昭和 13年6 月30日、陸軍航空整備学校が所沢に創設されました。本部、教育隊、材料廠からなり、将校・技術 62名、准士官以下194名の職員で下士官学生 60名、幹部候補生100名、技術生徒(少年航空兵9 980名及び予備将校以下に整備教育をしました。
本部が使用した建物は旧陸軍飛行学校本部でした。昭和 18年3 月27日に勅令 228号により所沢陸軍航空整備学校と改称されました。アメリカ軍の B-25爆撃機による東京初空襲以来、防空の必要が叫ばれ、昭和 17年8 月5日、防衛総司令官と陸軍航空総監の協定は各学校の自衛防空を定め、整備学校は東部軍司令部の区域により空襲警報発令中、出動可能の戦闘機を以ってそれにあたりました。昭和 18年3 月航空殉職者を合祀し健立した航空神社は後に駐米軍により破壊される恐れがあり、 20年9 月に北野神社境内に遷座し、現存しています。
学校の軍隊化により昭和 20年2 月25日所沢陸軍整備学校は廃止され、教育隊は所沢(紺 560)・立川(紺561 )・八戸(紺 562)各部隊教育隊に改編しました。立川航空教育隊は村山村(旧高射砲部隊跡)に位置し、主として短期整備教育生徒の教育を行いました。また、これに先立ち本部を改編して第3航空教育団司令部が新設され、航空総軍第 52航空師団に属しました。同司令部隊隷下部隊は所沢・立川・八戸の3個航空教育隊の外に第4(紺 572柏9・第6 (紺574盛岡)・第 12(紺578 郡山9各航空教育隊がありました。司令部は旧整備学校本部を使用していまし所沢陸軍航空整備学校立川教育隊た。終戦により第3航空教育団司令部(所沢小手指役場に疎開中)及び所沢航空教育隊は 20年8 月29日に廃止しました。