馬見古墳群
馬見古墳群
馬見丘陵には、古墳時代前期後半から後期に至るまで、多くの古墳が造営された。
北群
川合大塚山(かわいおおつかやま)古墳を中心
中央群
巣山古墳を盟主墳とし、佐味田宝塚古墳(さみだたからづか)
南群
新山古墳(しんやま)、築山古墳を中心とする
◎葛城の掖上(わきがみ)にある室宮山古墳(むろのみやま)等を含める見解もある。
掖上地域は葛城氏の本拠であるが、馬見古墳群の被葬者集団を葛城氏と結びつけることは出来ない。
馬見丘陵は葛城に含まれない。馬見古墳群の規模の大きさ、出土した副葬品の豪華さは単に一氏族の奥津城の域を超えている。
◎佐紀盾列古墳群に王墓が築造されていた時期に、馬見古墳群で巣山古墳、掖上地域に室宮山古墳が出現していることに注意。
(和田 萃 大系日本の歴史2 P96-99)
佐味田宝塚古墳(さみだたからづか)
馬見古墳群の中の一つ。前期後半。
馬見丘陵の尾根上につくられた全長約100メートルの前方後円墳
明治14年(1881)、30面以上の鏡、勾玉、管玉、臼玉などの玉類出土。
出土品
30面以上の鏡
勾玉、管玉、臼玉などの玉類
鍬形石、車輪石、石釧、石製合子(ごうす)等の石製品
刀子(とうす)、鎌、斧、、鑿(のみ)、剣形などの滑石製模造品
が出土している。
埋葬施設は粘土槨で、周囲に礫(れき)を用いた溝を巡らせている。
注目点
鏡 当初は38面あったという。(椿井大塚山古墳からは36面=日本最多)
現存 舶載鏡 15面(12面が三角縁神獣鏡)
ほう製鏡11面(家屋文鏡)
椿井大塚山古墳と佐味田宝塚古墳は2種の舶載三角縁神獣鏡の同笵鏡を分有している。 椿井大塚山古墳の鏡は全て舶載鏡。佐味田宝塚古墳ではほう製鏡を含んでいる。従って佐味田宝塚古墳のほうがより新しい。
(和田 萃 大系日本の歴史2 P97)
二つの王墓 巣山古墳と室宮山古墳
巣山古墳
馬見古墳群の中央群に属する。
北面する全長204メートルの巨大な前方後円墳で、その規模は王墓に匹敵する。
三段築成で葺石があり、円筒埴輪がめぐつている。
後円部頂上に主軸にそって、二つの竪穴式石室があったらしい。
石室のありかたは、室宮山古墳(むろのみややま)とよく似ている。墳丘両側に造り出しがあり、滑石製の刀子形石製品や籠形土器が出土しているから、造り出し部でも祭祀が行なわれた。
周濠には水をたたえ、今も潅漑用水としての機能を果たしている。航空写真をみると、幅のひろい外堤と周庭帯がめぐつているようすがよくわかる。北・東側に堤を築き、西・南側には同じ幅で周庭帯をめぐらす。
巣山古墳における外堤の存在は、古墳の築造当初から、周濠が潅漑機能を有していたことを物語っているのではないだろうか。
明治時代に後円部の頂上が盗掘され、多くの副葬品が出土した。勾玉、管玉など玉類、鍬形石、車輪石などの石製品、刀子形の滑石製模造品などで、それらは現在宮内庁に収蔵されている。
造り出しがあるので中期古墳との印象をうけがちだが、鍬形石・車輪石なども出土していて前期的色彩も残している。前期末の築造とみてよいだろう。
なお、巣山古墳の外堤北西隅にある佐味田狐塚古墳は、全長86メーールの帆立貝式古墳で、巣山古墳に先行することが判明している。
室宮山古墳
4世紀末から5世紀初頭、奈良盆地西南部の葛城掖上(わきがみ)地域では室宮山(むろのみややま)古墳が築造される。室大墓とも称され、御所市室にある。
滑石製勾玉をくらべると築造時期は巣山古墳よりやや遅れるらしい。
掖上は、葛城川が盆地部に流れこむ一帯にあたるから、葛城川流域といってよい。葛城氏(葛城臣)の本拠となった地域であり、葛城氏の本宗家が5世紀なかばに滅亡してからは、蘇我氏が進出した地域でもある。
全長240メーールの巨大な前方後円墳で、前方部を西に向けている。地形を観察すると、西から東に伸びる丘陵の丘尾を切断して三段に築成しており、桜井茶臼山古墳とともに典型的な丘尾切断型の古墳である。
また墳丘の南および後円部の東北に灌漑用貯水池があり、かつて周濠をめぐらしていたことが明らかである。
明治の末ごろ、前方部から、三角縁神獣鏡一面を含む11面の鏡、滑石製勾玉29個など、大量の副葬品が出土した。
前方部にも埋葬施設が存在した。それは粘土槨であったらしい。
佐紀盾列古墳群に王墓が築造されていた時期に
馬見古墳群に巣山古墳
掖上地域に室宮山古墳
が出現していることが注目されよう。
(和田 萃 大系日本の歴史2 P98-99)