日本全域が対象になるという。
こう見直すと、邪馬台国への行程のうち「水行十日」は帯方郡から倭国の伊都国までになる。続く「陸行一月」は方向に関係なく伊都国から陸上を一か月進んだ九州以外の地となり、岡本氏は邪馬台国の所在地を畿内の大和と結論付ける。
しかし、このような最近の「魏志倭人伝」論議について山尾幸久・立命館大名誉教授(日本古代史)の見方は厳しく、「問題は倭人伝の信頼度の限界を論証できるか。さらに、背景として倭国の乱の二世紀から古墳時代の始まりまでの百年間がどう押さえられているかがポイントになる」と指摘。邪馬台国の所在地を解明する道のりには依然、大きな課題が横たわっているようだ。                    (坪)



▼96/12/12  東京朝刊  1 頁  1総面  T961212M01--3801
纒向石塚古墳<用語>
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奈良県桜井市の三輪山西北部の田園地帯にある。一帯は古代大和王権の発祥地
とされる。纒向石塚は、一帯で最も古いとされる箸中古墳群(纒向遺跡とほぼ重
なる)にある。いびつな円形の後円部(直径六十二メートル)と、三味線のバチ
形の前方部(長さ三十二メートル)から成る「ホタテ貝式」風の前方後円墳。一
九七一年以来、過去七回にわたる発掘調査で見つかった土器や木製品などから、
古代吉備とつながりの深い最古級の古墳との見方が定着している。
[朝日新聞社]

▼96/12/12  大阪朝刊  29 頁  3社面  O961212M29--01
邪馬台国の影、見えた? 畿内説に有利な材料 纒向石塚古墳【大阪】
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奈良県桜井市の纒向(まきむく)石塚古墳は、邪馬台国の女王・卑弥呼の全盛
期に築かれた古墳なのか――。邪馬台国の所在地論争は「畿内説」と「九州説」
の二つの大きな流れがある。桜井市教委による纒向石塚の発掘調査は、古代史最
大のロマンといわれるこの論争に、新たな材料を提供した。(奈良支局・神野武
美、亀松太郎)

中国の史書「魏志倭人伝」によると、二世紀後半ごろ、倭(日本)の諸国は大
乱を治めるために卑弥呼を立てて女王とした。卑弥呼は二三九年(景初三年)、
魏に使者を送り、鏡百枚をもらった。そして、二四八年ごろに死んだ。
今回の調査結果をこの記述に照らし合わせると、纒向石塚は卑弥呼の全盛期に
築造された古墳ということになる。
かつて纒向石塚を発掘したことのある石野博信・徳島文理大教授(考古学)は
、早くから纒向石塚を二世紀末―三世紀初頭の最古級古墳とみて、自ら「古墳時
代の過激派」と称してきた。今回の調査結果はその説を強力に補強することにな
り、「纒向石塚のある纒向遺跡は、邪馬台国畿内説の有力候補地だが、卑弥呼の
時代の古墳が現れたことで、その根拠が一層、具体的になった。これからは卑弥
呼の時代を『弥生時代』ではなく、『古墳時代』としてとらえ直す必要が出てき
た」と意気盛んだ。
纒向遺跡の中核的存在で、三世紀後半の築造とされている箸墓(はしはか)古
墳(全長二百七十六メートル)を卑弥呼の墓とする説がある。魏志倭人伝の卑弥
呼の墓の大きさ(径百余歩)に相当する後円部を先に造って、後で前方部をくっ
つけた、とする河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長の説などであ
る。
さらに、今回の発掘成果をもとに纒向石塚の近くに点在する同規模の古墳を、
邪馬台国の高官や卑弥呼側近の重要人物の墓とみる説も語られるようになった。
大塚初重・明治大教授(考古学)は「纒向石塚の年代が早まれば、関東や瀬戸
内などの古墳の成立時期にも影響する。古墳の現れる時期に地域差があまりない
からだ。卑弥呼の時代にあれだけ大きな古墳があったことは、邪馬台国畿内説に
とっては有利な材料になる」という。
卑弥呼の時代とは、どんな世の中だったのか。
弥生、古墳時代に詳しい国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授は、各地の部族が
ゆるやかに統一された地方色豊かな時代で、卑弥呼はそんな連合体のシンボルと
とらえる。弥生時代の墳丘墓は地域色を持っていたが、全国的に「共通規格」の
前方後円墳が出てくると、地域色がなくなった。春成教授は纒向石塚は古墳では
ないという見方をとるが、「邪馬台国の有力者の墓ではないか」という。
だが、「九州説」も負けてはいない。吉野ケ里遺跡の調査で知られる佐賀県教
委の高島忠平・文化財課長は「三世紀は邪馬台国も含めて地域ブロック的な王権
の時代であり、前方後円墳も地域の独自性を持って成立している。纒向石塚もそ
の一つにすぎない」という。
そして、「纒向石塚の築造年代が従来より早くなれば、北部九州の古い古墳の
年代もさかのぼることになる」とし、これまで年代が合わないために候補になり
得なかった九州地方の古墳が、「卑弥呼の墓として浮上してくるのではないか」
と解釈する。
邪馬台国九州説をとる作家の黒岩重吾さんは今年十一月、「鬼道の女王・卑弥
呼」(文芸春秋)を出版したばかり。「卑弥呼は鏡が好きだった。纒向石塚が邪
馬台国にあったのなら、鏡が出てきてもいいはずだ。中国から運ばれた後漢鏡が
出ていない以上、邪馬台国には結びつかない。三世紀前半の大和は銅鐸(どうた
く)を作っていた時代」と指摘する。さらに、「古い古墳の時期をさかのぼらせ
ようとする動きが最近目立つが、土器片だけでは不十分。確証がなく認められま
せん」と、桜井市教委の発表そのものにも批判的だ。

○1月5日から速報展
纒向石塚はJR桜井線巻向駅の西約三百メートル。現地説明会は開かれないが
、一月五日から四月六日まで、桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで速報展があ
る。

●盛り土出土の土器、年代判断に疑問<解説>
纒向石塚古墳の築造が三世紀初めにまでさかのぼるとする桜井市教委の調査結
果は、従来の古墳年代観を大きく揺るがすとともに、邪馬台国の女王・卑弥呼の
時代と重なることなどが関連して、日本の国家原像を書き換える可能性も出てき
た。
纒向石塚が最古級の古墳であることはすでに知られていた。中には二世紀末の
築造を想定する学者もいるが、これは「異端」とされ、一般には三世紀後半説が
主流だった。ただ、遺跡の実年代を出土木材で調べる年輪年代法などの影響を受
けて古墳の年代を見直す傾向が強まっており、今回の発掘はそうした学術的背景
の中で進められた。
しかし、出土した「纒向1式」の土器を、年代判定の決め手とした今回の判定
には、疑問の声もある。
一つは、土器が墳丘の盛り土から出たこと。「築造のずっと前から土に古い土
器が交じっていた可能性があり、墳丘出土の土器で築造年代は決まらない」(寺
澤薫・シルクロード学研究センター課長補佐)とする見解だ。もう一つは土器に
当てはめる実年代の物差しへの異論で、「纒向1式は三世紀後半」(関川尚功・
奈良県立橿原考古学研究所総括研究員)とする説。今後も論議は続きそうだ。
纒向石塚のある奈良盆地東南部は古代大和王権が生まれ、全国統治に向かった
地域で、前方後円墳を軸とする多数の前期古墳(三世紀後半―四世紀)が集中す
る。このため、「大和の古墳年代が動くと、その影響は全国に及ぶ」と言われる
。纒向遺跡には纒向石塚とほぼ同規模、同時期と見られるホケノ山、東田大塚、
矢塚、勝山などの小型古墳があり、これらの古墳を含めた纒向遺跡の総合調査を
望む声は強い。
(編集委員・岸根一正)

【写真説明】
纒向石塚古墳(手前)と箸墓古墳(後方)=奈良県桜井市太田で、本社ヘリか

纒向石塚古墳の復元図=桜井市立埋蔵文化財センター作製
[朝日新聞社]


▼96/12/12  東京朝刊  34 頁  2社面  T961212M34--01
邪馬台国の所在地論争に新たな材料 奈良・纒向石塚古墳発掘調査
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奈良県桜井市の纒向(まきむく)石塚古墳は、邪馬台国の女王・卑弥呼の全盛
期に築かれた古墳なのか――。邪馬台国の所在地論争は「畿内説」と「九州説」
の二つの大きな流れがある。桜井市教委による纒向石塚の発掘調査は、古代史最
大のロマンといわれるこの論争に、新たな材料を提供した。

中国の史書「魏志倭人伝」によると、二世紀後半ごろ、倭(日本)の諸国は大
乱を治めるために卑弥呼を立てて女王とした。そして、二四八年ごろに死んだ。
今回の調査結果をこの記述に照らし合わせると、纒向石塚は卑弥呼の全盛期に
築造された古墳ということになる。
かつて纒向石塚を発掘したことのある石野博信・徳島文理大教授(考古学)は
、「纒向石塚のある纒向遺跡は、邪馬台国畿内説の有力候補地だが、卑弥呼の時
代の古墳が現れたことで、その根拠が一層、具体的になった。これからは卑弥呼
の時代を『弥生時代』ではなく、『古墳時代』としてとらえ直す必要が出てきた
」と意気盛んだ。
卑弥呼の時代とは、どんな世の中だったのか。
弥生、古墳時代に詳しい国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授は、各地の部族が
ゆるやかに統一された地方色豊かな時代で、卑弥呼はそんな連合体のシンボルと
とらえる。弥生時代の墳丘墓は地域色を持っていたが、全国的に「共通規格」の
前方後円墳が出てくると、地域色がなくなった。春成教授は纒向石塚は古墳では
ないという見方をとるが、「邪馬台国の有力者の墓ではないか」という。
だが、「九州説」も負けてはいない。吉野ケ里遺跡の調査で知られる佐賀県教
委の高島忠平・文化財課長は「三世紀は邪馬台国も含めて地域ブロック的な王権
の時代であり、前方後円墳も地域の独自性を持って成立している。纒向石塚もそ
の一つにすぎない」という。
邪馬台国九州説をとる作家の黒岩重吾さんは今年十一月、「鬼道の女王・卑弥
呼」(文芸春秋)を出版したばかり。「卑弥呼は鏡が好きだった。纒向石塚が邪
馬台国にあったのなら、鏡が出てきてもいいはずだ。中国から運ばれた後漢鏡が
出ていない以上、邪馬台国には結びつかない。三世紀前半の大和は銅鐸(どうた
く)を作っていた時代」と指摘する。

●古墳年代観、揺るがせる《解説》
纒向(まきむく)石塚古墳の築造が三世紀初めにまでさかのぼるとする桜井市
教委の調査結果は、従来の古墳年代観を大きく揺るがすとともに、邪馬台国の女
王・卑弥呼の時代と重なることなどが関連して、日本の国家原像を書き換える可
能性も出てきた。
纒向石塚が最古級の古墳であることはすでに知られていた。中には二世紀末の
築造を想定する学者もいるが、これは「異端」とされ、一般には三世紀後半説が
主流だった。ただ、遺跡の実年代を出土木材で調べる年輪年代法などの影響を受
けて古墳の年代を見直す傾向が強まっており、今回の発掘はそうした学術的背景
の中で進められた。
しかし、出土した「纒向1式」の土器を、年代判定の決め手とした今回の判定
には、疑問の声もある。
一つは、土器が墳丘の盛り土から出たこと。「築造のずっと前から土に古い土
器が交じっていた可能性があり、墳丘出土の土器で築造年代は決まらない」(寺
澤薫・シルクロード学研究センター課長補佐)とする見解だ。もう一つは土器に
当てはめる実年代の物差しへの異論で、「纒向1式は三世紀後半」(関川尚功・
奈良県立橿原考古学研究所総括研究員)とする説。今後も論議は続きそうだ。
(編集委員・岸根一正)
[朝日新聞社]

▼96/12/12  東京朝刊  1 頁  1総面  T961212M01--38
卑弥呼の時代に古墳か 纒向石塚は3世紀初め 奈良・桜井市教委発表
---
邪馬台国の有力候補地の奈良県桜井市にある纒向(まきむく)石塚古墳を発掘
調査していた同市教委は十一日、古墳は三世紀の第一・四半世紀(二〇一―二二
五年)の後半ごろに築造されたことが分かった、と発表した。出土した土器で年
代を割り出した。これまで前方後円墳の出現は三世紀後半と考えられてきたが、
その時期が約半世紀早まる可能性が出てきた。さらに、発表された築造時期は、
女王・卑弥呼の時代と重なり、邪馬台国の所在地論争にも大きな影響を与えそう
だ。
纒向石塚は、纒向遺跡(弥生時代末―古墳時代前期)にある全長約九十四メー
トルの前方後円墳。築造年代の決め手となった土器は、後円部の盛り土の中から
出土した。かめや高坏(たかつき)などの破片が千数百点見つかり、ほとんどが
三世紀初めごろの「纒向1式」といわれる土器だった。同古墳周辺でよく出土す
る形式の土器で、近くの土を墳丘の盛り土にしたことを示している。
後円部では幅二・三メートルのテラス(段築)の一段目が見つかった。明治時
代の絵図などから、築造当初は高さ約九メートルの三段テラスだったとみられる
が、二段目以上は、戦時中の高射砲陣地造りなどで約四メートル削り取られ、埋
葬施設も発見されなかった。
纒向石塚については、「古墳ではない」という見方もあったが、桜井市教委は
「今回の発掘で、規模や形式が弥生時代の墳丘墓と、大きく違うことがはっきり
した。最古の前方後円墳といえる」としている。
考古学界では通常、墳丘から出土した土器で年代を判定する方法はとられてい
ないが、同市教委は(1)土器が大量に出土したが、「纒向1式」より年代の新
しい土器が皆無(2)当時、この地方には大集落があったと考えられ、そこで使
われた土器しか入らなかったとみられる――ことなどを挙げ、「築造時期が土器
の年代から大きく下ることはない」と判断した。
現地説明会は開かないが、来年一月五日から四月六日まで、桜井市芝の市立埋
蔵文化財センターで速報展がある。

<纒向石塚古墳> 奈良県桜井市の三輪山西北部の田園地帯にある。一帯は古
代大和王権の発祥地とされる。纒向石塚は、一帯で最も古いとされる箸中古墳群
(纒向遺跡とほぼ重なる)にある。いびつな円形の後円部(直径六十二メートル
)と、三味線のバチ形の前方部(長さ三十二メートル)から成る「ホタテ貝式」
風の前方後円墳。一九七一年以来、過去七回にわたる発掘調査で見つかった土器
や木製品などから、古代吉備とつながりの深い最古級の古墳との見方が定着して
いる。

【写真説明】
発掘中の纒向石塚古墳=奈良県桜井市太田で、本社ヘリから
[朝日新聞社]



纒向石塚古墳 モグラが現地説明会阻む 無数の穴「足場危険」/奈良・桜井市

96.12.13    大阪読売朝刊      31    AK    14    05    写      00363
わが国最古の前方後円墳と判断された奈良県桜井市太田の纒向(まきむく)石塚古墳(市史跡)の墳丘に無数のモグラの穴があることがわかり、同市教委は十二日、「足場が危険」として現地説明会を断念することを決めた。
市教委によると、後円部のトレンチ内で長さ十メートル、幅三メートルにわたって土砂が四個所で崩落、モグラのトンネルが原因とわかった。モグラの穴は縦横に走り、足場が危険な状態という。
思わぬ“天敵”の出現に足元をすくわれた格好で、市教委は「もしものことがあったら大変」と、中止を決めた。代わりに来年一月五日から四月六日まで市埋蔵文化財センター(同市芝)で速報展を開く。
市教委にはこの日朝から「卑弥呼時代の遺跡を一目見たい」という考古学ファンの問い合わせが殺到。一部は早速、現地を訪れたが、説明会を開催しないと聞いて、残念そうだった。

「卑弥呼時代」に前方後円墳 纒向石塚墳墓3世紀前半と断定/奈良・桜井市教委

96.12.12    東京読売朝刊      01    AA    14    05    写      01125
◆「邪馬台国」に一石
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内にある纒向石塚墳墓で、古墳の条件の一つとされる三段の盛り土(段築(だんちく))と三世紀前半の土器が大量に発見され、調査した同市教委は十一日、「卑弥呼(ひみこ)の時代に築かれたわが国最古の前方後円墳」と発表した。古墳時代の始まりが三世紀後半から同世紀前半に時代をさかのぼることになるわけで、日本史の定説に一石を投じ、「邪馬台国は弥生時代」とする教科書の見直しを迫る発見となった。「邪馬台国」の所在地をめぐる論争でも“畿内説”派に弾みをつけることになりそうだ。(解説21面、関連記事30面)
◆3段盛り土と土器で確認
同墳墓は現状では直径六十メートル、高さ三―四メートルの円形の丘だが、一九七一年から数次の墳丘周囲の発掘調査で、本来は全長九十三メートルの前方後円型の外形と幅五―三十メートルの周濠(しゅうごう)を持っていたことが確認されていた。
しかし周濠から出土した土器などから、最古の巨大前方後円墳とされる纒向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳やホケノ山古墳(いずれも三世紀後半)より古いものの、古墳の条件となる埴輪(はにわ)、葺石(ふきいし)などが確認されず、弥生時代の墳丘墓との見方が有力だった。七月から史跡整備に伴う第八次調査を行い、初めて墳丘上の四百六十平方メートルを発掘、周濠の底から高さ三・一メートルの後円部でテラス状(幅二・三メートル)の段を確認した。前方部は一段だった。
一八九三年(明治二十六)の県の報告書には三段の後円部が描かれていることなどから、市教委は後円部は高さ三・一メートルずつ三段、全体で高さ九・三メートルの盛り土があったと判断した。
埋葬施設や埴輪、葺石は見つからなかったが、三段の盛り土は古墳の条件の一つである段築であり、前方後円墳と結論付けた。また、墳丘上で千数百点の土器が出土。「纒向1式」と呼ばれる二二〇年ごろのもので、市教委は周辺の土を採取して墳丘へ盛り上げた際に混入した土器であり、「築造時期を示す」と断定した。卑弥呼が中国へ最初に使いを送ったのは景初三年(二三九)とされ、今回の調査で纒向石塚はそれ以前の築造だったことがわかった。
邪馬台国は、中国の史書「魏志」に記載された倭(わ=日本)の国で、女王・卑弥呼が治めたとされる。だが、魏志だけでは所在地がわからず、「畿内説」と「九州説」を主張する学者の間で論争が続いている。
〈纒向遺跡〉 三世紀初頭から四世紀前半までに営まれた集落跡。東西、南北一・五キロの規模で当時の集落ではわが国最大。南関東から北九州まで列島各地の土器が見つかり、全国から人や物資が集まる三世紀代の“首都”として邪馬台国の最有力候補地とする説も強い。


〈解〉纒向遺跡

96.12.12    東京読売朝刊      01    AA    14    01            00116
三世紀初頭から四世紀前半までに営まれた集落跡。東西、南北一・五キロの規模で当時の集落ではわが国最大。南関東から北九州まで列島各地の土器が見つかり、全国から人や物資が集まる三世紀代の“首都”として邪馬台国の最有力候補地とする説も強い。



奈良・纒向石塚墳墓調査 古墳時代の始まり、さかのぼる可能性(解説)

96.12.12    東京読売朝刊      21    AP    13    03    写      01325
◆巨大前方後円墳とは違い
奈良県・纒向石塚(まきむくいしづか)墳墓の発掘調査で、これまで三世紀後半から始まるとされてきた古墳時代が大きくさかのぼるだけでなく、邪馬台国が栄えた時代までも古墳時代と呼ぶ可能性が開けてきた。(奈良支局 林 文夫)(本文記事1面)
奈良市の南方約二十キロにある三輪山ろくの西側に広がる纒向遺跡は三世紀初頭―四世紀前半の巨大集落跡。
遺跡の西部には纒向石塚、東田大塚、矢塚、勝山など前方後円形の墳墓が集まり、東部には箸墓(はしはか)、ホケノ山古墳など最古級の古墳が点在、弥生から古墳時代へ移行する日本史の縮図といわれる。
これまで、同県立橿原考古学研究所や市教委が同古墳の周濠(しゅうごう)を七次にわたって調査。纒向1―3式と呼ばれる土器が見つかっており、築造時期は、纒向1式の作られた二二〇年ごろ、同3式の二七〇年ごろとする二説があった。
今回、墳丘部にメスを入れたところ、同1式が大量に出土し、時期が確定した。さらに、墳丘には三段の盛り土があり、古墳同様の「段築」が施されていたこともわかった。
段築は中国・漢代の墓や祭祀(さいし)場に施され、道教で不死の世界とされる崑崙(こんろん)山にも三段の山があると信じられていることなどから、わが国の古墳築造は東アジアの影響も視点に含めて考えなければならない。
魏志倭人伝によると、邪馬台国の時代には倭国と中国との交流が記されており、同古墳の段築は重要な意味を持つ。
また、後円墳部が三段に対し、前方部は一段だったことも興味深い。視覚的には円墳のようにも見える。倭人伝には卑弥呼の墓について「径百余歩」の記述がある。「径」の文字から、円形墓を想起させるが、初期古墳が後円墳部を強調していたとするならば、前方後円墳であっても矛盾がなくなる。
魏の尺度で、一歩は一・四四メートル。百余歩といえば、直径百五十メートル前後。箸墓古墳(三世紀中ごろ―同世紀末)の直径百五十六メートルとほぼ一致し、卑弥呼の墓のイメージも浮かびそうだ。
解明しなければならない課題は少なくない。学界では古墳の定義について諸説がある。大きな墳丘を誇る権力者の墓ととらえれば、弥生時代中期ごろ(一世紀)に現れた墳丘墓も「古墳」に含まれる。しかし、後の箸墓古墳に代表される前方後円墳との間には規模や墳形などに大きな断絶があり、墳丘墓がそのまま古墳に発展したと考えることはできない。
さらに、纒向石塚には埴輪(はにわ)や葺(ふき)石などの要素が欠けており、古墳出現の第一期であったとしても、埴輪や葺石を備えた巨大前方後円墳の箸墓古墳誕生とは歴史的な意味合いが異なる。
古墳の築造が「造墓」より、政治的なモニュメントとしての意義を重視していたとするなら、瀬戸内・吉備で発祥した特殊器台(埴輪)、山陰地方の四隅突出墓がルーツとされる葺石を統合し、隔絶した規模を誇った箸墓こそが初期ヤマト政権成立のシンボルで、古墳時代の幕開けといえるのではないか。
邪馬台国から初期ヤマト政権へ推移するわずか十数年の溝は依然、埋まってはいない。だが、今回、纒向石塚が前方後円墳と確認されたことが古墳時代の始まりや邪馬台国所在地に関する論争に一石を投じたことは間違いない。


▼96/09/09  大阪朝刊  地方版  奈良1面  O960909MNL1-07
宮殿が存在、政治統制あった シンポ「マキムクは邪馬台国か」/奈良
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桜井市北部にある古墳時代前期の大集落跡「纒向(まきむく)遺跡」と、女王
卑弥呼で知られ所在地をめぐる論争が続く「邪馬台国」との関係を探るシンポジ
ウム「マキムクは邪馬台国か」が八日、桜井市粟殿の市民会館で開かれた。今年
、桜井市が市制四十周年を迎えたのを記念して開催したもので、会場は県内外か
ら集まった約千二百人の考古学ファンでぎっしりと埋まった。
シンポジウムに先立ち、東京女子大の大林太良教授が「邪馬台国時代の国際交
流」をテーマに記念講演。外国の古代諸民族を例に挙げ、「約二千人が住む大都
市だったと考えられる纒向には、宮殿や神殿、市場などがあり、政治組織による
統制が行われていたと思われる」と話した。
続いて、京都教育大の和田萃教授や香芝市二上山博物館の石野博信館長ら四人
が基調報告をしたあと、シンポジウムに移り、報告者がパネリストとなって、さ
まざまな角度から纒向遺跡と邪馬台国の関係について論じ合った。
[朝日新聞社]