「鹿島様の要石(かなめいし)」

「鹿島様の要石(かなめいし)」

 東大和市がまだ海の底だったという頃のお話しです。
 芋窪に「豊鹿島神社」(とよかしまじんじゃ)があります。江戸時代までは鹿島大明神と呼ばれました。慶雲4年(707)鎮座と伝えられます。現在の本殿は文正元年(1466)の棟札をもつ、都内最古の室町建築物です。東京都有形文化財(建築物)として指定されています。徳川家康による十三石の朱印状を有しています。この神社に伝わるのが「要石」のお話しです。


 大むかし、鹿島大明神の社地は丘陵から南に1万3千坪(4万3千平方メートル)あまりの広大なものでした。その頃は、武蔵野の原が渺々と広がって、その中に塚となって要石はありました。現在は、村山貯水池の建設に伴って移転した蓮華寺に隣接して、こんもりと木立にかこまれた一隅をなしています。鳥居の奥に小さな祠が祀られてて、その祠の前に、表面には高さ20センチ、根まわり2メートルほどの山型の自然石が頭をのぞかせています。これが鹿島さまの要石」です。『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。


 「大きな石であったため、耕作のさまたげになっていました。ある時、村人たちが大勢集って相談をし、この石をとりのぞくことになりました。ところが掘っても掘っても根深く、地下にいくほど大きくてどうしても掘り出すことができませんでした。それ以来、誰言うとなくこの石のことを「要石」というようになったということです。

  この要石には虫占いのいいつたえがあります。石のかたわらを掘って、出てきた虫の数によって、授かる子供の有無や数を占いました。一ぴき出たら一人、二ひきなら二人というように、虫の数と同じだけ子宝に恵まれるというのです。死んだ虫が出ると大凶で、子供の死を暗示するというので、人々は真剣な気持で占ったといいます。

  要石のそばに、昭和のはじめまで、大きなもみそ(もみの木)が高くそびえて枝をひろげ、かなり遠くからもよく見えました。五十年ほど前に、このもみそを伐り倒したところ、その年、大変な雹(ひょう)の被害に見舞われました。人々は恐しがって「これはきっと要石のたたりにちがいない」と口々にうわさをし合ったそうです。

  また、大古の昔このあたりが海だったころ、建御雷命(たけみかずちのみこと)が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという伝説もあります。」(『東大和のよもやまばなし』 p200 2014.02.02.
 
 次に続く