(古都ものがたり 難波宮跡)学者・山根徳太郎が熱中した調査 執念の発掘、幻の大極殿を見たり
2018年7月12日16時30分
大阪歴史博物館から望む難波宮跡。阪神高速が横切り、高層ビルに囲まれている=大阪市中央区、滝沢美穂子撮影
難波宮跡公園にある難波宮大極殿跡=大阪市中央区、滝沢美穂子撮影
大阪市の中心を東西に貫く阪神高速東大阪線を走っていると、大阪府庁に近い「法円坂(ほうえんざか)」という場所でしばらく、道路は高架から下りて地上を走る。その南に広がる公園は、「難波(なにわ)」が日本の首都だったころ、中心となる宮殿があった場所だ。
645年、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を「乙巳(いっし)の変」で打倒した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)と孝徳天皇は、飛鳥から難波への遷都を敢行。新たに「難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)(前期難波宮〈なにわのみや〉)」が築かれた。683年に副都として再整備されたが、3年後に失火で全焼。726年、聖武天皇が「難波宮(後期難波宮)」を再建し、一時は再び首都となった。
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難波宮はどこにあったのか。長い論争に終止符を打つため、元大阪市立大教授の山根徳太郎らは、1954年から法円坂での発掘調査を始めた。大量の瓦が出土したが、中心的な建物跡はなかなか見つからない。「前期と後期の宮の遺構が同じ場所に重なり、全容解明が難しかった」と、60~80年代に難波宮調査に携わった中尾芳治・元帝塚山学院大教授は振り返る。
山根らは発掘調査を重ねて建物の配置を推定し、61年の第13次調査で、ついに聖武天皇が儀式を行った後期難波宮の中心的施設「大極殿(だいごくでん)」の基壇跡を探し当てた。山根は後に著書「難波の宮」(学生社刊)で、この時の心境を「まさに『われ幻の大極殿を見たり』という気持ちであった」と記している。
山根が難波宮に関心を持つきっかけは、戦前の19年、法円坂の陸軍施設に勤務する建築技師の置塩章(おしおあきら)から、工事で出土した古代の瓦を見せられたことだった。元大阪歴史博物館学芸員の伊藤純は「置塩の文章から、彼に建築史の知識があり、瓦が奈良時代のものと理解していたことがわかる。山根以前に難波宮は法円坂にあったと推定した人物だった」と指摘する。しかし当時、陸軍施設のある地区を調査することは不可能だった。
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終戦後、山根は50年から文部省(当時)に難波宮発掘の研究費を申請、3年目にようやく承認された。古代史ではなく文化史が専門の山根が、なぜそこまで難波宮に情熱を傾けたのか。「戦時中に1年間、中国に留学して都城への関心が高まったこともあるでしょう。しかし、20歳で戦死した長男の分も、何かを成し遂げたいという思いが強かったのでは」と、大阪歴史博物館館長の栄原永遠男(さかえはらとわお)はいう。
その後、難波宮跡は何度も開発による破壊の危機に遭い、そのたびに反対運動の先頭に立つ山根の姿が報道された。73年、彼の死去を伝える記事は「文化財保存に後半生を捧げた」と締めくくられた。=敬称略
(編集委員・今井邦彦)
<山根徳太郎(やまねとくたろう)> 1889年、大阪市生まれ。38歳で京都帝大文学部史学科を卒業。旧大阪商科大やその後身の大阪市立大で教授を務めた。1973年死去。
■ごあんない
難波宮跡は地下鉄谷町四丁目駅から東に徒歩5分。史跡公園として整備され、奈良時代の後期難波宮の大極殿の基壇(土台)が復元されている。
その基壇に立っていた大極殿の内部は、公園の北西に立つ大阪歴史博物館(06・6946・5728、入館料大人600円)の10階に原寸大で再現され、そこから難波宮跡公園が一望できる。フロアには前期・後期の難波宮の復元模型や、発掘調査で出土した遺物を展示。山根徳太郎による宮跡の発見を紹介するコーナーもあり、山根が置塩章に見せられた瓦や、宮跡発見時の新聞記事のパネルなどが並ぶ。
■ぷれぜんと
難波宮跡の発見も紹介された「まんが版 大阪市の歴史」(和泉書院刊)=写真=を抽選で9人に。
http://t.asahi.com/kotoから申し込むか(朝日新聞デジタル会員の登録〈無料〉が必要)、はがきに住所、氏名、年齢、電話番号を書き〒530・8062 大阪北郵便局私書箱526号「山根」係へ。18日必着。