13千社まいり
昭和十四年頃から、三、四年の短い間でしたが、召集された兵士の武運長久祈願のため、青年団が千社まいりを行ないました。
出征した兵士の名前を書いた千枚の紙札(かみふだ)を、近郷の村々を馳けめぐり、鳥居のあるお宮さんならどんな社殿にでも貼り付けるのですが、千社という数は大変な数でした。それでも四方八方に手分けして巡拝(じゅんばい)しているうちにコースも決まり、東は田無、西は青梅、南は日野、北は川越あたりまで二人一組になって朝の四時頃には出掛(でか)けました。
間違いのないように厳重に数えた千枚の札と糊・ハケ・弁当・パンク修理道具を用意した自転車で出掛けました。
ガタガタ道で坂が多く、自転車でも大変でありましたが、さらに戦争がはげしくなるとゴムタイヤから棒タイヤに代り、ますます骨が折れました。 日毎に出征兵士を送る回数が多くなり、千社まいりもひんぱんになって、どこの神社も社殿の裏側まで真白になりました。
帰ると高木では集荷所に関係者が寄り集まって、お礼に当時では貴重であった一パイのお酒を出し労をねぎらいました。
部落によっては三十銭位の日当が出たところもあったようです。
それも昭和十九年頃には、召集令状がきても送ってくれる人もなく、まして千社まいりなどしてくれる若者もいなくなってしまいました。終戦になり、無事帰還した人は主だった神社にお礼参りをしましたが、川越の方まで行った人もいました。(p30~31)