100万年前~1万年前

80万年前

・メタセコイアは第四紀の今から八○万年前に絶滅したと推定されている。(武蔵村山市史上p6)

77万年前

・千葉県市原市の養老川沿いで約77万年前の地層が確認された。
 地球最後の磁場逆転を示す地層境界として国際的に認定されれば、地質年代に「千葉時代(チバニアン)」の区分が誕生することに なる。(2016.03.07.読売新聞)

75万年前

・北京原人(2015.01.28.朝日新聞)

73万年前

・ギュンツ・ミンデル間氷期(73~60万年前)、芋窪礫層が堆積した。(東村山市史資料編 考古p16)
・渚の時代 豊鹿島神社要石の伝承

60万年前

・ミンデル氷期 (60~40万年前)(東村山市史資料編 考古p16)
・後期アシューレアン期、握り斧で丁寧に作られた石器が出現、ホモ・エ レクトウスから進化したホモ・ハイデルベルゲンシスの制作の可能性が高い。
 アフリカ、地中海東部沿岸、インド、ヨーロッパにわたって分布する。(列島創世記p23)
・北京原人 小平市史167

50万年前

・関東山地の縁に、広大な扇状地が発達(50~100万年前、東村山市史上 p55)

50万年前

・芋窪礫層の堆積 丘陵を構成する芋窪礫層は、「くさり礫」を含む地層であるが、この礫はおよそ五〇万年前に古多摩川が運んだものらしい。
 当時の多摩川は、武蔵野北部一帯に氾濫を繰り返しながら砂礫をばらまいていたと考えられる。(東村山市史上p55)

45万年前
大阪大学の敷地内で発見された、大型ワニ「マチカネワニ」の化石は地層の年代から、約45万年前に生息していたと考えられている。
 ワニは主に熱帯にいる。ただ、発見場所のワニが生きた当時の気候は、現在の日本の気候に近かったと考えられるという。
 博物科学が専門の江口さんは「なぜ、日本にワニがいて、大きく成長できたのかなど、謎が多く残っている」と語る。
 (2014.11.10 朝日新聞デジタル)

40万年前

・ミンデル・リス間氷期(40~20万年前 東村山市史資料編 考古p16)
・和県人 中国安徽省和県で発見 1980年代 (2015.01.28.朝日新聞)
 河合信和のブログにくわしい
 http://blog.livedoor.jp/nobukazukawai/tag/%E5%92%8C%E7%9C%8C%E4%BA%BA

30万年前

・狭山丘陵の形成 旧多摩川の本流が丘陵の辺りを削る20~30万年前
 加治丘陵や多摩丘陵と切り離される
・デイダラボッチの伝承

27万年前

・多摩ローム層(多摩川以南は箱根火山、以北は八ヶ岳)27万年~13万年前(東村山市史上p50  p174)
・多摩ローム層には海成と陸成がある。海岸線の変動による堆積環境の違いによる。

25万年前

・25~10万年前ジャワ原人や北京原人の流れを引くアジア系の旧人が日本列島まで来た可能性がある。
 もう一つは5万年前より後に、西から来たホモサピエンスがアジア系旧人を圧倒しながら広がり、日本列島に達した可能性がある。
 (列島 創世記p33)
 ネアンデルタール人 小平市史163

20万年前

・リス氷期(20~13万年前 東村山市史資料編 考古p16)

19万年前

・アジア第4の原人の化石か 台湾沖であごの骨を発見 澎湖(ほうこ)人 2015年1月28日 朝日



河合信和のブログにくわしい
http://blog.livedoor.jp/nobukazukawai/tag/%E5%92%8C%E7%9C%8C%E4%BA%BA

17万年~19万年前

・現生人類が約17万~19万年前の時点で、アフリカから中東に移動していたことがわかった。イスラエル北部のカルメル山の洞窟で、約17万7千~19万4千年前の上あごの骨や歯を発見した。2018.01.26.朝日新聞



15万年前

・15万年~7万年前 武蔵野台地の原形が出来上がってきた。
  更新世中期になって、内湾はしりぞきはじめ、市内の海底は次第に陸地になってきた。
  現在の武蔵野台地の表面は多摩川が青梅付近を項点として放射状にしばしば流路を変えたため、全体として扇状地の形になった。
 この時の河原の砂礫が所沢礫層や武蔵野礫層である。(大昔の国分寺p16)

14万年前
・下末吉層が堆積した。(小平市史 地理・考古・民続編p18)


13万年前

・地球全体の温暖化にともない氷河が溶けたため、海水面が上昇した(下末吉海進)。リス・ヴュルム間氷期(約13~7万年前)
・その結果、関東平野では、内陸まで海岸線が入りこみ、古東京湾を形成した。(東村山市史資料編 考古p16)
・古東京湾の海底に下末吉ローム層の一部が堆積する。(東村山市史上p56)

10万年前

・狭山丘陵の周辺に多摩川による浸食と礫の堆積(東村山市史上p56)
・東京都域にもナウマン象がいた。(日野市史通史編1p13)

8万年前

・古冨士火山の活動が活発化(東村山市史上p56)

7万年前

・最後の氷期である最終氷期(ヴュルム氷期=7~1万年前)
・古東京湾(所沢市史上p99)

6万年前

・武蔵野ローム層 古富士山の火山灰が降り積もる 東村山市史上p176  6万年前~3万5000年前

5万年前

・現代人の直接の先祖となるクロマニオン人が現れ、現代人とあわせて新人(ホモサピエンス)とよばれている。
 約五万年の地層として東京軽石層 がある。(武蔵村山市史上p6)
・5万年前より後に、西から来たホモサピエンスがアジア系旧人を圧倒しながら広がり、日本列島に達した可能性がある。(列島創世記p33)
・海面低下によって多摩川が武蔵野面と多摩丘陵の間の立川面を流れ、河原を広げてきた。
 国分寺崖線は当時の岸辺ということになる。
 降り続いた火山灰は台地の上に積もり、武蔵野ロームと呼び、国分寺市内で2~4m の厚さをなす。(大昔の国分寺p16)

4万年前

・日本列島最古のヒトの存在を証明する石器、小金井市中山谷(なかざんや)遺跡=武蔵野台地Ⅹ層と呼ばれる地層。(列島創世記p33~34)
・4~3万3000年前、長野県信濃町野尻湖立ヶ鼻湖底から掘り起こされたナウマン象とオオツノジカは、この当時の人々が湿地に追い込んで殺したと云われる(列島創世記p34~35)

3万8000年前 朝鮮半島から対馬を通り九州へ入る「対馬ルート」で旧石器人が渡来 国立博物館 2016.02.10.朝日


3万5000年前

・立川ローム層  3万5000年前~1万年前古富士山の火山灰が降り積もる 東村山市史上p176
・栃木・高原山遺跡で、3万5000年前の石器出土 旧石器時代に原石加工 産地に入り採取か(07.04.12朝日夕刊)
・第Ⅰ期(立川ロームX層~Ⅸ層下部、以下、立川ロームを略)が約3万5000 から2万7000年前
・縦長剥片の基部や先端部に部分的な加工を施したもので、発生期のナイ フ形石器の形態的特徴をよく備えており、石斧などの大型の石器をとも  なう。(東村山市史上p178)
・東村山市笹塚遺跡(東村山市史上p185)
・野川遺跡 35000~12000年(2015.01.27.朝日新聞)

3万2000年前

・高井戸東遺跡から3万2000年前の木片が出土⇒東京都杉並区教育委員会は2006年1月27日、高井戸東遺跡(同区高井戸西2)から、旧石器時代にあた る約3万2000年前の炭化した木片発見。
○これまで国内の集落遺跡から見つかった木片としては最古で最大。同じ地層からは、ナイフ形石器や石おのも見つかっており、区教委は「年代が 特定できた国内最古の旧石器遺跡になる」としている。

3万年前

台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」により旧石器人渡来、国立博物館 2016.02.10.朝日
・気候の寒冷化が進む。日本列島付近の海面は100メートルほど下がる。日本海は津軽・対馬の2海峡だけで外界とつながる内海になった。(列島創世記p43)
・群馬県赤堀町下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡で、石器やそれを作るための石くずが環状に分布(列島 創世記p40)。復元模型あり。
・立川礫層が形成され、その上位には、古富士火山の噴火によって立川ローム層が堆積している。(3万~2万年前 武蔵村山市史上p6)
・武蔵野段丘と立川段丘の二つの面を覆う立川ロームは氷河時代最後の火 山灰で、約3万~1万年前に降った。
 その厚さは国分寺市内で2~4m。(大昔の国分寺p16)
・約三万年~一万年前ごろ、地球の寒冷化に伴い、海面が低下した。
 そのため多摩川の流れが急になり、武蔵野段丘面をけずりとって、現在の武蔵野段丘と多摩丘陵の間に河原を広げ、立川段丘面を造り上げた。
 この時に、国分寺崖線が造られた。(ふるさと国分寺のあゆみp15)
・東久留米市下里本邑遺跡 局部磨製石斧から終末期の細石器までの文化層を七層発見
・小平市鈴木遺跡 3万年~1万3000年前までの旧石器
 火山灰などのローム層に含まれる花粉化石の分析から、当時は周辺が草原のような植生だったことがわかった。朝日新聞
・明治大学調布付属校用地遺跡(調布・三鷹)3万年~1万5千年⇒
・国分寺市多摩蘭坂遺跡(3万年~25000年前)(大昔の国分寺p18)
・約3万年前のシベリアの永久凍土から採取した土壌から新種のウイルスを見つけた。朝日新聞20150916夕刊

2万9000年前

AT火山灰(姶良・丹沢火山灰)噴出。後期旧石器時代を前半と後半に分ける指標となる(列島 創世記p43)
・この降灰以前は、部分加工と一側縁加工(右図)を特徴とし、所沢市内では三ヶ島地区のお伊勢山遺跡群で確認されているだけである。
・降灰以後は、武蔵野台地では整った二側縁加工が主流となるが、列島各 地では地域的特徴が見られる。
 これは最終氷期の中でも最寒冷期であっ たこの時期、各地域で環境に応じた生活が展開されたためであろう。
  所沢市内では最も事例が豊富で、砂川遺跡・中砂遺跡・白旗塚遺跡・宮林遺跡等で確認されている。(ところざわ歴史物語p4~5)

2万8000年前

AT火山灰 最新説(姶良・丹沢火山灰)現在、AT層準の炭化材などのAMS(加速器質量分析法)測定値から、町田らによって約二万八〇〇〇~二万 四〇〇〇年前と、より古い年代値が与えられている。小田静夫 新しい旧石器研究の出発点 野川遺跡 新泉社 p32~35

2万7000年前

・第Ⅱ期(Ⅸ層上部~Ⅵ層)が約2万7000から2万2000年前
・石斧などの大型石器が姿を消し、それと入れ替わるようにナイフ形石器 が多用されるようになる。(東村山市史上p178)

2万5000年前

ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」で旧石器人渡来。2016.02.10.朝日
・栃木県佐野市上林遺跡、旧石器時代の集落遺跡か?⇒
・約2万5千~2万年前の石器 
 山形県新庄市の上(か)ミ野(の)A遺跡出土の「剥片尖頭器(はくへんせんとうき)」と、韓国・光州近くの長 陰(ジングヌル)遺跡出土の「スンベチルゲ」。ともに狩猟などに使われ たらしい。
 剥片尖頭器はもっぱら九州で出土し、朝鮮半島との交流を示すものとされてきた。
 約2万5千~2万年前は氷河期で、九州北部と朝鮮半島の間は陸続きか、海峡が狭かったとみられる。
 やはりスンベチルゲが出土した韓国の新北(シンブク)遺跡では、九州の黒曜石を使った石器も見つかった。
 今回はそうした石器文化の広がりの可能性を、遠く東北地方にまで広げた点に新味がある。朝日新聞
・埼玉県所沢市お伊勢山遺跡 25000年以前に堆積したと考えられる土の中から石器が発見されている。(東大和市史資料編3 p154)
 東村山市史上p179に後期旧石器時代の石器一覧表あり

2万2000年前

鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラを起源とする広域火山灰である姶良・丹沢パミスが堆積
・第Ⅲ期(V層~Ⅵ層下部)が約2万2000から1万8000年前
 ナイフ形石器がもっとも盛行した時期で、多種・多様なナイフ形石器が作られ、武蔵野台地で遺跡数と出土石器数がもっとも増加する。(東村山市史上p178)

2万年前

・寒冷化のピーク(東村山市史上p57)ビュルム氷期の最盛期 (東村山市史上p192)
・最終氷期のうちもっとも寒冷な時期をむかえると、海水が大陸氷床と化し、海水面が現在にくらべ130~140m低下した。
・そのため河川の浸食力が増加したことから、立川面を形成、古富士火山の火山灰からなる新期ローム層の立川ローム層が堆積した。
 (東村山市史資料編 考古p16)
・狭山丘陵周辺に人が往来する(東大和市最古の石器)
・東久留米市多門寺前遺跡から、現在の中部山岳地帯のうちでも、高所にのみ認められる針葉樹の類が多く発見される。(所沢市史上p101)
・所沢市域に旧石器人の生活址が盛りとなる。
 所沢市域の河川流域には、第Ⅲ期の前半にはじまる旧石器時代人の盛んな生活跡がとどめられている。
 砂川の上流右岸と東川の上流左岸とにはさまれた、いわば三角地帯に、最も数多くの遺跡が集中する。砂川遺跡も位置する。
・最初、第Ⅲ期の前半に白旗塚遺跡と中砂遺跡、ついで、第Ⅲ期の後半に日向・砂川・白旗塚・中砂の各遺跡に、移動生活の軌跡が刻まれている。  つづく、第Ⅳ期にも、四遺跡があった。その後、第V期の前半には白旗塚・中砂の両遺跡が、また第V期の後半には砂川遺跡がある。(所沢市史上p124)
・海面の低下は2万年前にピークに達し、現在の海面より約100mも低くなったため、多摩川や利根川が今の東京湾北部で合流し、浦賀付近にまでしり ぞいた海岸へ流れていた=古東京川。(大昔の国分寺p16)
・東大和市多摩湖遺跡から15000年~20000年前と思われる石器が発見されている。(東大和市史資料編3 p154)

東大和市史資料編3p154

1万8000年前

・細石刃という新しい石器作りの手法が各地に現れる(列島創世記p50)
  温暖化が加速する。針葉樹が減り、楢、ブナ、栗などの落葉樹が列島を北上する。(列島創世記p52)
・細石刃は日本列島で生み出されたものではなく、南北いくつかのルート で大陸から伝わってきた。(列島創世記p50)
・第Ⅳ期(Ⅳ層上部)が約1万8000から1万4000年前
・槍先形尖頭器の登場する時期で、前半には、別名「砂川期」と呼ばれ、埼玉県所沢市の砂川遣跡から出土した石器に代表されるように、縦長剥片を素材とする細長い二側縁加工の、いわゆる典型的な切出し形のナイフ形石器を特徴とする。(東村山市史上p178)
・東村山市野行南遺跡 (東村山市史上p186)

1万6000年前

・上野遺跡等(神奈川県大和市つきみ野)で、土器をもつグループ゚が住み始める。(日本最古期の土器)
前 1万2000年前
・第V期(Ⅲ層)が約1万4000から1万年前
  短期間に新たな石器が出現し、つぎつぎと道具の主役が交替した時期である。
  前半には、細石刃が登場するが、武蔵野台地では、矢出川技法に代表される円錐形細石核が出土する。
  後半は、石槍と大型の磨製石斧を特徴とする、いわゆる神子柴文化のもので、有茎尖頭器や石鏃、さらに土器も出現するなど、土器の区分でいう「草創期」に相当する。 (東村山市史上p180)
・所沢市砂川遺跡ナイフ型石器が1万3000年前(所沢市史上p103)

1万5000年前
・東大和市多摩湖遺跡から15000年~20000年前と思われる石器が発見されている。(東大和市史資料編3 p154)
・槍先型先頭器が生まれる(小平市史p171)

1万3000年前(晩氷期)

・約13000年前、晩氷期に入る直前の日本列島に、シベリアのアムール川流域から沿海州に起源をもつといわれている大型の磨製石斧と石槍を特徴とする石器群(図2-18の26~28)が北のルートを渡ってきて、中部日本を中心に独自の神子柴文化として発展した。(東村山市史上p194)
都城市教委は20日、同市高城町の軍人原(ぐんじんばる)遺跡で、県内最古となる縄文時代草創期(約1万3千年前)の土器の破片が出土したと発表した。この時代の地層からの出土は県内初で、市教委は「狩猟生活の石器時代から木の実などの採取生活に入った端境期の生活跡ではないか」と話している(2014.11.21.朝日デジタル版)
  縄文時代草創期(約1万5000年~1万3000年前 2014.11.21.読売新聞)
・宗谷海峡(マイナス60㍍)が海水面に没した。ほぼこの時期に日本は大陸から離れて島国となった。(東村山市史上p192)
・日本列島が大陸から離れて島国となる(小平市史p172)

前1万1000年

・縄文時代草創期(1万3000年~1万年前)
・神子柴文化
・晩氷期に入る直前の日本列島に、シベリアのアムール川流域から沿海州に起源をもつといわれている大型の磨製石斧と石槍を特徴とする石器群
  (図2-18の26~28)が北のルートを渡ってきて、中部日本を中心に独自の神子柴文化として発展した。(東村山市史上p194)
・大型の磨製石斧と石槍を特徴とする神子柴文化に土器がともなうことが明らかにされてきた。
 土器もまた、神子柴文化の担い手たちによって、この日本列島にもたらされた可能性が高い。(東村山市史上p196)
・「草創期」の特徴の一つは、新しい道具が短期間に数多く出現したことである。
 石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、 半月形の石器、有茎尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この時期に出現する。
・しかも、石鏃のように、縄文文化の主要な道具の一つとしてうけつがれるものもあるが、その多くは短期間のうちに消滅するというように、
 石器群が目まぐるしく消長した時期でもある。
・とりわけ前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違うことも、つとに知られていることである。(東村山市史上p206)
・「草創期」こそは、列島の旧石器時代から縄文時代への移行期であって、縄文文化を成立させるための、いわば準備の期間であったことになる。
 (東村山市史上p207)
・鹿児島市掃除山遺跡、南九州で最古(13000~14000年前)の遺跡。斜面を直径数メートルに堀くぼめた跡=住居址(列島創世記p63)
◎縄文時代の時期別区分 SkyDrive 縄文時代に有り