垂れ込めた雨雲の下、伊豆諸島・神津(こうづ)島から小さな島影が見えた。
太古の昔、神津島とつながっていた無人の岩礁群。恩馳(おんばせ)島と呼ばれるこの岩礁の島に、人類史の謎が横たわっている。
恩馳島は、考古学の世界で黒曜石の産出地として知られてきた。
旧石器時代、黒曜石は最先端のハイテク素材だった。ガラス質の黒曜石は、うまく割ると石刃(せきじん)になる。加工すれば鏃(やじり)になる。当時、獲物を狩るための道具は命綱だった。良質な黒曜石を求め、人々はどんな遠征もいとわなかった。
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主な産地は中部日本と北海道、九州。調べると、黒曜石を運んだ距離は時に数百キロに及ぶことが分かった。本州で恩馳島の黒曜石が次々見つかったことは、さらに驚くべき発見だった。旧石器人が海を行き来し、恩馳の黒曜石を本州に運んだということになるからだ。その年代はどんどんさかのぼり、とうとう3万8千年前の遺跡からも出土した。
「はい。船で往復した例としては、世界最古です」
国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介さん(46)が淡々と説明する。
海部さんによると、5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンス(現生人類)が現在のインドネシアから豪州へ海を渡ったのは4万7千年前。が、このときは「渡った」ことしか分かっていない。「行き来した」と「渡った」は全く違う。行き来には航海術がいる。
「加えて面白いのは、日本列島に入って来てすぐに黒曜石を探索しているんですね」
そもそもホモ・サピエンスが日本列島に到達したのが約3万8千年前で、その集団は九州の対馬方面から日本に入った可能性が高いと海部さんはみる。時を置かず、恩馳島の黒曜石が探索、発見されたことになる。
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3万8千年前といえば、ヨーロッパではネアンデルタール人がホモ・サピエンスと共存していたかもしれない時代。寒冷化で海面は今より80メートルも低く、恩馳島と神津島は一つの島だった。しかし他の島とはつながってはおらず、伊豆半島とは40キロ近く離れていた。黒潮の分流が航海を困難にしていた可能性もある。
おそらく1日ではたどり着けなかったであろうその海の道を、3万8千年前の人々はどうやって行き来していたのだろうか。(文・依光隆明 写真・早坂元興)
■今回の道
伊豆半島の南東端にある静岡県下田港と神津島は、直線距離で51キロ。天気のいい日には下田から神津島が見える。現在は神新汽船のフェリー「あぜりあ」が結んでおり、直行便で2時間20分。
海面が低かった3万8千年前の海岸線を海上保安庁の海底地形図から復元すると、当時の神津島―下田は約40キロ。割れば刃物として利用できる黒曜石は、その海を越えて本州に運ぶ価値があった。ルートは神津島から伊豆半島東海岸のどこかだったとみられる。
海の道はいったん途絶えたらしい。黒曜石を研究している沼津市文化財センターの池谷信之さんによると、神津島の黒曜石は3万8千年前~3万4千年前には本州に持ち込まれていた。ところがそれ以降、本州での痕跡はぱたりと消える。再び活発に運ばれるのは1万8千年前から。縄文時代に入ると下田の北、現在の静岡県河津町に集積所を設けて神津島の黒曜石を大量に運び込んでいた。
(e2面に続く)