②道普請
明治五年(一八七二)の新聞は、「泥濘尺余の東京」という見出しで、東海道の高輪大木戸辺から品川駅までの道路のはなはだ破壊の甚しさは「車輪馬脚を没する」状況であったと報じている。
銀座通りに赤い煉瓦が敷きつめられたのが明治七年、これとても一年ほどで穴だらけになったと苦情が出たという。日本の道路の基点でこのありさまだから、まして在方ではなおのこと。しかし村むらでは従来から自主的に道の補修を行っていたのである。道普請といった。
一家から男一人が人足に出るが、病気や女世帯で出られないときは応分の負担をする。道端に大穴を掘って砂利を掘り出して敷いたこともあった。昭和のはじめ「村の道普請」という小学唱歌があったのを思い出す人もまだいるだろう。
溝を凌らえ 草を刈りて
われらは励む われらの村の道ぶしん
村のために 国のために
尽くしたる われらの年寄りの
歩み安かれと 朝な夕な
われらは励む われらの村の道ぶしん
エンヤラホイ ヤレホイ ホイホイ ヤレホイ(再唱)
歌にするといっけんのどかにも見える状景であるが、村の仕事としては大きな負担であったと思われる。明治九年、国道・県道の制度が始まり、国道の一等が幅七間、二等六間、三等五間、県道が四、五間となった。
東大和地域では、旧青梅街道(桜街道)が幅員からいって県道にあたった。
蔵敷の内野家文書に「青梅橋架換寄進人名簿」がある。明治十六年十一月とあるのが、朱筆で六を八に直してある。内容は次のようである。
舌換
甲州街道脇往還県道二架スル青梅橋、数年ノ久シキヲ経、大破二及ヒ路人危(ママ)検二遭遇スルアルヲ見ル、因テ今般更
二架換路人ノ危険ヲ防禦セント欲スモ我々空微ノ身ニシテ営費ヲ弁スルニ堪へ難シ、各地有志ノ諸君我々ノ鬼志ヲ透徹セシメ諸費ヲ助ケ賜ハば・幸甚二候
北多摩郡小川邨
せハ人小川弥次郎
北多摩郡奈良橋邨
同鎌田藤九郎
あとは白紙のままである。草案で終ったのか、後日の経緯は不明であるが、公共性の高い青梅街道に架る橋でさえ、寄付をあおがなければならなかった事情があったのであろう。
明治二十二年四月、市町村制が布かれ当地方にも合併の話が持ち上ったが、結局、高木村外五ヶ村組合という組合村が結成された。堰や橋の修理など旧幕時代には自普請といって、個々の村ごとに村入用に計上され、持高割に村民が拠出していた。今後は村税で賄うことになったのである。
明治二十七年(一八九四)の記録によると、蔵敷村内の村山道(青梅街道)と、熊野前水抜破損箇所の工事について、東京府の助成を得ている。ちなみに前年の四月、三多摩地域は神奈川県から、東京府へ編入を果した所であった。このとき、多分いっしょに行われたと思われる村山橋の架け換えのため、厳島神社に氏子中が積立てて置いた護持の基金を寄付した。この件について、北多摩郡役所から賞杯が下賜される通達が、組合村宛に届いている。
二十七年の工事終了後間もなく、次年度を目指して、地方税支弁に関する稟申(りんしん)を府知事宛に呈出した文書がある。当時の交通事情などがうかがえるので、全文を記す。
地方税補助道ヲ支弁二編入ノ儀稟申
北多摩郡蔵敷村字弁天前村山道ヨリ奈良橋村狭山村及ヒ東村山村廻リ田ヲ経テ小川停車場へ達スル通路、別紙図面ノ通二候間、明治廿八年度二於テ地方税ヲ以テ修繕相成度、右は従来東京往還ニシテ田無村エ通スル地方税補助道二候処、既二川越鉄道敷設相成、小川停車場モ建築二付不日開通可相成、依而ハ村山地方ヨリ荷物ノ運搬人馬ノ通行、日二頻繁ヲ極め可申二(モウスベキ)付願之通リ御許可被成下度(ナシクダサレタクメ)、且(カツ)本郡二係ル甲武鉄道線二至リテハ境、国分寺、立川ノ三停車場アリ、何(いず)レモ之二達スル通路ハ挙テ地方税支弁相成居候儀ニテ当村々ノ如キハ是迄里道二周リ迂回シテ立川停車場二至リタルモ川越鉄道開通ノ上ハ村山地方ほとんど三里ノ村落ハ悉ク小川停車場ヨリ東京へ往復可(イタスベキ)致二付、之二達スル道路ノ修理ハ今日最モ急施ヲ要シ候間、沿道村々連署此段稟申候也
北多摩郡高木村外五ヶ村組合
明治廿七年九月三十日
村長 尾又高次郎
同郡 東村山村
村長 小嶋證作
仝郡 小平村
村長 高橋恭寿
東京府知事三浦安殿
文書に見える東京往還というのは、旧江戸街道、今の新青梅街道である。蔵敷の弁天前から奈良橋川(前川)を渡り、砂の川橋を越して庚申塚の西へ出る斜めの道は、昔、庚申塚にあった道しるべにも中藤への道と刻まれているほど割合利用度の高い道であった。この道を江戸街道へ出、旧道の東京街道団地の北を東進し、東村山の廻り田地先で右折すれば小川駅に着く。稟申の通り、特に蔵敷以西の人びとにはずいぶん便利で、整備が急務とされたことは間違いない。
次に明治三十三年の工事の記録を見てみよう。蔵敷分の道の修繕で、これも村山道についてである。延長二一○間(約五四㍍)、幅二間(三・六㍍)の工事を、蔵敷村が八五円八銭で請負っている。府令の工事執行規定の中で、工期は三月十五日から三十一日まで、延人足数五〇・四人、一人当り三○銭、実働二十八日、ローラル(ローラー)損料一七円一〇銭であった。その他は山砂の費用である。この人足に、村民は総出で当ったのであろう。
西洋で使われていたアスファルトが、やっと試験的敷設を終え、需要の引合いも出てきたという民間の情報があったのが、明治三十年ごろという。
当初、極めて資金のなかった明治新政府が、急速な西洋化の中で力をつけ、日清・日露の軍備に追われ、民生に力を入れることができなかった状況があった時代である。その後、百年の波瀾の星霜を送った今、わが市の道路の整備を見るにつけ、先人の労苦がしのばれるのである。