奈良時代のカレンダー「漆紙文書」、都の文化財に2014年2月15日03時00分朝日_files/Image.png)
都文化財保護審議会は14日、府中市の武蔵台遺跡(武蔵台2丁目)から28年前に出土した「漆紙文書(うるしがみもんじょ)」(奈良時代)を含む19点を都有形文化財に指定するよう都教育委員会に答申した。古代文書を解明する貴重な資料である漆紙文書が都内で発見された例は希少で、今回の漆紙文書は文字を明確に確認できる都内唯一の資料。武蔵国分寺の造営時期を裏付ける意義もあるとされる。15日から同市内で公開される。
今回指定の武蔵台遺跡出土の漆紙文書は1986年、三つの断片で出土した。それらをつないで復元すると縦横約21センチになる。墨書された文字が13行あり、「具注暦(ぐちゅうれき)」という奈良時代のカレンダーだった。
日付のほか、干支(えと)や節気、日の吉凶や禍福などを記した暦で、このうち下段部分が漆つぼのふた紙として転用され腐らず残った。漆紙は空気にふれると硬化するため、漆液を入れた容器は紙でふたをする。そのふた紙に漆液が浸透し、漆の効果で地中でも長く腐らず、残ることがある。
具体的な年号はないが、古代文字解読の第一人者、平川南・国立歴史民俗博物館長(古代史)が検討したところ、天平6(734)年、天平宝字元(757)年、承和4(837)年、貞観2(860)年の4カ年に絞られた。
同遺跡から一緒に出てきた土器の年代などと照合すると、承和4年と貞観2年が除外され、さらに同遺跡が国分寺造営とともに出現した集落跡と考えられることから天平6年も除外。そのうえで土器年代と住居跡の年代観、文書の内容などから、残る「天平宝字元=天平勝宝9(757)年」の暦と断定された。
府中市郷土の森博物館の深澤靖幸学芸員は「当時、紙はとても貴重で、紙背(しはい、文書の裏側)も使うのが普通だが、この漆紙文書は紙背に使わず、また、暦はその年を過ぎれば不用になるため、翌758年に限りなく近い年に漆工人に払い下げられたものではないか」とみる。また「具注暦や木簡の発見例は全国で増えているがまだ希少。都内では漆紙文書の発見そのものがわずかだ」と話している。
武蔵台遺跡は、府中市の北端、武蔵野台地上にある。遺跡の南側には高低差約12メートルの国分寺崖線(がいせん)がある。旧石器、縄文、奈良~平安時代の遺跡で、このうち奈良~平安の遺跡は聖武天皇の詔で建立された武蔵国分寺の造営と運営に深く関わった集落跡という。
漆紙文書のほか、同時指定される土器などが3月30日まで、同市郷土の森博物館(南町6丁目、042・368・7921)のミニ展「古代のもんじょが発掘された!」で展示される。(大脇和明)
武蔵台遺跡漆紙文書、都文化財指定へ府中市の武蔵台遺跡の竪穴住居跡から出土した漆紙文書などについて、都文化財保護審議会は、都有形文化財に指定するよう都教育委員会に答申した。 漆紙文書は1985年~87年にかけて行われた発掘調査で、漆が入っていた甕(かめ)とともに出土した。この甕のふただったとみられ、赤外線による調査で、奈良時代中期の757年(天平宝字元年)の具注暦(ぐちゅうれき)(カレンダー)であることが分かった。 市ふるさと文化財課によると、貴重品だった紙は、漆液の容器のふたとして再利用されることも多かった。漆が浸透した効果で、地中でも腐らずに残っていたものが漆紙文書。都内でもほかに出土例はあるが、文字が確認できる唯一の資料だという。 武蔵台遺跡の漆紙文書は、二片の大きな断簡(それぞれ縦約10センチ、横約9センチ)や小断簡などからなり、赤外線写真からは、具注暦の文字が読み取れる。同遺跡は、武蔵国分寺跡の西側にあり、もともとは武蔵国分寺の廃棄文書だったとみられる。 指定候補になったのは、漆紙文書のほか、ともに出土した土器や瓦など計19点。府中市郷土の森博物館では15日から3月30日まで、ミニ展「古代のもんじょが発掘された!」を開催し、これらの出土品を展示する。観覧無料だが、同博物館の入場料(大人200円、子ども100円)が必要。 (2014年2月16日 読売新聞) |