貞和五年板碑

貞和五年板碑




正福寺 貞和の板碑東村山市史6資料編 古代・中世 p903

最後に、先にも触れたが、正福寺の貞和五年(一三四九)銘の板碑(写真3ー27)について触れておきたい(古代・中世金石文1板碑50)高さ二八五セソチメートルの都内に現存
する最大の板碑で、昭和初期頃までは、旧野口村の前川に架けた橋の一つとして用いられ、碑面の文字などが水面に映ってみえたということから、経文橋・念仏橋と呼ぼれていたものである。

 年銘の下部には帰源という名がみられるが、詳細はわからない。しかし、これだけ巨大な板碑を造立できる人物となると相応の身分が想定され、また禅宗系の信仰を示す釈迦如来の種子と仏生日に当たる四月八日の日付が記されていることからも、領主層以上の人物が造立に関わっていたのではないだろうか(市指定有形民俗文化財)。



経文橋の板碑 東村山市史(旧)p331

 正福寺の所蔵する貞和五年(一三四九)の銘文のある板碑(整理番号15)は、長さ三〇〇セン
チ、上部の幅五一センチ、下部の幅五八・五センチで、都内に現存する板碑としては最大のもの
である。釈迦一尊種子に月輪と蓮座を刻し、その下に梵字光明真言を左右に一行ずつに配し、中央に
      帰源
貞和
口口五年己 卯 
    丑 口月八日
      逆修
という銘文が刻んである。但し干支の下で二片に折損しているのをセメントで付着し、銘文の欠損(口で示した部分〉
もセメントで補修してある。

 この板碑は昭和初年までは旧野口村内の前川に架けた
橋の一つとして用いられ、経文橋または念仏橋とよばれ
ていた。その場所は西武線東村山駅西口の通りを西に約
一五〇メートル進み、小路を北に約五〇メートル入った
地点で、今はコンクリート橋が架けてある。野口村名主の
子孫小島証作氏所蔵天明四年(一七八四)の野口村絵図に
は、石橋を画いて「石橋ノ裏ニ日、南無阿弥陀仏、貞和
五年卯月八日帰源逆修トアリ、幅四尺、長一丈余」とあ
る(「東京都文化財報告書」第二集稲村坦元氏「武蔵野の
青石塔婆」)。これは銘文の一部を誤って六字名字とし、
寸法も正しくはないが、江戸中期にはすでに橋として利
用されていたことがわかる。「武蔵名勝図会」には「長

サ九尺幅三尺余、村内往来の橋なり。覗(のぞき)見れば梵字並びに銘
かすかに見ゆ。上に梵字其下に光明真言、貞和五年卯月
八日、帰源逆修」と寸法も銘文もより正確に記し、「里
伝日、此碑は新田義興の逆修の碑なりといい伝ふ。然れども其年をしらず。土人呼て経文橋といふ」と、新田義興の
逆修という言い伝えを書きとめているが、これは貞和が北朝年号であることからみても、とるに足らない。「新編武
蔵風土記稿」は前川を北川と誤り、板碑の長さを二間とするなど、記事はあまり正確でないが、「かかる碑を行人の
足にけがれんこと憚ありとて、板にかへしことありしが、その比村民等比屋疫を患しにより、たたりならんとて又も
との碑石にかへしとそ。」という伝聞を記している。村民の間にこのような崇りが信じられていたため、この板碑は
矢口の渡で非業の死を遂げた新田義興に附会されたのであろう。

 「狭山之栞」には「新編武蔵風土記稿」と同じ伝聞を載せ、板橋に取替え
た人を小島某としている。小島某は時の野口村名主かその一族であろう。

 また「現在は二つに折れたるを板橋の上に載せ置く」として切断部分を図示
し、紀年も「貞和五年迎・・八日」としているので、明治九年ごろには現在見
られる折損がすでに生じていたことが知られる。高橋源一郎氏の「武蔵野
歴史地理」によると大正十一年(一九二二)夏現在は、折損した板碑を板橋
の下に入れ、両岸に振り分けて土中に埋めてあり、木橋も大分壊れていた。
その後の経過は、前掲の稲村坦元氏「武蔵野の青石塔婆」に詳しい。こ
れによると、大正末年東村山村当局はコンクリート橋に架け替えることに
決めたが、村民は崇り伝承をおそれて手をつけないので、村内野口の好古
家遠藤清次郎氏が労務者を傭って昭和二年(一九二七)五月ごろ板碑を撤
去して橋の傍に立て、コンクリート橋を架けた。ところが同年七月、付近
に赤痢患者が七・八名発生し、村民はこれを板碑撤去の崇りとして村当局

に迫ったので、村当局は稲村氏に相談して八月十五日橋畔で一大施餓鬼法要を営み、板碑を正福寺境内に移建した。
しかし遠藤清次郎氏はまもなく病気となって二年後に亡くなった。この経過にみられる通りに、崇り伝承はたいそう
根強い影響力をもっていたのである。

 さて、野口村絵図に記されている天明年間以前におけるこの経文橋板碑の由来について、「狭山之栞」にはもと石
塔窪という処にあったのを大力の男が持ち来って橋にしたという伝承を記し、石塔窪は小川(小平市)の山谷の地か
としている。この巨大な板碑はどれほど大力の男でも一人でここまで持運べそうもないので、この伝承は石塔窪とい
う地名から思いついた話に過ぎないであろう。これに反して稲村氏の前掲書には、この板碑がもと野口村内の廃寺自
教院の境内にあったという別の伝承を収録している。自教院は経文橋から数十メートル南にあったので、この方が事
実に近いように思われる。それにしてもこの板碑の造立者帰源については、新田義興とする妄誕以外に何の言い伝え
もなく、造立の事情は全く不明である。しかし、概況の項でも触れたように、これほど大きな板碑を造立できるもの
はかなり有力な領主であったに相違ないし、禅宗系の信仰を示すと思われる釈迦如来の種子と仏生日(釈迦誕生日)
に当る四月八日の日付が刻まれていることも領主層にふさわしいと考えられる。或いは造立者の帰源は野口村の含ま
れる宅部郷一帯の領主ではなかろうか。所沢市岩崎の瑞岩寺にある宝籏印塔銘の「帰実禅門」が領主山口高治の法名
と伝えられること(二六三ページ参照)とも考え合わせて検討すべきであろう。

梅岩寺出土の板碑群

 市内久米川町五丁目梅岩寺の境内からは昭和四十年および四十二年に一群の板碑が出土し
た。出土地点は本堂後方約一〇メートルの畑地の地表より五〇センチないし一メ:トルの
地中であり、出土した板碑は応永六年(=二九九)六月十二日銘(整理番号22)を上限とし長享二年(一四八八)十
二月六日銘(整理番号34)を下限とする紀年銘の明らかなもの=二基、紀年不明のもの三基、以上一六基と、根部の
みの断片二基である。享保十五年(一七三〇)三月梅岩寺八世月潭律堂の誌した同寺の鐘銘(「狭山之栞」に引用)に
 ママノ
「夫れ武州多麻郡久米川の郷芳林山梅岩禅寺は、応永五壬申年草創の地なり。観音霊験の古道場なり。近代祝融の廃
する所となり、諸堂法器等灰櫨となる。今や時至り、殿宇漸く充備す。」云々(原漢文)と応永五年(=二九八)創
建という年次(但し干支を誤記する)を記している。
また「武蔵野話」には、昔は真言宗で白華山観音寺と称したが慶長の
ころ曹洞宗に改宗したという由緒を伝え、「新編武蔵風土記稿」にも同
様の記事を載せて中興開山の阿山呑碩は承応元年(エハ五二)三月十日
示寂というとしている。さらに明治四十年同寺住職林益紹氏および檀家
総代の東京府に提出した「寺院明細取調書」の控には「一、由緒不詳ト
錐、古老ノロ碑二、応永年間ニハ古義真言宗白華山観音寺ト号セシヲ、
元亀天正ノ兵乱二堂宇悉皆焼失、其后慶安四年三月十五日浄牧院十一世
阿山呑碩大和尚ヲ請再建、芳林山梅岩寺ト改称スト言伝ヘリ。創建応永
 ママ 
五癸西年三月」と草創の年月(これもエー支を誤まる)や再興の由緒がより
くわしく述べてある。但し「狭山之栞」に寛永十三年(一六三六)十一
月九日付の寺領十石の朱印帳を載せているから、慶安四年(一六五一)
の再建というのは誤りに違いない。
p336
梅岩寺は堂宇焼失の
ため、古い文書・記録
を残していないが、寺
域から出土した板碑群
は同寺の由来に有力な
証拠を与えることとな
った。すなわち板碑群
の紀年銘の上限が、応
永五年(一三九八)と
伝えられる白華寺創建
の翌年に当っているの
は、決して偶然でな
く、創建の年に関する伝承が充分に信慧性のあることを立証するものに外ならないと思われる。またこれらの板碑の
年代が長享二年(一四八八)までの約九〇年聞に集中していることは、白華寺の繁栄の続いた時期を示していて、こ
の寺院が付近の住民に多くの檀徒を有して創建より約一世紀ほど栄えたのち、戦国時代に入って衰頽し、ついに一旦
廃絶したことを反映しているのであろう。また、これらの板碑が本堂裏の地下に一群をなして埋めてあったのは、同
寺が江戸初期に曹洞宗梅岩寺として再興されたのに伴ない、無縁と化していた墓地の板碑を一括して埋め、寺域を整
備したためではあるまいかと推測される。
なおこれらの板碑の中に、阿弥陀三尊の種子(三尊とも月輪・蓮座がある)の下に光明真言を左右各二行に刻み、
その中央に次の銘文のあるもの(整理番号29)が存在する。
長_
ニニ尊
亥辛
禅貴
尼秀
正長はきわあて短い年号で、同二年(一四二九)九月五日に永享と改元されている。それゆえ正長四年は実際には永
享三年(一四三一)の筈であるが、この板碑が改元の翌々年にもなお旧年号を用いているのはなぜであろうか。実は
これは当時の政治情勢の反映であり、正長元年(一四二八)足利義教が将軍になると、それ以前から幕府と対立して
いた鎌倉御所足利持氏は一層幕府の命令に従わなくなり、永享と改元された後にも鎌倉府では新年号を用いず、正長
の旧年号を用いていたのである。こうして京都と鎌倉との間は一触即発の危機を迎えたが、関東管領上杉憲実が持氏
を諫め、管領斯波義淳以下が義教を諌めたのでようやく一応の和解が成立し、永享三年八月十八日から鎌倉府でも永
享の年号を用いることになった(渡辺世祐博士「関東中心足利時代史之研究」)。永享の乱の前提をなすこのような情

勢が、この板碑にも明瞭に現われているのであり、同様に所沢市
久米の永源寺には大石信重の墓と伝える正長三年銘の宝簾印塔が
あり(前述)、徳蔵寺の所蔵する板碑にも「正長四年八月十六日
妙道禅門」というものがある(「徳蔵寺の板碑」所収「徳蔵寺所蔵
板碑簡明目録」)。このように東村山市域内外の金石文に旧年号使
用の例がみられることは、幕府と鎌倉府との対立がこの地域にも
影響を与えたことを示すものといえる。