東大和市の修験 東大和の歴史
かって、明治初年まで、東大和市域の村々には、神社、寺院とともに修験道の道場がありました。
圓達院、持寶院、覚寶院、大徳院、常覚院の五院です。全てが聖護院の本山派に属していました。
古くは中世に遡ることが考えられます。山岳仏教と密教が結びついて、修行を積んだ修験は護摩を焚いたり、祈祷を行って村人達に接しました。村の土豪的な存座であったことも指摘されています。(東大和市史資料編8 p74)
修験は葬式・法会になどは禁止されていました。村に医者の少ない時代です、祈祷や日常の相談事等で村人達から親しまれていました。特に疱瘡などの流行性のある病には、お祓いに頼られていました
明治の神仏分離、国家神道統制によって廃止され、修験は、神官や小学校の教員になって、村人達に接しました。
1圓達院
清水村
村山貯水池に沈んだ氷川神社の近くが旧地です。本山派、聖護院宮末で小田原玉龍坊配下府中門善坊末。
『狭山之栞』
氷川神社、
・別当は府中門善坊霞下なる照林山神宮寺圓達院にして
・昔、宮倉権之丞と云ふ人本山修験となり三覚院と號し
・其子、龍蔵院圓達坊より代々圓達院と號し、
・維新の際復飾して清水大学と改称、神官となり後に安清と改名す。」
とあります。
五十嵐民平著『五十嵐氏考』
長い間、清水村の名主を務めた五十嵐家の民平氏が記された『五十嵐氏考』に紹介される
「清水村村鑑明細書上帳」(天保14年・1843)に御朱印として次の記載があります。
「御朱印 高八石
内 高三石 新義真言宗 三光院領
高五石 氷川社領 本山修験 別当延達院」
と圓達院が延達院となっていますが圓達院と解され、氷川神社を管理していました。
『東大和のよもやまばなし』の一つ「出ば出ろ」の主人公です。
2持寶院
清水村 本山派
武蔵大和駅の西側に本拠を置いていました。本山派、聖護院宮末で小田原玉龍坊配下府中門善坊末。
『里正日誌』に
・天和三年(一六八三)「持寶院継目に付門善坊より下し文」、
・宝永元年(一七〇四)「宝永元年清水村持宝院御差置」
・天保十四年(一八四三)の『清水村村鑑明細帳』に「御除地」として「境内一反歩本山修験持寶院」
の記載があります。
・下の大日堂の本尊である石造大日如来像の銘に持寶院の名が刻まれています。
とくに、「宝永元年甲申清水村持宝院御差置」(1704)では、地頭が持宝院に三石を与えたことと、次のように経歴を記します。
覚
三石之事 清水村
持宝院
右志は正五九月、日待為祈祷無懈怠(けたい)、依永差置者也
宝永元年甲申九月
浅井七郎左衛門印
『里正日誌』
右持宝院は初め大清山と云ひ後に大聖山と号し、本山
修験小田原玉龍坊配下府中門前坊霞下にして、多摩郡
修験の取締なり、元祖大久保掃珠江戸の人也、落飾し
て宗山金剛院と云、二代柳覚持宝院と号す、三世慶岳、
四源良、五良山、六英岳、七宗岳、八俊海、九源海、
十良源、十一代慶傳、中興開基享保十六年六月十六日
没、十二代柳光、(弟狭南先生元文二年丁巳生、文化
六年十二月廿五日年七十三没于(う、ここ)江戸、十三代柳観、
十四柳證、十五有慶、十六陸通、十七恵俊、十八世養
子也康栄也、康栄ハ明治の初復飾して神官となり、明
治十五・六年の比廃さる、其時六十才位也「康栄の養
子を大久保欣平といふ」
江戸に住んだ武家の大久保掃部が入道した
大日堂の本尊である石造大日如来像に持寶院の銘が刻まれています。
東大和のよもやまばなし、モニュメント「火をふところ入れた法印さん」の主人公
最初江戸に住んだ武家の大久保掃部が入道し、本山修験となる。その時期は明らかにされていないが、始祖宗山は金剛院を名乗り、二世の柳覧は持實院と号し、その後三世慶岳、四世源良、五世良山、六世英岳、七世宗岳、八世俊海、九世源海、一〇世良源、十一世慶博、十二世柳光、十三世柳観、十四世柳讃、十五世有慶、十六世陸通、十七世恵俊、十八世康にいたる。
3覚寶院
奈良橋村
八幡宮、山王社 本山派
八幡神社神官の押本家に、修験の堂が設けられています。
天保7年(1836)2月18日 指田日誌上p25
昨夜奈良橋の大人、同村平七見世にて定右衛門のため疵を負い、御検使を願うべき所、蔵敷村浅右衛門・高木村名
主金左衛門・奈良橋村大徳院・覚宝院立ち入り曖(あつか)い、此の夜八ッ時(午前二時)、詫書を取り内済調う。
4大徳院 奈良橋村 愛宕社 本山派
奈良橋押本家に伝わる系図で、高祖・東覚院伝海法印の寂年を明徳元年(1390)とします。
天保7年(1836)2月18日 指田日誌上p25
昨夜奈良橋の大人、同村平七見世にて定右衛門のため疵を負い、御検使を願うべき所、蔵敷村浅右衛門・高木村名
主金左衛門・奈良橋村大徳院・覚宝院立ち入り曖(あつか)い、此の夜八ッ時(午前二時)、詫書を取り内済調う。
5常覚院
宅部村 御料神社 本山派
鎌倉権五郎景政の家臣であった寺嶋小重郎が霊光山東光院と称して聖護院宮の末となったとします。
◎清水村の修験・持寶院の大久保狭南は本山派修験の家に生まれた人です。漢学を大内熊耳に受講して、江戸芝聖坂下に住んで、教授したとされます。寛政9年(1797)、多摩郡内の勝地八ケ所を選び、文と詩による「武野八景」を発表しています。また、小金井桜樹碑を建てました。
安政6年(1859)12月 指田日記下p69~70
八日夜五ッ時(午後八時)、斎藤氏宅の蔵と本宅の間より
火起こる、近所来て消す
九日 斎藤氏宅、両度火燃え起こる事不思議に
付、親類相談の上、内堀の常覚院を頼み
修羅加持(しゅらかじ)をなさしむ
十日昨日、修羅加持致しけるに、斎藤氏宅よ
り三軒目に稲荷を勧請せば無難なるべし
と中座の者申すにより、俗人一同これに
伏し、三軒目の七右衛門裏に稲荷の社あ
り、此の社の内に稲荷を勧請し、奉幣は
代々我が家にて勤むべき儀定あり
01修羅加持
修羅は阿修羅の略。仏教では天竜八部衆の一人として仏法の守護神とされる一方六道の一人として人間以下の存在とされる。加持は密教で印を結び、呪文を唱えて仏の加護を祈る呪法
(4)神仏分離(東大和の明治維新p90)
明治の初年、多摩の村人達に大きな変化を要求したことに神仏分離があります。新政府は次々と布告通達を出します。余り目にすることがないことなので、長引きますが紹介します。
慶応4年(1868)3月13日、布告
このたび王政復古、神武創業の始めに基づかれ、諸事御一新、祭政一致の御制度に御回復遊ばされ候に付いては、先ず第一に神祇官御再興御造立の上、追々諸祭典も興されるべく仰せ出され候。よってこの旨五畿七道諸国に布告し、往古に立帰り、諸家執奏配下の儀は止められ、あまねく天下の諸神社神主、禰宜、祝神部(はふりべ)に至るまで、向後右神祇官附属に仰せ渡され候間、官位を初め諸事萬端同官へ願出候様相心得べく候事。ただし、なお追々諸社御取調べ、並びに諸祭典の儀も仰せ出さるべく候得共、差し向き急務の儀これあり候者は訴え出るべく候事。
祭政一致を目標とする当時の政府の基本原則でした。
・神祇官を再興する
・全ての神主、禰宜、祝神部は、神祇官に専属する
つまり、神道と仏教が混淆している現状から、神道と仏教を分離して、神道を重視し、神官は神祇官に専属するという方針です。
3月17日、神祇局からの社僧禁止の布令
今般王政復古、旧弊御一洗なされ候に付き、諸国大小の神社において、僧形にて別当あるいは社僧等と相唱え候輩は、復飾仰せ出され候。もし復飾の儀余儀なく差し支えこれある分は、申し出ずべく候。よって、この段相心得べく候事。ただし、別当社僧の輩復飾の上は、これまでの僧位僧官返上は勿論に候。官位の儀は追って御沙汰あらるべく候間、当今のところ、衣服は浄衣にて勤め仕るべく候事。右の通り相心得、復飾致し候面々は、当局へ届出申すべき者也。
僧形にて神に仕えることの禁止=別当・社僧の還俗を命じました。
3月28日、「神仏判然の御沙汰」布告
一 中古以来、某権現あるいは牛頭天王の類、その外仏語をもって神号に相称え候神社少なからず候。いずれもその神社の由緒を委細に書き付け、早々申し出ずべく候事。ただし、勅祭の神社、御宸翰、勅額等これあり候向きは、これまた伺い出ずべく、その上にて御沙汰これあるべく候。その余の社は、裁判、鎮台、領主、支配頭等へ申し出ずべく候事。
一 仏像をもって神体と致し候神社は、以来相改め申すべく候事。附、本地等と唱え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべき事。右の通り仰せ出され候事。
いわゆる礼拝対象の神仏分離です。以上の外
4月10日、布告
3月28日布告により、破壊、焼却の行き過ぎがあったことから、行き過ぎを戒める
閏4月4日には太政官布達
還俗して神官になった者の無位の取り扱いを改善する約束
閏4月19日布達
社僧の時代の待遇を許可
等が出されました。これにより、狭山丘陵周辺の村々では、年末から明治2年(1869)6月頃までに、各村で「神仏混淆調書上帳」が作成されています。寺社領の調査は、明治2年3月から開始されています。
修験の服飾
東大和市域の村々では、修験が服飾して神官になることから始まりました。そして、各神社の整理が進んで行きますが、その過程は虚々実々です。里正日誌から一部を紹介します。
慶応4年(1868)8月、宅部村の常覚院が願い出をしました。
『謹んで奉り願い上げ候、今般、ご一新につき別紙願い上げ候通り、村方鎮守神主を仰せつけられ候上は、以後妻子等に至るまで自身神葬祭つかまつり候間・・・
鎮守御霊明神 別当 常覚院
鎮守府 御伝達所』
という願い出を出し、認められました。東大和市域の村々の神社は、豊鹿島神社だけに神官が居て、その他の神社は別当が管理していました。その別当は多くが修験でした。上記のような手続きを経て、慶応4年(1868)9月4日には、次のように修験が神官に服飾しました。
村 名 鎮 守別 当 神 職
清水村
稲荷明神
持寶院
大久保掃部
宅部村
御霊明神
常覚院
内堀内匠
奈良橋村
八幡太郎
末社山王権現改め日枝神社
覚寶院
押本宮内
奈良橋村
日月明神
愛宕権現改め愛宕明神大徳院 押本大膳 蔵敷村では明治元年(1868)11月3日に、熊野権現を別当として管理に当たっていた太子堂の住職・浄海が服飾願を出しました。
『鎮守熊野社別当 真義真言宗 太子堂住職浄海事 服飾改名内野大内蔵
右熊野社の義、旧弊を熊野権現と唱ひ、別当が守りつかまつり候ところ、今般、王政復古神仏混淆御廃止につき、熊野権現を熊野大社と称替つかまつり、前書の通り海事が服飾改名を相願い、速やかに神主に転じ以来・・・
太子堂住職浄 海
氏子総代 名主 杢左衛門 』
この願いは直ちに認められたようで、「願之通承知置候事 辰十一月」の付記がされています。ところが、翌明治2年、騒動が起きました。
明治2年(1869)6月3日、東大和市域の村々に神仏混淆の調査開始の文章が届きました。
『今般 韮山県支配所神仏混淆取り調べのため、其の村々へ此の方共今三日出張いたし候間、村役人は勿論、神主、別当の寺院は案内のため他出これ無きよう、此の段相伝え置き候
韮山県支配所 神仏混淆取調方
一、元江戸西ノ窪烏森稲荷別当某本山修験服飾神主 白石 豊
一、元赤坂氷川明神別当本山修験触頭大乗院当時服飾 深井隼人
一、本山修験常覚院当時服飾 宅部村 内堀内匠
一、元同断行蔵院当時服飾神主 粂川村 当麻主馬
芋久保村 蔵敷村 奈良橋村 右村々名主中』
と云う文書です。併せて、その夜、豊鹿島神社神主から蔵敷村名主に
『惣鎮守熊野社の外、弁天社・山王社の二カ所は豊鹿島神社の進退(=管理)の趣を申し立ててください。』
との趣旨の手紙が届きました。蔵敷村名主は6月4日、返事を書きます。
『弊村の内の社司の義はもとより、尊家の進退の訳これ無く候。殊に村方では旧冬服飾神主を取り立て置き候間、小祠までも右(その)神主進退に致し置き候義につき、その趣を申し立て候に付念のため申し上げる。不悪思召可被下候・・・。』
6月5日、後ヶ谷村の粂右衛門宅で、先の取り調べ役4人と豊鹿島神社神主が取り調べを行っています。蔵敷村の件は
『実事書面差出し候らえども、一切取り用い申さず、勝手気ままに加筆致し、この通り改めて差し出すべし、もし不承知に候はば、先々へ引き出し申しつけ通し致し候迄は・・・』
と取り調べ人は豊鹿島神社への管理を迫ったようです。
蔵敷村では、村人達に相談し、6月5日
熊野神社 外枝社 御嶽神社 愛宕神社は
内野大内蔵兼
芋久保村神主 石井以豆美
名主 杢左衛門
とする請書を出しました。
その背景に、内野大内蔵が石井以豆美の門人となって「神務相続相成候上は」内野大内蔵に進退を任せるとの約束が取り交わされています。
このようにして、東大和市域の村々の神仏分離は進められたようです。蔵敷村以外では
後ヶ谷村 天狗社 愛宕社 神明社 円乗院 不明
高木村 尉殿神社 明楽寺 宮島岩保(宮嶋巌)
清水村 氷川神社 圓達院 清水大学
となっています。時期は現在のところ不明です。
高木村の尉殿神社は、神仏分離により、明治13年に、高木神社と改名したとされます。高木神社の祭神は手力雄命、高皇産霊神とされますが、他市の尉殿神社の例を見ると、祭神は尉殿権現、十殿権現で、倶利伽羅不動尊を祀っています。これらから神仏分離の対象になったものと考えます。
千(仙)光坊
昔、御岳神社と奈良橋の八幡様の間の谷を”千光谷ツ”といいました。そこに千光坊という修験のお堂がありました。傍に墓地があって
・奈良橋 八幡神社境内 富士浅間社
享和二年(1802)
別当覺寳院
・奈良橋 八幡神社境内 疱瘡神
享和二年(1802)
別当覺寳院
・清水 庚申神社 庚申塔
享和十三年(1728)
大清水持寳院法印慶伝
・芋窪 はやし堂 六十六部供養塔
明和二年(1765)
芋窪村行者円入
天台宗系・聖護院を本山派、真言宗系・醍醐寺三宝院を当山派と区別しました。東大和市域の村々では全てが聖護院の本山派に属していました。