旧日立航空機株式会社変電所 市史跡

旧日立航空機株式会社変電所 市史跡


 桜が丘2-167-18 平成7年10月1日指定

 昭和13年から建設がはじまった軍需工場の変電施設で、昭和20年の米軍の空襲による弾痕を今に残している。
 郷土のみならず日本の戦史を物語る文化財として極めて価値が高い。

旧日立航空機株式会社変電所 東大和市指定文化財 市史跡 戦争遺跡 

 桜が丘2-167-18 平成7年10月1日指定

 昭和13年から建設がはじまった軍需工場の変電施設で、昭和20年の米軍の空襲による弾痕を今に残している。
 郷土のみならず日本の戦史を物語る文化財として極めて価値が高い。


教育委員会の説明

 「この建物は、昭和131938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場)の変電所です。                                      

 北隣にあった設備で受電した66,000ボルトの電気を3,300ボルトに変電して工場内に供給していました。
 外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。工場地域への攻撃は3回ありました。
 最初は昭和201945)年217日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。
 2回目は419日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。
 3回目は424日、B29 101機編隊による爆弾の投下
 で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。

 この変電所は、戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成51993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。

 保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
 東大和市はこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。     
  平成81996)年3月 東大和市教育委員会」(一部省略)

 
 建物外部の弾痕跡 (クリックで大)
建物内部の弾痕跡(クリックで大)

西武拝島線、多摩都市モノレールの玉川上水駅で下車、約10分で都立東大和南公園内に保存されている変電所に達します。

工場の出来るまで
(日立航空機株式会社と東京ガス電気工業株式会社)

 昭和12年(1937)、当時の大和村は村山貯水池の建設による古村の移転、その後の経済恐慌の影響を受けて疲弊のどん底にありました。そこに工場進出の話題が持ち上がります。一面に畑が続く村の南端です。
 工場は東京ガス電気工業(株)でした。東京都内の大森で、街路灯の器具・ガスマントルの生産販売から始まり、進出当時は航空発動機の製作を担っていました。
 主要幹線道路も鉄道もないこの地への立地は、右図のように、当時存在した立川飛行場周辺の航空機産業の立地と深く関連を持っていたと考えられます。

 
 工場は、新たな発想で建設が行われました。工場群と働く者の居住環境を別の区域に分け、全体として一体化する方法でした。工業都市開発(ジードルング)と呼ばれました。内容は別に記します。
 
 東京ガス電気工業(株)は翌昭和14年(1939)、国策により日立製作所と合併して、子会社の日立航空機(株)になりました。
 工場は日立航空機(株)の中で、最大規模の航空機発動機生産工場と位置づけられ、生産品は昭和飛行機(株)、立川飛行機(株)へ納入されました。  (出典 東大和市史資料編1p25 )
 工場規模は数年間で大きく拡大されました。機材運搬用の専用の引き込み線が設けられました。現在の西武拝島線のもとになっています。

①初期工場規模(昭和13年)                               
・工場用地 約10万坪(33万平方メートル)  
・工作機械 約600
・従業員 約3000
・生産能力 空冷星型発動機 月産150
②日立航空機時代規模
・工場用地 約30万坪(99万平方メートル)
・工場建物面積 約3万坪(99000平方メートル)
・住宅・工場総面積 約58万坪(1.9平方㌔、東大和市の総面積135平方㌔)  
・従業員 約13896人(昭和199月)
・生産能力 空冷星型発動機 月産250基 昭和17年(1942)1000馬力発動機
昭和20年(1945)2500馬力発動機
 これらの発動機は陸海軍の飛行機に搭載されました。

爆撃 工場壊滅

 工場はアメリカ軍によって爆撃を受け壊滅状況になりました。

昭和20年(1945 
217日午前7時、警戒警報
 午前1020分、60機編隊、立川飛行機(株)砂川工場を銃撃
 午前1020分~30分、30機編隊、日立航空機立川発動機製作所爆撃と機銃掃射
 以上は東京大空襲・戦災誌による 死者約78名。
419日、P51戦闘機50機、B293機同伴 日立航空機立川発動機製作所にはP51戦闘機が機銃掃射 死者6
424日、午前730分警戒警報 
 同B29101機)によって日立航空機立川工場が 爆撃を受けた。(アメリカ合衆国戦略爆撃調査)
 工場壊滅状況。27名が死亡 
 以上の3回の爆撃を受けて、操業は不能となりました。戦死者は変電所東側に建てられた慰霊塔に102名の名が刻まれています。     

(出典 東大和市史資料編1p83

 
平和利用、米軍大和基地

 工場群の敷地は精算会社(日興工業株)に引き継がれ、一部が西武鉄道(株)に売却されました。工場の専用鉄道として使われた鉄道部分は西武鉄道(株)に売却され、現在の西武拝島線のもとになりました。日興工業(株)に引き継がれた部分は自動車関連、生化学など平和産業として中小の工場が立地しました。
 変電所はそれらの工場の電源として、平成5年(1993)12月まで使用されました。

保存活動

 平和の大切さを後世に伝え、老朽化が進む変電所を保存するため、市は基金を設置し、「ふるさと納税」制度を設けて協力を呼びかけています。