村の成立と村高 日野市

村の成立と村高 日野市

 江戸時代の村落は、太閤検地とそれを基本的に踏襲した徳川検地によって複雑な土地所有関係が整理され、本百姓と幕府や旗本・大名・寺社の領主との間に直接の支配関係が確立することによって出現した。

 つまり兵農分離の原則のもとで、村切りと村役人の任命が行われ、村請制下の村落として姿をみせることになったのである。自然村としての集落が、検地の実施による村切りによって行政村として領主に把握されるが、この過程で村高が確定される。

 村高とは検地や石直しによって決定した田畑・屋敷の石高を一村限りに集計したものである。そして村高は行政村としての村の土地の公定生産高を示すと同時に、年貢・諸役の賦課の基準になったものでもある。市域の諸村の村高は、各村の年貢割付状および年貢皆済目録(史 近世3)によって知ることができる。

 江戸幕府は全国の国絵図の作成と同時に郷帳の作成を行っている。武蔵国においては、慶安年間(一六四八ー五二)の「武蔵田園簿」によって、村高および田方・畑方別の内訳が明確にされているが、五〇年後の元禄十年(一六九七)四月になると、全国の領主に対して、それぞれの知行地の郡村名書付の提出を求めている。これによって元禄十二年から十五年にかけて国絵図と共に郷帳(『元禄郷帳』)が幕府に献上された。郷帳には村名と村高が記載されている。

 その後幕府は天保二年(一八三一)十二月に国絵図の作成に先行して、郷帳の改訂を命じている。ただしこの際に提出された『天保郷帳』の村高は、『元禄郷帳』の拝領高(表高)と違って、拝領高に込高(こみだか 年貢率の高い知行地から低い知行地に領地が変更されたとき、前の知行高より余分に与えられた高)と改出新田高を加えた、いわゆる実高である。(関東近世史研究会校訂『関更甲豆郷帳』)。そのためこの村高は同じ基準による生産高とは認め難い。また明治元年(一八六八)の村高については、『旧高旧領取調帳』(関東編、木村礎校訂)に旧村名・旧領主名・旧県名と共に明記されている。

 江戸時代を通じて武蔵国の村高を知るためには、一応、慶安期・元禄期・天保期、それに明治元年の四時期について、幕府が調査編集した郷帳その他の史料によって明らかにすることができるが、これに基づき作成したのが表一八の村高の変遷表である。

(日野市史通史編二(中)p113)