ふるさとの地名と由来


ふるさとの地名と由来
東大和市の地名
「大和」の呼び名と旧大字名

 「やまと」の地名は、芋窪や奈良橋という旧大字名のように、もともと自然発生的に呼び慣らされてできたものではなかった。すでにのべたように、大正八年「組合村」を解消して→村になったとき、初めて「大和村」の名が誕生した。六つの部落(大字)が融和して、「大きく和する」ことを念願した命名であったという。その後町から市に昇格するとき、すでに神奈川県に大和市が存在するため、東京の大和という意味から、「東大和市」にしたといわれている。

 大和村を形成した大字は、東から清水・狭山・高木・奈良橋・蔵敷・芋窪の六部落であり、現ふもと在の町名の基になっている。これらの旧村はもともと狭山丘陵内と南側の麓に開かれた古い集落であり、それぞれが切添畑として徐々に南へ開拓していった。このためすべてが東西の幅が狭く、帯のように南北に長い形をしていた。このことは狭山丘陵の南麓に生まれた古村である東村山市域や武蔵村山市域も全く同じであった。かつて「本村」(ほんそん)という呼び名があった。昭和十年代に村の南部に「みなみまち」地域ができて、はじめは新しい町から旧村地帯をそう呼んだように思う。都市化の波で住宅地が急激に拡大され、南と北の境目がなくなって、いつかそんな言葉も聞かれなくなった。

「清水」

 『狭山之栞』(杉本林志著・すぎもとしげゆき )には、「此地は狭山が池の清水流れゆく地に当たるにや、古時よりかくは号す」とある。清らかな水が得られるところにできた古村で、清水と呼ばれるようになったという。氷川大明神(清水神社)は同村の三光院とともに徳川氏の朱印状を受けている由緒ある神社であるが、天正十九年(一五九一)の家康公の御朱印状に、すでに「武蔵国多東郡清水村」とある。以後の朱印状には「多麻郡清水村」「多磨郡清水村」などと記述されるという。

「狭山」

 前述のように明治八年に後ヶ谷村と宅部村が合併して名づけられた大字名である。しかし狭山丘陵・狭山が池などがあるように、広い範囲を表す狭山の地名は古い。狭山の意味は、もともとは小さい山とか端山(はやま)のことと思われている。狭山丘陵が広い武哉野の中にあって、わずかな起伏をもつ細長い山と谷地であることから来ているのであろう。

「高木」

 高木神社はもと尉殿権現(じようどのこんげん)といった。「社地に松杉の大木繁茂し、南は玉川府中辺りより、西は青梅五日市、東は田無保谷あたりより望見し得られし故(『狭山之栞』)」、「高木」と呼ばれるようになった。神社境内の大木が地名の由来という。

 志木街道を奈良橋交差点から東村山方向に向かうと、高木の地に入って小さな坂道をのぼり、やがて曲がりながら下る。狭山丘陵が南にせり出す台地で、南端の一段高いところに高木神社があり、その東に塩釜神社が並んでいる。

 戦後しばらくまで、高木神社境内には杉の大木が林立して、いかにも村の鎮守の雰囲気があった。周囲は畑が広がり人家もまばらだったので、府中や田無は別にして、近隣からならこんもりした森が見えた。境内の木立は今はずっと少なく寂しくなっている。

「奈良橋」

 土地などを平らにすることを「ならす」という。山中で少し平らなところを「ナル・ナロ」なゆるどと呼び、「ナラ」も平ら・緩やかな傾斜地などを表す言葉である。古都「奈良」は平らな場所・広い平地の意味から起こった地名といわれている。

 大字奈良橋の地名も山地を出て緩やかな斜面とか平地をいうものと考えられている。平らな地の「端」を意味したという説明もある。広漠たる武蔵野の端という印象があったのかも知れない。「奈良橋」は単に小区域を表す地名ではなく、古くは芋窪、蔵敷、高木の一部を含む広い範囲を総称する郷名であった。狭山之栞では「多摩郡山口領奈良橋郷奈良橋村」と記している。

「蔵敷」

 もとは奈良橋村の枝村であったが、正徳年間(一七一一~一五)に独立して一村になった。「ぞうしき」の呼び名は珍しい感じがするが、川崎市に「蔵敷」、都区内に「雑色」名の小地域が存在する。いずれも明確ではないが由緒はあるらしい。

 「雑色」は雑役に従事する身分の低い役人で、着衣の色が定まっていないことからの名称であった。大田区に京浜急行蔵色駅があるが、東海道に沿う六郷町に雑色の宿があった。また中野区南台多田神社門前は小字雑色町で神社の雑事を任された人たちの居住地であったと云われている、
 わが大字蔵敷も、「雑色」から出た地名と思われているが、由縁は明らかでない。

「芋窪」

 古くは「井の窪」とか「井能窪」といわれたという。湧き水地を井と言い、井のある窪地を中心に集落ができたと思われる。後にそれが芋窪や芋久保と変わったものと考えられている。
 『風土記稿』には、この地の古社豊鹿島神社に建武三年(一三三六)銘の大鐘があり、これに「武州多東郡上奈良橋村」とあったという。古くはこの地も奈良橋のうちであったらしい。

小字名と通称名

 自然に発生し古くから人々の口にのぼってきた地名は、それだけで歴史であり、人々の生活や価値観なども含めた足跡である。とくに身近な地名や通称は現在に生きる財産である。すでにのべたように明治初期の地租改正にからむ土地整理によって多くの地名を失ったが、その余韻の残る小字名は貴重である。

 私の生地は大字狭山字「前野」という地で、旧村の先に幾分南に傾斜するところであった。この先には空堀川(砂の川)沿いの「砂」、「東京街道北」「東京街道向」という小字が続いていた。

 実はこの「東京街道北・向」の二つの地域は、江戸街道を北と南にはさむ小字で、本来ならば「江戸街道北・向」と呼ぶべき場所であった。すでに江戸前期(後ヶ谷村寛文九年(一六六九)検地)に「江戸海道向」の小名があった地域に当たるようである(『大和町史研究10』)。それが江戸が東京と改称された直後の地租改正であったためか、わがふるさとの先祖たちは、律儀に江戸を東京と読み替えて整理をしたらしい。

 いまになって道路には改めて「江戸街道」の標示を掲げているが、この地にはすでに大きな「都営東京街道団地」があって有名になっており、曲折を考えるとおもしろい。

「ヤマとバラの呼び名」

 「山」の字は高くそびえた形からできた文字だというが、周囲に高い山をもたないこの地では、平地林も「ヤマ」と呼んできた。川沿いの雑木林とか少し大きな屋敷林(やしきりん)などもヤマで、あちこちに「○○ヤマ」という小地域があった。

 昔私の家のすぐ近くに「三角山」と呼ばれる土地があった。高木と狭山の境目で、清戸街道から八王子道が分岐する小さな三角地点である。道路からわずかに一メートルほど盛り上がり、距離にして二、三〇メートルの雑木林であった。雑木林の突端には二つの庚申塔が雑草に埋もれるように建っており、その前には時々古くなったダルマとかお札などが納められていた。

 今は辻らしい雰囲気も庚申塔もなく、藪も雑木林もなくなって、少し盛り上がった土地に家が三軒ばかり建っている。それでも近くの年配者はみな、ここを昔どおりに三角山と呼んでいる。

 「ハラ」も独特な呼び名である。
 戦後しばらくまで、現在の新青梅街道の南部一帯は、見渡す限りの広い畑地であった。この広い畑地を地元の人は漠然と「ハラ」と呼んできた。
 「野原」の「野」と「原」は、本来違った地形をいうらしい。「野は山麓の広い傾斜地を言い、ハラが広々とした平野を意味した」という(『地名の研究』)。私たちの先祖は、「ハラ」によって限りない広がりの大地を感じていたのであろう。

 昭和二十二年から三年間、私は毎朝南の畑地を斜めに横切って、旧日立航空機の青年学校跡に設けられた中学校まで歩いた。江戸街道を越えると、一キロ以上南に野火止用水沿いの雑木林がかすかに見え、西には庚申塚付近の四、五軒の屋根が畑の中に埋もれていた。とくに東西はそれ以外何一つなく、果てしないという感じだった。この地には「中原」「向原」「東原」など、原のつく小字名が多い。

「内と向のつく地名」

 村は狭山丘陵沿いの北部に集落を持ち、徐々に南の畑地を開拓していった歴史をもつ。このため集落に近い方を「内」(うち)、遠い方を「向」(むかい)と名づけた小字名がある。内が北側、向が南側に当たる。

 先の狭山部落の「東京街道北・向」のほか、高木に「海道内・向」があり、いずれも江戸街道をはさんで「こっちと向こう」の関係である。いちばん南の地は「向原」であった。芋窪の峰岸芳昭さんの話では、芋窪では奈良橋川の南側の地を「ムケイジ(向地)」と呼び、川の名を「向地川」とも言うという。

「砂のつく地名」

 砂のつく地名は「原」とともにこの地域を象徴するように多い。新青梅街道の北側を並行して流れる「空堀川」は、かつて「砂の川」と呼ばれていただけに、普段は水流の乏しい干からびた川であった。砂のつく地名はすべてがこの砂の川の両岸にあり、各部落に「上砂」「下砂」「西砂」「東砂」「上・下砂台」など、似たような地名がいっぱいあった。またこの川にかかる「砂のつく橋」も数多い。

今に生きるふるざとの地名・「庚申塚」

 「奈良橋庚申塚」は、単に青梅街道と新青梅街道道の交差点名ではない。新青梅街道はもと江戸街道と呼ばれ、芝草の中に人の歩くだけの二本の細道がついた田舎道であった。この旧道に沿った交差点近くに、三段ばかりの踏み段がついた小高い塚があった。現在の奈良橋交番のある地点である。塚の上には、高さ一㍍」程度の小さな生け垣に囲まれて、庚申塔と馬頭観音が建っていた。これが奈良橋庚申塚である。

 新青梅街道は、昭和三十八年に清水から奈良橋までが開通し、続く拡張工事によって、昭和四十二年庚申塚も取り払われた。これ以後奈良橋庚申塚は交差点の名前に残るのみになった。

 このとき庚申塔と馬頭観音は奈良橋雲性寺門前に移された。山門左下に建ついくつかの石塔のうち、真ん中に納まっているのが、件(くだん)の 蓋つきの庚申塔(享保十六年(一七三一))で、左が馬頭観世音(寛政九年(一七九七))である。

 庚申塔の台石には、「東江戸道」「北くわんおん道」「南府中道」「西右中藤左青梅」の道しるべが刻まれている。北が「山口観音」へ行く道であり、西方すぐ右に入る道が武蔵村山市の中藤につながる「四街道」(よつかいどう)であることを示している。

 奈良橋庚申塚の石塔は、江戸時代の中期からずっと塚の上に立って、道案内を兼ねながら村の安寧(あんねい)を守ってきた。その当時からここは交通の要所であり、人々の目安になる地点であった。

 すぐ近くに住んでいた澤田八郎さんと伊東道夫さんは、昭和十六年から国民学校に通うとき、この塚の裏側が集合場所で、毎朝ここから上級生に引率されて登校したという。同じ時期南街から通ってきた三澤洸さんは、友達と連れだって帰るとき、ここまでくると決まって塚の上にのぼり景色を眺めたという。学校あたりからのだらだらとした上り坂がちょうど一段落し、民家もとぎれた「原」にさしかかって、小高い塚の上は見晴らしのきく場所であった。

 庚申塚は、江戸時代馬や荷車を引いて、産物を江戸に運ぶ農民や旅人の道案内になり、戦前や戦後の子どもたちのよりどころになって、十分に務めを果たし終えた。目の回るような新青梅街道の交差点から雲性寺に引退したのかも知れない。

 市内では他に「蔵敷庚申塚」と「清水庚申神社」が知られている。奈良橋庚申塚同様これらの庚申塚も、かつての村はずれの辻に面して設けられていた。村境の入り口は災厄(さいやく)の侵 入を防ぐ場所としてふさわしかったのであろう。旧村のほとんど同じような南部地域にある。

 蔵敷庚申塚は、青梅街道から細道を南に二、三百メートル進んだ突き当たりである。道が左右に分かれる小高くなった小さな三角地帯が、フェンスで囲まれている。この中に村山貯水池内にあったという庚申塔が、馬頭観世音他の石碑とともに建っている。今も多少村はずれらしい雰囲気は残しているが、かつてはぞっとするような寂しい場所であった。この囲いの入り口にある小さな石柱に、「右砂川八王子道、左小川府中道」の文字がかすかに読める。

 清水庚申神社は清戸街道に面した小さな三角地帯に建っている。「三角神社」とか「お庚申」とも呼ばれてきた。木立の下の鳥居をくぐると、格子戸(こうしど)に小型の絵馬が二、三枚かかっている小さな堂宇がある。中をのぞくと粗末な祭壇の向こうに二基の庚申塔が安置されている。右側の庚申塔には「享保十三年(一七二八)、武州多摩郡山口領清水村」の銘があり、左側のものにはかろうじて「山口領宅部村」の文字が読めるという。昔ここにも、奈良橋と蔵敷の庚申塚のように、塚が築かれ ていたのではないかと言われている。

内堀輝志 東やまとの散歩道p42~52

「青梅橋」について

 ここも奈良橋庚申塚と同様、交差点の名前としてのみ残っている。東大和市駅のすぐ東側、西武線の高架下で、青梅街道の要所として江戸時代からかなり名のある場所であった。地理に不案内な人は「青梅」の文字にびっくりするらしいし、橋らしいものがないことをいぶかる人もいる。

交差点のすぐ西側に大きな銀杏の木がある。この根もとに庚申供養塔が納まった小さなお堂と、コンクリートが剥げかかった一メートルばかりの石柱が並んで建っている。注意深く見ると、石の柱には「阿を免ばし」と書かれている。「青梅橋」の橋柱の一部が保存されて市の旧跡に指定されているものである。

以前ここには川幅三メートルほどの「野火止用水」が流れていた。青梅橋はこの用水にかけられた青梅街道の橋であった。それが昭和三十八年、ここから下流八百メートルほどまでが暗渠になり、橋もなくなった。さらに昭和五十四年に、隣接の駅は「青梅橋駅」から「東大和市駅」に改称され、いよいよ青梅橋の名は交差点名のみになった。

銀杏の木の下の庚申塔には、安永五年(一七七六)建立の銘があり、「東 江戸道、南 八王子道、西 おうめみち、北 山くちみち」の道しるべが刻まれている。もとは東向きに建っ
ていたものであるが、今は道路拡張で西向きに据えられ、標示が逆方向になって多少の違和感が出ている。道しるべによると、小平方向から青梅橋を通過して西北に進む旧青梅街道は、かつて「おうめみち」と呼ばれたらしい。事実この街道に入ってすぐ、沿道に「青梅道」という小字もあった。青梅橋には青梅への入口というような認識でもあったのかも知れない。

 現在の西武「東大和市駅」の北側に、一本の大きな山桜があった。高架上のホームからみると、すぐ目の前に淡い上品な花が眺められて風情があった。この大木の根もとに、「瘡守稲荷」(かさもりいなり)と呼ばれる小さな祠があった。道に面して鳥居が建ち、脇に数本の赤い幟(のぼり)がはためいていた。十年ほど前の道路拡張ですでに桜の木はなくなり、お稲荷さんも百メートルほど東の高架下に移された。

内堀輝志 東やまとの散歩道p53~54

山の神(高木神社)

「山の神」について

 かつて高木前の原にあった「山の神」は多くの人の知る所であった。現在の東大和病院から三百メートルほど東で、広漠たる畑地の中に、五、六本の杉か檜(ひのき)の木立があり、遠くからもよく目についた。
 山の神の一角は荒れ地で、木立の根もとあたりは背丈を超えるススキや灌木(かんぼく)が覆っていた。その陰にわずかに鳥居が見え、中へ押し入っていくと、向こうに小さな祠があった。
 山の神は私が中学校に通うときの道筋であった。毎朝畑道を横切ってこの近くまで来た。しかし山の神から先は草道を分けながら行かないと通れなかった。私はあらかじめ畑中で西の道に移り、ここを避けて通っていた。何よりあまり気持ちがよくなかった。追剥(おいはぎ)が出るなどという噂もあって、女の人などは夕方になるとたいていこの辺には近づかなかった。

 現在、向原二丁目に「山の神前公園」があるが、「山の神」を含むこの地域を小字「山の神前」と呼んでいた。ただ古くは各部落の畑中にも山の神が祀られていたようである。『狭山之栞』には狭山村の項に、「山神社は野中にあり」とある。
 畑中に点在する山の神は、樵(きこり)や猟師のいう山の神ではなく、農耕を見守ってくれる神だったようである。柳田国男によれば、日本全国至る所に「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終わりにはまた山に帰って山の神になる」という言い伝えがあるという。それは先祖の霊がふるさとの山に登られて、子孫の村人を見守っておられるという祖霊信仰が、この土台になっているのではないかという。(『先祖の話』柳田国男集)

 高木神社境内に、自然石に大きく「山神」と刻まれた石碑がある。『大和町史研究』によると、「裏手山林中に出来た町営水道のタンクの工事現場にあったものを、昭和二十七年移して祀った」という。
 また清水三光院にも、門を入ってすぐ左の木立の陰に、正面に「山神」と刻まれた小さな石碑がある。『狭山之栞』の中で「清水村の内上宅部」の項に、「神祠…山神」とあり、『生活文化財調査概要報告書(東大和市)』では、これを境内に移したものと説明している。私たちの身の回りでも、畑中の山の神は秋には山に帰られていたのかも知れない。そして、村の安寧や農耕の守護として、先人たちの精神的なよりどころになっていたように思う。内堀輝志 東やまとの散歩道p54~56

「新海道」とは

 南街地区にある第二小学校の西隣に、富士見通りに面した小さな公園がある。ここに「新海道公園」という見慣れない名の表示板が出ている。実はこの付近は小字「新海道」と呼ばれた一帯であった。桜街道をはさんで、他にいくつかの「新海道」のつく小字名が連なっていた。また武蔵村山市域にも街道沿いに「新海道」を名のる小地域があった。

 「旧青梅街道原の道」である桜街道は、かつて「新海道」とも呼ばれたらしい。これは奈良橋庚申塚から九道の辻に続く江戸街道を、旧街道として対比した呼び名であったと思える。
 もともと「海道」は東海道に代表されるように、海沿いの道を意味した。その他の道は江戸半ばごろから街道とか道中と呼ぶように整理されたといわれている。しかし一般の表記としては、このように明治初期まで私たちの身のまわりに生きていた言葉だったようである。
 それにしても、「旧青梅街道が新海道」で、「新青梅街道の江戸街道が旧街道」となると、ややこしすぎて地元の人でも分からなくなる。内堀輝志 東やまとの散歩道p56~57
 
村山貯水池内の地名

 新しい住居表示ができて、村山貯水池をすっぽり包む東京都の水道用地は、「多摩湖」という町名になった。東村山市の「多摩湖町」が隣接するだけに、紛らわしくはなっている。

 すでにのべたように、村山貯水池ができる前のこの地域は、狭山丘陵内に開けた農村であった。一六一戸の住民が生活する里山地域で、古村らしい地域名もいっぱいあった。主な小字に、芋窪の「上石川・中石川・下石川」、狭山の「内堀・林・杉本・中田」、清水の「上宅部」などがあった。なお「下宅部」という地域は東村山村の回田内であった。また狭山には「コサイケ」という大きな池があり、これを古く歌にも詠まれた「狭山が池」とする説があった。さらに下貯水池の取水塔付近に三光院が、その西方に清水神社の前身である氷川神社があった。三光院あたりはこの地域随】の景勝の地であったという。

 湖底の村でもっとも注目される地名は「宅部」である。宅部は「屯倉部 」(みやけべ)のなまったものといわれ、古代朝廷の穀倉地である屯倉の仕事にたずさわった、「部」の名に由来すると考えられている。古代からの地名の可能性はあるが、詳細は不明である。ただ何らかの形で屯倉に関わった人たちの居住があったのではないかと想像されている。

 ちなみに『狭山之栞』は「人皇二十八代宣化天皇(五三六ー三九?)の御宇蔵を国々に建て糧を積み民を救はしむ是其屯倉ありし地なるに依る」とのべているが、もちろん定かではない。

 多摩湖の湖底には西から東に宅部川が流れていた。宅部の地を行く川の意味で、これは東村山市に入って北川と呼ばれている。この川の流域や狭山丘陵内は、縄文時代の遺跡が豊富に発見されている地帯である。わずかではあるが先土器時代のものもある。また注目されている下宅部遺跡とか、瓦塔の出土地などもここに含まれるだけに、原始・古代からの居住に適った土地柄であったと思える。

 古くこの一帯は宅部郷と呼ばれたらしい。東村山市の正福寺地蔵堂は、東京都内で唯一の国宝建造物であるが、この創建を裏づける応永十四年(一四〇七)の墨跡に、「武州多東郡宅部郷」の銘があるという。また『風土記稿』には、氷川神社のご神体とされる永禄十二年(一五六九)の板絵像にも、「武州多東郡宅部郷」と書かれているという。

 宅部郷はかつての宅部村・後ヶ谷村・清水村・廻り田村・野口村にわたる地域であったようである。
内堀輝志 東やまとの散歩道p57~59

新しく設けられた町名

新住居表示の概要

 東大和市の町名地番整理は昭和四十八年から五十六年にかけて進められ、現在の形になった。町名決定については「由緒ある親しみ深いもの」を考慮したという。旧村の基になった六つの大字名のほか、なじみの小字名や通称名が生かされ、十七町に区分された。地元の歴史や由縁が大事にされたという感じがある。

 江戸街道(新青梅街道)より北は、もともと旧村の根拠地であり、ここに旧大字名の六町と「多摩湖」「湖畔」の二町が生まれ、以前の地番がそのまま生かされた。街道の南側の地では、「上北台・立野・仲原・向原・新堀」の町名が旧小字名から復活した。「桜が丘・清原・中央」は新たにつくられた町名であったが、「南街」はすでに市外にも広く通用する呼称で、別格であった。

 文化遺産ともいえる地名が町名として多く生かされたのは幸運であったが、地番の整理は不徹底であった。同じ町域で一部分のみ新しい地番がつけられたところがある。結果は一桁の新しい番地と、四桁の古い番地が隣り合っていたりもする。また「湖畔」にみるように、もともと狭山と奈良橋に分かれていた隣接区域を、番地はそのままで一つにしたため、統一性がなく居住者に不便を強いているところもある。

南街の誕生

 「南街」の呼称は以前から住民の間で慣れ親しんできた地名であるが、昭和五十五年に初めて正式な町名として誕生した。すでにのべたように南街地域の発祥は、昭和十三年頃から設けられた、日立航空機の社宅や寮などの住宅街にあった。当時純農村地帯の大和村では、現在の新青梅街道より南は広大な畑地で、ほとんど無人地帯であった。

 ここに、にわかに「マチ」ができた。昭和十八年にはすでに、日立の社宅地域が、大和村の全戸数の三分の一を占めていた。主として現在の東大和病院の南側の一画と、富士見通りに沿った地域であった。

 呼称については、昭和十三年の村議会でこの一帯を一区画とする通称を定めたいという提案があり、当時の村長の発案で「みなみまち」と呼ぶことになったらしい。単純に「南のハラにできた町場」の意味であったのであろう。ただ文字としては当初から「南街」と表記したようである。「大和村南町」には違和感があったのではないか。戦後しばらくたったときには「ナンガイ」の呼び方が市民権を得ていた。

 「南街」が正式な町名になったが、地元の年配者の中には別な感覚がある。かつて畑地であった市の南半分の開発地は、どこでも南街という気持ちがある。いわば広義の「南街」で、以前何となく「みなみまち」と呼んできた気持ちが、今もかなりの人の中に生きているように思われる。

上北台と立野について

 上北台駅は多摩都市モノレールの北の起点である。モノレール線の西側で、新青梅街道と桜街道にはさまれた地域が、町名「上北台」である。この地はもともと「北台」と「南台」といわれたところで、それぞれに「上・中・下」(かみなかしも)の小字があった。いわば上北台という小地域が町名として昇格した。多分この小地域にすでに「上北台団地」が存在し、その名が確固としたものになっていたことが理由だったのではないか。

 北台も南台も文字通りの台地上にある。狭山丘陵沿いの旧村からみれば、空堀川を南に越えて急に小高い台地に駆け上がり、そこから広大な畑地が広がっていた。「台」のつく小字名はこの他にも市内には多い。「砂台」「上の台」「上砂台」のほか、単に「台」という小字まであった。

 蔵敷地域の小字「台」は、芝中団地の北側で、村からは奈良橋川を南に越えて、一段と高くなった場所である。台の地名について、柳田国男は「上の平らな高地で、物の台の形からきている」という(『地名の研究』)。まさにそういう地形のところであった。

 この小字「台」の地を東西に横切る昔ながらの風情をもつ道が通る。「台の道」で、西に向かっては折れ曲がった奈良橋川に突き当たる。地元の人は「でえの道」と呼んでいる。

 町名「立野」は上北台の東側の地域である。
 この地を南西方向に斜めに走る、古道「八王子道」が突き抜けている。
 東大和市内にはもともと「上立野」「下立野」と呼ぶ小字があった。しかしそれは現在の立野とは別の場所で、名前だけを町名に借用したものらしい。かつての小字立野は東大和警察署や「下立野林間こども広場」が含まれる場所で、新青梅街道と空堀川にはさまれた区域であった。現在でもここに「立野墓地」と呼ばれる一画もある。

 「立野」や「立林」という地名は全国的にかなりあり、一般的には農民の入会地や、大名・城主の立ち入りを禁止する直轄地であることが多い。八王子城主北条氏照も、八王子城建設の用材確保と思われる立野・立林規制をしきりに行っている(『薬王院文書」『広徳寺文書』等)。立野は勝手な立ち入りや伐採を禁止する意味で、「断つ野」であったのかなどと、想像してみる。

 ふるさとの小字立野は、万治元年(一六五八)芋窪村民二十五人に、ひとり一反三畝六歩ずつ配分し、開発したという(『大和町史』)ので、村の入会地としての「立野」だったようである。

 市内にはもう一か所類似の地名である、小字「立野窪」がある。清水三光院の南あたりで、空堀川に向かって次第に低くなっている地域である。雑木林として残っていたので、ここも村民共用の入会地であったのではないかと思われる。

桜が丘と新堀について

 「桜が丘」は東大和市の南西部で、桜街道と西武拝島線の鉄路にはさまれた三角地帯である。町名は桜街道にちなんでつけられた。この区域には都立東大和南公園や東大和南高校のほか、高層住宅群や工場群など、大きな施設がいっぱいある。

 実はこの場所は、戦時中の旧日立航空機会社の工場地帯であった。その後昭和二十八年から四十八年まで、大半が米軍大和基地として接収されていたという、数奇な運命を経たところでもあった。

 「桜街道」は江戸時代後期には、青梅橋付近から武蔵村山にかけて、多摩千本桜と称されるほどの桜の名所だったといわれている。その後は道の真ん中に植えられた桜並木として有名であった。明治初期に村の青年たちが植樹したものという。多分この記憶と懐旧が「桜街道」と呼ばれる由縁になったのであろう。

 戦時中日立航空機が大爆撃を受けたとき、すぐ脇の桜並木も戦火を受け、枝葉が焼かれて惨めな姿になった。敗戦から二年後、街道の北側に新制中学校ができたとき、一抱えもある桜の老木は幹だけをあらわにした姿で、それでも道の真ん中に列をつくっていた。中学生だった私は夕方下校時に、畑中に小さくなって沈んでいく古木の連なりを、不思議な感慨をもってよく眺めていた。

 町名「新堀」は、野火止用水に接する南東端の地域である。野火止用水は「伊豆殿堀」ともいわれるが、東大和市内ではほとんどの人が「新堀」と呼んできた。またこの地域にはいくつかの新堀のつく小字名もあった。

 野火止用水を新堀と呼ぶのは、玉川上水に対してであるが、小川橋付近から上水の北側に沿って流れる一メートルほどの小流を呼ぶ名でもある。実は明治初年に一時期だけ、上水の通船が許された。このとき幾つもの分水を整理して新たな堀を造ったものがこれである。小平市の資料集によると、このとき野火止用水もふくめて、北側の分水を「新堀」と呼ぶことにしたらしい。私たちの先祖が「新堀」の言葉を使い始めたのはこのときからであるのかも知れない。

 江戸時代前期、ふるさとでは野火止用水近くまで開拓していた。そのときは「堀端・堀際・水道際」などの小名が使われていたことがわかっている。「新堀」の小字名があったのは、「江戸街道」を「東京街道」と読み替えた、狭山と清水の両部落であったので、ここも地租改正の時期に、新しい言葉としての「新堀」に統一したのかも知れない。

 現在「野火止緑地」は貴重な雑木林として保全されているが、私の子ども時代は今の新堀地区に広がるさらに大きな林だった。しかも今の林よりずっと明るかった。赤松やコナラの混じる木の下は、短い下草があるのみで、どこまでも明るくのぞけた。林の中の細道にまぎれ込んで、多分「キツネノカミソリ」か「ノカンゾウ」だったのだろう、あちこちに咲くオレンジ色の花を見て、子ども心に感動した覚えがある。

向原・仲原・清原その他町名

「向原」「仲原」「清原」は、文字通りかつての畑地を象徴するもので、南部の地域名である。このうち「清原」だけは小字名がなく、「清水地域の原」の意味で名づけられたという。小字「向原」は市域の南端の地で、北部の本村地域から見て、「新堀」とともに最も遠い場所であった。中間の畑地には「仲原」や「中原」の小字名があったが、仲原の方が気に入られたらしい。

 残る町名のうち「中央」は、市役所を含む地域で、青梅街道をはさむ東西の地である。「多摩湖」は村山貯水池内、「湖畔」は多摩湖下貯水池の南側に位置する区域である。

 「湖畔」の地のほとんどはかつての小字「廻り田谷ツ」という場所で、真ん中に「狭山たんぼ」を抱え、南北の丘陵地が西に向かって狭まっていく谷地であった。昭和四十年前後から田んぼは埋められ、北の丘陵地は住宅地に様変わりした。

 かつてこの谷地をつくる丘陵と狭山たんぼの風景は、まことに穏やかで豊かなものであった。地元の子どもたちは、のんびりと田んぼのあぜ道を歩き、花を摘んだりドジョウとりやイナゴ追いをして遊んだ。そしてとくに秋の取り入れ時期になって、田んぼが一面に色づいたとき、子ども心にも神々しいような美しさを味わった。まさに里山らしい里山の地であった。

内堀輝志 東やまとの散歩道p59~67