(文化の扉 歴史編)隠れキリシタンの信仰 土着化し神仏と併存、独特の祈り


(文化の扉 歴史編)隠れキリシタンの信仰 土着化し神仏と併存、独特の祈り

2018年4月1日05時00分 朝日

かくれキリシタンとは…<グラフィック・宮嶋章文>
 「かくれキリシタン」と呼ばれる人々がいる。江戸時代の禁教期も信仰を守り、解禁後もそれまでの儀式や慣習を変えなかった。だが、いま私たちが知るキリスト教とは、信仰の中身がかなり異なるようだ。
 1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本でキリスト教の布教が始まる。九州を中心にキリシタン大名が現れ、信者も増えたが、勢力の拡大を恐れた豊臣秀吉徳川幕府は宣教師の追放令や禁教令を出す。弾圧に反発した農民らが1637年に島原・天草一揆を起こすもののほぼ皆殺しにされ、信者は長い潜伏時代を生きることになる。
 明治維新を迎え、1873年に禁教の高札が廃される。カトリックに合流する信者がいる一方で、それまでの信仰形態を手放さない集団がいた。西九州の「かくれ(隠れ、カクレ)キリシタン」と呼ばれる人々だ。今、最も多い生月島(いきつきじま)(長崎県平戸市)で300人ほどとも言われる。
 信徒らは潜伏期から地域ごとにまとまってオラショと呼ばれる祈りを捧げ、独自の取り決めや年中行事を保持してきた。その結果できあがったイメージは、「近世の過酷な迫害をひたすら耐えしのび、神仏崇拝を装いながら信仰の灯をひそかに守り抜いた、敬虔(けいけん)なキリシタン」というものだった。
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 だが、その名称やイメージは実態を映していない、と宮崎賢太郎・長崎純心大客員教授(宗教学)。「なぜなら、(禁教が解かれた後は)彼らは隠れてはいないし、(私たちが考えるような)キリスト教徒でもないのだから」
 確かに、現在の儀式や年中行事に、キリスト教本来の面影は薄い。宣教師のいない年月を刻む中でオラショの神へ捧げる意味や内容は忘れ去られて呪文化し、信仰の形も変化した。
 宮崎さんによれば、その信仰は先祖崇拝や現世利益を求める呪術的な民俗信仰であり、そこにキリスト教の要素はほとんど見当たらない。独自の信仰形態が維持されてきた理由は、先祖代々のしきたりを絶やしてはならないという使命感、さらにはたたりを恐れた面が大きい、というのだ。
 「信仰は土着化し、先祖代々のオラショをただ唱え伝えていくという行為そのものに意味があった。彼らは仏教徒や神社の氏子でもあり、そこにどんな存在かわからなくなったキリスト教由来の神が加わって、ごく自然に併存してきたのです」
 オラショには早く船が港に着くようにとか、怖い道を通るときに唱えるものなど、現世利益を求めた創作さえあるという。
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 では、全く伝来当初の痕跡をとどめていないかといえば、そうでもないらしい。たとえば、オラショの内容は当時刊行された教理の入門書などと共通する部分も多い。
 中世・ルネサンス音楽史の専門家、皆川達夫・立教大名誉教授はかつて、生月島で節をつけて歌われるオラショのルーツを調査した。そして、その一つの原形がイベリア半島の片田舎で歌われていた聖歌だと突き止めた。音楽の持つ生命力に驚き、「絶句しました」と皆川さん。
 平戸市生月町博物館・島の館の中園成生(しげお)学芸員は「宣教師がいなくなったことで、(オラショの文句のように)逆に当初の信仰の形が変化せず、そのまま今日まで伝えられた部分があるのです」と語る。
 忘却と変質を重ねながらも生き延びてきた「かくれキリシタン」社会だが、近年の過疎化や後継者不足で、地区ごとに信仰を支えてきた組織は消滅し、信徒は急激に減っている。
 この夏、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコ世界文化遺産登録をめざす。その行方に注目が集まる一方で、潜伏時代の信仰の面影を今にとどめる「かくれキリシタン」は消え去ろうとしている。(編集委員・中村俊介)
 ■天主堂など、世界遺産めざす
 世界遺産をめざすのは、島原・天草一揆の舞台となった長崎県の原城跡、信徒がひそかに信仰を守った平戸や五島列島熊本県天草の集落など、潜伏時代のキリシタンをテーマにした12の資産だ。
 国宝の大浦天主堂や、禁教が解かれた後、潜伏期以来の信徒らが造った江上(えがみ)天主堂などの教会建築も含まれている。今も信仰を集める平戸市の中江ノ島(なかえのしま)や安満岳(やすまんだけ)といった聖域や、美しい棚田の風景もある。
 <読む> 宮崎賢太郎の『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)と『カクレキリシタンの実像』(吉川弘文館)は従来のイメージを問い直す。中園成生『かくれキリシタンの起源』(弦書房)は民俗学的な視点でそのルーツと実像に迫る。
 ◆「文化の扉」は次回から掲載日が月曜日に変わります。