12大山まいり
男の子が十五歳になると、神奈川県の大山阿夫利(あふり)神社にお参りをするならわしが、この辺りにありました。遅くとも兵隊検査を受ける前までには、大方の人がお参りをしたということです。
数人が連れ立って、村の青年を先達(せんだつ)に殆(ほとん)ど歩いて行きました。七、八十年前の話です。
そのいでたちは、木綿がすりの着物に、めくら縞のももひきをはき、手甲脚半(てっこうきゃはん)に身をかため、頭には「ひのきだま」をかぶり、「はまきござ」を背にしています。背負った風呂敷には十数箇の握り飯と腹ごしらえも万全です。
砂川三番に今でも「大山みち」の道標(どうひょう)がありますが、ここを通って八王子に向います。八王子から橋本までは汽車にのりました。僅かな距離でしたが、この汽車の旅行は少年達にとって、大山まいりの中でも楽しみにしていたものの一つでした。橋本からは再び徒歩で進みます。沿道の農作物や煙草畑等の耕作の様子を眺めたりして見聞を広める旅でもありました。途中の茶店でコンニャクのてんぷらをおかずに握り飯をほおばり、歩きながらのおしゃべりと、道のりの遠さも余り苦にもならず伊勢原を経て大山に向います。その日の中(うち)に神社に参拝を済ませ、その夜は御師の家に泊りました。阿夫利神社には、「兵隊検査に合格しない様に」と祈願をした者もいました。
そして翌日には江ノ島や鎌倉を見物して帰るのが普通でした。
少し時代を下ると自転車でお参りするようになりました。
大正十年の頃のことですが、びしょ濡れで大山参りをした話があります。
七月一日の山開きの後で、七、八人が自転車を連らねてお参りに行きました。梅雨明け前の曇り空から、、ポツリ、ポツリと降っていたのですが、立川から富士向きに自転車を走らせ、日野の渡しにさしかかる頃には、大分強く雨が降って来てしまいました。一同は油紙をかぶって凌(しの)ぎます。粟(あわ)の須(す)から八王子へ、御殿峠を漸(ようや)く越えて、橋本を通り相模川の田名の渡しを過ぎ、更に中津川の渡しにさしかかる頃になると、川の水は増し、渡し舟も流れが急なので向う岸の舟着き場にはつけず、大分下流に着いてしまいました。河原から土手に登るのに、雨水が流れ落ちてきて、大変難渋(なんじゅう)をしたということです。
伊勢原で提灯(ちようちん)を買い求め、大山まで行き、神社に参拝をします。その足で又自転車に乗り、夜道の東海道を提灯を下げながら宿の平塚の八幡前まで行進です。ぐっしょり濡(ぬ)れたお札(さつ)は干して使いました。翌日は江ノ島を巡り鎌倉を見物します。建長寺から藤沢へ、そこから北に向い溝の口にやって来ました。あいにくここの橋も止められていて多摩川を渡ることが出来ません。やむなく高幡不動まで行き、そこでもう一晩泊ることになりました。日野の渡しも流されてしまい、困った一行は自転車は日野から貨車で運び、立川まで電車で帰ったということです。(p28~29)