辻についての一考察 笹本正治
辻についての一考察 笹本正治
はじめに
我々が日常使用している言葉の中には、一つの語で多くの意味を持ち、しかもその意味内容に一見共通性の感じられないものがある。しかし、一語に多様な意味がある場合にはそれだけの背景があり、語の本来的な意味に歴史の推移によって新たな意義が付せられるとか、意味が派生するといったことがあったと思われる。仮にそうだとすると、一つの語の意味内容の多様性の中に、歴史の諸様相が隠されている可能性もあるので、そうした語に着目して日本人の過去の意識の変化や社会のあり方等を探ることもできよう。
また、我々は地方にいると文献や資料を思うように手にすることができないので、研究も不十分だと考えがちであるが、誰もが一応手に入れることができるもの、あるいはどんな地方図書館にもあるような文献の使用方法をかえることによって、新たな考察をすることができないであろうか。
こうした思いをもって周囲を見回して気づいたのが、辞書・辞典(事典)類であった。辞典の説明を資料にして多様性のある言葉の意味を整理し、歴史の中に位置付けるといったことは地方に住んでいてもできる。
そこで本節では主として辞典の説明によりながら、「辻」という語または関連する熟語について考察していくことにする。
「辻」という字を見て即座に思い起こすのは、道路が十文字に交差している所である。地名は語義を比較的そのままに伝えていると思われるので、試みに各地の「辻村」の由来を調べてみると、宮城県桃生郡にある辻村は、「東北海部より西方への通路と、北方より南方海岸への街道が交差していたことによ百」。埼玉県浦和市内にあった辻村は古く十字村と書き、その由来は昔ここを鎌倉街道が通り、それと十字に交わる道があったからで、大宮市内の辻村は道の分岐点から、加須市内の辻村は道路の四ツ辻からそれぞれ起ったという。
静岡県清水市内の辻村は東海道と庵原郡家湊道との十字路だったからで、富山県高岡市内の辻村は伝承によると丁字路があり、その辻を中心に村が形成されたので村名になったという。さらに滋賀県野洲町内の辻村は街道沿いの高同地にあり、富波・北犬五を経て甲賀郡への辻となっていたことによる。このように各地にある辻村の由来は、多くの場合、道路の交わる場としての辻に由来していると説明されるので、辻の本来的な意味もここにあったと考えられる。
そこで「辻」という語を小学館『日本国語大辞典』でひいてみると、
①道路が十文字に交差している所。よつつじ。十字路。交差点。つむじ。
②路上。みちばた。ちまた。
③裁縫で、縫目の十文字になる所。
④物の合計。または、物事の結果。
⑤つじばんしょ(辻番所)の略。
⑥馬具の名。
⑦追いはぎ・辻強盗をいう、盗人仲間の隠語。
⑧非常警戒・非常警戒線をいう、盗人伸間の隠語。
⑨数の四をいう酒・荒物・畳・履物商などの符丁。
の語義があり、さらに方言では、
①四ツ角。四ツ辻。②道の追分。③山道の合した所。④市場。
の意味もあるとしている。
このように、「辻」は多様の意味を持っているが、これから考察していくように辻という字を含む熟語には、右のような意味だけではとうてい理解できないものもある。以下、過去において日本人が辻に抱いた意識を確認し、整理してみたい。
一辻と霊
辻が霊と関係を持つ場であることは既に注目されており、高取正男氏はここを「物心両面において未知とのもっとも直接的な、したがって『第一次的』な接点であり、この世におけるあの世の露頭であった」と述べ、具体例として盆の行事の一つである砂道を、「辻などとよばれる部落内の一定の場所や、墓地から家のカドまで砂を撒く」もので、「神や祖先の霊を家に迎えて祭るための用意」であったとし、また「お墓や部落の辻に線香を立て、御先祖さんはその煙に乗って帰ってくる」、「盆になると、祖霊をはじめとするもろもろの霊魂は、盆踊りの踊り手の群れのイメージと重なって村々の辻々を群行し、屋敷のカド(前庭)に吊された切子灯籠をめあてに子孫の家を訪れ、供養をうけるものと考えられてきた」等と指摘している。
高取氏のあげた例のほかにも盆行事には辻と関係を持つものがある。たとえば盆の辻を西角井正慶氏編『年中行事辞典』(東京堂出版)は、「神奈川県などで辻と称するのは、屋内の精霊棚のほかに、家の入口に別の棚を設けるもので、秦野市付近などでは、川砂を盛上げて高さ一尺内外の四角な壇を造る。その四隅に竹の柱を立てて、上端の切口の部分を花立にして樒などの花を飾り、この四本の支柱を利用して細い竹を井桁に組んで盛砂をかこむ。この壇には坂道のような参道あるいは階段を付け、壇上には紙の蓮花や線香を上げる。各戸で作ったり、共同で大きなのを作る場合もある。名称の通り、もとは町の辻に共同の供養棚を設けた名残かと思われ、これは寺で無縁仏の供養に行う施餓鬼棚、川辺で行う川施餓鬼の棚などと同じ性質のものと考えられる」と説明し、また辻飯を「岐阜県加茂郡などで、盆の十四・十五日に十四~五歳までの女の子が集って道の辻にかまどを築き、煮たきして共同食事を行うこと。近年では家で行う所もあるが、そのかまどの近くに小屋がけしてその中で食べるのが古い。無縁仏の霊を慰めるといって、まず辻に供えてから食べる。愛知県東春日井郡では、七月二十四日を地蔵の命日または裏盆といい、この日、四つ辻にクドを築いて赤飯をたいてたべるのを辻飯という」としている。
霊と辻とが深いかかわりを持つことは、葬列の出発に先立って辻々に辻蝋燭が立てられることからも推察できるが、この蝋燭は死者の霊を辻に導くための指標としての役割を持つと思われる。また上野群馬郡の村落では、辻墓といって猫が死ぬと三方の辻に埋めて杓子を立てる俗信がある。これを中山太郎氏は「按に、猫は執念深い獣、其亡念の出ぬやうに辻に埋め、往来の人に踏み固めさせたのである」と考察し、さらに「我国の古代には変死者は四辻又は橋畔に埋めて、往来人に踏ませて死霊の発散する事を防いだ、之が辻祭の起源で、同時に橋姫の由来なのである」とも述べている。
このように古く辻は霊の集まる場所であり、また霊が閉じこめられているところだと思われていた。そして辻では人間の霊魂も体から遊離しやすいと想像されたようである。辻で唾吐きをすることによってけがれたこととみせるのも、辻の死霊と接触を持った、もしくは辻へその人の霊魂が入ってしまい、人間のケ(霊魂)が枯れたとみられたためであろう。また、辻村を江戸時代に「臓多村の事なり」(『僅言集覧』)と説明するのも、住民が動物の死体処理等にかかわっているので、動物の霊が集まっている村だと江戸時代には理解されていたためかもしれない。
ところで、日本人の意識する祖霊の住む所、集まる所としての代表的な場は山の頂であるが、辻には物の突起した頂・頂点・てっぺんの意味もあり、山頂を指し示すことがある。東條操氏編『全国方言辞典』(東京堂出版)では、この意味で辻の字を使用する地域として、和歌山県日高郡・香川県・兵庫県飾磨郡・岡山県吉備郡・石見・山口県萩・大分県西国東郡・福岡県朝倉郡・長崎県東彼杵郡・壱岐をあげている。事例は関西に片寄っているが、関東にも辻を山の意味で使うことはあり、直接山名になっていることもある。一例として山梨県の南アルプス鳳鳳三山の南に位置し夜叉神峠との間に座す辻山をあげることができる。横田勉氏はこの山名の由来を、「尾根が四方からクロスしているので辻山と呼ばれる」と説明している。辻には方言で山道の合した所という意味もあるが、山頂は尾根道の交わる場所なので、その意味では平地の辻と同じである。甲斐の辻山の場合、南から北へ夜叉神峠・辻山・薬師岳・観音岳・地蔵ケ岳と連なる山名と配置からして、古くはこの山に霊が集まるという信仰があったと考えられる。このような祖霊等の集まり住む山頂の辻が、一般の人間の住む場である平地に具現されたのが道路の四ツ辻だと考えられていたのであろう。霊魂・祖霊は年月を経ると神に変わるので、山は霊の住む所であり、かつまた神の座す場所だとも意識されてきたが、この認識はそのまま平地の辻にもあてはめられ、辻には神も住んでいると信じられてきた。
辻に集まる神や霊は不可思議なものであり、辻は恐怖の対象になっていた。そこで、辻では集まった霊や神を慰めたり鎮めたりするための祭が行われてきた。史料的には、『本朝世紀』に天慶元年(九三八)東西両京の大小路街において木神像を安置して拝礼したとみえ、『百練抄』でも応徳二年(一〇八五)に同様の記事があり、『明月記』建永元年(一二〇六)八月二十一日の条に「今日称御霊有辻祭」とあるように、古代末から中世初めにかけて辻での祭が多く見られる。実際にはこれ以前から素朴な形で祭がなされていたのが、御霊信仰と重なって大きな祭となり、記録にあらわれるようになったのであろう。
同じ頃、辻で迷える霊を導くために、日本的な御霊信仰と仏教がいっしょになって地蔵信仰が盛んになると、地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒仏の出世するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を化導するということで、辻に地蔵が立てられるようになった。これが今も各地に残る辻地蔵の起源と思われる。また道端や辻にたてられた仏像や石仏を辻仏という(『日本国語大辞典』)が、これも同様の効果を期待してつくられたといえよう。
このような、辻には霊が集まり住み、またおしこめられているという信仰は、日本にだけみられるものではなかった。阿部謹也氏はヨーロッパの状況を、「復讐の慣行が正式に認められていた中世においては、正当防衛で殺した犯人の死体を十字路に埋め、処刑された者の死体や自殺者の死体も十字路に埋めた。しばしば町の入口の十字路は処刑場でもあり、絞首台が立ち、死体がぶらさがっていた。そこを通る人びとへのみせしめのためというよりは、この世への未練を残して死んだ者の霊を十字路に閉じこめ、死者による復讐を避けるためであった」と記しているが、これはまさしく中山太郎氏の説明する辻墓や辻祭の起源と一致する。
二 辻と疫病
辻は霊の集まり潜む特殊な場であったが、集まり来る霊は悪鬼とも善鬼とも、また種々様々な妖怪、さらには神とも思われていた。
淡路の三原郡昭島村(南淡町)では、四辻に出る妖怪をツジノカミと呼ぶが、これは辻に潜む霊を妖怪と意識したのであろう。『日葡辞書』は「辻拒ひ」(ツジズマイ)を、「どんなにせかしても馬が先へ進みたがらない」と説明しているが、これは戦国時代末に、辻には特殊な力を持つ妖怪がいて、馬を辻にひきずり込んで先へ進ませなくするという迷信があったことを示す。辻において妖怪が生物をとらえ動かせなくすることは人間にもあてはまり、『笈挨随筆』は「禁中艮角の築地を、俗に蹲踞の辻というよし、夜更けて此の辺を通れば、荘然として途方に迷ひ蹲踞居るなり、怪き事なり」と伝えている。
また柳田国男氏は、「山口県の厚狭郡あたりでは、同じ産女の怪をアカダカショ、又はコヲダカショとも謂つて、古い道路の辻などへ晩方に出るものと謂つて居た」、「ある学生はこの山の字小田山といふ処から降つた辻といふ阪路で、一人の被害者を救ひ、後に冬休みで再びそこを過ぎた時ダラシにか,つた」等と記している。このように辻に住む霊の中には妖怪として姿をあらわし、場合によってはとりついて災厄を加えたりする等、人間への働きかけをするものもあると考えられていた。
こうした災いをもたらす悪霊を鎮め、災厄から逃れるためにいくつかのまじないが辻でなされた。その一つの辻舞について中山太郎氏は、「相模足柄下郡宮城野村では、七月十四日の盆の夜に、諏訪神社の獅子舞を『おかがり』と称して行ふが、それは村民が寝静つた夜中に、村の辻辻を舞ひ廻る。之は悪魔除である」(『補遺日本民俗学辞典』)と述べている。辻舞は盆行事であり、盆という霊の活動の盛んな時期に霊の集まる辻において、しかも霊の活躍する時間である深夜に舞をすることによって、霊をなぐさめ悪霊のもたらす災いを避けようとしたことに他ならない。
辻での悪魔払いはヨーロッパにも見られる。バィンリツヒ.ハイネは』流刑の神々一精霊物詰』において、異教の悪霊清めの方法を、深夜「ローマ近郊のこれこれの十字路に立ちなさい。そこではあらゆる種類のふしぎなもののけが彼の前を通りすぎていくだろう。けれども目に入るもの、目に入るものにすこしもおそれないように。そしてしずかにじっと待っていなければいけない。ただ、彼の指輪をはめた女をみかけたら、近づいていって、文字のかいてあるこの羊皮紙を渡しなさい・・・」と記している。
とくに辻にひそむ悪霊が人間にもたらす災厄は病気だと考えられてきた。飯島吉晴氏は辻神を「鹿児島県の屋久島に存在する辻にいる魔神。丁字路で一本の道が他の道に交わる、その突き当たりの正面に家を建てた場合、辻神が家に入り込むという。辻神は魔神であるため、家に病人が絶えなかったり、不幸がつづくものだといい、そのような屋敷では道の突き当たり正面に石敢当を立てる。石敢当は南九州から南島の各地に見られる長方形の石に『石敢当』の字を刻んだもので、辻や三叉路に魔よけとして立てる。丁字路の突き当たりは特に悪いとされている」等と説明している。
病気に対処するためのまじないも辻で行なわれた。それが「ツジマジナヒ〔辻厭勝〕」で、中山太郎氏によれば、「常陸龍ケ崎町では、大賽日に通路の四ツ辻になつてゐる所に、火をつけた一把の線香を立てて置くと虫歯が治ると云ふ」(『補遺日本民俗学辞典』)信仰であるが、これは歯痛が辻の霊によってもたらされたという理解が前提にあり、原因である悪霊を線香によつで追い払うか鎮めて、痛みをなくそうとしたのであろう。また大間知篤三氏によれば、常陸高岡村では「ツジフダというものを、通り路から屋敷へ通ずる小路の曲り角に立てている家が多い。村の神職から受けるものもあり、また久慈郡〔金砂郷村〕の金砂神社に参拝のおりに頂いてくるものもある。悪病除けになるという」俗信があるが、辻札も病気にならないためのまじないといえよう。'
このように辻に潜む悪霊の一部は病気をもたらしたが、霊は人間の通る道を使って辻に集まってくるので、病気をもたらす霊も辻を中心にしながら移動すると思われていた。移動する悪霊がもたらすということで大きな注意が払われたのは疫病であった。疫病の流行は前近代においては村の存亡にかかわりかねなかったので、その対策は村全体としてなされた。村に疫病を流行させないためには原因となる悪霊を村に入れなければよいとして、道を伝わってやって来る悪霊を村の入口で追い返すための呪術が行なわれた。
『古事記』では黄泉比良坂のイザナギ・イザナミ両神の離別に際し、千引石を引き塞えて黄泉国との間を遮り、その石を道反之大神・塞坐黄泉戸大明神と呼んだとあり、この世に災いをもたらす死霊が道を伝ってやってくるのをさえぎるために塞神が設けられたことを伝えている。また『今昔物語集』では道祖神が行疫神として出てくるが、古代末の悪霊信仰や疫病に対する恐怖の増大とともに、サエノ神・フナドノ神に対する信仰も強まり、村境にこうした神が祀られ悪霊を村に入れまいとし、辻と村境が同じような意味を持つ場と認識されるに至ったと思われる。
悪霊を村に侵入させないという発想法は、現在でかツジキリ(辻切)やツジシメ(辻注連)等といった習俗で残っている。これらは道切などとも呼ばれ、「疫病神や魔性のもの、村の平安を乱すものがほかから侵入するのを防ぐために、村境・部落の各入口などに張られるシメ縄。村・部落の全戸が参加した共同呪願のひとつ。春秋の村祈祷のあとなど、毎年日を定めて張りかえられるものと、隣村などに疫病がはやったとか、またすでに部落内にも伝染してきたが、それを送り出す行事をしたあととかに張られる、臨時的なものとがある」等と説明され、村の入口に大わらじや悪臭のものを吊したり、祈祷札を張ったりするのも同じ意図からなされている。朝鮮では村の入口にチャスンという神像が置かれているが、これも同様の役割を持つであろう。
不幸にして村に入り込んでしまった疫病神・悪霊等を村外に送り出すにあたっても、辻や村境は特別な意味を持つ場所であった。疫病送りに「さん俵に赤紙を敷いて、起上り小法師二つと小豆飯をのせて、村境や四辻に持って行き置いてくるという呪法は、全国的」(大塚民俗学会編百本民俗辞典』)に見られる。
辻の霊や神の中には悪病をもたらすものもあったが、逆に人々は毒をもって毒を制す的な行為、あるいは辻に潜む善神に期待するような行動も行なった。その一つがツジウリで、これは「高知県長岡郡などの珍しい風習として知られているのは、病身で育ちの悪い小児は、辻売またはカエオヤということをする。替親はただ近隣の天を択んでその子を子に取つてもらうだけだが、辻売の方は朝早くその子を抱いて四辻に出て立ち、第三番目の通行人に貰つてもらうという形をする。相手は承知をすれば何か身に附いた品物を与え、新たに名をつけてやる。そしてケイヤクオヤとなつて一生の交際をするのだそうである(国府村誌)。或は小児でない病人にもこれをするそうだが(土佐方言集)、それは呪法としての応用であろう」(『改訂綜合日本民俗語彙』)等と説明される。同様の習俗にツジクレもあり、「佐渡の河原田町附近では、道の辻で三人目に逢つた人に赤児の名をつけてもらう風があり、これを辻クレといい、その子をツジコといつた。或は三辻で一番先に来た人にその子を貰つてもらい、また名をつけて貰うという土地もある」(『改訂綜合日本民俗語彙』)等の内容を持つ。このように健康にかかわる行為が辻で行なわれたのは、辻が人間の生命にとって最も重要な魂・霊の出入口の場であり、辻神が悪病とかかわる等と信じられていたためであろう。
三 辻と占 衢く
辻に集まってくる霊や神は、必ずしも悪いものだけでなく、人間に幸福をもたらしたり、未知のことを教えてくれたりするものもあると考えられていた。そこでこうした霊や神と交信して、その力をかりていろいろな物事の判断をしようとした。その代表が辻占である。
辻占の原初的な形を伝えるのが、『万葉集』に「由布気にも今宵と告らる我が背なは何故そも今宵寄しろ来まさぬ」、「門に立ち由布気刀比つつ吾を待つ」等と見える「夕占」、または「夕占問い」である。これを折口信夫氏は、「辻に出て往き来の人の口うらを聴いて、自分の迷うてゐる事、考へてゐる事におし當て、判断する方法で、日の這入つた薄明りのたそがれに、なるべく人通りのありさうな八衢(く)を選んで、話しはなし過ぎる第一番目の人を待つたのである。夕方の薄明りを択んだのは、精霊の最力を得てゐる時刻だからであらう。遥かに時代が下ると、三つ辻と定めて、其庭に白米を撒いて、区割をかいて、其庭を通る人の話を神聖なものとして聴き、又、禁厭の歌もあつて、道祖の神に祈つた様である(拾芥抄)。此は塞ノ神をば占ひの目的の邪魔を払つてくれるものと考へたからで、米を撒くのも、神聖で、悪神の虚言などが吾一旭入りこまぬ様にと言ふのである。ゆふけのけは占の意か」と説明している。なお『拾芥抄」には「フナドサヘユウケノ神ニ物問ハハ、道行人ヨウラマサニセヨ」とみえ、岐神や塞神が夕占の神と同一視されており、こうした神は占の邪魔を払うより、やって来る人にのりうつって託宣すると考えられていたことを示している。そして夕占は夕方という時に重要性をもった言霊信仰だったのである。
夕占が時に重きをおいたのに対し、同じ行為を辻という場においてとらえたのが辻占である。「ゆふけ」を『倭訓栞』は、「万葉集に、夕占夜占夕衢などをよめり、俗にいふ辻占也、夕食の義にや、後拾遺集にゆふけをとハせけると見えたり、ゆふけの神とも見えたり、又黄楊小櫛(つけおぐし)と名し、其法十字街に出て黄楊の櫛を把て道祖神を念して、見へ来る人の語をもて、吉凶をト定むといへり、黄楊を告の義に取なるへし」と、夕占が辻占の出発点であると記し、江戸時代の辻占の方法は、四辻に出て黄楊の櫛を持って道祖神を念じ、来る人の語によって占うものであったことを伝えている。
このように占いが辻という一定の場を選んで、道祖神・岐神・塞神=辻神を念じて行なわれたことは、ここが霊や神の集まる特別な場所として意識されていたからで、そうした神が人にのり移って言葉を発し、人間と交信してくれるという信仰があったのであろう。ところが次第にこうした本来的な意味が忘れられ、黄楊の櫛に重きがおかれたり、やがては辻占売によって売られる紙に書かれた辻占や、辻占せんべい等にとってかわられるようになっていったのである。
小正月に行なわれる火祭り行事の左義長・どんど焼は、村の四辻や村はずれで催されることが多い。この時には正月の松飾りが燃やされるが、松飾りは正月の神――それは祖先神でもある――の依り代である。こうした火祭りは盆行事としても行なわれる地域があることから、盆の送り火と同じ意味を持ち、祖先神・正月神の送りの行事で、これが辻で行なわれた理由もここが神や霊の集まる場所だからであろう。ところで左義長は火の大きさや燃焼時間を隣村と競って、勝った方の村によい事があるとか、炎が大きかったらその年は豊作、あるいは竹が音高く燃えるとその年の天気がよい、さらには火祭りの燃焼物の中心に立てた柱が倒れる方角を見て一年の豊凶を占う等、年占としての性格をも強く持っている。送り火と同性格を持ち年占でもある火祭りが辻で行なわれることは、送り出した正月の神や辻に潜む霊等と交信し、神意によって未来を予見しようとするもので、これも辻と占とのかかわりを示す。
辻を中心とした通路、あるいは村境の道で、部落内の二つの組もしくは部落間で綱引き行事が行なわれ、勝った村の方が豊作だとか、上の組が勝つとその年は天気が良い等といって、これを年占の神事にしている所は多い。また「綱引行事は市神・七夕神・エビス大黒など、何らかの神祭にともない、盆行事の場合は、多く精霊様(祖霊)のためといわれる」ことも注目される。前記のように辻と村境とは関係が深く、村の中心の辻神が村境に祀られるに至ったと考えられるものもあり、辻と村境がほぼ同一に意識されていたので、年占の綱引の場が辻あるいは村境であるのは、辻の霊や神の意によって占をしようとしたといえよう。
『改訂綜合日本民俗語彙』は、辻角力を「長野県南安曇郡で、田植休みの子供の角力のこと」と説明し、田村善次郎氏は「長野県松本市をはじめ相撲場のことをツジという所も多いが、辻に土俵を築き相撲をとることが年占として重要な意味を持っていたのであろう」と述べている。田村氏の指摘するように、相撲は神事として豊凶を占うために行なわれることが多く、この年占の神事が辻を舞台にしてなされることは、ここにも辻占と同様に辻に集まる霊や神が力士にのりうつり、神意を示してくれるという信仰があったと思われる。
そして長野県の辻角力の力士が子供であることは、子供はけがれがないので精霊や神がのりうつりやすいと考えられたからであろう。また左義長を子供が中心になって行なう地域が多いのもこのためではなかろうか。
そこで注目したいのは、子供達が鬼ごっこやかごめかごめ等をして遊ぶのを、辻遊びとも言うことである。辻遊びの代表である鬼ごっこについて半沢敏郎氏は、「名称考及び遊びの形式方法の内容等から、この種の遊びは鬼の追跡から逃避することを遊事化した仮想的ごっこ遊びの一種である」として、「要は人間を脅かし、生活の妨げとなる悪鬼、邪なる化物よりの逃避にほかならない」と述べているが、前記のようにこうした鬼=悪霊の集まる場が辻であり、そこでこうした遊びがなされることは意味がある。また鬼ごっこの鬼を決めるのにジャンケンをする等、占の形式をとることが多く、かごめかごめで「うしろの正面だあれ」というように鬼が占的行為をすることもある。さらに『民俗学辞典」はかごめかごめを、「他の地方ではこの中心の一人は小仏であり地蔵である。福島県の海岸地方では、お乗りやれ地蔵さま云々と唱えつつ廻つていると、中心の児に地蔵がのり移つて種々の問いに答えるという。すなわちこの遊戯の起源は、神の日寄せの方式であつたと考えられる」としている。このように辻遊びも辻占的要素が強く、鬼ごっこやかごめかごめ等は本来辻に着目しての占の一種だったともいえよう。
『日本国語大辞典』では、辻八卦を「路での八卦占い。またその八卦をする人」と説明しているが、前記のように本来辻は占の場だったので、この場合も辻占や辻角力同様に「辻」の語に意味がある可能性がある。
なお辻における右のような占も日本だけに見られたものではなかった。阿部謹也氏によればヨーロッパの中世では、「十字路は良き霊と悪しき霊の集まるところとして、いろいろな迷信の対象となっていた。十字路に立つと霊の力で未来が見えるといわれた。そこでは幸運や不運、愛(結婚の相手)や死、病気の治癒、災難からの保護など起りうる出来事について超自然的な力が働いて、あらかじめ知ることができるといわれた」という。これは占の内容も形式もまさしく日本の辻占と対応するといえる。
四 辻と芸能
「辻」という字を冠する熟語を見ると、芸能に関係する語が多いことに気がつく。すなわち、辻歌・辻謡.辻打.辻打太鼓.辻絵書・辻踊・辻歌舞伎・辻浄瑠璃・辻祓・辻説・辻羅漢・辻勧進・辻寿祓・辻狂言・辻講釈・辻講談・辻芸・辻講師・辻芝居・辻相撲・辻説法・辻談義・辻談義坊主・辻能・辻能役者・辻噺・辻番附・辻法印・辻放下・辻宝引等である。ここには俗に大道云と呼ばれるものがほぼ網羅されている。ちなみに坂本太郎氏監修の『風俗辞典』では、大道芸を「辻芸」ともいうと説明している。このように辻は諸芸を演ずる場でもあった。
辻で芸能が行なわれるようになった原因の一つには、前記の辻切等とつながって、辻に集まり人間に災いをもたらす悪霊に対して、厄ばらいをすることがあった。たとえば辻祓は、大晦日あるいは節分の夜等に、乞食が家々の前で厄ばらいをする。また辻法印は、道ばたや家々の門口で祈祷や占をしたり、祭文などを語ったりする山伏であるが、これも厄ばらいの役割を持っていたといえよう。
また辻に集まった霊に対しての慰霊・鎮魂から出発したと思われる芸能もある。たとえば辻踊は辻に集まって踊ることであるが、その代表とされるのが盆踊である。談義僧が往来で平易に仏道を説いて喜捨を受けることも辻談義といい、また道ばたに立って往来の人にする説法を辻説法と呼ぶ(百本国語大辞典』)。この二つの目的はともに道行く人々に対し功徳を説き喜捨を得るところにあるが、辻で行なわれ辻の字を冠して呼ばれる一因には、説法等を辻に集まっている霊達にも聞かせ、彼等を仏教によって鎮めあるいは救済してやろうという意識もあったのではなかろうか。
右の二つは非常に密接なかかわりがあり、両者が混合したような芸能もある。「路上で往来の人に社寺や仏像建立などの寄進を仰ぐこと、またそう称して金品などを乞い貰う人」を辻勧進といい、「江戸時代、道ばたなどに羅漢の木像を置き、前に櫃を出して置いて、銭を乞うていた乞食」を辻羅漢という(『日本国語大辞典』)が、これらはそうした芸能である。
ところで、日本の芸能のほとんどは信仰に根ざしており、人間世界への神々の来臨を模倣したところから出発したものが多い。たとえば狂言は「平安・鎌倉時代の記録に見え、神懸(かみがかり)して神の言葉を述べるとか、憑き物がついて狂気な言葉を述べるといった場合に使われている」。また能は「祭礼は神と人との接触する時で、その時にいろいろな儀式が行なわれた。神と人との精神的なつながりを芸能という形式を通じ、具体的に表現して見せたものの一つが能であった」等と説明される(『日本民俗事典』)。辻という場所は霊や神が集まり、人間にそうしたものがのりうつりやすい特別な地域であるので、神や霊の人間界への来臨からすると、辻は本来的な芸能の場といえよう。
芸能には正月の萬歳や春駒・大黒舞等のように、客人神・マレビトの形態をとって行なわれるものも多い。客人神は神が人間の形をして村へ来訪してくるので、人間の通る道を伝わってやってくる。そこで客人神が最初に村に姿をあらわす場は村境であり、また人間と接する機会の多い場は辻であった。辻や村境で芸能の行なわれる頻度が高い理由にはこのこともあろう。
こうして元来は霊や神の集まる場所であり、異様なそして恐怖の対象の場であった辻において、それ故に芸能が行なわれ、またこの芸能を通じて辻において生活の途を求める者も出現した。加えて辻は二つの道の会する所であるので、道路の他の場所より少なくとも倍は人の往来が激しい区域であり、道路の交差する地点は交通の要衝にあたることが多い。そこで交通の要衝で人の多く集まる地だという点に着目して、辻を中心に人が住みつき新たな村が形成され、辻の字を村名に持つ村ができあがっていったと思われる。
そうした辻の字を村名に持つ村は中世から多くなるようであり、また姓としての辻もこのころから見られるようになる。このように古くは恐怖の対象であった筈の辻で芸能が行なわれたり、辻を中心として村ができるようになったことは、人々の辻に対する意識に何等かの変化が生じてきたことを示す。結局は辻は人の集まる場所だという意識が、辻は霊や神の集まる恐ろしい特殊な場所だという意識にうちかっていったのである。
辻に対する右のような意識変化は徐々になされていった。その移行期の様子を伝えているのが、前記の辻踊・辻勧進・辻談義・辻祓・辻法印・辻羅漢といった語で、これは辻における霊の存在と人間の往来の激しさの二つに着目していたと思われる。しかし辻と霊や神とを結びつけるような考え方は次第に後退し、やがて霊や神を意識しない芸能が辻を舞台に行なわれるようになっていった。『日本国語大辞典』からそれに対応するような語を探すと、
辻謡 路傍で謡をうたい銭を乞うもの。
辻打 路傍で興行して往来の人に銭を乞う演芸。
辻絵書 路上で絵を書いて見物人から金銭をもらう大道芸。また、その人。
辻歌舞伎 「つじしばい(辻芝居)」に同じ。
辻狂言 辻に立って滑稽な仕ぐさや、軽業などを演じ、往来の観客から銭を乞うこと。また、それをする人。
辻芸人 通りの多い道ばたで演ずる曲芸や軽業。
辻講師 辻講釈をする人。
辻講釈 町の辻に立って軍談・講談などをして、往来の聴衆から銭をもらうこと。また、その人。
辻芝居 道ばたに簡単な小屋掛けをして興業する芝居。
辻浄瑠璃 路傍に簡単な舞台をつくり、往来の人を寄せて見せ、投銭を受ける浄瑠璃芝居。
辻相撲 民間で随時行なう相撲。
辻能 町なかや路傍などで行なう能。乞食能。
辻噺 町の辻や社寺の境内などで、滑稽な笑い話などを聞かせて銭を得ること。また、その話。
辻放下 路傍や寺社の境内などで寄術や曲芸を演じて、見物人から銭を乞うこと。また、その者や、その芸。
辻宝引 正月、「さございさござい」と呼声をかけて人を集め、銭をとって宝引きをさせ、当てた者には菓子などを与えるもの。また、その商売や人。
こうした芸能で生活を支えていくためには、相当多くの観客を要したので、これが行なわれたのは主として都市であった。そして都市の辻で右のような芸人が客を集めている模様は、「洛中洛外図屏風」がつぶさに伝えてくれる。高津家所蔵のものでは、辻で八打点が演ぜられ多くの観客がこれをとりまいている。東京国立博物館所蔵のものでは辻で見世物をしており、また辻で風流踊が行なわれているが、その様子は町田家所蔵のものでも見られる。霊を意識しない芸能が盛んになるのは近世なので、「洛中洛外図屏風」がつくられる時期からそうした風潮が強まっていったと思われる。なお辻に対する意識は都市だけでなく地方でも同歩調で変化していったであろう。
ところで、こうした芸能によって生活している者達は、通常は農民とは異なって土地から遊離した人々である。そうした者達が積極的に辻に集まって、ここを生活の場とした理由の一端には、元来辻が霊や神の支配する特殊な地域であるという思想が広く行きわたっており、辻は人間の力の及ぶことのできない、従って個人の所有にもかかわらない地であったので、そこに立入ることは誰にでもでき、しかもそこで稼いでも税を払う必要がなかったこともあろう。換言するなら辻は無縁の場であり、アジール的性格を有して、そこに入った者も無縁の存在となり、領主の支配から逃れることができたのではなかろうか。加えて辻は一定の広さがあり、芸をすることも、また観客を周囲に置くこともできた。
五 辻と商業
岡山美術館所蔵の「洛中洛外図屏風」を見ると、五条の橋をわたった所にある辻で女性が座って物を売っている。また勝興寺所蔵の「洛中洛外図屏風」でも三条通り付近の辻のわきで、同様に女性が物を売っている。このように辻という場所と商業との間には密接な関係があった。その模様を知るために、辻という字を冠する熟語で商業と関係のあるものを『日本国語大辞典』からひろってみると、辻商 道ばたで商売すること。また、その人。簡単な店を構える場合もある。大道あきない。つじうり。
辻商人 道ばたで商売する人。露店商人。
辻売 「つじあきない(辻商)」に同じ。
辻店 道ばたに出した店。大道店。露店。
がある。
また石川県金沢地方では、「辻」が市場の意味を持つが、市場こそ商行為の行なわれる中心的な場所である。前記「洛中洛外図屏風」からすると、辻が商いの場として特殊な意味を持っていたと考えさせられるが、石川県の辻の語は直接これとつながる。さらに『改訂綜合日本民俗語彙」は、ツジバシラ(辻柱)について、「『ひなのあそび』秋田県南秋田郡の條に、馬場目の市神というのは、八角の辻柱を文禄の世の乱に盗み取つて、押切の○陪(みち)に立てた。それをまた五城目に盗んで行き、今もそこに市がある。押切には一日市が立つたといい、一日市の名があつたというと記されている。市神の依代となつたものと考えられる」と説明しているが、辻柱の語で明らかなように、辻に立てられた柱が市神の役割をしていることから、辻と市神とはかかわりを持っていた。
そこで次に市神について調べてみると、柳田国男氏監修の『民俗学辞典』は、「市場にまつられ、人々にサチを与えると信ぜられる神。(中略)円形の自然石が最も多く、また球形・卵形・砲弾形・六角の石柱にて傘石の付随しているもの・陰陽一対よりなるもの・木製で六角の柱の一本のものなどがある。市神の文字を刻んだものもある。今日は多くはその町村の神社の境内に残されてあるが、もとは路傍に、しかもしばしば往来の障碍になるようなところに立てられていた」と説明している。この記述からして秋田の辻柱は決して例外的なものではなく、市神が辻にまつられることは各地にあったようである。またこの説明によれば市神の神体としては円形の自然石が最も多く、ついで球形、卵形、砲弾形、六角の石柱に傘石の付随しているもの、陰陽一対よりなるもの、市神の文字を刻んだものとのことであるが、こうした神体は道祖神・塞神の神体に極めて似ている。また市神がまつられている場所も、路傍や往来の障碍になるような所、辻ということで、道祖神や辻神のまつられる場所と共通性がある。
ところで商業をする場として目下問題にしている市の語義を、『日本国語大辞典』は、
①人が多く集まる所。原始社会や古代社会で、高所や大木の生えている神聖な場所を選び、物品交換・会合・歌垣などを行なった。
②特に物品の交換や売買を行なう所。市場。
③年の市の略。
④市街。まち。
と説明し、その語源説として、
(1)イチ(五十路)の義か〔和訓栞・大言海〕。
(2)イチ(生路)の意〔国語の語根とその分類=大島正健〕。
(3)イチ(商所)の義。アキの反はイ〔言元梯〕。
(4)ウリミチ(売路)の転〔名言通・日本語原学=林甕臣〕。
(5)イソギタチの約〔和訓考〕。
(6)イルチ(集路)の約〔日本釈名〕。
(7)イルチ(入所)の約〔類聚名物考〕。
(8)イチ(火集)の義〔日本語源=賀茂百樹〕。
(9)イチの古義は山姥や山人が里へ出てくる鎮魂のにわ(場)という意〔翁の発生=折口信夫〕。
をあげている。
右から、市というのは語義的に神聖な場所、特殊な場所と意識されていたこと、語源的には道の集まる場所とかかわるような説明が多いことが知られる。前記のように辻は道の会する所で、霊や市神等の集まる特殊な場、神聖なる場であるので、市の語義や語源からしても辻が市の場の出発点となっていたことが考えられる。
また市にはイチコ(市子)の略の意味もある。この市子・巫子の意味を『日本国語大辞典』では、
①神前で神楽を演奏する舞姫。神楽女。神巫。一殿。いち。
②生霊・死霊を神がかりして招きよせ、その意中を語る職業の女。梓巫。口寄。巫子。
と説明しており、その語源説としては、
(1)イツキコ(斎子)の転〔筆の御霊・大言海〕。イツキの義〔嬉遊笑覧〕。
(2)イチミコ(市神子)の意〔言元梯〕。
をあげている。
右の市という語に関する大きく二つの語義は、底辺ではつながっている。すなわち神聖な場である市における巫子の活動という点で接点があり、これをさらに広げると、巫子の霊あるいは神との交信の場=市=辻とすることができるであろう。
商業の場としての市と、巫子(女性)としての市とをつなぐような語に、イチメ(市女)がある。この語を『日本国語大辞典」は、
①市で物をあきなう女。市に住む女。
②いちこ(市子)に同じ。
としている。同じ文字でイチジョウと読む語について石川純一郎氏は、「長崎県壱岐島で民間巫子をいう。
テンダイヤボサという神を祀り、悪風ばらいの加持をする。伏せたゆりに木弓を仰向けにくくりつけ、弦を引きながら神降ろしから始めて御籤あげをし、ついで『百合若説経』を唱える。こうしておつとめをするうちに生き霊・死霊・ゲリョーゲマツリが寄ってくるという。ただし、口寄せはやらず、これをするのはミトオシという巫子であった。市女は最後にそれら神・霊を送って巫儀を終える」と説明している。また女性と市との関係からすると、市姫の語も注目される。市姫は「市場の祭神、宗像三女神の一。市杵島姫命または、橋姫のことという。市の神・いちがみ。また、転じて、市場、商人を守護する女神」(『日本国語大辞典』)である。このように市の神は女性であり、またそれが道祖神とよく似た性格を持つ橋姫でもあること、市女・市姫のように市と女性とを結ぶ語が特別に用意されていることは注目に値しよう。
市女から派生したと思われる語に市女笠がある。これを『風俗辞典』は、「平安時代以来、女子の外出時に用いられた笠。頂きに巾子こじ)と呼ぶ突出部があるのが特徴である。市女笠の名は、当初、市に出る物売の女がかぶったところから起ったのであろう」と説明している。既に知られているようにカカシは本来神をあらわしたものであるが、その一般的形態である「蓑笠つけて」の蓑は、神の象徴の一つとされる。そこで蓑と対になっている笠も似た性格を持つと推察される。また沖縄のウンジャミの祭で巫女の一部は、「藁にキヌマキ葛を巻いてつくったガンシナと称する被り物を巻きつける。また、一部の女は、イビガニ草を干してシデのように垂らしたカブイと称する被り物を頭に巻く」が、頭に巻かれた植物の葉は正月の松飾り等と同様に、神の降臨するに際しての印であり、これを通じて人間に神がのりうつると考えられる。巫子笠(いちこがさ)を『日本国語大辞典』は、「巫子のかぶった竹の子笠」と説明しているが、あるいは巫女は本来この笠をかぶることによって、沖縄のノロと同様に神招ぎをすることができたのではなかろうか。とするなら、市子笠も本来は市子(神女)の象徴であって、これをかぶることによってはじめて市女として役割を負えたのであり、市で物を売買するのには市女笠をかぶることが最低の条件となっていたと推察される。
市女と商業とのかかわりというと、中世では商人に女性が多かったことが思い起される。『一遍上人絵伝』から福岡の市の場面を見ると女性の商人が多いとすぐにわかるし、『七十一番職人歌合』の中では、餅売・扇売・帯売・白物売・魚売・挽入売・饅頭売・硫黄箒売・米売・豆売・豆腐売・索麺売・麹売・灯心売・畳紙売・白布売・綿売・薫物売・心太売が女性で、さらに小原女もいる。これに対し男性の物売は、鍋売・油売・蛤売・ほうろ味噌売・煎じ物売・塩売・葱売・枕売・直垂売・苧売・薬売で女性より数が少ない。加えて前記のように「洛中洛外図屏風」でも女性の物売が多い。このように中世に女性の物売が多いのは、本来女性が物の売買をする中心をなしていたことを示すであろう。
物の売買は、売買される対象物の所有権の移動を意味するが、このためには旧所有者の所有権を消滅させ、新たな持ち主の所有権をつくり出さねばならない。それ故に商行為は一般の日常行動あるいは日常の所有観念と異なった特殊な行為だったので、日常の場とは違う特別な場所を必要としたのであるまいか。その点辻は既述のように本来霊や神の支配する所であって、一般の人間の力の及ぶことのできない特殊な場なので、商行為という特別なことをするのにも適していた。また、商の古い形態は生産者同士が互いに足りない物を交換することであったと考えられるが、物の生産は視点を換えるなら、生産物に新たな生命を吹き込むことで、物に吹き込まれた生命・霊は生産者の分霊である。そこで所有権が移動することは、交換された物から旧所有者が吹き込んだ霊が離れ、新所有者の霊がのりうつること、交換物の霊が相互に入れかわることとも理解できる。辻は霊が人から離れたり、あるいはとりついたりする特別な場であると考えるなら、辻は物の交換・商に最適の場所であった。そして霊を移動させる媒介者としての役割をはたしていたのが市子と思われる。市子は売買される物から旧所有者の霊を辻に追い出し、新所有者の霊を吹き込んでいたのである。つまり本来は市子が介在してはじめて物の交換や売買が成立したが故に、商業の場に市の名がついたのであり、商業の原点においては、市の場としての特殊で神聖な場=辻と、物の売買の媒介者としての市子=女性が不可欠だったのではなかろうか。
古くは右のような意識を前提にして商業が辻で行なわれていたが、辻に芸能人が集まってここを生活の場としたのと同様に、次第に辻は多くの人が集まる場であり、無主の地であってここで商業をしても年貢等を払う必要がないといった要素が混入し、さらに商業が辻で行なわれたマジカル的な意識が消失して、現在のような商業に変わっていったのである。
六 辻と女性
辻で商売をする者に女性が多かったことは前記の通りであるが、辻と女性、特に遊女とはかかわりが深い。
たとえば辻の字を冠する熟語に辻君があるが、これは「夜間、道ばたに立ち、通行人を客として色を売った女」(『日本国語大辞典』)のことで、同様の意味を持つ語に、辻傾城・辻遊女もある。また辻立という語には、「遊女の道中などを見るために路傍に立つこと」(『日本国語大辞典』)の意味があり、ここにも辻と遊女とが関係を持っていたことが示されている。
このように辻と関係の深い遊女の成因の一つには、地方を漂泊して旅するアルキミコが巫託を名目にしながら売色したことがある。私娼をアガタ・イチコ・アズサなどと呼ぶのはこのためであり、彼女達の本来の仕事は死霊や生霊を呼び出して、そうした霊の個人に対する希望を述べたり、家や個人を襲う将来の運命を伝えるところにあった。そこで注目されるのは、アルキミコが呼び出すべき霊が群れ集まっている場所の一つが辻だということで、辻は彼女達が仕事をするのには最も都合のよい場所であった。遊女の発生の一因がアルキミコにあるとするなら、辻は極めて深いかかわりを持つといえよう。
また、遊女を一夜妻と呼ぶのは、遊女が神の妻として一夜を過ごす巫女としてあったことに起因するらしい。そのような神は村にマレビトとしてやってくるが、訪問神が最初にあらわれる場合は村境で、その中心をなすのは辻である。巫女が神と交わるとすると、右のような神の出現する場所が想起され、またこうした系譜を引く巫女達が売色をする場として村境や辻があったのではなかろうか。娼妓が客の少ない晩に、密かに杓子を携えて四つ辻に行き、四方を招くと客が来るという迷信は、遊女の起源の一つであるマレビトを接待することにかかわり、マレビトを辻で待つという行為につながる。
ところで、辻神は道祖神・塞神・岐神等に形をかえて祀られていることが多い。辻神は元来辻に集まってくる霊や神を鎮め、統轄する神であったが、次第に村の外から辻に向かって入ってくる災厄のもとである悪霊を村に入れないようにして、村を守る神として意識されるようになり、祭祀の場所が辻から村境へと移っていったと考えられる。そうした辻神=道祖神の神体として、性器のシンボルあるいは抱き合った男女の姿を石に彫ったもの等が祀られることが多い。道祖神は村に侵入する悪霊、特に疫病等をもたらす悪霊が村に入り込まないようにと願われることの多い神であった。一旦疫病が村に入ると多くの村民の生命が奪われたが、これに対抗するには生命の増殖しかなかった。新たな生命は性交によって生み出されるので、性交の根本となる性器さらには性交自体が、疫病等をもたらす悪霊にもうちかつことのできる非常に威力を持つものと考えられ、道祖神として祀られたのであろう。こうした道祖神信仰は古くより見られ、『扶桑略記』天慶二年(九三九)九月二日の条には、性器を祀った様子が見られる。そして悪霊に対抗するために道祖神・塞神=辻神に性器のシンボルや性交を示すような神体が祀られていたのが、病気に負けることなく子孫が繁栄するようにと祈られる神体と意識され、神体の形からして安産をもたらす神、病気から身を守ってくれる神として、やがて塞神が幸福と理解されるようになっていったと考えられる。右からすると、古代には悪霊を追い払う目的で、性交自体が辻や村境で行なわれた可能性もあろう。なおこうした道祖神と遊女とが関係深い事例として、遊女が百神を祀り塞神を信じていたことがあげられる。
これまで述べて来たように、辻は諸霊や諸神の集まる場であり、人間が神や霊と交信することのできる場でもあった。その交信にあたって霊と人間との媒介者として女性(巫女)を設定し、霊が女性にのりうつっていくための手段、あるいは神がのりうつったエクスタシー状態に至る手段として性交が辻で行なわれたこともあったろう。また辻は他所者が通過していく場であり、巫女がマレビトを饗応し三夜をともにする場所でもあった。さらに辻は疫病等を村に入れないために性器のシンボルや性交の模様を示す神体が祀られる場所であった。こうしたことが重なり合って、古い時期には辻において神聖な行為として性交が行なわれたのではなかろうか。それが次第に宗教的な側面が忘れ去られ、神との交わりのための性行為から、単に生活のための売春へと変化し、辻の特殊性も忘却され、遊女をののしって言う際の辻遊女・辻傾城・辻君といった言葉の中に、わずかにそのなごりが伝えられているとも考えられるのである。
さて、中世の辻と女性とのかかわりを示す語として注目されてきたのが「辻取」である。これを『日本国語大辞典』は、「路上で女を捕えて妻などにすること」と説明し、具体例として『御伽草子』の「物くさ太郎」と、「御成敗式目」をあげている。
「物くさ太郎」では、彼が京都での夫役を終えて信濃に帰るにあたって、故郷を出る時によい女房をつれて帰ってこいといわれていたのを思い出し、宿の亭主に妻になるような女を探して欲しいと頼む。亭主は「色好み尋ねてよべかし」と答えたので、太郎が色好みとは何かと尋ねると、「主なき女をよびて、料足を取らせて逢ふ事を、色好みといふ也」と説明した。太郎が銭十二、三文で呼んで欲しいと頼んだので、亭主はこのようなばか者はないと思い、「其義ならば、辻取をせよ」とすすめ、「辻取とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるをとる事、天下の御ゆるしにて有(る)なり」と説明している。一方「御成敗式目」の第三十四条には、「於道路辻捕女事、於御家人者、百箇日之問可止出仕、至郎従以下者、任大将家御時之例、可剃除片方聾髪也、但於法師、罪科者當干其時可掛酌」とある。なお『松屋筆記』では「道の辻にて女を捕を辻捕といへり、今の俗にまわりをとるなどといふに似たることなるべし」と説明しており、辻取の風習は近世にはほとんど知られなくなっていた。
このように「辻取」はその内容がおもしろいだけに注目をあび、日本史の諸書で触れられ、婚姻史の側からは嫁取婚との関係で言及されてきた。特にこれまでの著述においては、辻取は主として女を捕えるという点に注意が払われてきた。しかし「辻取」の行なわれていた時期には「女捕」という風習も存在していたことが、『沙汰未練書』や『尺素往来』にみられる。「女捕」を『日本国語大辞典』は、「道で女を捕えて、強姦すること」と説明しているが、「御成敗式目」の「辻捕女」という語を見ると、「辻取」と「女捕」とは相似たものとなり、両者を区別する語が必要であった理由がなくなる。そこで両者を区別する最大の要因は、「御成敗式目」の「於道路辻捕女」とある、道路辻という場ではなかったかと考える。
前記のように中世に芸能人や商人が集まって生活した理由の一つに、この地が無主の地であって場所代等を出す必要がなかったことがあげられる。即ち元来辻は霊や神の支配する場所と考えられ、中世ここに多くの人が集まるようになっても、依然としてここは人間の所有の及ばない地として、個人の所有にかかわることのない地であった。そしてこの地で交易が行なわれたのは、この地においては所有の観念が切れ、辻では所有権が変化しても不思議はないという特殊な意識を人々が持っていたためと思われる。多くの人が集まるようになっても霊の潜む辻に対しての不気味さは残っていたのである。中世に辻取の風習が見られるのは、辻が無所有の地であり、所有の移動がなされる特別な地であって、しかも人間の力の及ぶことのできない霊の支配する地であったことによろう。道自体が個人の所有概念から離れたものであるが、辻ではそれがかけあわされて、人間の所有が最も貫徹しにくい場所だと意識されたのである。また女性自体が「無縁」的性格を持っていた。そうした女性が辻という特殊域に入ることによって、所有の概念はより弱くなり、人間の諸雑多な関係も消滅するとみなされたのであろう。そこで辻という場においては、女性を捕えて妻にすることができるという習俗ができたと思われる。しかも辻は本来霊の支配する場なので、ここで起きたことは人間の関知できないことだとする考え方も残っていたのではなかろうか。これに加えて、辻と遊女のかかわりも想起してよいだろう。「物くさ太郎」の辻取の場合も色好みといわれる下級遊女の話が出され、それがだめだからこそ次に辻取が話題になっており、前提として遊女がおかれている。辻君は色好みと同様、あるいはそれ以下の遊女であるので、亭主の色好みという意識には辻君も含まれていたのではなかろうか。辻君ならばだれとでも寝たであろうし、またどこに行ってもよいという観念があったと思われる。あるいはまた、辻にはマレビトが来るという観念がまだかすかに残っており、女の方でも辻に立つということはだれとでもいっしょになるという、意志表示の風があったのかもしれない。
辻君あるいは辻取のように、辻に立つ女は誰とでもいっしょになるという観念は、この後も微妙に残ったものと思われる。隠語で多淫な女、貞操のない女のことを辻便所というのもこれにかかわっていると想像され、また辻子を生むという言葉が、私生児を生むという意味で乱こともこれと関係しよう。そしてこうした辻取のような風習、語義は、現代でも形をかえながらかすかに残っているようで、辻斬という語は不良仲間の隠語で、女学生の帰宅を待ち受けて誘惑することだという。
七 辻と共有
これまで本稿で用いてきた「辻」という文字は、元来日本でつくられた字である。これを『和漢三才図会』では、倭字の項目で「街○衝之字、蓋シ十ハ東西南北○以走二会意也」と説明している。ちなみに「街○衝」は「まち、又四方八達の道」であり、辻の文字は道の交わるという意味となる。
「辻」の字は「十」と「○し」とに分解することができるが、諸橋轍次氏の『大漢和辞典』の解字によれば、「十」は「指示。本義は数の具はれるもの。1は南北、一は東西、故に東西南北、四方中央の凡て具備せらる意から、数の具はれる意を表はす」、また「○し」は「走」で、①ゆきつとまりつする、②はしる、③こえる、の意味を持つという。このことからすると、「辻」の文字は、いくつかのものが集まることを示すものであり、霊や神がここに集まることも文字の意味と合致する。
また辻には「旋毛」の義もあるが、この場合の意味は、
①人の頭の髪がうずまきのように巻きめぐって生えているところ。また、その毛。
②馬などで、うずまきのように生えた毛。また、その所。
③物の突起した頂、頂点。てっぺん。
④「つむじかぜ(旋風)」の略。
等をも意味する(『日本国語大辞典』)。これらも毛の集まる所、風の集まる所という意味では、辻という語にものの集まるという意味が強く意識されていたことが知られる。
集まるという語義から転じて、辻には物の合計、または物事の結果という意味もあった。合計という意味で辻を使った熟語に高辻がある。この語を堀江保蔵は「江戸時代、一村のうち上田・中田・或下田各々の高を分米と称せしに対し、分米の合計を高辻と称した。即ち高の合計の意である。総じて辻は寄付け集むるの意であつて、高辻の外にも米辻、永辻等の用語があり、米辻とは米例へは租米の合計であり、永辻とは例へは全納租の合計である」と説明している。
この高辻とかかわりのある語に辻借という言葉がある。これを同じく堀江氏は、「鳥取藩に於ては一村の貢米総計に不足を生じた場合、之を填補するために庄屋其他村役人連印の証書に、来年取立可致返納などの文言を記入し、ひそかに金主より金穀を借る事が行はれた。之はその村の負債なるが故に、辻借といふ」(『日本経済史辞典』)等と説明している。また納辻(おさめつじ)という語もあるが、これは「江戸時代、一村で納入する年貢の総額の称。辻は合計の意。年貢割付状には田畑の品等ごとの年貢や小物成をそれぞれ書き上げ、最後に納辻をしるしている」と説明される。
高辻の語は『新編甲州古文書』では天正八年(一五八○)が初見であるが、右のような説明に見られるような、辻に村の年貢の合計といった意味がこめられてくるのは戦国時代末から近世にかけてであり、特に全国的には太閤検地が大きな役割を果たしたと考えられる。
高辻・納辻・辻借といった語では、辻という文字に村全体という意味がこめられている。これは高辻が村ごとの石高合計で、支配者の側から村を意識させたことにその一因があるが、辻という文字に村、特に村の共有・共同という意味をこめた語は現代でもいくつか残っている。その例を『改訂綜合日本民俗語彙』からあげてみると、
辻仕事 山口県阿武郡嘉年村(阿東町)などで、村の公共の仕事をいう。
辻の事 岡山県には村の公事をそういう所がある。
辻 山 徳島県那賀郡沢谷村(木沢村)で、共有林のこと。
がある。
また大間知篤三氏によれば、広島県山県郡中野村では「公という意味でツジという言葉を使っているが、同行の所有物もツジモノという。ツジ膳・ツジ椀などがあって、深井家が管理しており、集まりの食事にはそれを用いる。葬儀の時にもそれが使われる」、「ツジモノといえば共有物である。部落共有にも数人共有にもいう。大字有ツジダも以前はあって、一部共同耕作に一部小作にかけていた。ツジシゴト・ツジガネ、ツジブ(大字の人夫に出ること)等。その反対はワガコト」と報告している。
辻という語に村の共同・共有の意味が生じてくる理由の一つには、前記のように合計という意味から、村ごとの石高合計を高辻として支配者側が掌握し、これに従って年貢納入合計が納辻として定められ、村に共同責任として納入義務が負わされて、辻借のようなことがなされたという、上からの作用があろう。また民衆の側からすると、村に疫病や不幸を入れないためのツジシメ(辻注連)やツジキリ(辻切)・辻祭・道祖神祭等は、単に個人の利益や幸福を目的としてなされたのではなく、村人全体の安全と健康を祈ってなされるもので、こうした行為を通じて村の連帯が意識されていたが、これらの行事の行なわれる場が辻であるので、辻がそのまま村意識共同体の意識とつながっていったのであろう。さらに、辻に祀られていた諸神や辻堂・辻社等は、辻という人間の個人の力が及ばない地域にたてられているだけに、個人の所有でなく、共同の管理におかれており、これが不断に村の共同・共有意識をたかめた。そして辻堂・辻社等が年中行事を村ごとに行なう中心の場として、また日常の寄り合い等をする場として、村民の紐帯としての場の役割をも持つようになったと考えられる。こうして、上からも下からも次第に辻が村の共同・共有の概念・場として成長していったのである。
辻が共有の広場という概念をも含むようなったことは前記のとおりであるが、そのひとつのあらわれに辻寄合の語がある。これを中山太郎氏は「遠江積志村では特別に村民が集会して、協議したり、意見を徴さなくとも、皆田畑に出て居るので、飯時の帰りや、飯を済まして耕作に出る時を見計らつて、要路に当る辻に呼び止めては、段々に集つて談合する。之を辻寄合と云ふてゐる」と説明しているが、ここに至って村の辻は村民にとって会合の広場としての役割を負っているのである。そしてこのような辻に対する意識は、そのまま辻が村の子供達の遊びの場所となって、辻遊びの語になったと思われる。
大間知氏の報告した例では既に、「辻」は部落共有・村落共同という意味から出発して、我事(私事)に対する辻事(公事)という意味だけにも用いられ、村という概念が欠落しつつある状況が知られるが、辻には村という意味が消え、次第に単なる共有という意味だけにもなっていった。たとえば『日本国語大辞典』には、
辻井戸 共同で使う路傍の井戸。相合井戸。
辻便所 町かどにある便所。公衆便所。
が収録されている。
こうして近世になってからは、古来日本人が辻に対して抱いてきた恐怖心はとり払われ、全く別の共有・共同の場としての意識ができあがっていった。
おわりに
本稿では我々が日常生活において何気なく使っている言葉に目を向け、その語義の多様性の中に隠された歴史を探ろうとして、比較的身近にある諸辞書類を材料に辻という語について考察してきた。その結果を歴史の中に位置付けなおしてみると、古代においては辻の場所が霊や神の集まる所、霊の支配する地域と考えられ、集まった諸霊や諸神を鎮め祀ることがなされていた。また霊や神と交信することによって未来を知ろうとして辻で占が行なわれた。一方、辻では霊が遊離しやすくまた逆に霊が他のものにとりつきやすいことを前提に、その媒介者として女性が設定され、ここで商業が行なわれていた。古代末に悪霊信仰が盛んになると辻での祭も目立つようになり、悪霊を村に入れないようにと塞神・道祖等がより広く尊崇され、村境が辻と同様の役割を持つ場として大きく意識された。中世になると霊や神を鎮めたり救済したりすること、あるいは神の来訪を劇化したところから出発した芸能が辻で行なわれるようになり、また商業も盛んになって、辻を生活の舞台とする人が増加し、古代には恐れの対象であった辻に人間が進出するようになっていった。
しかし、辻取の習俗や女性の商人が多いこと等に見られるように、まだ必ずしも完全に辻に対する恐怖や特殊な感情がぬぐい去られたわけではなかった。この間にも民衆は辻祭・道祖神祭や辻を舞台とした諸行事、辻社や辻堂・辻の石仏等の維持を続け、辻の語には村の共同・共有の意識が強くうえつけられた。戦国時代頃より支配者側が年貢収奪のために辻の語を村ごとの年貢高の合計に用い、その年貢納入を村の共同責任としたこともあって、近世になると辻という語は村の共有・共同の意味を持つようになり、辻の場は村の共有の広場へと変わって、古来日本人が辻という場所にいだき続けてきた特殊な意識はほとんどなくなった。
このように辻に対する日本人の意識は、古代から近世へという歴史の推移の中で大きく変化してきた。しかも、明治以後の近代化の中で、共同体がくずれ、また神仏に対する信仰が薄れていくに従って、辻に対する意識はさらに加速度的に変化してきている。今や辻の共同・共有の場としてのシンボル性はほとんどなくなり、かつて共有の広場であった場所が個人の所有地の中に次々と組み込まれ、また村全体で尊崇し維持してきた辻の神々・石仏等が、美術晶として一個人の楽しみのために次第に村々から持ち去られつつある。これに対して、昔村であった共同体の側は、辻堂や辻神等を共同体として維持することができなくなり、辻の石仏等を互いに見守り盗まれないように監視することもなくなった。
辻に対するいわれのない恐怖や特殊な観念から解き放されたという意味では、右のような現象も確かに歴史の進歩である。しかし我々の祖先が長い歴史の中で育み維持してきた辻の石仏のような民衆の文化財は、何らかの形で守っていかねばならない。
ふと目を転じると、失なわれつつある共同の広場を再度よみがえらせようとするかのように、新たな広場が各地につくられている。しかしややもすればこうした広場は地域の住民の要請が成果をあげてできたというよりも、行政サイドで設けられ、その後の管理も地域全体で行なっていることは少ない。このような情況の中で、我々は今改めて辻とはどのような場であるべきかを考える時期に来ているのではないだろうか。
注
角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典』4宮城県(角川書店、
『角川日本地名大辞典』u埼玉県(角川書店、一九八○)
『駿河志料』(歴史図書社、一九六九)
『角川日本地名大辞典』16富山県(角川書店、一九七九)
『角川日本地名大辞典』25滋賀県(角川書店、一九七九)
高取正男『民俗のこころ』(朝日新聞社、一九七二)
中山太郎編『補遺日本民俗学辞典』(梧桐書院、一九三五)、『日本民俗学辞典』
『遠碧軒記』上
白石昭臣『日本人と祖霊信仰』(雄山閣、一九七七)
辻の語が山を意味することは沖縄でもある(『伊波普猷全集』第四巻、巫一凡社、
一九七九)
(梧桐書院、一九三三)
一九七四)