甲武鉄道の開業
甲武鉄道の開業
明治14(1881)年5月21日に日本鉄道会社より東京府知事に宛てられた鉄道の設立顯は、農商務省・工部省を軽て太政大臣に渡り審議されました。その結果8月11日に仮免許状が発行され、日本で最初の私設鉄道会社である日本鉄道が誕生しました。
日本鉄道はこの後明治16年に上野~熊谷間に現在のJR高崎線を開通させ、以後山手線の一部や東北本線などの鉄道を次々に完成させています。この日本鉄道の開業を皮切りに、日本国内では私設鉄道が計画・開業するようになります。このように鉄道が少しずつ増えていくなか、多摩地域はどのように変わっていったのでしょうか。
甲武馬車鉄道と甲武鉄道
江戸時代、多摩地域では農作物や薪炭などを、甲州街道や青梅街道を通じて江戸まで、人馬によって運んでいました。物流の増加につれ、多摩地域の人びとは玉川上水を舟運に使用したいという請願を出していましたが、江戸幕府はこれを認めず、時代が変わって明治3(1870)年になり、ようやく明治政府から許可が下りました。しかし、わずか2年後に上水の汚濁を理由に通船取り消しとなってしまいます。その後甲武鉄道が開通するまで、多摩の交通は江戸時代同様人馬によって行われました。
多摩に変化が見え始めるのが、明治16年のことです。同年8月22日に高遠藩出身の服部九一らが東京府に玉川上水に沿って馬車鉄道を走らせようという計画を出願しました。馬車鉄道とは線路を敷いて貨車や客車を走らせるもので、動力に馬を用いたものです。しかし、この計画は残念ながら東京府より玉川上水の破損や、馬の糞尿による不衛生を理由に却下されます。
次に多摩地域の名士と東京の資本家が共同で馬車鉄道を計画します。新宿を始発として、杉並の大宮八幡宮の辺りを経て、途中から玉川上水の堤敷き沿いに羽村まで、およそ47㎞の行程です。これを第1期工事とし、これに砂川で分岐して八王子までの第2期工事、羽村から青梅まで、八王子から甲府までという3期にわたる工事計画が立てられました。会社名は「甲武馬車鉄道」として明治17年4月22日、東京府、神奈川県、埼玉県の3知事に宛てて申請書が提出され、明治19年11月10日に免許が下付されました。これで、ようやく鉄道を敷くことができるようになりました。ところが、数年の間に蒸気機関車の輸送量やスピードに注目が集まるようになり、日本各地で蒸気機関車によ
る開業がみられるようになりました。また、多摩地域では他にも鉄道会社の出願も計画されたため、甲武馬車鉄這会社は、馬車による鉄道敷設を蒸気機関車に変更し、会社名も「甲武鉄道会社」として再出願しています。明治19年12月14日のことでした。甲武鉄道から提出ざれた、鉄道敷設の申請文書に添付された計画路線図によれば、この段階で新宿から立川を経て八王子に至る現在の中央線のルートとなっています。この場所を選んだのかは現在でも議論になっており、さまざまな説がありますが、その理由を記した書類が見つかっていないため、はつきりしたことはわかっていません。ここまでみてきたように、馬車鉄道から始まった鉄道計画は、現在の中央線ルートになるまで紆余曲折がありました。最終的に免許が下リたのが明治21年3月31日のことで、敷設のレリへこう条件として2年以内に敷設工事を竣工することとなっています
が、甲武鉄道会社は明治22年4月11日に新宿一立川間を開業しました。免許取得からわずか1年後のことでした。
甲武鉄道株式会社
では、甲武鉄道を敷いた甲武鉄道会社とはどのような会社だつたのでしようか。ここでは甲武鉄道会社の社則である「申合規則」・「定款」などから運営の様子を見ていきましょう。甲武鉄道会社は、株式会社として資本金90万円で成立しました。これは鉄道敷設の見積の結果を受けて設定したものです。本社は開業時には本郷区湯島天神下同朋町に置かれ、後に飯田町まで延伸した際に麹町区飯田町4丁目に移しています。
運営については、まず「申合規則」の第一章の総則の第一条に「本社(甲武鉄道株式会社)の営業年限ハ二十五ケ年トス期限二至リ」との記載があります。これは明治20年に発布された「私設鉄道条例」の35条に「政府ハ免許交付ノ日ヨリ満二十五箇年ノ後二於テ、鉄道及附属物件ヲ買上ルノ権アルモノトス」との条文から、25年後には官有化される可能性があったことから付されたものです。
第二条には「工事及運輸営業共一切ノ事務ヲ日本鉄道会社へ委任シ」とあリ、当時すでに高崎線や山手線の一部で営業していた日本鉄道に業務を委託していたこともわかります。開業時の甲武鉄道は新宿と接続していることもあり、当時日本最大の私設鉄道会社である日本鉄道と、密接な関係の上に連営されていました。これは明治20年に開かれた甲武鉄道会社の創立総会で、初代社長に日本鉄道の社長である奈良原繁が選出されたことからも窺われます。
都心部への延伸
新宿~八王子間を開通させた甲武鉄道株式会社は、次に新宿よリ都心へ向けて延伸を開始します。明治27年には新宿から都心に向かって牛込まで延伸し、翌28年には飯田町までを開通させ、「創立以来の希望」であった都心部への進出を果たしています。飯田町の開設に伴い、それまでの新宿~八王子間は新八線と呼ばれ、新宿~飯田町問は市街線と呼ばれるようになりました。
その後も甲武鉄道は御茶ノ水駅まで延伸を行いましたが、次の万世橋駅の開業を準備している最中に、明治39年の「鉄道国有法」の発布によリ甲武鉄道は国有化され、17年間の歴史を閉じることになります。
甲武鉄道を創った人びと
甲武鉄道が開業するまでにはさまざまな人が関わっています。ここでは、明治20年代の甲武鉄道創立期前後の関係者をまとめてみました。前項でも述べましたが、甲武鉄道は、多摩地域の名士と東京の資本家が協力して作りあげていった鉄道です。
発端としての馬車鉄道を計画したのは、日本橋で呉服商を営んでいた岩田作兵衛と元神奈川県知事の井関盛艮、羽村の蒙農指田茂十郎などでした。馬車鉄道から蒸気鉄道に変更する際には、横浜で貿易商を営んでいた雨宮敬次郎の名も見られ
るようになります。岩田、雨宮は後に鉄道王とも呼ばれるように、甲武鉄道以外にもさまざまな鉄道事業を行っていきます。
甲武鉄道の運営は、開業時から3年間は日本鉄道に委託するという取り決めがあり、初代の甲武鉄道社長となった日本鉄道がら社長の奈良原繁は、このことから選出されたものです。甲武鉄道は、日本鉄道との契約期限が迫る3年後に独立自営を鉄道庁に申請し、明治24〔1891)年11月1日より日本銭道の運営を離れ、甲武鉄道会社のみでの運営を行っていきます。
また、初期には朝野新聞の編集長末廣重恭(しげやす)や、淺野セメントの創始者の浅野総一郎なども名を連ね、各界の有力者も経営に参画していたことがわかります。
多摩地域地形断面図
中野から立川まで多摩の中央部を一直線に伸びる甲武鉄道ですが、なぜこのような場所に敷かれたのか、現在でもその理由は解っていません。これに対する説としては、沿線の反対、土地買収の問題などいくつかの説がありますが、そのなかには機関車の能力にふれているものがあるので、ここで紹介してみたいと思います。
甲武鉄道が敷かれた時代には、機関車本体は国産で製造されておらず、イギリスやドイツからの輸入でした。それでも当時の性能ではあまリ急勾配のルートには使用できないとされていたため、勾配のゆるやかな武蔵野台地上を走らせたという説です。
甲武鉄道と甲州街道、青梅街道の高低差を比べてみると、高低差があるものの、勾配が一番安定しているのは青梅街道です。しかし、目的地が八王子であるため、青梅街道の途中で大きく迂回することとなるため、敷設の費用を考えてもこのルートは通らないと考えられます。つぎに、甲州街道と甲武鉄道のルートを地図上でみると、甲武鉄道ルートが近くみえますが、実際の距離はどちらのルートもほぼ同じで、どちらも地形上では急勾配がある場所が何カ所かみられます。ただ、甲州街道より甲武鉄道ルートの方が難所
の距離が短いといえましょう。甲州街道では現在の京王線の仙川から国領あたりにかけて10パーミルほどの勾配と、日野宿を過ぎたあたりから20パーミルほどの日野坂があります。これに対し、甲武鉄道ルートには国立駅の手前で国分寺崖線を下リ、日野宿のあたりで甲州街通の南を通る時にやはリ20パーミルほどの坂がありますが、鉄道を敷くときには甲武鉄道ルートの方が距離が短いため、この部分を堀抜いたのではないでしようか。また、最大の難所は多摩川と浅川の両河川ですが、これはどちらのルートでも越えなければならないため、どちらが橋梁を造りやすいかの違いでしよう。
以上の点から考えて、甲武鉄道が採った路線は、傾斜という点だけからみれば適正な経路と考えられま。玉川上水の例をみてもわかるように、日本の測量技術はすでに江戸時代から確立しており、この時朋には多摩地域の測量図も作成されていたことなどを考えても妥当な経路だと思われます。
※パーミルとは鉄道線路の勾配を示す単位。水平距離1,000㍍あたりの高位をさす)
調査と測量
鉄道を敷く場合には、事前に入念な調査と実測が必要です。現在と違い、機関車の能力に限界のあった時期には特に、勾配やカーブがどの程度あるかなどは重要な問題でした。この当時は、迂回してもなるべく平らな場所を選ぷことが重要てした。
また、長距離にわたって線路を敷くために、多くの宅地や農地を横切らなければならず、土地の買収も必要でした。甲武鉄道では明治21(1888)年1月頃に実測を開始し、3月2日に実測の結果による必要経費を見積もっていることから、2か月弱の急ピッチで進められていたことがわかります。
甲武鉄道の停車場
明治23年4目11日、甲武鉄道の開業時の駅は、新宿駅・中野駅・境駅・国分寺駅・立川駅の5駅てしたが、同年8月11日には八王子駅が開業し、全線開通となりました。この頃の駅は「停車場」と表記され「甲武鉄道茂与利名所案内」では「ステーシヨン」という読みが振られています。
さて、これらの駅の駅間は新宿~中野問が約5㎞、中野~境問が約11㎞、境~国分寺、国分寺~立川間は約6km、立川~八王子問は約10㎞となっています。現在の中央線の駅間が、東京駅から国立駅まではほとんどが2㎞以内であることから、随分と長かったことがわかります。
新宿駅を除いた、これらの駅舎の設置場所は、甲武鉄道側が駅間を等間隔にするように決めたもので、地元の村々と協議は行いましたが、おおむね設置場所は想定されていたようです。線路敷設予定地は、ほとんどが畑などの耕地であリ、そこを買い取るとともに、収穫される作物の賠償金額なども双方で協議して、甲武鉄道に請求しています。甲武鉄道の計画路線には人家は少なく、ほとんどが耕地の買収であったと思われます。
駅舎の規模は、中野駅・境駅・国分寺駅・立川駅では本屋、駅長室、物置、便所、荷物小屋(野駅にはなし)などがあり、本屋が30~50坪、駅長室は20坪の広さでした。これに対し、八王子駅は本屋が80坪近くあリ、他の駅の施設以外にも客車庫や汽車庫なども設置されるなど、相当広かったことがわかりまず。
その後も、甲武鉄道会社は新駅を設置していきます。多摩地域では明治23年に日野駅、明治32年に吉祥寺駅、明治34年には豊田駅が開業します。ここでは日野駅と豊田駅について設置の様子を見ていきましょう。
日野駅と豊田駅の開業
日野宿は甲州街道沿いの宿場町で、甲武鉄道と甲州街道が交差する場所の近くにあり、また、豊田村も集落の比較的近くを甲武鉄道が走っていました。日野宿は立川から約3㎞、豊田村は八王子から4㎞余りとどちらに駅ができても良い位置と思われます。共に甲武銀道が開業する前から駅設置の嘆願を行っています。
日野宿では駅の設置について、宿の代表を「人民惣代」として、土淵英(つちぶちはなぶさ)と日野英吉の2名を甲武鉄道会社幹事の大橋靖との交渉にあたらせました。日野に停車場を設置することの有効性として、
①日野は八王子と立川の中間に位置し、多摩川、浅川の氾濫などもあり、停車場がないと地域住民が不便である
②日野は人馬の出入りが頻繁で、国道(甲州街道)に面しており、他の停車場は国道から離れているので連絡に便利である
③日野の西北にある山々からの材木や薪炭は、東京に輸送ずるためには日野を通るので便利である
④日野は南多摩郡北部の主頸(しゅけい)に位置し、近在の街路である
という4点を説明しています。これらの交渉の結果、費用は請願者が負担することを条件に、駅設置が許可されます。日野宿で
は駅設置のために寄付金を募り、45名から合計616円の寄付が集められました。日野駅の開業は明治23年1月6日、駅長室はなく、住居付き駅舎に物置と便所というものでした。駅舎の面積も25坪と、一番小さかった中野駅の32坪よりもさらに小さいものでした。宿場町として栄えた日野宿は、甲州街道と甲武鉄道の結節点としての役割を担うことになりました。
豊田駅の開業は、日野駅開業より11年後の明治34年のこととなります。豊田駅も日野駅と同様に、豊田村の人びとが土地や建設費を寄付して造られています。日野に駅舎が建てられるときもそうでしたが、豊田駅を設置することは豊田村だけの問題ではなく、周辺の村々にとっても重要な問題でした。嘆願書には豊田村の代表である山口清之助をはしめ、中心となったひとびとの名とともに、周辺の村々の名も多く連なっています。嘆願書のなかには豊田停車場の設計図もあり、当時の駅舎の様子を知ることができます。
また、ちょうどこの時期に立川に開校した府立二中(現立川局校)について、「今回立川駅二設立ノ府立中学模二対シ、当地方少年子弟ノ通学ノ便ヲ得、学事上二及スノ利モ亦少力ラスト存」と、教育的な観点からも豊田駅設置の必要性を述べています。
駅舎ができることによって、村の環境も次第に変わっていきます。豊田駅から町田へ延びる村通がありましたが、これを東京府道に編入して、府費で道路改修を行って欲しいという願書も出されています。
日野煉瓦
甲武鉄道最大の難所は多摩川を越えることでした。多摩川の鉄橋には煉瓦とコンクリートが使用されましたが、この煉瓦は、地元日野で製造されたものでした。
明治21年に土淵英、高木吉造、河野清助らによって設立された「日野煉瓦製作所」で製造された煉瓦は、多摩川鉄橋をはじめ、立川駅から八王子駅間の橋梁などで多くが使用されました。図18は、立川駅から日野に向かって800mほどの場所にかかる、山中眼鏡橋を架け替える際の発掘工事で出土した日野煉瓦です。
土淵英が明治23年7月29日に急死したことで、残念ながら日野煉瓦製造所は操業期間2年半で廃業となってしまいましたが、この短期間に製造された煉瓦は50万個といわれています。
特別展 甲武鉄道と多摩 江戸東京たてもの園