金閣寺
金閣寺
京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。
歴史
通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築で、初層は寝殿造風で「法水院」と称し、二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋上には鳳凰が飾られている。
この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされて鹿苑寺と名付けられた。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。
焼失する前の金閣鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。林は寺の裏山で自殺を図った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。
現存する金閣は1955年(昭和30年)に旧状どおり再建されたものである。
なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満にならい、銀閣を建てた。
応永4年(1397)に将軍職を義持に譲った足利3代将軍義満が、西園寺公経の山荘の跡に「北山殿」と呼ぶ別邸を造って隠棲しました。応永15年義満が没するまで政治の中心となりますが、彼の死後、その子義持により禅刹に改められ、義満の法号にちなんで「鹿苑寺」と号するようになりました。
大半の建物は応仁の乱などに焼失し、北山文化唯一の遺構であった金閣も昭和25年(1950)に一人の学僧によって放火され焼失してしまいました。現在の建物は昭和30年に再建されたもので、昭和62年には、金箔が全面張り替えられ、きらびやかな姿を蘇らせました。
鏡湖池に臨む3層の楼閣の金閣は、初層は寝殿造りの「法水院」、2層目は武家造りの「潮音洞」第3層は唐風の「究竟頂」となっており、三つの違った様式を見事に調和させています。また、衣笠山を借景とした池泉回遊式庭園は室町時代を代表する名園として知られています。
金閣
金銅鳳凰(鹿苑寺蔵)
足利義満が北山殿に建てた三層楼閣の舎利殿で,寺の中心にある鏡湖池(きょうこち)の畔にあります。屋根はこけら葺きで,二層・三層部分は漆の上に金箔が貼られ,屋根には鳳凰(ほうおう)が飾られています。
応永5(1398)年の創建当初,この建物は舎利殿・重々殿閣・三重殿閣などと呼ばれていましたが,文明16(1484)年,はじめて「金閣」の名が見えるようになります。
一層は法水院(ほうすいいん,鏡堂)と呼ばれ,西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい,釣殿<つりどの>)を持つ寝殿造の阿弥陀堂です。また二層は潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれる書院造の観音堂,さらに三層は究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれる禅宗様(唐様)の仏間,という形式を持ち,住宅と仏堂の様式を併用・統合した建物になっています。創建当初,二層には足利義満筆の「潮音洞」,三層には後小松天皇筆の「究竟頂」の額がかけられました。
この金閣は,北山殿創建以来から残っていた唯一の建物でしたが,昭和25年7月2日に焼失してしまい,同30年に再建されました。その後,同62年秋にも漆や金箔が修理され,現在では創建当初を想起させる,まばゆいばかりの装いに一新されました。平成15年春にも,金箔のはり替えなどが行われています。
鳳凰と後小松天皇筆「究竟頂」の額については,昭和25年の焼失時には金閣から取り外され保存されていたため,難を免れました。このうち鳳凰は,平成11年,京都市指定文化財になっています。
金閣寺は現在,京都における修学旅行・旅行客の観光スポットとして清水寺とともに双璧をなしています。また平成6年には,世界文化遺産にも登録されました。
庭園
義満が西園寺北山第から受け継いだ景観をもとに,鏡湖池(きょうこち)を中心としてさらに大きく改造した庭園です。室町時代を代表する池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園として,国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
西と北を山に囲まれて,鏡湖池には葦原島(あしわらじま)といわれる中島や幾つもの岩島があり,これらの岩には畠山石・細川石と創建時に奉納した諸大名の名が付けられています。
また,池の東に建つ方丈の北側には「陸舟の松」と呼ばれる舟形の大変立派な松があり,義満の手植えの松といわれています。
安民沢
安民沢(あんみんたく)
金閣の建つ鏡湖池の背後の一段高い山腹にある池で,その中央には西園寺家の鎮守といわれる石塔「白蛇の塚」があります。
また池裾には,義満がお茶の水に用いたと伝えられる「銀河泉」(ぎんがせん),義満が手を清めたという「巌下水」(がんかすい),中国の故事登龍門にちなんだ「鯉魚石」(りぎょせき)が置かれた「龍門滝」(りゅうもんのたき)の3つが並んで設けられ,今なお清水をたたえています。この安民沢と龍門滝は,鎌倉時代の西園寺北山第の池泉の遺跡をとどめているといわれています。
夕佳亭(せっかてい)
江戸時代,後水尾天皇(ごみずのおてんのう)を迎えるために鳳林承章が茶人金森宗和(かなもりそうわ,1584~1656)につくらせた数寄屋造の茶室で,「夕」日にはえる金閣が「佳」いという意味から「夕佳亭」と名付けられました。明治のはじめに焼失し,現在の建物は明治27(1894)年に再建されたものです。
茶室の南天の床柱や萩の違棚が有名で,亭の前にある石燈籠と富士形の手水鉢は,室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ,1436~90)が愛用したものと伝えられています。
不動堂
本尊は弘法大師が作られたと伝えられる石不動明王で霊験あらたかな秘仏として信仰されています。外人観光客も見よう見まねで両手をあわせていました
現在の不動堂は,天正年間(1573~1592),安土桃山時代の大名で豊臣秀吉の重臣であった宇喜多秀家(うきたひでいえ,1572~1655)が再建したとされ,金閣寺の境内に現存する最も古い建物です。
本尊の石造不動明王は鎌倉時代のものといわれ,室町時代には信仰の対象として多くの人々が参詣に訪れたようです。現在は秘仏ですが,2月の節分と,大文字の送り火が行われる8月16日には開扉法要(かいひほうよう)が営まれています。
金閣寺境内図
夕佳亭
安民沢をすぎて山路を登ると、夕佳亭(セッカテイ)があります。江戸時代、傾きかけた金閣を復興し、池泉庭を修復したのが鳳林承章(ホウリンジョウショウ)でした。修学院を造営した後水尾(ゴミズノオ)上皇の為に、承章が金森宗和(茶道家)に造らせたのが夕佳亭です。宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(コト)に佳(ヨク)いということからこの名が付けられました。南天の床柱と萩の違い棚で有名な3帖の茶室です
明治のはじめに焼失しましたが、1874年(明治7年)に再建されました。また、1997年(平成9年)に解体修理が行われ、その最中に夕佳亭の古図が見つかったことから、創建当初に近い形に復元されています。
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(c) 2003-2005 京都市
金閣寺庭園から山荘「北山第」の遺構出土 鎌倉時代前期の滝組や木製の樋/京都
97.04.02 大阪読売朝刊 26 AJ 14 03 写 00701
◆平安時代の流れくむ
「金閣寺」として知られる鹿苑寺(京都市北区)庭園内にある池「安民沢(あんみんたく)」(約三千平方メートル)の底から、鎌倉時代前期(十三世紀初め)の石組みの滝「滝組」と、水を抜くための木製の樋(ひ)が出土。これらは、同時期に公卿(くぎょう)の西園寺公経(きんつね)(一一七一―一二四四)が造営した山荘「北山第(だい)」の庭園遺構だったことが一日、同市埋蔵文化財研究所の調査報告書でわかった。文献に登場する北山第の遺構が確認されたのは初めて。
発掘調査は、八八年から九三年にかけて同研究所が境内で順次実施。安民沢周辺では池の水をすべて抜いて調べた。
「滝組」は、池の北東隅から出土。大小二十五個前後の石を階段状に組んで、幅二・七メートル、高さ七十センチの滝のような形に築いていた。池中央の「中島」の水際や北岸などにも十六個の庭石を配しており、平安時代の流れをくむ造園技術を駆使して細やかな配慮を施した園池と判明。
樋は、南東隅の池底から見つかった。逆台形の角材をU字形にくりぬいて「とい」状にしたもので、幅と深さは各約三十センチだが、長さは発見部分だけで約一・二メートルあった。上部には板を釘で打ちつけてふたをしていた。ふたに穴を開けて筒状にくり抜いた部材も差し込んであり、栓をしていたらしい。
池の周囲からは鎌倉時代の軒丸瓦(かわら)や軒平瓦が出土。北東部は築山のように盛り上がっていたが、南岸は平たん。池を中心にした庭園を鑑賞するための建物があったとみられる。
同研究所の鈴木久男調査課長は「平安京内にあってもおかしくないほど立派で、平安時代の流れをくむ庭のあり方を備えている」と話している。