東大和市の地名2
p62
東原
土地ではヒガシッパラと通称した。
上ノ台
ウエンデエ。本村の南。けやき通りの西側で清戸街道の北までの地域。清水三丁目。
砂
空堀川の北で清戸街道まで。四丁目。
上ノ砂
清水大橋の東から狭山に編入した四小まで含む。
上砂ノ台
三光院がある所。新青梅街道以北で空堀川の南。
立ノ窪(たてのくぼ)
新青梅街道以南で河岸街道までの狭い地域で、六丁目に入る。
下東京道・上仲原
清水六丁目。立ノ窪と江戸街道の間の地域。
口地内の通称名等
元木
代々名主役を勤めていた五十嵐氏に代って一時その職についたのが池谷氏である。池谷氏の居住地を元木といった。日本画家の吉岡邸がその跡である。
的場
この土地では「まつば」といっている。地頭が弓を射る的場があったと伝えられる。的場・松葉は各地にある地名で、弓神事に射手を出す家の意味があるという。
当地ではそういう話は聞かないが、場所は橋場の観音堂の近くである。今は付近に住む宮倉氏の屋号になっている。
どうじょうが窪
『五十嵐氏考』には、どうぜうくぼとある。道場があったというが空堀川に近いから魚のどじょうの意か。
葭原山(よしわらやま)
清水神社の辺をいう。もとは小川のそばに湿地帯があり、葭原山と呼ぶ帯解林(子どもが帯解きの七歳になると伐る雑木林・七年目に伐採する林)だった。 この山へ貯水池工事のため氷川神社と熊野神社が移転し、清水神社として合祀されたのである。
ク湖畔一~三丁目
(昭51・2・1制定)
西武団地を主体にした町で文字通り多摩湖畔に位置する。旧地名、諏訪山・廻り田谷・大筋端・八つ入を包含する区域である。
ケ上北台一~三丁目
(昭52・8・1制定)
旧上北台、中北台の半分、上南台、中南台の半分を合せて一町とした。
北は新青梅街道、南は桜街道、東は芋窪街道、西が武蔵村山市で、中心に上北台団地が棟を並べる。北多摩西部消防署、NTT、十小等がある。
口当地内の通称名等
少々窪(別稿参照)
コ立野一~四丁目
(昭53・2・1制定)
北の新青梅街道、南桜街道、東いちょう通り、西の芋窪街道が町の境界である。
旧地名は芋窪の下北台、中南台の一部、下南台、蔵敷の八王子道、長久保、西新街道を含む。
昔はこの地域を斜めに八王子道が通り大山や八王子へ向う人びとに利用された。
今はその道を呑み込んだ森永乳業の多摩工場やダイエー、四中、八小がある。
サ中央一~四丁目
(昭53・8。1制定)
奈良橋の砂台、庚申、上大久保、山王、高木の海道向、中原等を包含する市の中心部が中央となった。
中央を青梅街道が走る。
市役所を始めとして、中央図書館や中央公民館、都立東大和高校等の公共施設が集中するのは三丁目である。
市役所の南は山王といった。テマリ保育園の辺りにあった山王社に由来する。