10力石

10力石


10. 力石

タイトル:力石
場所:東大和市市民体育館前
設置日:平成2年3月27日
材質:御影石
サイズ:H180×W160×D100センチメートル

(作品紹介)
 昔は、いまとちがって非常に楽しみが少なかったので、仲間が集まっては、力くらべをするのが楽しみの一つになっていました。
 東大和市内の神社の境内などには、たいてい「力石」と言われる石が置いてあり、若者たちは、汗と泥にまみれ、競ってこの石を持ち上げました。
 力石は、だいたい、20貫ぐらい(75キログラム)が普通でしたが、中には50貫(187キログラム)もある石があり、これを持ち上げれば、それこそ村中の話題をさらったものでした。
-東大和のよもやまばなしから-

力石

  むかしは今と違って非常に娯楽が少かったので、仲間が集っては力競べをするのも楽しみの一つになっていました。若い衆が四、五人寄ると誰が言い出したともなく、石の担ぎっこをする話がまとまって、一日の労働が終ると暗い夜道を神社の境内へと急ぎます。鼻をつままれてもわからないほどのまっくら闇でも、勝手知った村の道ですから足どりも軽やかです。家々からはトントンカラリと今晩も、働き者の女衆の機織る音が聞えています。

  その頃はどこでも力試しが盛んでした。神社の境内などには大抵"力石"といわれる恰好の石が置いてありました。月あかりに照らされながら、汗と泥にまみれて力試しに打興じる若者たちの姿がよく見られたものでした。米一俵(六十キログラム)ぐらいは担げなければ男じゃない、などといわれた時代でしたから、力石は十八貫から二十貫位(六七~七○キログラム)が普通でした。二十四、五貫(九○キログラム)の石を担ぐと人々は目を丸くし、三十貫ともなると、たちまち村の話題をさらったものでした。石の目方は秤で測って正確に決めることもありましたが、大抵はみんなで持上げてみて、おおよその見当できめました。中には三割ぐらい多目に誇大表示して、気をよくしていた向もあるようです。

  腕に自慢の男達が「われこそは村一番の力持」とばかり、競って挑戦を試みます。中腰になって持上げた石を、一旦膝の上に乗せ、かけ声諸共に渾身の力をふり絞って一気に肩に担ぎ上げるのです。同時に腰に力を入れ足をふんばって立上ります。そんな時、大向うから黄色い声援でもとんでくれば、それこそ思いがけないほどの馬鹿力がでるのでしょうが、残念ながら女性の見物人は滅多になかったようです。そのせいか、力尽きて肩まで担ぎきれずに放り落す者、はずみで肩越しに後へ落してしまう者、なかなか定石通りにはいきません。殊に青石の力石は、のめっこくてそれは扱いにくいものでした。脱いだきものを石に着せてすべらないようにして担いだものでした。

  ある時、久米から働きに来ていたおさんどんの娘が、その場に居合せました。男達が口々に重い重いと言っていると、件の娘、石をひょいと持上げ「なるほど、こりゃ重い」といいながら、そっと下に置きました。これを見た力自慢の面々も、さすがに娘の怪力に度胆を抜かれたという事です。誰も相手にしないほどの不器量な娘でした。

  力石は、狭山神社、熊野神社、豊鹿島神社などの境内にありました。そのほか大橋の地蔵前や、芋窪の観音堂にも置いてありました。今は湖底に眠る内堀部落でも、非常小屋の脇に二つ、三つ置かれていて、若い衆が集っては強力を競い合ったものでした。

  山口観音の境内に、五十貫(一八七キログラム)の力石があります。天保十二年に福生の人がこれを持上げ、奉納した旨、石に刻まれています。大力を自負する人達が、狭山丘陵を越えて山口観音まで、わざわざわざこの石を担ぎに行ったものでした。芋窪部落にこれを持上げた力持が二、三人いたということです。
(p213~214)

http://asahiup.html.xdomain.jp/sonota/tikara/tikara.html

多摩湖の歴史p222
 中堂の前には力石があった