11. 桜
タイトル:桜
場所:東大和市桜が丘
設置日:平成4年1月29日
材質:小松石
サイズ:H2300×W1200×D1000センチメートル
(作品紹介)
村山団地から東大和市駅を抜けて小平へ向かう旧青梅街道は、かつて江戸街道とよばれた美しい桜並木になっていました。
この桜並木は明治十五、六年頃に植えられ、小学校の遠足の場所でもありました。また、並木道を使って運動会が行われたりしたそうです。
この見事な桜並木も昭和二十年四月二十四日の空襲で付近がほとんど壊滅状態になり、大部分がなくなってしまいました。
市では、桜並木を復活させるため、この道路の街路樹に桜を植え、道路の愛称も桜街道としました。
桜
その一、多摩湖
お花見の季節になると多摩湖はいつもの静かさとは見違えるように活気にあふれてきます。花のトンネルの下を車が連り、この時ばかりは夜桜まで人通りがたえません。
この桜は昭和二年に村山貯水池(多摩湖)が出来た時に植えましたが、その時の木はほとんど枯れてありません。昭和九年に時計王といわれた服部金太郎氏が亡くなられ、翌十年に遺族の方から一万本の桜の寄付があり、主に人の多勢来る下貯水池のまわりに植えました。人の集る所には吉野桜、北側の堤防からよく見える所や、南側の周囲道路に五間間隔(かんかく)で山桜を植えました。五間という間隔は木の盛んな時に広げた枝が、ちょっとつく位だそうです。直径五・六センチの若木を植えたのですが、今ある古木はその時のものです。八重桜は折られたり、早く枯れるのでほとんどないようです。
戦時中に出来た高射砲の陣地のため、その廻りの桜は切られてしまいました。戦後は薪(たきぎ)がなくて貯水池の山から木を切り出されたこともありました。最近は広い所だけに手入れも思うようにまかせません。台風の被害も多く、昭和四十一年には貯水池の木も随分倒れ、五十四年には松が二百本近く折れました。
それでも春になれば桜はつぼみをふくらませます。空一ぱいにひろがる花の盛りは、日本の国花を思出させる季節です。近頃は周囲道路はマラソンのコースになり、走り抜けていく若い人の姿や、遠足の子供のにぎわいが湖水にひびき渡ります。
いつだったか白鳥が一羽とんで来て話題になったことがありました。新年の初日の出を見にここまで来る人もいるこの頃です。(p151~152)
その二、桜街道
もとは旧青梅街道で、ここでは江戸街道ともいいました。小平から東大和市駅を通って火災保険会社の寮の前から村山団地の方へ行く道のことですが、ここに美しい桜並木がありました。小鳥が多くひばりが鳴いて、桜の下にはかげろうがゆれていました。小学校一、二年生の遠足の場所でしたし、運動会をしたということも聞きました。花の頃は鹿島さまの裏山へ上ると見事な眺めでしたし、遠くからは白い幕をひいたように見えたそうです。
この桜は明治十五、六年頃に植えたといわれます。道の両側は畑で、さつまいもや桑の木が植えられ中央が少し小高くなって桜はそこにありました。こさをひくといって切りたおしたこともありました。
戦前外国人が花見に来て、最初は近づくのがこわくて、おそるおそる見ていたこともあります。
桜街道という名は比較的新しい呼び名のようで、昭和二十年四月二十四日の空襲で日立が殆ど壊滅状態になりましたがその時に大部分の桜もなくなり、今残るのは名前だけです。
(『東大和のよもやまばなし』p153)
モニュメント・桜(11)
桜街道の一隅に、人だかりがします。
桜街道の桜の木のもとに設置されたモニュメント・桜 クリックで大
「あれ何・・・?」
「お地蔵さんの代わりでしょう・・・?」
「市が置いてるらしいよ」
「市って、宗教に関するものは置けないはずじゃない!」
疑問の中で、話が盛り上がります。
桜街道もイトーヨーカドーの近くです。さくら苑、都立東大和南公園に向かう道路の交差する三角地です。
近寄ってみると
モニュメント・桜 クリックで大
「よくよく見れば、桜の花びらじゃない」
「ホントだ」
ようよう、合点がいったようで、そばに居る者としても安心しました。
お地蔵さんではなくて、モニュメントの「桜」です。作品紹介として
モニュメント・桜 場所:東大和市桜が丘 設置日:平成4年1月29日
材質:小松石 サイズ:H2300×W1200×D1000センチメートル
「村山団地から東大和市駅を抜けて小平へ向かう旧青梅街道は、かつて江戸街道とよばれた美しい桜並木になっていました。
この桜並木は明治十五、六年頃に植えられ、小学校の遠足の場所でもありました。また、並木道を使って運動会が行われたりしたそうです。
この見事な桜並木も昭和二十年四月二十四日の空襲で付近がほとんど壊滅状態になり、大部分がなくなってしまいました。
市では、桜並木を復活させるため、この道路の街路樹に桜を植え、道路の愛称も桜街道としました。」
と説明されています。
桜街道 進行方向が奥が青梅方面 クリックで大
愛称・桜街道を象徴するモニュメントですが、この道路、「旧青梅街道」で、江戸時代の広域交通路でした。
青梅・成木で生産した石灰を積んで、「御用」の旗印を立てて、ここを通り、小川村(小平市)で中継ぎをして、江戸に運んだ道でした。
また、青梅橋で一休みした御岳参りの旅人が、ここに来て、真っ正面に見る富士山を菅笠をあげて感嘆した道でした。
昭和に入ると、東京ガス電気工業(株)、日立航空機工業(株)の航空機エンジン製造工場が建設され、爆撃を受けて焼け野原になりました。
東京瓦斯電気工業(株)の工場・社宅とモニュメントの位置 クリックで大
モニュメントの前にある桜街道から南側が工場地域でした。
正面を斜めに入る道は、その両脇に社宅が建ち並び、工場に通う通勤道路で富士見通りと呼ばれました。幸いに社宅地域は爆撃から免れました。
左側の住宅のところには青年学校が建てられ、全国から青少年が徴用されました。後に、市の最初の中学校になりました。
画像のモニュメント右側を通る道の先は、一時、米軍大和基地でグラウンドになっていました。
富士見通り方面を見るモニュメント
モニュメントの後ろ姿は、その経過を見つめて、じっくり語りたいかのようです。
AIの時代、やがて、どこかスイッチを押すと画像と共に案内の声が聞こえるようになる」事を夢見ます。
(2019.04.21.記 文責・安島喜一)