1801(享和元)年 ~1840年

1801(享和元)年
・伊能忠敬が伊豆半島を測量
・1月28日、幕府、勘定奉行石川忠房・目付羽太正養らに蝦夷地巡視を命じる。
・2月5日、辛酉革命説により享和に改元。
・3月、幕府、伊能忠敬に伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・陸奥の沿岸測量を命じる。
・5月13日、江川英龍 韮山の江川屋敷に生まれる
・5月23日、江戸町人の婦女の髪飾りに、色縮緬の使用が禁じられる。
・5月、浅草と本所の米蔵が増築される。
・6月、富山元十郎ら、ウルップ島に「天地長久大日本属島」の標柱を建てる。
・6月29日、細井平洲没(74)。
・6月、幕府、関東の博徒が減らないため捕縛を命じる。
・6月、幕府、「荒稼ぎ」と称する暴力集団を取り締まり、無宿人2人を獄門に処す。
・7月19日、幕府、百姓・町人がみだりに苗字帯刀することを禁じる。
・7月、幕府、諸大名に命じて出羽国の村山一揆を鎮圧。
・8月、幕府、小野蘭山に甲斐・駿河・伊豆・相模での薬草採取を命じる。
・11月、幕府、学間所より「孝義録」刊行。
・江戸の俳人一鶴堂白英が浦賀・金沢から名越切通を経て鎌倉へ。

1802(享和2)年
 ・1月、十返舎一九『東海道中膝栗毛』初編刊行。
・2月、幕府は、蝦夷地に蝦夷奉行を設置し、奉行に羽太正養・戸川安論 を任命。東北諸藩に警備させる
・3月16日、風邪が流行したため、窮民へ大規模な施銭が行なわれる。
・5月11日、蝦夷奉行を箱館奉行と改称する。
・6月11日、伊能忠敬、幕命により陸奥・出羽・越後の測量に出発。
・7月、幕府、松前藩の東蝦夷地を永久直轄にする
・7月、幕府、出水が多く米価が高騰したため、酒造高の半減を命じる。
・9月4日、幕府、違法行為が多いため、流行の富士講を禁じる。
・10月29日、幕府、前将軍家治の忌日中に遊興した咎で、諸大名の留守 居役60人余を処罰。
・12月14日、幕府、酒造米の10分の1を役米として庶民の救済にあてる。・12月27日、幕府、薩摩藩に琉球からの薬品を藩外に売りさばくことを 禁じ、金1万両を給して琉球への送還を命じる。
・この冬、幕府、近藤重蔵に択捉島の情勢視察を復命。
・この年、小野蘭山『本草綱目啓蒙』完成。
○十返舎一九『東海道中膝栗毛』初編刊。
・12月、(八幡神社)浅間社 別当 覚宝印

1803(享和3)年
 ・閏1月、幕府、長崎で落札した輸入品の売買を京・堺・大坂・長崎・江戸5か所の商人に許可。
・2月5日、幕府、勘定方役人山田大吉に東海道図の作成を命令。
・2月15日、箱館奉行戸川安論、初めて現地に赴く。
・2月25日、伊能忠敬、幕命により遠江・三河・尾張・美濃・近江・越前 ・加賀・越中・越後・佐渡の測量に向かう。
・3月24日、幕府、下野国に御用朝鮮人参栽培を命令。
・5月、幕府、麻疹の流行で多数の死者が出たため、窮民救済を町会所に命じる。
・6月17日、幕府、諸国郡村の名称を調査。
・7月29日、谷中延命院の僧侶日潤、大奥女中との密通の替で死刑となる (延命院事件)。
・7月、アメリカ船、長崎に来航し、貿易をもとめる。幕府拒絶。
・10月17日、前野良沢没(81)。
・10月、幕府、酒造高減少のため規制を解除。
・11月29日、幕府、破魔弓など奢侈な子供遊具の販売を禁止。

1804(文化元)年
・1月5日、高橋至時没(41)。4月3日長男景保、天文方を継ぐ。
・2月11日、甲子革命説により文化に改元。
・4月、幕府、一枚絵・絵草紙の版行を取り締まる。
・5月16日、喜多川歌麿、r絵本太閤記』の挿絵問題で手鎖50日の刑に処される。
・閏5月、喜多川歌麿、入牢50日に処せられる。
・6月1日、幕府、朝鮮通信使を対馬で迎えることにする。
・7月3日、4代目鶴屋南北作『天竺徳兵衛韓噺』、河原崎座で初演。
・7月23日、幕府、寛政の改革期の意見書『植崎九八郎上書』が国政批判にあたるとして、旗本植崎九八郎を下野国壬生藩に預ける。
・8月4日、津軽・南部の両藩に永久蝦夷地警備を命じる。
・9月、ロシア人のレザノフがラクスマンの助言に従い、長崎に来航し、 通商を要求。拒否されたレザノフは、本国への帰途、あちこちを測量したり、略奪を繰り返した。ロシアの膨張政策が日本に及ぶのは時間の問 題となった。
・ロシア皇帝の正式な使者であるレザノフ(41歳)が、軍艦ナジデダ号 で長崎に入港。当然ラクスマンに与えられた長崎入港許可証与を持参し ていた。しかし、軍艦ナジデダ号は、半年以上も長崎港に閉じ込められ、 開国の要求まで拒否された。この時、日本の兵3万8000人が動員されたという説もある。▼・9月6日、将軍家斉、天文方が献上した『日本国中絵図』を観賞。
・9月10日、幕府、伊能忠敬を幕府天文方手付とする。
・9月、幕府、町人の武芸稽古を禁じる。
・10月16日、将軍家斉、駒場野で砲術演習を上覧。
・11月2日、幕府、西35か国の秤を検査。
・11月21日、幕府、さらに7年間の倹約を命じる。
・12月、幕府、最上徳内を輸出海産物調査のため、関東・東海に派遣する。
・馬頭観音(道しるべ)雲性寺前
・芋窪四ッ街道 馬頭観音(東大和市内で最も背が高い 芋窪村講中)
・この年、華岡青洲、全身麻酔の癌手術をする。

1805(文化2)年
 ・1月26日、幕府、ロシア船来航につき諸大名に警戒を命じる。
・2月6日、幕府、唐物抜荷を厳禁。不審荷物・船舶の検査強化。
・2月12日、幕府、長崎梅ヶ崎のレザノブに幕府派遣特使の長崎下向を伝 達。
・2月25日、伊能忠敬、幕命により伊勢・紀伊・山陽・山陰沿岸の測量に 出発。
・3月、幕府、レザノフに通商拒否を通達する
・6月4日、幕府、薩摩藩の要請により金1万両・米1万石を貸与。
・6月、幕府、江戸近郊の農村が荒廃し治安が悪化したため、関東取締出役「八州廻り」を設置。
 関東各地に横行する無宿・悪党の取り締まり、捕縛のため、勘定奉行に直属した。
 幕府領(天領・御料)、大名領、旗本領などの私領、寺社領の区別なく活動(武蔵村山市史下p1116)
 多摩のあゆみ150号p4
・7月16日、幕府、目付遠山景晋らに松前・西蝦夷地の視察を命じる。
・7月27日、幕府、数々の悪事を重ねて伊勢国で逮捕された八丁堀の鬼坊 主清吉を処刑。
・9月、幕府、1万石につき1000俵の囲米を諸大名に命じる。
・10月、与力加藤千蔭、著書『万葉集略解』を幕府に献上。
・11月3日、幕府、米価引き上げのため、御用達商人に米穀の買収を命じ る。
・この年、『熈代勝覧』完成。

1806(文化3)年
 ・1月、幕府、沿海諸藩に防備を厳しくし、難破の異国船には薪水を与え、 穏やかに退去させるように命じる(文化の憮恤令=ぶじゅれい、別名薪水 給与令)。・1月30日、幕府、関東郡代を廃止し、馬喰町御用屋敷詰の代官所を設置。
・2月6日、幕府、米価下落で白米の江戸廻送を禁止。
・3月4日、大火発生(車町火事、丙寅の大火)。
・3月25日、幕府、木材・諸物価の騰貴を禁じる。
・3月、幕府、市中8か所にお救い小屋を設置。
・4月4日、~6日、本所回向院で車町火事による焼死者を供養。
◎5月17日、芋窪村武兵衛 地蔵尊造立
・7月11日、幕府、宗派争論取り扱いの不備により、本願寺光摂ら諸僧を処罰。
・8月、幕府、年貢米の品質が粗悪なため、厳重に取り締まる。
・9月20日、喜多川歌麿没(54)。
・9月22日、幕府、米価下落のため酒造制限を撤廃。
・9月、ロシア船、樺太に来航し、クシュンコタンの松前会所をおそう。
・10月14日、幕府、米価下落のため江戸各所で買米を実施。
・11月23日、琉球からの謝恩使、将軍家斉に拝謁。
・12月12日、江戸上水道が修復される。

1807(文化4)年
・1月、曲亭馬琴作・葛飾北斎画『椿説弓張月』前編刊行。
・2月、芋窪村白山大権現、滝澤明神社、雷大明神社の石碑が建てられる
  ただし、文正元(1466)年10月3日の銘がある。
・3月22日、幕府、東西蝦夷地を直轄地とし、箱館奉行を廃して松前奉行 を設置。松前氏、陸奥梁川に移封。
・4月、ロシア船、エトロフ島のナイボ・シャナを砲撃。
・5月、ロシア人、利尻島に侵入、幕府の船を焼く。
・5月18日、幕府、南部・津軽藩に増兵を命じ、秋田・庄内藩に出兵を命 じる
・6月6日、幕府若年寄堀田正敦らを蝦夷地防衛総督として派遣、奥羽諸 藩兵を北辺守備に配置。
・6月11日、幕府、在府箱館奉行を任地に派遣。
・7月4日、幕府、糧米1万5000石を蝦夷地に廻送
・8月2日、幕府、神谷勘右衛門らに国後島、近藤重蔵らに利尻島の巡視 を命じる。
・8月19日、永代橋、祭りの人出で落つ。
・10月4日、川上不白没(89)。
・10月23日、幕府、先手鉄炮方井上正治に相模・伊豆・房総沿岸の巡視 を命じる。
・10月24日、幕府、箱館奉行を廃し、松前奉行を新設する
◎11月吉日、内堀村・子抱き地蔵尊造立
◎月不明、内堀村 丸彫地蔵尊 秩父、坂東、西国百所供養
・12月幕府、ロシア船の打払いを命じる。
◎この年、浪人取締組合が結成される。浪人の徘徊、合力銭の要求、宿泊禁止対策(東大和市史p195)
 21か村で結成されたとするが村名は次の15か村が知られる
 廻り田村、後ヶ谷村、宅部村、清水村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋久保村、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村、殿ヶ谷村、石畑村、箱根ヶ崎村
◎蔵敷村・太子堂建設
◎三ツ木村に、残堀川助水堀に関わる高札が立てられる(『資料編近世』二〇七)。
 この高札の内容は不明だが、おそらく川に塵芥などを捨てないようにすることなど、川の管理に関する事柄が書かれていたものと思 われる。(武蔵村山市史上p786)

1808(文化5)年
・1月25日、伊能忠敬、幕命により畿内・四国の測量に出発。
・1月、幕府、仙台・会津藩に東西蝦夷地を守備させる。
・2月2日、初代並木五瓶没(62)。
・2月6日、幕府、長崎通詞6人を選び、オランダ商館長ドゥーフからフ ランス語を学ばせる。
・4月9日、幕府、砲台設置のため、浦賀奉行岩本正倫に下検分を命じる。
・4月、松田伝十郎・間宮林蔵ら樺太を探検。
・4月、幕府は、間宮林蔵(34歳)を樺太に派遣した。この時はたまたま暖かく、間宮林蔵は、偶然にも、樺太がシベリアから離れた島であることを発見した。樺太とシベリアとの間の海峡を間宮海峡というのは、そのためである。
・6月、幕府、米価高騰による窮民救済のため、旗本に借米を許可。
・8月15日、イギリス船フェートン号、長崎に来航、オランダ商館の引き 渡しを迫る。
  オランダ国旗を掲げた船が長崎港に入ってきました。ベリュー大佐が率 いるイギリス軍艦フェートン号です。入港すると、すぐに、オランダ国 旗を降ろして、イギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて長崎港内を検 索しました。
  この軍艦をオランダ船と勘違いしたオランダ商館員らが出迎えにいって、 逆に捕えられました。オランダ商館長のズーフは、身の危険を感じて長 崎奉行所内に避難しました。長崎奉行の松平康英は、フェートン号を焼 き討ちしようとしました。しかし、長崎警衛の守備兵が150人だった ので、焼打ちは断念しました。
  16日、フェートン号のベリュー大佐は、オランダ人1名を釈放して、食料と水を要求しました。長崎奉行の松平康英は、要求を入れて、食料や水を与えました。
  17日、フェートン号のベリュー大佐は、残りのオランダ人を釈放し、長崎港を立ち去りました。その後、責任をとって長崎奉行の松平康英は、自害しました。
・9月、幕府、長崎の砲台を修築。
・11月10日、幕府は、鍋島藩主の鍋島斉直を、長崎警備怠慢として、 100日の蟄居を命じた。
・12月18日、幕府、南部・津軽の両藩に蝦夷地警衛を命じ、加封して家 格を上げる。
・12月、幕府、江戸2組の薬種問屋以外の薬種直荷引き受けを禁じる。

1809(文化6)年
・1月、幕府、松前・津軽沿岸に峰火台を設置。
・1月、幕府、江戸伊勢町に米商会場を設立。
・1月、式亭三馬『浮世風呂』前編刊行
・2月25日、幕府、オランダ通詞にロシア語・英語を習得させる。
・2月29日、菱垣廻船十組問屋、永代橋・新大橋・大川橋(吾妻橋)の普請 を引き受け、三橋会所を設立。
・2月、幕府、三大橋の渡橋銭徴収を廃止。
・2月、『徳川実紀』の編纂が開始される。
・3月16日、幕府、江戸絵図改正のため屋敷名の提出を命じる。
・6月21日、桂川甫周没(56)。
・6月、幕府、樺太を北蝦夷地と改称。
・7月、間宮林蔵、東華達鞘(黒龍江地方)を探検、間宮海峡を発見する。
・8月27日、伊能忠敬、幕命により九州沿岸の測量に出発。
・9月21日、小姓組大草公弼、新編「南山巡狩録」を幕府に呈上。
・9月、廻り田村、昨年来の不作救済のため、小前21人に1人5斗ずつ、合計10石2斗8升5合を5か年賦で貸与(東村山市史上p803)
◎10月15~17日、円乘院、入佛供養は文化六巳年十月十五日より十七日迄法如上人を講じ士砂加持大施餓鬼を修行す。(此法如上人は後澁谷室泉寺にて寂し同寺に墓あり)(狭山之栞)
・11月11日、幕府、朝鮮通信使来聴のため、対馬藩に3万両を貸与。
・12月1日、有栖川宮織仁親王の娘楽宮、将軍家斉の世子家慶に降嫁。
・芋久保村慶性院住職が薩摩織りの前掛け切れを持ち帰り、荒畑五郎兵衛 の妻シモが模織りを試み村山絣を創始した。(武蔵村山市史民俗編p221)

1810(文化7)年
 ・1月27日、小野蘭山没(82)。
・2月26日、白河・会津両藩に相模・安房の海岸に砲台を築かせる。
・3月、天文方高橋景保、「新訂万国全図」を作成。
・4月、幕府、伊勢国山田発行の銀札を1年間で新札に交換することを命 じる。
・5月18日、幕府、湯屋惣代の願い出により湯屋組合の結成を許可。
・6月、幕府、西国で福井作右衛門の印のない枡の使用を禁じる。
・9月、幕府、諸国に河川の凌漢を命じる。
・9月、幕府、薩摩藩に長崎会所での琉球貿易品売りさばきを許可。
・10月、幕府、豊作のため諸大名に籾1万石につき1000俵、米500俵の 囲籾を命じる。
・11月、幕府、貯米を口実に金銀の流通を滞らせることを禁じる。
・この年、杉田玄白・前野良沢、参府したオランダ商館長ドゥーフと学校 教導法などについて問答。

1811(文化8)年 
 ・2月13日、村田春海没(66)。
・3月1日、幕府、諸役に節減・倹約の意見書提出を命じる。
・5月22日、幕府、朝鮮通信使を対馬で応接する〔通信使の最後となる〕
・5月、幕府、天文方に蛮書和解御用掛を新設。大槻玄沢ら『厚生新編』 の翻訳を始める。
・6月、ロシア艦長ゴローブニンをクナシリで捕える。
・ロシア海軍のディアナ号の艦長ゴローウニン少佐らは、南千島にやって 来て測量し、国後島に上陸して水と食料を要求しました。日本守備隊は、 先年、日本を攻撃した仕返しとして、それに応じるふりをして油断させ、 ゴローウニンら7人と通訳1人を捕まえ、松前に監禁しました。ディア ナ号の副艦長だったリコルド少佐は、上司の指示を仰ぐために、ロシア 海軍基地のオホーツク港に一度帰りました。
・8月幕府、入れ墨を禁じる。
・11月25日、伊能忠敬、幕命により屋久島・種子島・九州北部の測量に 出発。
・12月15日、幕府、翌年から5年間の倹約を命じる。
・12月18日、幕府、自普請を奨励するため、諸国河川国役普請の出願を 制限。
・12月25日、幕府、対馬藩に朝鮮通信使礼聴に対して恩賞を与える。
・この年、江戸の三橋会所、米価引き上げのため江戸と大坂で大量の買米 を実施。
・この年、雷電為右衛門、引退。

1812(文化9)年     
・1月、幕府、諸経費の2割以上の節約を命じる。
・3月11日、市村座で無銭見物の鳶の喧嘩が発生。芝居出方2人、死罪と なる。
・6月24日、幕府、村を俳徊する浪人の取り締まりを厳重にする。
・7月4日、幕府、朝鮮通信使来聴の功績などで対馬藩に20年間、毎年金 2500両を下賜。
・8月、高田屋嘉兵衛、クナシリ島沖でロシア船に捕えられる。
・リコルドは、捕虜の五郎次や漂流した日本人を連れて国後島へやって来 ました。しかし、人質の五郎次は逃亡してしまいました。そこで、リコ ルドは、国後島の近くを通過していた観世丸を拿捕し、高田嘉兵衛ら5 人と通訳のアイヌ人を人質としてカムチャツカのペトロパウロフスクへ 連行しました。
  リコルドは、英明な高田屋嘉兵衛の進言を受け、箱館に上陸しました。 外交手段によって、日露に間に和議が成立し、ゴローウニンら8人は直 ちに釈放されました。
・10月、幕府、豊作のため諸大名の江戸・大坂廻米を例年より2割減少さ せる。
・11月27日、幕府、組合仲間以外が古銅を買い取り真鍮に吹き直すこと を禁じる。
・12月、『寛政重修諸家譜』1530巻完成。
・この年、幕府、東蝦夷地で場所請負制を実施。
・この年、全国的に豊作で米価下落。大坂では越年米高が316万俵にも及 ぶ。

1813(文化10)年     
・1月、幕府、馬場佐十郎・足立左内を松前に派遣し、ゴローニンからロ シア語を学ばせる
・3月29日、幕府、菱垣廻船十組仲問65組l195人に株札を交付する。
・4月、江戸伊勢町に三橋会所経営の米会所を設立する。
・5月、リコルド、クナシリ島で高田屋嘉兵衛を介して、ゴロウニンら釈 放の交渉を始める。
・7月5日、蒲生君平没(46)。
・7月、幕府、米価下落のため諸大名に囲米を命じる。
・7月、幕府、鴻池善右衛門ら大坂商人41人に御用金を命じる。
・9月1日、幕府、米価下落のため江戸への廻米を制限する。
・9月26日、幕府、高田屋嘉兵衛とゴローニンを交換、リコルドにゴロー ニンを引き渡す。
・9月、幕府、銭価下落のため江戸への銭の廻送を厳禁。
・12月14日、尾藤二洲没(67)。
・12月22日、幕府、南部藩に蝦夷地警衛の費用1万両を貸与。
・この年、式亭三馬「浮世床」初編刊行。

1814(文化11)年     
・2月3日、天文方高橋景保、書物奉行を兼任。
・6月、幕府、和・唐薬問屋以外での薬種取引禁止をさらに制限。
・6月、幕府、2年前と同様、諸大名に大坂廻米を例年より2割減少させる。
◎7月吉日、奈良橋村・清水吉兵衛母 地蔵尊造立
・8月15日、幕府、蒲原・岩船両郡騒動の首謀者らを江戸に送還。
・9月、幕府、年貢米・大豆を代金で納める場合、勝手に相場を変えない よう命じる。
・閏9月、滝沢馬琴『南総里見八犬伝』初輯を刊行する。
・10月、幕府、箱館・松前以外の蝦夷地守備兵を撤兵させる
・12月、幕府、鉛の価格下落のため鉛の銅座買い付けを停止。
・この年、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』初編刊行。
・この年、幕府、徳島藩の藍を蔵物として公認し、専売とする
・この年、拝島村に、「家筏分散つかまつり」の状況起こる。臼井文書

1815(文化12)年     
・2月17日、幕府、たびたび禁止令が出ている高利貸貸借を改めて禁じる。
・3月、司馬江漢『西遊日記』完成。
・4月27日、伊能忠敬、幕命により測量隊を伊豆七島に派遣。
・4月、杉田玄白『蘭学事始』を著わす。
・清水大日堂 角柱塔(大久保家)
・3月、新編武蔵風土記稿の調査者として千人頭(八王子)原半左衛門およ び聖堂(湯島)出役筒井恒蔵らが、武蔵村山市中藤十王堂を調査(「狭山之 栞」)
・5月3日、幕府、蒲原・岩船両郡騒動の首謀者らに処罰を言い渡す
・5月14日、森山孝盛没(78)。
・5月21日、鳥居清長没(64)。
・7月17日、幕府、朝鮮の飢饉と輸入米滞りにつき、米1万石を対馬藩に 下賜。
・9月、幕府、豊作による米価下落を防止するため、諸大名に大坂べの廻 米を制限。
・11月、幕府、諸大名に囲米を命じる。
・12月6日、幕府、朝鮮からの書簡に改竄(かいざん)の跡がみられると して対馬藩家老らを処罰。
・12月、幕府、武家屋敷での賭博を禁じる。
◎12月、高木村平左衛門母 地蔵尊造立
・この年、朝顔の栽培が流行

1816(文化13)年     
・2月16日、幕府、諸国の人口調査
・2月18日、倹約令の期間満了
・2月、幕府、忠孝を説くという条件付きで落語・昔物語を許可。
・2月、幕府、武家屋敷内などでの賭博禁止令厳守を命じる。
・3月、浪人者取締まりにつき組合十か村議定書 芋久保村、宅部村(武蔵村山市史資料編近世p529)
・3月18日、喜寿亭尚歯会、開催。
・4~8月疫病流行、死者多数。
・5月、幕府、信濃国4陣屋に悪党取締出役を設置する。
・6月、隠居松平伯耆(ほうき)守の放蕩を諌めた家老、逆に斬りつけら れたため、隠居を刺殺して自殺。世間から忠臣と賞される。
・閏8月10日、幕府、風雨後の暴利取り締まりを市中に命じる。
・9月7日、山東京伝没(56)。
・9月19日、幕府、朝鮮からの入送品滞りのため、対馬藩に米1万石を下 賜。
・9月、幕府、年貢の不足米を正米で納入するよう幕領に命令。
・10月2日、寛政の改革で幕政を補佐した勝手掛老中牧野忠精、病気で辞 職。
・12月、幕府、倹約年限の終了を大名・旗本に通達する。
・この年、武陽隠士『世事見聞録』完成。

1817(文化14)年     
・1月、幕府、倹約令の期間が終わるが、以後も節約すべきことを諸大名 に布達。
・2月28日、幕府、朝鮮との応接の功労で、対馬藩に2万石の領知を加増・3月28日、幕府、屋敷売買に際して争論が多いため、沽券状の管理徹底 を命じる。
・4月17日、杉田玄白没(85)。
・5月3日、古賀精里没(68)。
・5~7月、諸国で大旱魃発生。
・6月、清水村地頭浅井楯之助が清水村名主に、頼母子講の出金を申しつける。
    これを機に地頭と名主の出入りがおこる。(五十嵐民平考p65)
・8月29日、寛政の改革後を主導した松平信明没(58)。
・9月10日、唐津藩主で奏者番の水野忠邦、寺社奉行に昇進。14日には浜 松藩に転封。
・9月12日、神田向柳原にある町会所の籾蔵が増築される。
・9月27日、イギリス船、浦賀に来航。
・10月、常陸国の幕領の百姓、代官の暴政を江戸に直訴
・10月28日、オランダ商館長ドウーフ、新任のコック・ブロンホフに交 代
・11月3日、オランダ商館長ドウーフ帰国。
・この年、幕府、近江国大津の商人に御用金を賦課。

1818(文政元)年     
◎1月、清水村で名主役休役願出される(民平考p60)
・2月7日、幕府、鎌倉に設置した大砲を試射。
・4月、諸役人に3年間の経費節約を命じる。 
・4月16日、幕府、貨幣の品位を落として利益を得るため、真文二分判金 を新しく鋳造。(文政貨幣改鋳)
・4月18日、伊能忠敬没(74)。
・4月22日、仁孝天皇即位により文政に改元。
・4月29日、幕府、3年間の経費節約を命じる。
・5月、イギリス人ゴルドン、浦賀に来航し貿易を要求するが、幕府これ を拒絶。
・6月、大槻玄沢・字田川玄真ら、オランダへの西洋新薬注文を幕府に建 議
・8月2日、沼津藩主水野忠成、西丸側用人兼任のまま老中となる。
・9月26日、「江戸朱引内図」が作成される
・9月、幕府、流通している古分銅の取り上げを命じる。
・10月21日、司馬江漢没(72)。
・12月12日、幕府、本田畑でみだりに甘庶を栽培することを禁じる。
・12月、幕府、近江国大津の富裕な商人に御用金を賦課、
・12月、大和吉野郡で竜門騒動おこる。
・この年、三橋会所の頭取杉本茂十郎、十組問屋の冥加金流用に失敗。
・この年、渡辺畢山『一掃百態図』完成。

1819(文政2)年     
・1月25日、幕府、浦賀奉行を1人増やし2名とする。
・閏4月20日、幕府、京・江戸・大坂・伏見4か所以外での真鍮製造を認 める。
・6月11日、幕府、口論・打ちこわしなどの徒党を禁じる。
・6月16日、幕府、会所経営を破綻させた十組問屋頭取杉本茂十郎を罷免。 25日、三橋会所・伊勢町米会所を廃止。
・6月30日、幕府、金貨を使いやすいようにするため、草文小判・一分判 を鋳造。
・6月、幕府、油問屋株を整備したため、日本橋本船町の油会所を廃止。
・7月8日、幕府、米価下落のため、諸国に物価の引き下げ令を出す。
 この夏、幕府、浅草橋に銀座吹立所を設置。
・9月、将軍家斉の11女浅姫、福井藩主松平仁之助に入輿。
・10月7日、幕府、江戸鉄砲洲の島方会所以外での伊豆諸島の産物交易を 禁止。
・この年、塙保己一『群書類従』正編刊行。
・12月、小林一茶『おらが春』できる。
◎清水村地頭浅井楯之助の乱行事件終結(五十嵐民平考p68)
  浅井氏の石高  宅部郷清水村   326石  日野領中和田村   99石1斗  下田村 150石5斗 寺方村  29石3斗 計 604石9斗

1820(文政3)年     
・3月21日、幕府、江戸2組の薬種問屋以外の上方・在方からの薬種直引 き受けを禁止。
・4月26日、幕府、金座以外での金箔などの売買を禁じる。
・4月、幕府、米市場での不正取り引きを禁じる。
・6月28日、幕府、銀貨が古くなったため、新文字銀を鋳造。
・6月、幕府、馬喰町御用屋敷などの貸付金滞納分の利子を引下げる。
・7月20日、幕府、新文字銀の通用を開始。
・7月27日、幕府、佃島で大砲・昼夜合図の火術演習を実施する。
・10月8日、幕府、さらに3年間の倹約を命じる。
・10月11日、幕府、江戸での俳譜・諸芸などの会合を取り締まる。
・12月22日、本多利明没(78)。
・12月28日、幕府、会津藩の相模沿海警備を免除。
・12月、幕府、浦賀奉行内藤正弘に相模沿海警備を命じる。
・八王子千人頭上田孟縉が武蔵名勝図絵を昌平黌に献上(武蔵村山市の板碑 p9)

1821(文政4)年     
・1月、幕府、大名以下の所領村替願いの提出を禁じる。
・2月30日、幕府、「ダンボ風」という名の風邪が流行したため、窮民救 済の米銭を支給
・4月、幕府、銀座以外での銀売買を禁止。
・5月、幕府、新金銀の通用を奨励。
・7月10日、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』『同実測録』完成、幕府 に献上。
・8月、塙保己一編『群書類従』続編完成。
・8月、代官手代の不正を粛正
・8月、後ヶ谷村村鑑明細帳(町史研究4p46)
  当村之儀者浅井吉太郎様御知行所同州同郡清水村並びに中村小太夫様御支配所同州同郡宅部村者古来当村枝郷二而右両村田畑民家山共二一同入交一村同様二御座候
・閏8月9日、両国広小路で酪駝の見世物が出る。
・9月12日、塙保己一没(76)。
・9月、蔵敷村草損御見分書上帳(東大和市史p201)
・10月、川越藩前橋領分門訴一揆起きる。
・12月、幕府、東西蝦夷地を松前氏に返還。
・10月、相馬大作と改名して江戸に滞在していた下斗米秀之進、幕吏に逮 捕される。
・11月27日、幕府、真鍮四文銭を増鋳。
・12月4日、幕府、南部・津軽両藩の蝦夷地警備を廃止する
・12月7日、幕府、東西蝦夷地を松前藩の支配に戻し、松前奉行を廃止す る。
・この年、幕府、荷物貫目改所を内藤新宿と甲府柳町に設置

1822(文政5)年     
・閏1月1日、八丁堀の道心者篤承、100歳になった祝いに奉行所から手 当を支給される。
・閏1月6日、式亭三馬没(47)。
・2月16日、幕府、全国の人口調査を実施。
・2月、唐人踊りが禁じられる。
・3月1日、将軍家斉、従一位左大臣に任命される。
・3月、後ヶ谷村村入用(町史研究4p49)
・4月、イギリス捕鯨船、浦賀に来航し薪水を要求。
・5月4日、幕府、役人を浦賀に派遣し、イギリス船に・薪水の供給・交 易禁止を伝達。
・7月、幕府、灯油をみだりに製造することを禁じる。
・7月、幕府、兵庫菜種問屋と西宮灘目油江戸直積廻間屋を廃止。
・8月29日、幕府、下斗米秀之進を死刑に処す(34)。
・8月、流行している投扇遊びが禁じられる。
・8月、幕府、関八州の鑓・長刀などの研ぎ師に、職務に励むよう命じる。
・8~10月、西国にコレラ流行する。
・11月、幕府、水鳥問屋以外での水鳥商売を禁止。
・12月27日、龍吐水の活用や野次馬の禁止など、名主に火事場を取り締 まるよう命じる。
・この年、十返舎一九「東海道中膝栗毛」完結。
・この年、八百善『江戸流行料理通』初編刊行
・この年、拝島村にて、「溢水にて田方残らず川欠にまかり成り」の状況起こる。臼井文書
・蔵敷村にて78人の飢人発生、稗12石9と斗6升の施穀を実施(東村山市史上p804 文政里正日誌)
・廻り田村でも諸作物が不熟、収納率悪化、飢餓農民が発生(東村山市史上p804 文政里正日誌)

1823(文政6)年     
・2月9日、歌舞伎役者や浄瑠璃語りなど、虚名で旅することが禁じられ る。
・2月20日、幕府、二朱銀の改鋳を命じる。
・2月25日、幕府、桑名藩の房総沿岸警備を免除。
◎3月5日、杉本家火災、西楽庵地蔵堂焼ける。杉本家代代の墓あり (狭山之栞)
・3月24日、幕府、白河藩・桑名藩・忍藩の三方領知替を実施。
・4月6日、大田南畝没(75)。
・4月14日、幕府、道中通日雇宿を禁止し、六組飛脚仲間に加入させる。
・4月22日、幕府、房総代官森覚蔵に房総沿岸警備を命じる。
・4月22日、西丸書院番松平外記、雑言悪口を言った同僚の本多伊織らを 江戸城殿中詰所で殺傷して自殺(西丸騒動)。
・5月、摂津・河内1007村、木綿売捌きにつき国訴をする。
・6月、紀伊に百姓一揆おきる。
・7月、オランダ商館医師ドイツ人シーボルトが出島に着任。摂津・河内 ・和泉1307村、菜種売買自由を要求して国訴をする。
・9月、幕府、さらに5年間の倹約を命じる。
・10月、幕府、暦屋以外での暦などの版行を禁止。
・12月25日、大火発生。
・この年、幕府、江戸地廻米穀問屋の抗議で、内藤新宿の米穀問屋10軒の組合加入を命じる。
・浦賀にイギリス船入港?
・この年、江川英龍旗本北条氏征の娘と結婚

1824(文政7)年      
・1月、幕府、被災した窮民に米銭を支給。
・2月6日、幕府、南鐐二朱銀を改鋳。3月から通用開始(文政二朱銀)。
・5月18日、幕府、新しく文政一朱金を鋳造。7月から通用開始。
・5月27日、幕府、商品の代金不払いなど、商売の邪魔をする無頼者の取り締まりを実施。
・5月、江戸雑穀問屋、地廻米穀問屋仲間に加入。
・5月、文政一朱金を鋳造。イギリス捕鯨船員常陸大津浜に上陸し、水戸藩これを逮捕。
・英米の捕鯨船が、日本近海に出没し、あちこちの港で、薪水と食料を要求する。
・摩藩の宝島でイギリス捕鯨船員が、暴れるという事件が発生した。
・田原藩の家老である渡辺崋山(32歳)は、外国事情に関心をもち、高 野長英・小関三英・鷹見泉石・江川坦庵ら洋学者とも交わり、来日した オランダ甲比丹から世界の状勢を知った。その後、外国事情に精通 する第一人者となった。
・6月16日、幕府、イギリス捕鯨船に退去を命じる。
・6月、幕府、料理茶屋などでの売春を取り締まる。
・7月2日、幕府、河岸地使用者に冥加金を賦課。
・7月11日、幕府、水戸藩が逮捕したイギリス捕鯨船員の釈放を命じる。
・7月12日、幕府、火事場での口論禁止など町火消を取り締まる。
・閏8月19日、幕府、蒟蒻問屋25人に問屋株を許可。
・閏8月、幕府、木戸の取り締まりや夜警を奨励する盗賊警戒令を出す。
・9月15日、幕府、諸国河川の修築は各領主が行なうよう命じる。

1825(文政8)年     
・1月7日、初代歌川豊国没(57)。
・1月、幕府、西国において、自家製以外の灯油製造を禁じる。
・2月11日、雷電為右衛門没(59)。
・2月18日、幕府、占金銀の交換を7月限りとする。
・2月18日、幕府、異国船打払令(無二念打払令)を発令。
・外国船との対応に嫌気が差したのか、幕府は、異国船打払令というとん でもない法律を出しました。別名無二念打払令といいます。異国船とは 清とオランダの船以外の国の船をさします。無二念の念とは想うという ことです。つまり、「ああだろうか、こうだろうか」と想うことなく、打 ち払えと言うのです。将軍徳川家斉の時代です。
・2月20日、幕府、湯屋での盗難警戒令を出す。
・2月、子供に流行していた遊具「琵琶の津軽笛」が禁じられる。
・3月、幕府、竹木・薪炭商人を524人に制限し、私的な売買を禁じる。
・5月、イギリス船陸奥沖に来航。
・7月18日、幕府、新金銀の引き換えが進まないため、古金銀の通用期限 をさらに延長。
・7月26日、鶴屋南北『東海道四谷怪談』江戸中村座で初演。
・9月、幕府、オランダ船に「日本通商」と書かれた標旗掲揚を命じる。
・11月10日、幕府、借金の示談不成立に際し、旗本・御家人に蔵宿への 乱暴を禁じる。
・12月29日、幕府、酒造株をもちながら休業している者の酒造を禁じる。
・この年、将軍家斉、三河島植木職伊藤七郎兵衛に命じ、庭園「浩養園」を築造。
・馬頭観音 蔵敷邑講中 馬頭観音講の存在をあらわす

1826(文政9)年     
・2月、幕府、古金銀の通用期限を翌年正月まで再び延長。
・3月25日、オランダ商館長が将軍家斉に拝謁、シーボルトも随行。
・4月9日、天文方高橋景保、シーボルトを訪問し、「大日本沿海輿地全図」 などと外国書との交換を約束。
・5月9日、幕府、強盗多発で、治安の取り締まりを強化する。
・5月22日、近藤重蔵の長男富蔵、下渋谷村で隣家の百姓一家を皆殺し。 幕府、重蔵を改易、富蔵を八丈島に流罪とする。
・6月16日、幕府、武家屋敷を町人らに貸与することを禁じる。
・9月28日、幕府、無宿者・百姓・町人らの長脇差携帯を厳禁。
・10月6日、幕府、近藤重蔵を近江国大溝藩に預ける。
・11月23日、大坂城代水野忠邦、京都所司代に就任。
・この年、地震多発。
・この年、門訴一揆で永牢中の東善養寺村八右衛門『勧農教訓録」三巻を 著す。

1827(文政10)年
・この年、江川英龍が江戸の刀匠・荘司直胤に入門(27才)
・2月、勘定奉行「御改革」仕法出す。関東取り締まりのため寄場組合の設置の触れ(文政改革)。
 多摩のあゆみ150号p9
・2月20日、徳川(一橋)治済没(77)。
・2月、幕府、治安維持を強化するため、関東全域に改革組合村をつくる。
・3月18日、家斉、太政大臣に任じられる。
・3月20日、幕府、文政8年の酒造制限を解除。
・3月30日、大槻玄沢没(71)。
・3月、幕府、倹約令を出す。
・5月21日、頼山陽、『日本外史』を松平定信に呈上。
・5月26日、幕府、衣装華美の禁を犯した芸妓ら22名を処罰。
・7月29日、婦女・医師以外の日傘使用が禁じられる。
・8月22日、関東取締出役 取締筋改革のため、組合村結成を命ずる
 治安の乱れから、幕府は中心になる村を「寄場」とし、周辺のいくつかの村を集めて組合としてまとめた。
 関東取締出役を置いて広域的に取り締まりをする基盤とするためであった。これを「寄場組合」という。
・8月23日、所沢名主宅に集まり趣旨の説明を受け試案作成に入る。9月4日、14日に協議。
 当初は、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水村で小組合を結成する案であった。
 認められず、親村、寄場を所沢とする所沢寄場組合案を決定、東大和地域は蔵敷村組合として属し、芋窪村は拝島組合に所属する案が決まった。文政12年(1829)3月、議定書作成。
・10月14日、幕府、幸橋御門外に大的稽古場をつくる。
・10月27日、幕府、江戸芝居三座の座元・役者に衣装の華美禁止などを 命じる。
・10月、農間余業調査が実施された(東村山市史資料編近世2p399)
・11月、小林一茶没(65)。
○薩摩藩、財政改革に着手。
 江戸本郷加賀藩邸に赤門完成。
・「文政改革」により無宿者取り締まり、農間余業取り締まり

1828(文政11)年     
・2月16日、幕府、諸国に人別帳の提出を命じる。
・3月11日、三味線弾きの名目で、品川宿に江戸町方の女を置くことが禁 じられる。
・4月、幕府、関東諸村の若者仲間の取り締まりを強化。
・5月23日、幕府、代官寺西元栄に陸奥国半田銀山開山の功績で恩賞を与 える。
・8月29日、江戸三座の座元、役者20人の奢修などを町奉行に告発。
・8月、帰国予定のシーボルトの荷物の中から多数の禁制品が発見される
・10月10日、高橋景保、国禁の図書をシーボルトに与え捕えられる。
・10月15日、幕府、江戸三座の座元と役者に取締方議定証文に違反しな いよう申し渡す。
・11月23日、京都所司代水野忠邦、西丸老中に昇進。
・11月29日、酒井抱一没(68)。
・11月、幕府、二分判金不足のため、吹き増しと極印の「文」の字を草書 に改めることを命じる(草文二分判金)。
・11月、江戸地廻米穀問屋、仲間規約を改正して統制を強化。
・12月、岩崎灌園『本草図譜』完成。
・この年、幕府、紀州藩に江戸米立会所の設置を許可する。
・5年間の倹約令を再令。
・新編武蔵風土記稿調査完了(武蔵村山市の板碑p9)
・12月、幕府、シーボルトを出島に幽閉し、高橋景保ら38名を投獄する〔シーボルト事件〕

1829(文政12)年
・1月、柳亭種彦『修紫田舎源氏』初編刊。
・2月16日、シーボルト事件で投獄された高橋景保、獄死(45)。
・3月21日、神田佐久間町の材木小屋から出火(己丑の大火)。
・3月、組合村々取締方其外議定連印書付作成
・4月、拝島村組合村高取調帳 芋窪村474石6升7合  (武蔵村山市史資料編近世p533)
・5月13日、松平定信没(72)。
・6月24日、幕府、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造。
・6月、幕府、大火の焼土を使い、神田龍閑町から元岩井町にかけて火除 土手を築造。
・6月、赤痢流行、死者多数。
・8月、幕府、大火後の材木高騰により、在方からの直売を禁じる。
・9月、シーボルトに帰国命令、再入国を禁じる。
・11月27日、4代目鶴屋南北没(75)。
・11月、旗本園芸家水野忠暁、『草木錦葉集』を刊行(園芸ブーム)。
・12月13日、幕府、シーボルトに葵の紋入りの羽織を贈った咎で、眼科 医土生玄碩・玄昌父子を入牢。
・12月、幕府、僧侶の破戒を戒める。
・この年、深川船橋屋の羊羹が名物となる。
・この年、深川熊井町の「翁そば」が名物となる。
・この年、両国の与兵衛寿司が人気となる。
・この年、長州藩、産物会所を設置する。

1830(天保元)年     
・3月23日、将軍家斉、江戸城吹上苑で相撲を上覧。
・3月、幕府、江戸市中消防のため、龍吐水・水鉄砲の用意を命じる。
・閏3月2日、縁日のときなど、路上での賭事が禁じられる。
・3~8月、伊勢御蔭参り流行。
・8月5日、「己丑の大火」による焼土で、築地の先の海が埋め立てられる。
・この夏、「三日コロリ」といわれた風邪が流行。
・9月23日、年寄・同心への贈答・供応が禁止される。
・10~12月、畿内で御蔭踊り流行。
・12月10日、京都大地震を忌んで天保に改元。
・12月、水戸藩主徳川斉昭、藩政改革に着手。
・この年、薩摩藩、三島砂糖惣買入を始める
◎天保年間(1830~1844)、狭山円乘院前続きの山で板碑発見。中世、円乘 院を含めて周辺は板碑が祀られていた地域か?1316から1490年まで17 基を発見、霊性庵に祀る
・天保年間に農民眞野三右衛門宅地続きの前山を開拓せる時掘り出したる 処に立置きたるものにて外に刀一本鋸一挺出でたるも盗まれてなし。(狭 山之栞)

1831(天保2)年     
・1月8日、幕府、江戸市中の地借・店借の寺社・修験・陰陽師を調査。
・1月、代官田口五郎左衛門は代官就任にあたって法度を出した。(東村山 市史資料編近世2p555)。
・2月6日、町会所、米価高騰で窮民27万8000人へ施米を実施。
・2月27日、幕府、俵物(煎海鼠)の密売を禁止。
・3月、隅田村名主坂田三七郎、隅田堤に桜の木を植える。
・3月、大坂町奉行新見正路、安治川口を凌喋して天保山を築く。
・4月18日、幕府、百姓・町民の葬式・墓石に制限を加え、院号・居士号 の使用を禁じる。
・5月9日、将軍家斉、天地丸で深川から芝浦・品川を遊覧。
・5月、寺門静軒『江戸繁昌記』執筆開始。
◎6月2日、清水・緑川家 地蔵尊造立
・6月、近江商人小林吟右衛門、日本橋に呉服・木綿商「丁吟」を開店。これに対抗して越後屋、店舗を改装。
・7~11月、長州藩領に打ちこわしおこる(防長大一揆)。
・8月7日、十返舎一九没(67)。
・10月29日、幕府、松前藩主松前章広を万石格とし、辺境警備を厳重にさせる。
・11月、幕府、諸国総石高調査のため郷帳の提出を命じる。(日野市史通史編二(中)p113 では12月)
・この年、葛飾北斎『冨嶽三十六景』完成
・外国船が東蝦夷地に来航、警備していた松前藩が発砲
・南無仙元大菩薩(奈良橋八幡神社境内)願主 岸 勘助

1832(天保3)年     
・1月、為永春水『春色梅児誉美』初編刊行。
・3月、7代目市川団十郎、『助六』『勧進帳』などを収録した刷り物「歌舞 伎狂言組十八番」を配布。
・5月8日、鼠小僧次郎吉、松平忠恵邸で捕縛。8月19日、市中引きまわ しのうえ獄門(36)
・9月、小石川養生所で、病人や役人の規律を正す改革が実施される。
・10月4日、幕府、天保二朱金を鋳造(金の含有率は30%弱)。
・11月、町会所、風邪流行で窮民30万6000人へ施米を実施(窮民は江戸 町人総人口の56%にあたる)。
・閏11月4日、琉球からの謝恩使、将軍家斉に拝謁。
・この年、渡辺畢山、町医者高野長英の呼びかけで「尚歯会」結成。佐藤 信淵・江川英龍・川路聖護らも参加。
◎清水村で百姓一揆(民平考p59)

1833(天保4)年     
・1月15日、島津重豪没(89)。
・7月16日、幕府、米価高騰で米の他国搬出を禁止。
・7月、幕府、一朱銀を鋳造し、一朱金の通用を禁じる。
・8月13日、幕府、市中米穀払底につき蔵米払い下げ。
○諸国飢饉(天保の飢謹はじまる)。
・8月、兵庫・青森などで米価謄貴につき打ちこわしおきる。
  幕府、江戸の米穀払底のため蔵米を払いさげる。
・9月11日、町会所、窮民べ施米を実施。
・9月28日、米価高騰で窮民が暴動を起こす。
・9月、幕府、諸大名に江戸・大坂への廻米を奨励し、素人売買を認める。
・9~12月、江戸・大坂・小浜・広島など全国各地で米価高騰 米買占めに反対して打ちこわしがおきる。
・9月、播磨国で播州一揆が起きる。この年から、天保の大飢饉始まる (~一八三九)。
 全国で百姓一揆・打ちこわしが起きる。
・10月、幕府、江戸の貧民に米銭を給与。
・11月27日、幕府、武蔵国小菅に囲籾蔵10棟を建てる。
・11月、幕府、非人が百姓を捕縛・吟味することを禁じる。
・11月、幕府、武家・米商人の囲米、他国廻送を禁じる。
・12月16日、倹約令をさらに5年間延長。
・12月20日、幕府、5か年の倹約を命じる。
・この年、歌川広重『東海道五十三次』刊行。
・この年、大蔵永常『綿圃要務』刊行
・鷹場内においてのカカシをたてるための許可願い出あり
・御嶽菅笠発刊
・水戸藩(国学の牙城)が蘭学者の幡崎鼎(はたさきかなえ・シーボルト事 件に連座長崎から逃亡中)を西学都講に採用
・関東取締出役が召し捕った囚人を収容するための「おり(牢)」の設置命令が出される。天保8年にも再触れが出される。(多摩のあゆみ150号p12)

1834(天保5)年
・江川英龍の父・英毅没(翌6年5月4日英龍が代官に就任)
・1月1日、去る秋より米穀高直百姓困窮の者多し。これに依り村内年賀を休む。寺・名主ならびに拙宅は例年の如く年賀の礼を受く。(指田日記)
・1月10日、幕府、町名主に行き倒れの救済を命じる。
・1月、関東諸国に江戸への廻米を命じる。
 秋田藩領北浦地方の農民が強訴。
・1月26日、甘藷栽培を制限
・1月27日、幕府、関東諸国に余剰米調査を命じる。
・2月、江戸大火。(甲午大火)
 2月7日、烈風、江戸外神田佐久間町二町目より出火 大火
 2月9日、江戸ひもの町辺りより出火、西南の風あり大火となる
 2月10日、大風、江戸火事
 2月11日、昼九ッ時より江戸火事(指田日記)
・2月19日、幕府、寺社・修験が市中でみだりに道場を構えることを禁止
・3月1日、浜松藩主で西丸老中の水野忠邦、本丸老中となる。
・3月24日、夜、三ツ木村与右衛門と末子両人、八王子より帰路、残堀の 原において盗賊のために疵を負う
・4月10日、越後国より女踊り来る、村内若者、この夜拙宅にて踊らしむ
・4月12日、類焼町々の町会所積金、1年間免除に。
・4月22日、昨夜、中藤藤屋娘怪病 ものの怪の如し
◎この月、麦一両に八斗、小麦六斗、米百文に五合。(指田日記)
・5月30日 先日より中藤天神社中(入りの鎮守)に一人の僧来たり滞留 し、盲目人・膝行(しっこう=目や足の不自由な人)をまじない、平愈 せしむを云うゆえ、老若加持に来る者多し
・6月、大坂で打ちこわし。
・6月5日、米価高騰のため、窮民に救米を与える
・6月5日、此の夜、渡辺平六の馬放たれて行方知れず、村中の人々集い 分散し尋ぬけれども見当たらず。(指田日記)
・6月7日、南山に山繭を拾う。今年山繭殊の外多し。
・6月9日、窮民、千住の米屋を襲撃。
・6月12日、町会所、窮民33万4000人へ施米を実施。
・6月、幕府、全国に米穀融通を命じる。
・6月17日、幕府が米5万俵を廉売
・6月24日、昨日ヨリ始メ、七日ノ間真福寺ニテ請雨(雨乞い)(指田日記)
・6月26日、為請雨村中真福寺ニ会集ス。
・7月4日、雷鳴不雨
・7月9日、雷鳴不雨
・7月11日、真福寺にて請雨村中会集す。雷鳴あり
・7月12日、今朝東の方、雲の色赤く巽(たつみ)より風起こり、四ッ時 (午前十時)に至り凪、又九ッ時(正午)より北風となり雨、塵挨を潤すに至らず。夜五ツ時(午後八時)地震
・7月15日、請雨結願ゆえ、村中真福寺に集まり万垢離、境内にて酒を呑 ましむ
・7月20日、是れ迄再三請雨を祈るといえども、其のしるしのみにして不雨、これに依り中藤村惣鎮守太神宮神前に氏子中集い請雨を祈る、
 真福寺・長円寺神前に於いて大般若転読。此の日、拙宅の燕鳥三子巣立ちす
・7月21日、八ツ時、東ノ方二雷鳴アリテ、即時ニ東ヨリ雲起リ、大雨咫尺(しせき)ヲワカタス、雷鳴疾(はやき)コト地ユルキ家ヲ動カスガ如シ、
 十年以来ノ雷鳴ニシテ、雷火遠近二落ル所多シ、就中、川越道ハケ下辺ニテ人馬死ス。(指田日記)
・7月23日、奈良橋にて喧嘩、予、一両輩見舞い。(指田日記)
・7月25日、神明社に於いて風祭り。(指田日記)
・7月28日、昼八ッ時(午後二時)大雨、即時に止む。中藤谷ッ風祭り
・8月7日、砂川にヒャラ市来る。笛を能く吹くにより異名
・8月19日、真福寺で土砂加持
・9月5日、本村里正宅(名主内野佐兵衛)に寄合、内談する人々、冨八・五郎右衛門・茂左衛門・紋右衛門・摂津、神明ヶ谷の藤吉・利兵衛、中藤入りの七郎兵衛・亀八、谷ッの伊左衛門・吉右衛門、下の勘七・大行院、親類は与七・弥吉
・9月6日、前日の人々会集し、子供角力を催すべきに決定す
・9月10日、風。冨八宅にて子供角力稽古始め
・9月13日、夜、箱根ケ崎法道連中、祭文稽古仕舞のよし、拙宅に来たり舞わしむ(法道連中=正重院の修験者法道は祭文の師匠。その弟子達)
・9月15日、岸芝居。夜雨。七兵衛嫡子喜八、主人の家より川越に遣わす所、途中より逐電行方知れず
・9月20日、中藤三ッ橋角力
・9月21日、昨今両日子供角力。
・9月23日、世話人中、芋久保村へ子供角力残らず引き連れ、鹿島明神の 社地にて興行
・9月24日、所望に依って鹿島社地にて今日も子供角力を催す。夜、助右衛門宅に忍び入り、俵を盗む者あり、行方知れず
・9月25日、子供角力四十二人、其の外世話人残らず会所に招かれ、酒肴 を賜る
・9月26日、払い方諸勘定に依って世話人中会集す。初めて霜
・10月3日、神明ヶ谷の源蔵嫁・横田の孫右衛門弟、中村にて某の犬に喰 まる、幸いにして死せず。
・10月6日、夜雨、みぞれ降りて殊の外寒し
・10月7日、昨夜より雨。古峯ヶ原日待
・10月19日、江戸町奉行、江戸の非人の取り締まりを命ずる
・10月19日、奈良橋に火事
・10月28日、夜、赤堀愛宕山にて犬三、四匹を殺す、是れ迄五、六匹の犬を殺しけるゆえ犬狩りを止む
・10月30日、夜 政次郎、主人の下女を誘引(おびき)、欠落す。
  当月七日より子供角力一件にて、冨八江戸に出て二、三日以前帰宅す
・11月1日、平左衛門嫡政次郎、欠落尋ねとして予と五郎右衛門両人にて、 川越より所沢を尋ぬれども見当たらず
・11月2日、古峯ヶ原日待
・11月5日、夕雷。夜、大工市郎左衛門子二才にして死す。
・11月9日、風。夕方、藤橋村次郎左衛門より使者を以て、平左衛門息政次郎並びに女子を留め置く旨文通あり。
・11月17日、茂左衛門(組頭)無尽
・11月21日、山王前文庫蔵(ぶんこぐら)風窓を破り、其所より盗賊這 いり財を盗む
・12月3日、中藤にて子供角力興行の世話人中、藤屋亀八宅にて寄合、是れ、冨八長く出府し、難儀に依っての談也
・12月9日、吉右衛門、江戸道より病気
・12月11日、吉右衛門、病癒らず、観音経を読む
・12月18日、横田山崎の孫右衛門弟、十月上旬犬にかまれ、疵口も平癒に依って、当十五日、蒜(ニンニクか?)蕎麦を作り食し、夫れより狂気の如く、薬用効なく今日死す
・12月20日、萩の尾公事(訴訟)一件に付き、真福寺にて内談あり
・12月25日、夜、萩の尾里正(中藤村市郎右衛門組名主の乙幡市郎右衛 門)並びに宗庵・助右衛門、家内の者残らず引き連れ退去
◎去る秋より今年に至りて原野に鼠多く、畑一反の内にて五、六匹・十匹 を殺す。古代も俄に鼠多く、草木の根を喰い枯らし、それより飢饉せし由見えたり
・12月、幕府、関東諸国に菜種栽培を奨励。
・この年、朝鮮の凶作と漢城大火のため、朝鮮貿易が中絶。
・この年、日本橋に水菓子安売り屋「千疋屋」開業。

1835(天保6)年     
・この春、「山本山」の山本嘉兵衛、宇治で玉露を製造し、江戸で販売。
・1月4日、大風土埃を吹き揚げ暗夜の如し。
・1月9日、真福寺ニテ請雨。
・1月11日、真福寺請雨に依って、村中寺内に会集す。指田日記
◎此の節百文に米八合五勺。小麦一両に五斗五、六升。麦・粟九斗
  今年馬場の瀧の入り不動はやる 井上河原村の稲荷・石川の地蔵はやる。 萩の尾に蝋燭の火を見て たたりある事を知ると云う老女来る
・1月、廻り田村等猪鹿追散許可願
  廻り田村、清水村、後ヶ谷村、高木村、宅部村、奈良橋村、蔵敷村(東村山市史資料編近世2p264)
・1月24日、吉原角町から出火、廓中残らず焼失
・2月2日、電祭、武兵衛宅。神明石坂の残金・其の外に板を売り、村方へ貸し付けて修覆金とす。尾鑿山(おざくさん=栃木県鹿沼市)・古峯ヶ 原へ代参の籤、予が家に当る。
・2月6日、萩の尾の仁兵衛娘欠落
・2月13日、原山・萩の尾より秩父参り出立。中藤田中の娘欠落。
・2月16日、夜、暖かにして地気立ちのぼり、四・五間前の人見えず
・2月26日、向の平六下女欠落。
・2月28日、正次郎妻離縁
・2月29日、中藤の藤左衛門、秩父参りの帰路にて病気、昨夜駕籠にて帰宅し、今日死去
・3月、芋窪村石川の神明社碑が造立される。明和(1767)4年造り替えたものを、さらに天保6年に祀ったことになる。
・4月、寺社奉行吟味物調役川路聖護、間宮林蔵らを用い、仙石騒勤の調 査を進める
・5月4日、江川英龍が韮山代官に就任(35才)
・5月、横山久左衛門、窮民慰安のため神田川のほとりで人形を出品(人形 店「久月」の始まり)。
・6月15日、今年より始め、毎月人別銭、壱人に付三文宛、七ケ年の間差 し上ぐべき旨、上命これ有る由、里正より申し渡しありし所、今日組頭 より暫く相止むべき由、申し達しあり。
・6月28日、オランダ人が海外風説書を幕府に提出
・閏7月、幕府、長崎貿易の取り締まりを長崎奉行に命じる。
・8月、将軍家斉、仙石騒動の徹底審理を命じる。
・9月5日、幕府、改鋳収益を目的に天保通宝を鋳造。
・9月5日、寺社奉行所で仙石左京の尋問開始。
・9月29日、仙石左京と縁戚の老中松平康任、隠居謹慎。
・12月9日、幕府、仙石左京を獄門に処し、仙石騒動に決着がつく。
・12月22日、幕府、諸大名に国絵図の作成を命じる。
・この年、鈴木牧之『北越雪譜』初編、山東京伝の弟京山の尽力で刊行。
 滑稽本・人情本が流行。

1836(天保7)年
・1月1日、去る十二月廿四日・同廿六日、赤堀・山王前・中村二十宇焼 失、且つ公事落着せず、これに依り年賀の礼を休す
・1月8日、真福寺に大般若転読あるにより、村中を寺中に集む。昼九ッ半時(午後一時)始めて雷鳴。水戸の乙五郎、川越の牢獄を抜け出奔所沢に来たり、人家に入りて衣類を奪い逐電の由を聞く
・1月12日、中藤入り清五郎庖瘡湯流し。忠蔵女、庖瘡にて死す
・1月15日、石畑村の馬頭入仏供養、三ッ木村の人、甘酒売りの桶を蹴倒して、隠嚢を焼欄し危うき由
・1月17日、風。勝楽寺村に火災あり
・1月18日、夜、四郎兵衛、内堀にてクラを買いて、村組頭並びに差場を 招き酒を出す
・1月26日、夜、六蔵女、庖瘡にて死す
・2月18日、昨夜奈良橋の大人、同村平七見世にて定右衛門のため疵を負い、御検使を願うべき所、蔵敷村浅右衛門・高木村名主金左衛門・奈良橋村大徳院・覚宝院立ち入り曖(あつか)い、此の夜八ッ時(午前二時)、詫書を取り内済調。
 指田日記上p25
・2月26日、芋久保の金右衛門、百番観世音に札を納めたきよし板刻(はんこく)を乞う、これを容す
 金右衛門が天保12年に建てた供養塔が慶性院にある。指田日記上p25 天保15年の供養塔が慶性院にある。安島
・2月28日、幕府、金銭目当ての養子縁組みを禁じる。
・2月、幕府、唐物抜荷・俵物密売を厳禁。
・2月29日、奈良橋村に火事見舞い。昼八ッ時より大風南より吹き、塵挨を揚げて四方暗し。神明ヶ谷の源蔵孫庖瘡にて死す。
・3月2日、上州の由にて比丘尼二人宿を乞う、即ち宿せしむ
・3月3日、中藤入り平七娘庖瘡湯流し。
・3月5日、茂左衛門宅に差場・組合寄合、清蔵不将により、以後老母を大切に養うべき旨得心せしにより、其の趣を以て組合へ詫び一札を差し 出し済む
・3月7日、東隣女庖瘡湯流し。
・3月14日、萩の尾の庄右衛門小児庖瘡にて死す。
  昼四ッ半時(午前十一時)深沢の与兵衛来る。九ッ時(正午)雷鳴、電降る、 大きさ梅核の如し、即時止み又雨、夕方風。三ッ木より婦人来たり、東 隣に奉公すべきと取り極わめせしに即時に死す、東隣より死人を三ッ木 村に送る
・3月21日、夜八ッ時(午前二時)、東隣小児、庖瘡後不快にて死す
・3月27日、芋落とし(里芋の植え付け)。夕方小雨。蚕出る
・4月7日、神明ヶ谷日蔭の七左衛門小児、庖瘡にて死す
・4月10日、例格により神明・金毘羅両社神楽、熊川村巫拙宅に宿す
・4月19日、昼九ッ時(正午)より雨。先達て中より昌蔵、妻を離縁すべき 由を申すにより、世話人中と不和になり、寄合数度に及ぶと雖も和談調 わず、これに依り又今日神明拝殿にて右の人々寄合あれども、猶未だ熟 談せず人々退散す
・4月26日、雨、四ッ時(午前十時)晴。夜、昌蔵家内の事に付き寄合あり
・4月27日、朝、昌蔵心得違いの一札を差し出し済む
・5月15日、夜雨。中藤新田の観音寺に盗賊推し込み住僧ならびに婆々を切り伏せ、数ケ所に疵を負わせ立ち退き、行方知れず
・5月20日、終日雨。繭を糀谷に売る、三枚にて金三分三朱二百五十文
・6月5日、大麦一両に二石。粟一両に一石五、六斗。白米百文に七合五 勺
○飢謹激しくなり、米価高騰のため、各地で打ちこわしがおきる。
・7月、江戸へ白米を自由に廻送することを許す。
・7月12日、町会所、2度にわたり窮民35万~41万人に施米銭を実施。
・7月12日、雨。市郎左衛門・元次郎・大蔵・常次郎・常八・権蔵・新助、 大山に行く。山王前下男食傷即死す
・7月23日、幕府、米価高騰により江戸への白米廻送を自由とする。
・7月24日、雨。十八日の風雨より米穀高直に成り府内御救いを賜る。一 両に白米三斗七、八升
・8月、甲斐一国騒動(郡内騒動)おきる。
  塩一升八十文、米百文に四合五勺(指田日記)
・8月7日、昼四ッ時(午前十時)、新町より飛脚来て、権右衛門組平六嫡 喜代蔵を源次郎打擲し其の儘捨て置き帰りたる由を申すにより、源次郎 差場の者主暑代蔵組合の者、新町に行き喜代蔵を引き取り、馬にて連れ 戻る、源次郎儀、新町にて喜代蔵を打ち伏せ置きて、其の儘にて人にも 告げ知らせず、馬に荷を附け江戸に行きけるゆえ、喜代蔵の組合憤り強 し。大蔵祝儀
・8月8日、夜、源次郎宅寄合
・8月9日、源次郎始末不将により、新町村の世話になりし礼として新町 に行く人々は、茂左衛門・金兵衛・浅右衛門・金蔵・権右衛門・摂津。 夜源次郎、組合に一札を出して済む
・8月14日、曲亭馬琴の古稀祝いの書画会に1000人が集まる。
・8月26日、昨夜より雨、夜に入り止む。茂左衛門宅に組合・差場寄合、 清蔵を勘当す。
・8月27日、畑の作番の事にて村中神明拝殿に寄合
・8月29日、英龍が郡内騒動の波及阻止と窮民救済に動く
・9月、三河加茂一揆おきる。
・9月、廻り田村等案山子設置許可願  廻り田村、清水村、後ヶ谷村、高木村、宅部村、奈良橋村、蔵敷村(東村山市史資料編近世2p264)
・9月4日、将軍家斉、明年の引退を布告。
・9月5日、最上徳内没(82)。
・9月8日、渡辺平六疾重きにより、村中御嶽堂の池に於いて万垢離、且 つ又、山口に千度に護摩をたく
・9月13日、夜、玉太夫を呼び村若者五、六人会し拙宅にて噺(はなし) をなさしめ祭文を語らしむ、来る人々、泰次郎・紋右衛門・留蔵・政五 郎・伊兵衛・出来蔵・権蔵・文次郎・庄蔵、中藤戸端の角太郎・嘉七
・9月19日、四季の日待、米高直に付、小麦粉を出す
・9月26日、麦蒔き、一反一畝計りの畑に、七斗入りの糠一俵半・灰二俵 ・糞二荷を入れる、種七升東わり四升 西三升 七斗入り糠一俵代一分、灰一俵四百文
・10月、米百文に四合、小豆同六合、大豆同一升、大麦一両に五斗六升、 栗同五斗五升、小麦同五斗
・10月24日、幕府、神田佐久間町にお救い小屋を設置。
・11月1日、夜、丸山台の孫兵衛一ッ家に押し入り金子を推し借りせんと 云う、元より其の日暮らしの事ゆえ、一円これ無き由を申す所、賊人狼 籍に及びしにより、用心の手鎗ありしを以て暗に突く処、賊に突き中り しゆえ仰天し、驚き走り出て逐電す
・11月2日、芋とり。夜四ッ時(午後十時)、萩の尾助左衛門火事、小八・ 文蔵・鉄五郎類焼す
・11月4日、萩の尾失火御検使。
・11月5日、萩の尾焼亡灰掃き(火事場の後始末)
・11月7日、火方役人より召しにより、八王子迄呼び出さるる者二百余人 のよし
・11月20日、原に置く所の芋穴に、非人を番に附くべき旨神明拝殿に寄 合たれども、非人を番に附ける事承知せずにより、其の通りにて番なし
・11月28日、一揆の流言飛語(武蔵村山市史 民俗編p37)
  今朝六ッ時(午前六時)に、中藤里正宅に村中来るべき旨申し来たる、これに依り原山・中藤・神明ヶ谷の家々残らず里正宅に参集す、申し渡さるる趣旨は、昨日処々名当をいたし、其の家々を打ち潰すべき由を板に 彫り、一紙に刷りて村々に捨てたり、其の文に、青梅を初めとして所沢 迄の間誰々を潰すべしと記し、且つ徒党の人々は秩父街道の四辻に集ま るべしとの事あり、又其の近辺の酒造蔵・酒屋より、其所迄酒を附け送 り飯を炊き運び来たるべしと記したり、右の事により凶年のならいにて 騒動起こる事国々に多し、右様不思慮の徒党立ち入るまじき由の申し渡 しなり、尤も昨夜捨文の趣、御支配役所迄届けたる由。今日の騒動混雑 夥しく、青梅より所沢迄の当名せられし人々は、さらなり、道筋の見世 ・店・近隣冨家の者資材・雑具を山林に隠し、老弱は他村に送り周章甚 だしき折りから、四ッ半時(午前十一時)、三ケ島の者が中藤谷ッ里正方 に来たり告げて日う、今朝、青梅吉野屋を打ち破り、此方へ押し来たる 趣により伝え聞く者一時に騒動、戦慄鼎の沸くが如し。冨家には恐怖の 余り飯を炊きて難を避けんとする者もありと聞く、晩方物見に出したる 者立ち帰り、実説を聞き届ける所、跡方なき虚説なり、かかる時節には 虚説紛々たる事古より多くある事なり、能々本を探り定むべし
・11月29日、夜出役箱根ヶ崎に止宿あり、同所火事
・12月、小綿百文に十匁位
・12月1日、出役の召しにより、五郎右衛門・山王前・谷ッ里正、青梅に出る。
・12月6日、「長谷部新田幸左衛門・藤橋村某、今度捨文セシ頭取ノ風聞ニヨリ召捕ラル」指田日記
・12月23日幕府、竹島に密航した会津屋八右衛門を処刑。
・12月26日、「勘七宅組合ヲ寄ス、申渡ノ旨ハ村々百石二付五人ヲ撰ミ、竹槍ヲ用意シ置、一揆徒党ノ者起ラバ、理ヲ以テ教論シ、若キキ入レズ 狼籍スルコトアラハ、竹槍ヲ以テ防キ止ムベキトノ申渡ナリ」と述べら れている。村々のこのような物騒な雰囲気も、凶年続きに原因する社会不安の蔓延状況があった。武蔵村山市史 民俗編p37
◎11月、雲性寺六地蔵 蓋付四面塔 念仏講中
◎高木笠森稲荷 伏見愛染寺から勧請 (よもやま話)
・この年、高野長英、飢饉対策として『二物考』を著わし、馬鈴薯・早そばの栽培を奨励。
・この年、斎藤月岑(しん)ほか『江戸名所図会』完成。
・玉川上水の二重の囲みを破り柱を引き折って高札が盗まれた。

1837(天保8)年
・1月1日、去る午年より四ケ年以来凶作により、穀物高直に依って、村々冨家より貧窮の者へ施しありて、困窮人漸々(ようよう)露命を保ち ける程により、四方の村々年賀の礼なし
・1月8日、雪、朝より晩七ッ時(午後四時)迄降る。昼九ッ時(正午)、戸端・奥両里正組の百姓残らず龍華庵に寄せ、取締役より仰せ渡さるる趣申し渡しあり、小前百姓一同承知連印す
・1月31日、米百文に四合、大豆百文に八合、塩百文に一升、小麦一両に 四斗五升、大麦同五斗より六斗
・1月、江川英龍が幡崎鼎の講義をもとに「不容易儀承候に付申上候書付」「伊豆之国御備場之儀に付存付申上候書付」(海防策)を幕府に提出
・2月1日、西隣の泰次郎・東隣の哲蔵ならびに三郎左衛門、其の外村々身本宣しき者、砂川村に召し寄せられて御支配出役より御理解申し聞けられ、困民御手当として金子差し出すべき由仰せ付けらる。弥兵衛内に盗人這入り俵を楡む
・2月3日、真福寺の先住宥祥七回忌法事出席。夜山崎の林平くらを破り、 衣類を楡む者あり。雨
・2月5日、雨。中藤雹祭り。昼九ッ時、市兵衛後家に鎖(じょう)を破り銭を楡む者あり
・2月6日、雹祭。米穀高直により、神明殿中に集い雹祭をなす、寺・名主を招請せず
・2月8日、雨。夜五ッ時(午後八時)、山王前より先生家嫡逐電の由告げ あり、予即刻山王前に行く
  留蔵を雇い麦に下糞をかけしむ。夕方雪。
  芋久保村の石川にて、盗賊の事により家内残らず出奔の家あり、先日、山崎の林平くらを破りし賊を捕らえ、右村方騒動す
・2月9日、青梅橋の瘡守稲荷の額を彫る
・2月19日、元大阪町奉行与力大塩平八郎の乱、大坂市街が焼失(大塩の 乱)。
・2月22日、殿ケ谷村幸右衛門宅に昼九ッ時(正午)、賊来て金子を推し借りせんとす、依って幸右衛門深疵を負うの由風聞、狼籍人一人は走り行方知れず、残堀の無宿丹治郎一人を搦め捕る。夕方雨。殿ケ谷村御検使。 留蔵を雇いかけ薗をなさしむ
・2月28日、文次郎、茂左衛門娘を誘い出奔
・2月29日、茂左衛門娘の事により、同人宅に組合・差場寄合。助右衛門娘六蔵妹、殿ケ谷に再縁。芋久保の八郎兵衛に馬場の小八娘嫁入り
・3月1日、村若者一同の口義(くぎ=説得?)にて、茂左衛門娘を貰いうけ、弥兵衛嫡文次郎に嫁せしむ
・3月5日、雨。紋右衛門娘仲・同姓喜左衛門娘園、初めて江戸に奉公の為出府
・3月7日、忠右衛門末子重蔵、神明ケ谷より娘を誘い出し、忠右衛門宅寄合
・3月8日、燕鳥始めて拙宅に来る。拙宅に牝鶏朝を告ぐ。夜、忠右衛門末子重蔵の事により、村若者に酒を出す
・3月8日、幕府、農村出身の困窮者を対象に、品川・板橋・千住・新宿にお救い小屋を設置。
・3月12日、殿ケ谷村より丹治郎を江戸に差し出す、道中警固の者数人
・3月22日、戸端人別(とばにんべつ)=宗門調べ
・3月25日、雨。原山・神明ケ谷の堺の原にて、砂川村の髪結い斃死(のたれし)す。古峯ケ原日待
・3月27日、南風にして寒し。拙宅より疫癌(えきれい=悪い流行病)解除の禦(ふせぎ)を村中に出す。
・3月、大坂・兵庫で打ちこわし。
  江戸の各所に御救小屋を設置。
・3月29日、此の節百文に付、米二合七勺、凶年のならいにして村々、盗賊・追剥・推込等多き事はこれを記さず 指田日記
・3月30日、窮民救済のため、浜御殿の満凌いを実施。
・3月、宇田川熔庵『舎密開宗』完成(国内初の化学書)。
・4月、家斉、将軍職を家慶に譲り、西の丸に隠退する。
・4月1日、中藤戸端にて困窮人救いの為、貯の稗穀を一人に壱斗八升宛を賜う。昨夜の霜にて朝薄氷あり。指田日記
・4月19日、狭山の内に盗賊忍び居る由を云う者あるにより後山を狩ると雖も捕らえ得ず
・4月、幡崎鼎(かなえ)が水戸藩御用で長崎に出向いた際、長崎奉行に 捕縛される。
・4月27日、幕府、疫病流行のため諸国に処方書を頒布。
・4月、渡辺峯山『鷹見泉石像』を描く。
・5月1日、「当夏ニ至リ村々疫病ハヤリ、大小ノ村半バ患ルニ至ル、飢饉 ノ後疫病流行スルコト、古来ヨリカハルコトナシ」指田日記
・5月3日、雨。夜雷、大雨
  から麦一両に四斗二、三升、小麦一両に三斗五升より七、八升、米百文 に付三合五勺、大豆百文に七合五勺、小豆同四合
・5月9日、佐五右衛門妻、二月頃より病気、俄に物の怪の如く乱心し狐 のつきたる由、芋久保村神主に責め問わしむ
・5月10日、芋久保神主拙宅に来る。佐五右衛門三男瀧蔵、卒然として乱 心し、罵りて止まらず、狂乱狼籍甚だしき事、衆人迷惑す、母子ともに 狂乱する事、狐の付きしにや
・5月12日、佐五右衛門妻ならびに息瀧蔵祈祷の為、正重院来る  正重院=瑞穂町箱根ヶ崎三社権現の修験、明治より狭山神社の神主となる
・5月17日、夕方雨。佐五右衛門家内祈祷のため、御嶽山御師三人来る (原山以東は片柳家)
・5月20日、御嶽山御師、佐五右衛門宅出立、帰山
・5月22日、忠兵衛・喜八を雇い大麦を苅り、餅粟を蒔かしむ。夜、神明 拝殿に村中寄合、疫病流行により大般若転読ならびに神楽を奏すべきや 否やの相談也。去年五月廿三日清吉、讃州象頭山(さんしゅうぞうずざ ん)参詣に出て、今日に至り帰宅せず
・5月23日、中藤・神明ケ谷・原山家々大般若転読。佐五右衛門息瀧蔵、 乱心平癒の為、村内より佐五右衛門地内の八幡にて神楽を上げる
・6月、越後柏崎で生田万らが陣屋を襲撃。
・6月4日、昨夜、三ッ木内出に盗賊押し入り、金子百三十両余奪い取り立ち去る風聞
・6月17日、三ツ木請雨。蔵敷村ヨリ下七八ケ村一同請雨。指田日記
・6月19日、桃の実ほどの雹が降り害が著しい。指田日記
  昼九ッ時(正午)西の方に雷鳴、七ッ時(午後四時)に三ッ木村七左衛門庭に雷火落ちて、麦からに火燃え付きしを、近隣の者走り集まりこれを消す、
  此の時未だ雨降らず、 即時に北風烈しく雨ふり来たり、次第に一天闇く雷鳴振動し、空鳴りて北の方より有られ雹ふり、竹木鳴動し、家居顛倒するかと疑われ、大き さ径二寸・三寸の雹にして、小なるもの桃の如し、即時止む。
  近辺龍の巻きし由にて、家を破り竹木を倒せし事、村々霧し、当八十七、八の人、此の如きの大なる雹を見ざる由。 原山より上の村は作物別条なく、中藤下・神明ケ谷・芋久保・蔵敷・奈良橋四ケ村、作物大いに損ず
・6月28日、アメリカ船モリソン号が浦賀に現れ、幕府に音吉ら漂流民7 人の引取りと貿易を求める。浦賀奉行が砲撃し、引き返す。モリソン号 事件
・6月29日、晴雨して定まらず。与三右衛門・徳左衛門宅、四季の日待。 里正方より寺盆供百文の家割り一升を出すべき由、談合あり、先格にて 百文宛出し来たりし家々、此の節先例により百文出す家々は、後年米下 直になりても先例に任せ百文供料出すべき由、人々承伏す
  一、米百文に三合   一、小豆百文に三合
  一、大豆一両に七斗  一、小麦一両に五斗
  一、新蕎麦一両に六斗 一、米糠一駄三分二朱
・7月9日、六兵衛弟金次郎、先年殿ケ谷村に婿入りせしが、故ありて夫 婦連れにて逐電行方しれざるの所、昨日下総国より留め置く由の書状来 たるに依って、茂左衛門・友次郎、下総に出立
・7月11日、武装を解除した米国船「モリソン号」は、薩摩山川に来航して入港する。
 ・日本人漂流民(7人)を送還と貿易を求める書簡を藩主斎興公に呈して交渉を望む。
 ・幕府より「外国船は攻撃・撃退せよ」との命あることを伝える。
 ・藩命により漂流民はオランダに託して送還すること諭す。
 ・薩摩藩、同船に対して威嚇砲撃を行い退去させる。この後に沿岸防備の強化を行なう。
  ※漂流民は尾張の岩吉・久吉・音吉と肥後の庄藏・壽三郎・熊太郎・力松の合わせて7人。
・7月12日、勘七・向いの平六、相州大山に行く
・7月13日、幕府、財政の補強と物価高騰を抑えるため、五両判を新鋳。
・7月18日、夜、茂左衛門・橋場の友次郎、下総国より六兵衛弟金次郎な らびに妻子を連れ戻る
・7月19日、昼八ッ時(午後二時)雷、不雨。真福寺請雨
・7月23日、先月十九日雹損の場、此の節に至りては無難の場所と替わり しとも見えず、稲も打ち折れし所より新たに芽を生じ替わりし様子にも 見えず、残らず打ち折れし故、苅り取りしものあれども、其の儘置きた るより生長遅し、後人心得あるべし。大豆・小豆の葉残らず打ち落とし、 身木(葉が落ちた大豆、小豆の幹)ばかりになりしが、是れ先身木に花咲 き、それより次第に葉茂り、三分計りの損と見ゆ、尤も瓜・とうなすは 皆無同様
・8月3日、幕府、置き去りの孤児を保護するよう触を出す。
・8月5日、渡辺崋山が本所南割下水にある英龍の江戸屋敷を訪ねた。英 龍不在。
・8月10日、飢饅中施行をいたし候人々、御呼び出し、其の多寡により夫 々の御褒美あり
・8月13日、芋久保神主宅に吉田殿江戸役所より飛脚来る。夜大雨  吉田殿=江戸時代に神社神職の大半を掌握していた
・8月14日、昨夜より雨。昼四ッ時(午前十時)より大風、巽より吹き、所々家を倒顛し木を抜き、又は吹き折る事夥しき事、勝(あげ)て計(か ぞ)うべからず。向の勝右衛門木小屋・勘七下屋・茂左衛門穀箱の屋根 を覆す、中藤熊野神木の杉、三抱え余ありしを吹き倒し、本社を押し潰 す
・8月18日、忠兵衛宅、観音経
・8月19日、鎮守太神宮祭礼角力と定まるにより、勧進元当番萩の尾の冨 次郎、人足を率いて土俵を築く
・8月22日、祭礼角力相済む
・8月23日、渡辺崋山が再び江川英龍の江戸屋敷を訪ねた。初めて会って、 食事を共にし、懇談した。
・8月24日、真福寺土砂加持。夜半蔵小児、病により千垢離
・8月26日、久左衛門婿孫七女病気、千垢離
・8月30日、雨。此の節、酒一升代六百文
・8月、狭山神社 天狗社について、『もとは字「上の屋敷」に神明社の遙拝所として「天宮 神社」があったものを、天保8年8月の祭礼の時、幟を納めたが、その 時誤って天狗大明神と染めてしまったので、現在天狗社と呼んでいる、 それは誤りである。』としている。
・9月2日、徳川家慶、第12代将軍宣下。
・9月3日、中藤の定右衛門来て、当所若者中に勧め、日待狂言を致させ呉れ候よう頼むにより、夜拙宅に若者中来て談合調う
・9月4日、今年麦作は十分を過ぐれども、此の辺雹損ありし上、先達ての大風により秋作損じ、且つ四、五年以来凶作により穀物未だ下直ならず、当所にも融通金施し、穀を受けし家もあれば、遠慮は無き道にあらず、されども皆々強いて望むにより、拙宅にて日待狂言を催す
・9月、徳川家慶、十二代将軍に就任する。この年、郡内騒動の指導者、 犬目宿兵助、逃走して四国など巡礼、逃走記『兵助之日記』を著す。
・9月9日、雨。今日近村酒店に酒絶えて、金毘羅の神酒を欠く。戸端里 正入来、囲碁
・9月15日、葺師(やねや)六兵衛、三ケ年以前、芋久保村鎮守鹿島明神 拝殿を請け取り、組の屋根職人共に葺き替え致し候所、作料を渡されず、 これに依り村役人に嘆き、葺き賃渡し呉れ候様に、当村鎮守の事ゆえ相 頼むと申せども、不承知の由を断るにより然らば是非無く、此の上は葺 き手間は鎮守に奉納すべき間、奉納の札をかけ呉れ候ように申し候えど も、是れ亦一円不承知により詮方無く、今日例年の神事にて獅子舞ある により、六兵衛憤り、弟金次郎・弟子吉蔵を引き連れ、芋久保村神主・ 名主に断り、右葺きたる拝殿に登り、屋根を破らんとせし所、三人を呼 び下ろし、謀り三人を拝殿に入れ、村中四方を囲み打擲し疵を負わしむ、 騒動大方ならず、獅子舞止む、
  右の騒ぎにより夜に入りて原山・神明ケ谷を始め中藤下・谷ッ・入組、 惣百八十軒残らず鹿島社中に詰める、ならびに加番として萩の尾・赤堀 の衆人詰める
・9月16日、昨日、喧嘩の内済として、蔵敷村里正左右すると云えども、 柳か意に叶わざるにより破談、御検使願いに出る
・9月18日、朝、御検使芋久保に着く
・9月19日、内済の後、夜に入り地頭の検使、芋久保に着く
・9月20日、怪我人ならびに村々の人々、芋久保社中を引き払う。夜、茂左衛門宅にて、六兵衛方より、御検使により村内の世話になりし由にて、 謝儀の為酒を出す。此れに依り村中にて見舞いとして金壱両弐分出金す
・10月24日、幕府、一分銀を新鋳(桜銀・桜一分)。
・10月26日、奈良橋村雲性寺住僧変死により、同村より御検使の願いに 出る
・10月28日、奈良橋御検使に付、見舞いに行く。
・11月18日、世田谷の子安地蔵、半蔵宅に宿す
・この年、小関三英『那波列翁伝』完成。

1838(天保9)年
・1月1日、打ち続き凶年により、四ヶ年の間村内年賀の礼なき所、今年 は世間米穀の価い少しゆるみたるにより、先例の如く年賀の礼を始む。
・1月4日、向台に斃死(のたれじに)の者あり、人々立合子細あるべか らざる者とし、中藤山非人に命じ死骸を埋めしむ。
・1月10日、中藤・芋久保より裸参り五十余人、金毘羅に社参
・1月11日、夜、新助宅に日蔭(神明、堂山墓地の北東)より処女(むすめ =娘義太夫語り(=ぎだゆう)り来る、若者集まり義太夫をかたらしむ
・1月12日、同姓伊八宅に親類・組合寄合、当十八日に家財払い物すべき由の談合一定す(生活困難)
・1月19日、伊八宅家財・田畑せりもの、金高二十五両になる
  うつき原 
  一下々畑四畝壱歩    孫左衛門分
    一下々畑壱反壱畝拾歩    同人分
    一下々畑弐畝廿四歩      同人分
    一同  三畝廿六歩      市左衛門分
    〆弐反弐畝壱歩            伊八持ち
   右の畑十六両二分にて、太兵衛方へ譲り渡す。
・2月17日、13日に萩の尾忠右衛門持ちの畑に四歳ばかりの男子を裸にし て捨てあり。依って忠右衛門宅に連れ来たり置き、御支配に訴え、今日 御出役検使
・2月19日、幕府、諸国に巡見使を送る
・2月30日、代官羽倉外記に伊豆諸島巡視を命じる。
衛門後家に盗人押し込みに這入り衣類を盗み去る
・3月10日、江戸城西の丸、台所から出火し全焼き町火消が消火に尽力。
・3月22日、幕府、西の丸焼失につき諸大名に再建の手伝いを命じる。
・3月24日、水戸屋小児、種痘の疱瘡にて死す
・3月、斎藤弥九郎の町道場「練兵館」、隣家の火で類焼、麹町三番町に移 転。
・4月6日、味噌造り。夜、三ッ木後ケ谷の半平宅に押し込み来たりけれ ども、外より人来たり、幸いにして財物を奪わず立ち去る。同夜、同村 与右衛門宅に押し込み端物十反計り奪い取り立ち去る
・4月11日、中藤の亀八、家財払い物
・閏4月、諸大名に倹約を命じる。
・5月、佐渡一国騒動おきる。
・5月1日、白米百文に付、七合より八合まで。大麦一両に二石、小麦同 九斗四、五升
・6月8日、平左衛門病後により収納難儀に付、近隣より集まり麦棒打を 手助けす
・6月10日、昨今、蒸熱甚だし。御年貢取り立て、近年十五日の所、これ より後は十日取りの由、里正より申し渡しあり
・6月28日、米百文に付、六合、麦一両に一石二斗、小豆一両に七斗より 八斗、蕎麦九斗五、六升
・6月、肥前松浦郡幕領の農民、肥前藩領内に逃散。
・6月30日、砂川村ニテ天気祭リヲナス 指田日記
・6月、幕府、モリソン号来航の対策を討議し、強硬論と仁政論とで対立。
・7月5日、雨小雷。同姓峯吉弟久米三郎・吉右衛門弟吉五郎、小河内温 泉に立つ
・7月10日、昨日、横田・中村獅子舞
・7月15日、西隣泰次郎大山参詣。村中を神明拝殿に集め村役人より金銀 の道具・細工等御停止の旨申し渡す
・7月19日、芋久保太神楽
・7月20日、渡辺平六宅に噺家二人宿す。夜雨
・7月21日、雨。渡辺平六・文太・染二郎・権蔵・峯吉母・久左衛門後家 ・文次郎妻、小河内温泉に立つ
・7月23日、茂左衛門・三郎右衛門、修善寺湯治より帰る。熊川村若衆中 拾余人、三郎右衛門宅に来たり、座敷狂言を催す
・8月、徳川斉昭、内憂外患についての意見書を草す(「戊戌封事」)。
  長州藩、村田清風を起用して藩政改革に着手
・8月1日、中藤谷ッ十二座神楽。夜雨、即時止む。盗人、油屋平六見世 に這入り、銭箱を持ち去る
・8月3日、所沢に行く。茂左衛門宅にて施餓鬼あり。清吉、金毘羅参り に出て行方知れずにより弔の為なり。油屋平六召仕徳次郎、草苅りに行 きて其の儘逐電
・8月6日、徳次郎尋ねとして組合・差場の人々、近辺詮繋すれども知れ ず。
より帰る
・8月8日、真福寺にて論議。昼四ッ半時雨、即時止む。平六召仕徳次郎、 大岱新田の萩山辺にて尋ね出し連れ戻る
・8月、都々逸坊扇歌、牛込藁店の寄席で都々逸を歌い流行。
・9月2日 昨夜、東隣に盗賊入りて銭箱を盗み去る者あり
・9月3日 萩の尾水戸屋の銭箱を楡み去る者あり
・9月15日 芋久保鎮守獅子舞。昼、三郎右衛門宅破風より賊這入り、銭 と帯を盗み去る
・9月17日、敵討ちの供養塔(妙典供養塔)塚前墓地
・9月20日、夜雨。賊、三郎右衛門土倉の下を掘るといえども盗らず
・9月23日、昨夜、紋右衛門掛硯を盗み去る者あり。掛硯(懸硯)=手提げ が付いた箱で上部に硯があり下部に小銭や伝票を入れる引き出しがある 箱で商売に使う
・9月24日、夜雨。横田八幡前の定右衛門借家に、狼籍者四、五人脇差を 抜きて推し入りたれども、定右衛門、折り節留主にて其の座に居合わせ し者、一両人疵を蒙る者あるよし
・9月26日 中藤田方検実(けみ)出役あり。検実(見)=稲の出来具合を 検分し年貢の高を決める
・10月1日、萩の尾の清蔵召し捕らる井赤堀の次郎江戸に召し出さる
・10月7日、紋右衛門妻、忠兵衛妻より衣類を預かり候所、盗賊物の由に て、拝島寄場迄召し出さる。拝島寄場=幕府は文政の改革で四・五十カ 村単位として組合村を設け中心の村に寄場を置き寄場名主に全体の事務 を取らせた。この辺は拝島にあった
  昼九ッ半時(午後一時)より西北の方に雷鳴五、六度に及び即刻氷降る、 大きさ李(すもも)の如し、八ッ時(午後二時)止む。小雪後に至りて雷 鳴する事近年に聞かざる所也
・10月30日、中藤田口直七の物置小屋に盗人這入り、蕎麦五俵を盗む者 あり
・10月、渡辺峯山「順機論」を著述(未刊の草稿)。 高野長英「戊戌夢物語」完成。
・11月4日、五郎右衛門、盗賊一件により板橋辺迄召し出さる、組頭同道 す。
・11月17日、幕府、5か年の倹約を命じる。
・11月19日、子安地蔵、縄竹より東隣に立ち寄り、杢左衛門宅に止宿
・11月26日、佐右衛門養女婿取り祝言。
・11月27日、佐右衛門宅婿披露の為村中を招請す
・11月29日、昼九ッ時より雨、夜止む。泰次郎・伊之介、親父に追い出 されて拙宅に来る
・12月1日 佐右衛門婿口堅(くちがため)の節、泰二郎・峯吉・昌蔵・ 伊之助・惣右衛門・徳左衛門、若者惣代に頼みて調いし事あり、よって 先月廿六日、祝儀の日招かれ候所、中にて種々の雑談ありて、五郎右衛 門・三郎右衛門立腹し、泰次郎・伊之助を追い出す、よって拙宅に止め 置き、金兵衛・浅右衛門立ち入りあつかい、親々を宥(なだ)め拙宅に 差場中を集め和談。
・12月10日、夜、石川蓮花寺焼亡、本尊・過去帳を焼失す 指田日記上p70
・12月、代官江川英竜、目付鳥居耀蔵とともに江戸湾の備場の巡視役に選 ばれる。川路聖謨の進言による。(幕臣達と技術立国p33)
・12月3日、川路聖謨から江川英竜に出府の書状
・12月10日、江戸屋敷に入り、11日、登城
・12月12日、水野忠邦から江戸湾の備場の巡視役申し渡し
・12月25日、幕府、好色本・絵本類の店頭販売を禁止。
・この年、佐藤泰然(高野長英の弟子)、両国薬研堀に蘭学塾を開設(順天堂 の前身)。
・この年、斎藤月岑(しん)「東都歳事記」刊行。
○この年、長州藩・内村田清風、藩政改革に着手する
○高野長英『夢物語』、渡辺畢山『慎機論』できる。 緒方洪庵、大坂で適塾を開く。中山みき、天理教を開く。

1839(天保10)年
・1月1日、雨。村中年賀前格の如し。凶年以来紙高直、壱帖上紙の代五 十文、蝋燭以前の値段に倍す。米百文に付、五合五勺より六合
・1月1日、幕府、町火消の出初式を禁止。
・1月2日、例格に付、中藤里正方所々年礼を勤む
・1月3日、山王前・真福寺に年礼を勤む。萩の尾庄兵衛二男久米次郎、 中藤山非人に召し捕る。中藤村里正方、年賀の為来駕
・1月9日、正使鳥居耀蔵・副使江川英龍の見分使節一行が浦賀水道周辺 の調査のため江戸を出立した。
◎耀蔵は蘭学者たちの権威と影響力が高まることを心配。これを食い止め るために、英龍の巡見を成功させるわけにはゆかなかった。耀蔵は、こ の備場巡見で、子供っぽいとも言える方法で、繰り返し英龍を妨害する。
・1月12日、当月三日、萩の尾久米次郎召し捕られ白状により、砂川村迄 召し出さるる人々には、三郎右衛門・才次郎・八多郎・久次郎・金十郎
・1月15日、昼九ッ時(正午)より雨、夕方止む、夜又大雨。物岩衛門宅に 江戸より客四人来て止宿、義太夫をかたる
・1月16日、惣右衛門宅にて義太夫をかたる、村若物中、同人宅に集まり 酒
・1月18日、喜代蔵、伊勢参宮より帰宅。
・1月21日、江戸城西の丸の再建工事完了。
・1月23日、八太郎宅村惣斎。吉五郎を雇い、砂川田堀に麦三俵・粟一俵 を売る、一両に付、麦一石二斗五升、粟両に九斗五升。
  夜、喜代蔵宅女日待を始む、十余年以前、蚕日待と名づけありける所、 故ありて中絶しけるを、又今日より始む   惣斎(そうとき)葬式後の法要で、酒食で接待する
・1月28日、賢輩四、五人来たり兎羹(あつもの=兎の肉や野菜を入れた 熱い吸い物、うさぎ汁)にて酒、裸踊り。去年中より若者、酒後裸踊り はやる。
・1月、幕府、神社祭礼の華美を禁止。
・2月1日、去年より何方の者とも不知道心者、口にて太鼓の真似をし、 テレンテレンテレンと云いて村々を踊り歩き一銭を乞う、其の声太鼓に よく似たり。
・2月3日、村入用をめぐる、後ヶ谷村の紛争(=名主相給)解決
・2月12日、三郎右衛門宅にて雹祭。正月三日、萩の尾久米次郎召し捕ら れ、右のかかり合いに付、出役先にて府中宿より召し状来る、これに依 り、茂左衛門・一二郎右衛門・八太郎・才次郎・染次郎・山王前見世な らびに久米次郎父庄兵衛、府中宿迄出。夜、忠兵衛女マス、奈良橋村に 密通の男ありて、其の家に押し込みけれども男留主に付、隣家の婦人弐 人にて拙宅迄連れ来る
・3月、耀蔵が復命書提出 続いて江川英龍も提出
 耀蔵の提出した復命書は、相模に走水奉行、上総に富津奉行を設けて、 それぞれに地域の海防にあたらせよというものであった。相模側は走水 奉行と浦賀奉行が担当、上総・安房側は、代官と富津奉行の担当である。
・これに対し英龍の改革案は、奉行の新設ではなく、譜代大名の移封とい う大胆なものであった。相模の三浦郡、上総の飯野と東金に、それぞれ 十万石以上の譜代大名を移封し、築城させて、領地の海防を担当させよ というものである。
・4月15日、深川三十三間堂の通矢競技で、太田信吉(11)が総矢数1万2015 本中1万1760本を的中(確率98%)。
・5月14日、鳥居耀蔵により田原藩家老・渡辺畢山、江戸町医者・高野長 英らが捕えられる(蛮社の獄)。
・5月14日、渡辺畢山、北町奉行所に捕縛(蛮社の獄)
・5月17日、小関三英、シーボルト事件の再現を恐れ、蘭書を焼いて自殺 (53)。翌日、消息を絶っていた高野長英、自首。
・5月、椿椿山、師友・門人を結集し渡辺崋山の牢屋を見舞う(釈放運動に 発展)。
・6月、水戸藩主徳川斉昭、「戊戌封事」を将軍家慶に提出する
・6月2日、松代藩士佐久間象山、神田お玉ヶ池に「象山書院」を開塾。
・6月5日、今日ヨリ真福寺ニテ請雨。
・6月7日、南風烈しく、四、五日以前より夜露降らず、炎熱強く、諸作大いに疲れる。
 夜、久八・九兵衛・清次郎・豊蔵、馬を牽き夜追いに行く途中、高木村の原にて追剥に出合い、路銭を奪い取らる、盗賊三、四人の由、 豊蔵一人其の場を逃げ退き、高木村に至り村方の人を頼むにより高木村より人を出す。萩の尾永蔵、奈良橋前庚申の近辺にて追剥に合い金三両 余奪いとらる。其の外、中藤向坂(むかいざか)の伊之助・高木村の人も路銭を奪い取られし由 指田日記上p77
・6月9日、村々請雨、大豆・小豆・岡穂・芋、殊外疲労ス。
・6月10日、二、三日以前ヨリ萩ノ尾請雨、大山ヨリ水ヲカリ来ル。
・6月11日、真福寺請雨結願、惣村寺中ニ集フ。
 奈良橋勘兵衛伜栄次郎借家に、馬場の丹次郎・三ッ木の伊之助・堀之内の倉之介、三人の者来たり、推して金子を借用致したき由を申しけれども、金子無き趣断りければ、三人抜き連れ栄次郎に切ってかかる、折り節栄次郎裸にて身に寸鉄なく脇差の鞘を奪い取り、三人を相手にあしらいけれども、一方口の所にて進退自由ならず、後ろに鉋(かんな)くずを入れ置きたる籠ありけるに、尻居しけるにより鉋屑おちつき、手足ばかり出たるを切りたる故、手足に十余所疵を負うといえども未だ死なず、
  三人の者は即時に逐電す、これに依り御検使願いに出る、予見舞いに行 く。夜、金兵衛宅にて無尽、私宅にあたる、八会目なり
・6月12日、惣鎮守太神宮二請雨。
・6月15日、昨夜、九兵衛・源次郎二男小源次・佐五右衛門末子安五郎、 馬を引き廻田前にて盗賊に出会い小遣銭を奪い取らる 其の外近村馬牽 五、六人金銭を奪わる
・6月18日、鎮守神明社中ニ村中コモリ通夜、請雨ノタメ万垢離。
・6月20日、朝雲の色黄にして、草木・人の面に至る迄黄に見え次第に黒 くなり、雨降りけれども塵挨を潤すに至らず。
・6月23日、今日ヨリ三日ノ間長円寺請雨。
・6月24日、夜、戸端里正・寺下両人入来にて、先日江戸にて召し捕られたる萩の尾無宿庄太郎一件に依って、差紙到着するにより差名のうち神明鍵取りと云う事あるに付、拙宅に入来有し所、よくよく詮鑿(せんさ く)せし所、近年神明拝殿に差し置きたる神明ケ谷の吉左衛門と云う者、 薪割を盗まれたる事ありしなり。懸合の人々、吉左衛門門・庄五郎・向 いの勝右衛門・四郎兵衛・東隣の哲蔵・萩の尾の佐七・市右衛門・山王 前両家・宗庵借宅に居る平八・当役忠右衛門、右の人々拙宅に来て、明 日八王子に出ずべき由申し付けらる。
  真福寺再度請雨、人足四、五人宛請雨中夜々、南の川に行きて水を取らしむ
・6月25日、庄太郎一件により四郎兵衛・庄五郎、八王子に召し出さる。 哲蔵・泰次郎・山王前源三郎・米蔵・山連裡伊太郎、冨十詣。夜雷、不雨
・7月1日、昨夜、中藤三組・神明ケ谷より申し来たりけるは、真福寺請 雨明後日結願に付、俄祭りを催すべきよしを告ぐにより、今朝より村中 神明社地に集まり雷神の引物を造り、万灯三ッを作る。
 中藤入組・谷ッ組・下組・神明ヶ谷組・原山組、何れも思い思いの飾り 物にて、昼九ッ時(正午)より引き出し、一番より五番迄真福寺境内に引き付け、車の上にて思い思いの狂言をなし晩方組々へ帰る
・今日又雷神の引物を改め、文覚上人の滝にかかりし人形を造り、昨日の 如く行列をいたし、外組々の引物は昨日のままにて、先ず当所へ引き来 たり村中を引き廻り夫れより五番の引物、真福寺山門の前を通り入組に 引き、谷ッ組を引き回し下組より神明ケ谷に引き、所々にて踊り・稽(げ い)等を尽くし、山王大門にて別れ組々へ帰る、夜五ッ時(午後七時)に 至る。帰路、雨降り来たり道に水流れけれども、連日の早により潤い二 寸に過ぎず
・7月3日、雨乞い祭入用の勘定を神明拝殿にていたす。帰りに八太郎宅 にて村中、酒食心にまかさしむ、猶芸・術を尽くし夜に入る迄大興。小 雨
・7月17日、真福寺請雨、門中の僧を集め五百拝、村中寺内に集まる。昼 八ッ時(午後二時)東に雷鳴り、雲起こり、艮(うしとら)の方より雨降 り来たり大雨、晩方止み、夜九ッ(午前零時)過ぎ又大雨、此の時に至り 此の辺の川々に水流る。五月六日より今日迄七十日の間早す
・7月18日、風祭り
・7月、暦学者・書物奉行渋川六蔵、蘭学・蘭書の取り締まりを老中水野 忠邦に建議。
・8月21日、三光院と檀家の訴訟事件起こる(五十嵐民平考p45) 住職「養源」の乱行を訴えた。
・9月、下師岡村(現・青梅市師岡町)の旗本新見氏(知行高一一六〇石余) が生活困窮から生活費を地元の名主を務めていた千右衛門に立替えても らっていた。
 その返却について、下師岡村の本百姓は村内では出金することができず、 返済のために「講」を計画して、下師岡村の隣村の村々に依頼した。下 師岡村の隣村の村々は、一年間に上納するものを年三回に分けて出金し、 その金銭を名主千右衛門の立替金の返済に当てることで決着した。
 この時代の旗本の大半が経済的窮乏に喘ぎ生活を圧迫され借金を重ねていた。=隣村に知行の不足を割り当てる制度があったことに注意。 (多摩のあゆみ 126p76~79)
・9月2日、雨。当六月、勘左衛門孫米蔵壱人癩病により、草津温泉に出 立し、帰路大谷沢村(埼玉県日高市大谷沢)にて歩行なりがたく、其の 村の世話になり、昨日、茂左衛門宅迄飛脚両人来て、右の由を告げるに より今日近隣八、九人、大谷沢村に行き米蔵をかき来る、三代癩を患う
・9月11日、第十二代将軍家慶から朱印状 氷川大明神5石 三光院3石
・9月20日、高木村角力あり。此の節蕎麦の虫多く日々虫を拾うといえども尽きる事なし
・10月1日、米百文に一升、大麦一両に弐石三斗、同粟弐石、大豆百文に 九合、小豆六合、小麦一両に八斗五升
◎芋窪村蓮花寺火災、14年再建 天保8~9年頃は荒廃、無住 指田日記では天保9年12月10日となっている。
◎後ヶ谷村で「村入用帳」(支出台帳)を巡って争い 名主相給問題
・10月1日、米百文に一升、大麦一両に弐石三斗、同粟弐石、大豆百文に 九合、小豆六合、小麦一両に八斗五升
・12月6日、水野忠邦、老中首座となる。
・12月28日、幕府、渡辺崋山を国許田原藩での蟄居処分、高野長英を永 牢処分とする。
・この年、人情本の流行が最盛期
 ○京都で豊年踊り流行。

1840(天保11)年
・1月1日、村々年賀先例の如し。米百文に付、一升より一升一合
・1月3日、萩の尾里正方に年賀ならびに例格の家々年賀を勤む。徳左衛 門、旧冬金十郎死去の前日、不実の事ありし由を告げるものありて、神 明拝殿に人々寄合、徳左衛門より五郎右衛門・金兵衛を頼み、詫び証文 を村内に差し出し相済む
・1月4日、徳左衛門組より三郎右衛門宅を借り、昨日の礼として、村若 者中へ酒をすすむ。
・1月7日、惣七・豊蔵、伊勢参宮門出。砂川村太々講の連中出立、百人 に及ぶ。
・1月12日、暖和。古峯ケ原日待。地震夜五ッ時あり。金十郎後家女子産 む。徳左衛門弟権蔵、去る十月逐電し伊勢参宮を致しそれより金毘羅に 参詣し、今日帰宅す
・1月22日、喜代蔵一女庖瘡にて死す。忠蔵二男庖瘡にて死す。
・2月4日、中藤雹祭。夕方雨
・2月5日、雹祭りの宿、四郎兵衛宅、当番平左衛門・四郎兵衛・勝右衛 門・摂津・才次郎・八太郎・源兵衛・文太・金兵衛・庄五郎
・2月23日、半蔵女、庖瘡にて死す。
・2月25日、昨夜より雨、南風。向の勝右衛門女庖瘡湯ながし
・2月27日、半次郎児・向の勝右衛門女、庖瘡にて死す
・3月2日、勘定奉行遠山景元、町奉行に就任。
・3月3日、金十郎嫡女庖瘡湯流し。宅部円達院で火生三昧。後ヶ谷の文 右衛門来る。
・3月5日、清左衛門児、庖瘡湯流し。権右衛門児庖瘡にて死す。
・3月5日、8代目市川団十郎『勧進帳』、河原崎座で初演。
・3月6日、市郎左衛門末女、庖瘡湯流し
・3月7日、清左衛門児、庖瘡にて死す
・3月8日、所沢に行き、桑苗七十五本を求め来る
・3月13日、雨。赤堀の平五郎馬寄せ(馬市か?)に付、頼みのため斗樽(1 斗樽)二樽を送る、茂左衛門宅にて村方へ披露す。中藤田中の定右衛門 よりも斗樽一本を送り、真福寺開帳により芝居を奉納致したき由、猶、 諸世話頼みたきとの口上、是れ又、茂左衛門宅にて披露有り。
  夜、向の勝右衛門児、庖瘡後死す
・3月16日、市左衛門孫庖瘡後死す。真福寺境内にて奉納芝居初める
・3月17日、半次郎小児庖瘡湯かけ。
・3月18日、真福寺境内奉納芝居終わる。
・3月22日、御嶽山太々神楽講中出立。高木村市郎右衛門妻来る。夕方雷 雨、夜止む
・3月23日、金十郎末女、庖瘡湯流し。弥次郎小児庖瘡後不快により千度 参り。峯吉・安左衛門、古峯ケ原代参より帰る。中藤人別
・3月27日、内の二女琴、庖瘡湯流し
・3月28日、奈良橋の縫之助来る。箱根ケ崎の金右衛門妻、庖瘡見舞いに 来る。高木の清蔵華会(はなかい)芝居
・4月6日、萩の尾宗庵旧宅に借家し小児庖瘡を患い死す
・4月9日、久八児庖瘡にて死す
・4月10日、例格神明宮・正一位稲荷・金毘羅神楽、神子(みこ)止宿。 縄竹の清八妻来る。夜、横田村の平八妻商いに来たり、帰りがけ西隣の 五郎右衛門庭に於いて率然として絶入りし、人事を覚えず、暫時蘇生す るにより、五郎右衛門宅にかき入れ介抱しけれども、其の夜三、四度気 絶しけれども、夜明けより正気になりし
・4月11日、昨夜より平八妻、五郎右衛門宅にて病により、横田村中の者 来たり山口に千度参り、当所よりも鎮守に千度参りを為す、今日四ッ時(午 前十時)、病人を平八宅に戸板にて送り帰す
・4月15日、奈良橋の由之丞、出入り祝儀 奈良橋の伯母、他出して行方 知れざるよし、覚宝院来て告ぐ。清蔵、不将度々にて、此の節欠落届け あり、家財払い物。村々人別、奉公人在所・親々名前迄認め出すべき命 あり
・4月28日、琴、庖瘡祝いの赤飯を配る、家数四十三軒。薩摩芋を指す
・5月1日、夜、七右衛門婿ひろめ。伊之助一女、庖瘡難症により観音経 を読む
・5月3日、薩摩芋を差す
・5月5日、昨夜より雨。金十郎末女、庖瘡後死す
・5月10日、奈良橋の縫之助来る。中藤田口氏老母来る。伊之助一女、二 才にして庖瘡を患い死す
・5月11日、留蔵を雇い荏(えごま)を蒔く。昨日、奈良橋の七郎兵衛児、 庖瘡にて死す
・5月17日、泰次郎二女、庖瘡湯ながし。朝五ッ時(午前八時)地震。小雨
・5月21日、雨。橋場の常五郎男五才庖瘡にて死す
・5月23日、泰次郎一女、庖瘡難症により千垢離・山口千度参り
・5月24日、泰次郎一女、四才にして庖瘡を患い死す。大徳院来る
・5月26日、雨。四郎兵衛三男、庖瘡湯流し
・5月27日、繭三枚、三分一貫百文に売る
・6月5日、東隣の哲蔵女、湯流し。小麦苅り
・6月8日、幕府、勘定吟味役川路聖護を佐渡奉行に任命。
・6月9日、小雨。所沢より研屋(とぎや)来る。夜四ッ時(午後十時)、 六兵衛小児庖瘡にて死す。同時、文左衛門末子三才庖瘡にて死す
・6月10日、御年貢取立
・6月16日、小麦棒打
・6月18日、文左衛門弟金蔵、先達てより清蔵明家に住みしけるが、嫡子 五才にして庖瘡を患い死す
・6月22日、昼四ッ時(午前十時)より雨、八ッ時(午後二時)に至り次第に 大雨、寸隙なし、北風、袷を着す、昨日、土用に成るといえども、夜中 は蒲団を衣て相応す
・6月23日、昨日より大雨間断なく、今朝小雨、艮(うしとら=北東)の 風あり、昼九ッ時(正午)止む、武州の内、川々水出、近年まれなるよし
・6月24日、晴。粟こぎ
・6月25日、中藤入り定右衛門を雇い荏の萩りをなさしむ
・6月、幕府、佐渡一国一揆の責任を追及し奉行所役人を処罰、百姓側も90 余名を罰す。
・6月、幕府、伊豆韮山代官江川英龍に伊豆諸島支配を命じる。
・7月、オランダ船、アヘン戦争の情報を伝える
・7月10日、茂左衛門宅に田中の定右衛門より酒を送りし由にて、村中を 集め呑ましむ、是れ七日に拝島村の者と口論に及び、惣方の子分ども大 勢両方へ引き別れ、場所を定め既に刃傷に及ぶべき所、惣方あつかいに より和談調うにより無難なり、依って悦びの酒なるよし
・7月19日、昨夜より雨、近郷の小川満水、橋々落ちる
・7月20日、喜八を雇い大根を蒔かしむ
・7月28日、中藤入り金兵衛子息庖瘡湯掛け
・7月、幕府、長崎唐人屋敷の在留清国商人に、アヘン戦争の情報提供を 求める。
・7月、町奉行、平田篤胤『大扶桑圀考』の絶版を申し渡す。
・8月14日、先日より秩父の川北氏、東隣の庭を築き今日帰る。夜、八州 御取締方、所沢に宿し召状来る、是れ当所祭礼に付、俄狂言の稽古を致 す由風聞あり、御改革の御趣意にそむき以ての外不将の趣申し渡さる由、 中藤戸端・萩の尾里正・茂左衛門、所沢に出る
・8月16日、御取締より厳重の命あるにより、当番勘七宅にて鎮守氏子・ 里正・与頭寄合、狂言を止め、例格獅子舞ばかりに決す。
  西隣にて夜、座敷狂言
・8月21日、鎮守祭礼の上狂言致したく稽古せし連中は勿論、若輩の男女 は思い居る所、別して厳重に押し止められしは、中藤谷ッ里正方より申 し達したる故なりと、推量したる踊り連中、谷ッ里正方へ推参して右の 憤りを申すべきにと甚だ騒動す、よって砂川庄官・羽村某両人にてあつ かい、惣方取り繕い和談
・8月22日、鎮守獅子舞
・8月24日、所沢の沢吉来る。雨。今日より又狂言の稽古を始む
・8月28日、夜、真福寺にて稽古連中狂言
・8月29日、真福寺にて狂言あり。後ケ谷の真野後夫太妻、同所文右衛門 妻を連れ立ち初めて来る、吉右衛門宅に案内す、親客なる故也
・8月30日、真福寺にて留主居狂言
・9月、高島秋帆が長崎奉行の田口加賀守喜行に、国防意見書を提出する。 欧米列強による軍事圧力が迫り来ると予想できるいま、海防のため西洋 砲術の採用が急務である、と訴えたもの。(天保上書)
・9月1日、彼岸桜・杏・李、二度花開くを此の節所々にて見る。狂言の 連、西隣五郎右衛門宅にて日待。夜に入り四郎兵衛宅に推参、狂言を催 す
・9月2日、四郎兵衛宅にて又狂言あり
・9月3日、今夜、長円寺にて狂言を催すべき談しあれども、夜深更に及 び止む。奈良橋村覚宝院・内堀の常覚院、浅右衛門宅にて修羅加持
・9月4日、長円寺にて狂言を催す談じの所、さわりありて止む
・9月18日、忠兵衛を雇い粟を苅らしむ
・9月28日、忠兵衛ならびに杢左衛門母を雇い、荏を苅りふるわしむ、畑 壱反にて壱ばん九斗二升二合。
・9月29日、荏あとの畑に小麦を蒔く、
・10月28日、喜八を雇いサツマ芋を置かしむ
・11月1日、江戸湾防備の川越藩から豊かな土地への転封を願い出が出さ れて、川越藩を出羽庄内藩、庄内藩を越後長岡藩に越後長岡藩を川越に 移す、三方領地替えの命令が出る⇒
  ・庄内藩の農民ら、領主の転封に反対して江戸への出訴を開始。
・11月18日、観音堂談議終わる。昨夜、箱根ケ崎村長百姓市九郎、宅部 三光院山小屋に於いて狼籍者ありて疵を負い、且つ小屋を焼くと云う風 説あり
2人、江戸に上り転封中止を嘆願
・12月14日、谷文晁没(78)。
・12月30日、平田篤胤、幕府より著述差し止め・江戸退去を命じられる。
・立川村御陣屋に蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村、清水村、 廻り田村、野口村の名主が麁絵図を提出